嵐の前
主な登場人物
ロナード(ユリアス)…召喚術と言う稀有な術を扱えるが故に、その力を我が物にしようと企んだ、嘗ての師匠に『隷属』の呪いを掛けられている。 その呪いを解く為、エレンツ帝国を目指している。 漆黒の髪に紫色の双眸が特徴的な美青年。 十七歳。
セネト(セレンディーネ)…エレンツ帝国の皇女。 とある事情から逃れる為、シリウスたちと行動を共にしている。 補助魔術を得意とする魔術師。 フワリとした癖のある黒髪に琥珀色の大きな瞳が特徴的な女性。 十九歳。
シリウス(レオフィリウス)…ロナードの生き別れていた兄。 自身は大剣を自在に操る剣士だが、『封魔眼』と言う、見た相手の魔術の使用を封じる、特殊な瞳を持っている。 長めの金髪に紫色の双眸を持つ美丈夫。 二二歳。
ハニエル…傭兵業をしているシリウスの相棒で鷺族と呼ばれている両翼人。 治癒魔術と薬草学を得意としている。 白銀の長髪と紫色の双眸を有している。 物凄い美青年なのだが、笑顔を浮かべながらサラリと毒を吐く。
ティティス…セネトの腹違いの妹。 とても傲慢で自分勝手な性格。 家族内で立場の弱いセネトの事を見下している。 十七歳。
ルチル…帝国の第三騎士団の隊長を務めている女性。 セネトと幼馴染。 今はティティスの護衛の任に就いている。 二十歳。
ギベオン…セネト専属の護衛騎士。 温和で生真面目な性格の青年。 二十五歳。
ルフト…宮廷魔術師長サリアを母に持ち、魔術師の一家に生まれた青年。 ロナードたちとの従兄弟に当たる。 二十歳。
ナルル…サリアを主とし、彼女とその家族を守っている『獅子族』と人間の混血児。 とても社交的な性格をしている。
ネフライト…第一側妃の息子でティティスの同腹の兄。 皇太子の地位にあり、現在、次のエレンツ帝国皇帝の座に最も近い人物。
リリアーヌ…イシュタル教会で『聖女』と呼ばれている召喚術を使えるシスター。 ロナードが教会の孤児院に居た頃、親しくしていた。 ロナードに対する恋心を拗らせ、彼への強い執着心を抱いている。
エルフリーデ…宮廷魔術師をしている伯爵令嬢で、ルフトの婚約者。 ルフトの母であるサリアの事をとても慕っている
カルセドニ…エレンツ帝国の第一皇子でセネトの同腹の兄。 寺院の聖騎士をしている。 奴隷だったシリウスとハニエルを助け、自由の身にした人物。
アイク…ロナードの専属護衛をしている寺院の暗部に所属していた青年。 気さくな性格をしている。
カナデ…ロナードを当主とするリュディガー伯爵家の家令をしている青年。 元は、エレンツ帝国からの独立戦争に敗れた王国の王族。 ロナードの力に目を付け、祖国復興の為に利用しようと誘拐した事がある。
「いゃあ。 見物だったな」
セネトは、可笑しそうにクスクスと笑いながら、テーブルを挟んで向かいのソファーに座っているロナードに言った。
「まあ、自業自得だからな。 兄上に何をされても文句は言えない」
ロナードは、落ち着き払った口調で返す。
二人が何について言っているかと言うと、この屋敷の前の主であったロナードの兄シリウスの家令をしていた男が資産を横領し、高級娼館に入り浸り、豪遊三昧をし、贔屓にしている娼婦に金品を貢いでいた事が、新たにこの屋敷の家令となったカナデの働きにより明るみになった件だ。
カナデを新たな家令に据えるよう助言したのは、ロナードの後見人にもなっている、アルスワット公爵家の当主サリアだ。
彼女からの話を聞いて直ぐに、カナデは旧・ノヴァハルト邸に赴いて、そこで働く使用人たちに家令がやっている事を話し、協力を仰いだ結果、家令が横領の証拠を隠滅する前に、それ等を入手する事に成功し、ロナードが新たな主として来て早々に、呆気なく片付けられた。
横領の証拠を見せられた、ロナードの兄で前の屋敷の所有者だったシリウスは怒り狂い、横領をした家令をボコボコにしたのだ。
結局、シリウスにボコボコにされ、その後も終始、彼に威圧されて命の危険を感じたのか、横領をした家令は素直に罪を認め、聞いてもいない事まで洗い浚い話してくれた。
当然、彼は犯罪者として牢屋に投獄され、裁判を待つ身となった。
一応、形だけの裁判が非公開で行われるらしい。
「まさか、こんなに早く解決するとは思わなかった。 カナデが使用人たちに協力を仰いでくれたお陰だな」
ロナードは、落ち着き払った口調で言うと、侍女が注いだ紅茶を一口啜る。
「お役に立てて何よりです」
カナデはニッコリと笑みを浮かべながら、ロナードにそう返した。
その様子を、アイクが面白く無さそうな顔をして見ている。
「カナデには引き続き、この屋敷の家令の仕事をして貰う」
セネトは、落ち着いた口調で言うと、アイクが不満に満ちた表情を浮かべ、
「家令の横領の一件に限っての事ではなかったんですか?」
「僕もそう思って居たのだが、どうやら、サリアはこのまま、カナデをリュディガー家の家令にする気で居る様だ」
セネトが、落ち着いた口調で言うと、
「前に、オレに言った言葉、有効ですよね?」
アイクは、真剣な表情を浮かべながら、カナデに問い掛けると、
「私が少しでも、怪しいと思った場合は、切り捨てて構わないという話の事ですか?」
彼は、落ち着いた口調でアイクに返す。
「そうです」
アイクが真剣な顔で言うと、
「お言葉ですが、そう言う貴方も、私と大差ない立場だと思うのですか?」
カナデが、アイクを挑発するかのように、苦笑いを浮かべながら言うと、彼はムッとした表情を浮かべ、
「オレは、自分の判断でネフール老子を見限って、殿下の臣下になったのだから、貴方とは違いますよ」
少し語気を強めて言い返した。
「貴方はそう思って居ても、周囲の人達はそうは思って居ないのでは? 寺院のスパイなのではないかと、そう考える人も居る筈です」
カナデは、苦笑いを浮かべたまま、アイクにそう指摘する。
「誓って、寺院のスパイなどではないですよ!」
アイクは、ムッとした表情を浮かべたまま、強い口調でカナデに言い返す。
「口ではどうとでも言えますよ?」
カナデは、更にアイクを煽る様に、苦笑いを浮かべたまま、嫌味たっぷりに言った。
カナデの挑発的な言動に、アイクはカチンと来て、更に言い返そうと口を開きかけた時、
「二人とも止めないか」
ロナードが、ゲンナリした表情を浮かべながら、感情的になりつつあった二人を諫めてから、
「お前たちは、知り合って間もないのに信用も糞も無いだろ。 お互い、意味のない腹の探り合いをしている暇があったら、少しでも周囲からの信用を得る為の努力をした方が良いんじゃないのか?」
溜息混じりに、静かにそう言った。
ロナードの指摘に、二人とも叱られた犬の様に、シュンとした表情を浮かべ、口を噤んだ。
「ロナードの言う通りだ。 下らない言い争いをしている暇があったら、二人とも仕事をしろ」
セネトも、軽く溜息を付いてから、淡々とした口調で二人に言った。
「参ったな……カナデとアイクが、ここまで折り合いが悪いとは思わなかった」
二人が部屋を去った後、ロナードは、ゲンナリとした表情を浮かべ、セネトにそう愚痴る。
「まあ、アイクの言い分は尤もだが、それを当人の前で言うのは、ちょっとな……。 カナデも言い返したくもなるのも無理はない」
セネトは、苦笑いを浮かべながら、ロナードにそう返す。
「アイクもカナデも、悪い子じゃないゾ?」
護衛に残ったナルルが、侍女が用意した菓子を頬張りながら言う。
「二人とも、変に頑固な所があるからな。 何方かが折れれば良いのだが、どうもお互いに限っては、譲歩する気は無い様だ」
ロナードは、深々と溜息を付きながら言う。
「そう言うお前は、カナデの事を信用したのか?」
セネトは、真剣な面持ちで問い掛けると、
「……家令の一件に関しては異論はない。 だからと言って、信頼出来るかと言われたら、素直に頷けないな」
ロナードは、複雑な表情を浮かべ、重々しい口調で語る。
「同感だ。 引き続き、注意深く見る必要性があるな」
セネトは頷き返し、真剣な面持ちで言うと、ロナードも真剣な面持ちで頷き返した。
「ナルル」
ロナードは徐に、ナルルに声を掛ける。
「なんだゾ?」
ナルルは相変わらず、焼き菓子を口一杯に頬張りながら返事をする。
「アイクとカナデが、お互いの足を引っ張り合おうとした時は、止めてくれ」
ロナードは、真剣な面持ちでそう言うと、ナルルは口一杯に頬張っていた焼き菓子を飲み込んで、口の中をクリアにした後、
「分かったゾ。 その時は二人の頭と頭をゴッツンコさせるゾ」
「あ、ああ………」
ロナードは、少し戸惑いながらも返事をし、
(それで、止めてくれたら良いが……)
心の中でそう呟いた。
「ナルルがしたら、二人とも頭が柘榴になるんじゃないか?」
セネトが苦笑いを浮かべながら、そう指摘すると、
「確かに……」
ロナードも、苦笑いを浮かべながら言うと、ナルルはムッとした表情を浮かべ、
「そこまで強くしないゾ! ちょ~っとゴツンって……」
強い口調でそう言い返す。
「……『ゴツン』って言っている時点で、ちょっとじゃないだろ……」
セネトは笑いながら言うと、ロナードも苦笑いを浮かべ、
「痛そうな状況しか、思い浮かばないんだが」
そう言って、二人が頭を抱え、苦悶に満ちた表情を浮かべて蹲る姿を想像してしまったので、思わずフフッと笑みを零した。
「大丈夫だゾ! 二人の頭が割れない程度にするゾ!」
ナルルは真剣な顔をして、そう力説するので、セネトは可笑しくなって声をあげて笑う。
(この人に任せて、大丈夫なのだろうか……)
部屋に控えていた使用人の一人が、物凄く不安そうな表情を浮かべ、心の中でそう呟きながら、ナルルを見る。
「ところでナルル。 そこにあった菓子は?」
セネトはふと、皿に山盛りにあった筈の焼き菓子が無くなっている事に気が付き、徐にナルルに問い掛けると、
「え?」
ナルルは、キョトンとした表情を浮かべ、セネトの方を見る。
「『え?』じゃない。 焼き菓子があっただろう?」
セネトは、真剣な表情を浮かべながら、ナルルにそう問い掛けると、
「えっと……」
彼女は、困った様な表情を浮かべ、口籠らせる。
「まさか、僕がロナードと話している間に、全部食べてしまったのか?」
セネトは、戸惑いの表情を浮かべながら、ナルルに問い掛ける。
「良く分からないけど、無くなったゾ」
ナルルは開き直り、ニコッと笑みを浮かべながら、そう言い放った。
それには、部屋に居た使用人や侍女、そしてロナードも思わず、可笑しくて吹き出した。
「はぁあああ? 後で食べようと思って居たのに!」
セネトは、怒りを顕わにして、強い口調でナルルに言うと、
「何時の間にか、無くなってたゾ」
ナルルは、困った様な表情を浮かべながら、怒っているセネトに言った。
「それは、お前が食べたからだろ……」
ロナードは、呆れた表情を浮かべながら、ナルルに言う。
「はぁあああ? 信じられない! 有り得ないだろう? 普通!」
セネトは、益々怒りの色を濃くし、思わずソファーから立ち上がり、強い口調でナルルに言う。
「ナルルの普通と、俺たちの普通は違うのだと、いい加減に気が付けよ……」
ロナードは、苦笑いを浮かべながら、後で食べようと思っていた焼き菓子を食べられてしまい、怒っているセネトにそう言って宥める。
「だって……。 ほんの少しの間に、全部食べてしまうなんて、あんまりじゃないか……」
セネトはショックを隠せない様子で、肩を落とし、落ち込んだ様子で呟くと、ポスッと力なくソファーに腰を下ろした。
「また、作って貰えば良いだろう?」
ロナードは、苦笑いを浮かべながら、優しい口調でセネトを慰めていると、不意に廊下からノックする音がしたので、彼は返事すると、執事長のモリスが物凄く困惑した表情を浮かべながら、しずしずと部屋の中に入って来て、
「あの……」
おずおずと、切り出す。
「どうした?」
モリスが、困惑した様子を崩さないのを見て、ロナードは真剣な面持ちで問い掛ける。
「表に、ティティス皇女さまが乗られた馬車がいらしてますが、如何致しましょう?」
モリスは、困惑した表情のまま、半ば助けを求める様にロナードに言った。
「は?」
モリスの言葉を聞いて、ロナードは思わず目を点にし、間の抜けた声を上げた。
「何故、ティティスが此処に?」
セネトも、困惑を隠せない様子で呟く。
「理由は良く分かりませんが、ご主人様にお会いしたいと仰っています」
モリスは、額に浮かんだ汗をハンカチで拭いつつ、困り果てた様子でそう語る。
ロナードとセネトは思わず、お互いの顔を見合わせた。
ティティス皇女が、この屋敷に来る理由が全く思い当たらない。
ロナードもセネトも嫌な予感しかしなかった。
「招待した覚えはない。 追い返せ」
やがて、ロナードは特大の溜息を付くと、落ち着いた口調でモリスに言った。
「し、しかし……」
モリスは、焦りの表情を浮かべながら、ロナードに返す。
皇族を門前払いにするなど、前代未聞の事である。
「婚約者の僕が居るのだぞ? 何より、婚約者がいる男性の下に、婚約者すら居ない娘を招き入れる方が問題だろ。 後で、どの様な噂を立てられるか、分かったものじゃないぞ」
セネトは、真剣な表情を浮かべ、強い口調でモリスにそう言った。
セネトの言う事は尤もで、非常識な事をしているのはティティス皇女の方だとは、重々承知をしているが、それでも、皇女に『帰れ』と言うのは、モリスにとって断頭台に立つに等しい事であった。
「セネトの言う通りだ。 用事があるのならば、俺の方から宮廷へ出向くと伝えろ」
ロナードが、落ち着き払った口調で、躊躇っているモリスに言って居ると、廊下の方が何やら騒がしい。
「こ、困ります! 勝手に入られては!」
そう叫ぶ、若い使用人の声が廊下に響く。
「何故? 私は皇女なのよ?」
廊下の方から、不満に満ちた若い女の声が、直ぐに返って来る。
その声を聞いただけで、ロナードとセネトは誰が来たのか直ぐに分かった。
「来客中です」
別の使用人の焦った声が、扉を挟んで直ぐ側で聞こえてくる。
「そんなの、向こうが遠慮したら良いだけの話でしょ」
若い女性が、焦っている使用人たちにそう返してから、
「開けなさい」
扉の前に立つ兵士に向かって、物凄く上から目線で言い放つのが聞こえた。
「出来ません」
「お引き取りを」
扉の前に居た兵士が、硬質的な口調で言い返す。
「貴方たち、誰に向かってその様な事を言っているの? 私はこの国の皇女よ。 私に逆らうつもり?」
不快さに満ちた若い女性の怒鳴り声が響いた。
扉の前にいる兵士は、ただ自分たちの職務を全うしているだけだと言うのに、何故、この様な脅しを受けねばならないのか、全く以って理不尽過ぎる。
「あっ。 ちょっと……」
扉の兵士が制止する声と共に、ゆっくりと扉が開かれる。
どうやら、女性自身が兵士の制止も聞かず、勝手に自分で扉を開けた様だ。
「ご機嫌よう。 リュディガー伯爵。 この度は、皇帝であるお父様から爵位を賜った事、心からお祝い致しますわ」
自ら扉を開き、ツンと澄ました顔でツカツカと部屋の中に入って来ると、部屋の中央に置かれたテーブルを囲む様に置かれたソファーに座っていたロナードを確認すると、彼女はドレスの両裾を摘まみ上げ、そう言って優雅に腰を折り、そう言い放ってきた。
それには、その場に居合わせた誰もが、彼女の非常識な行動に茫然とする。
「ティティス……」
セネトが、思わず自分の額に片手を添え、ゲンナリした表情を浮かべながら呟く。
「あら。 お姉さま。 いらしていたの?」
ティティス皇女は、居る事は分かっている筈なのに、業とらしく、そして見下した様な口調でそう言った。
「非常識だぞ! ティティス。 事前に連絡もせずに訪れた挙句、主の許可も無く、勝手に屋敷に上がり込むなど!」
セネトは、その言動にカチンと来て、語気を強め、ティティス皇女にそう言って注意をした。
「そう言うお姉さまだって、上がり込んでいるじゃない」
ティティス皇女は、全く意に介さない様子で、見下した様な口調で言うと、鼻で笑う。
「僕は、ちゃんと事前に連絡をした上で、了承を得て訪問している!」
セネトは、表情を険しくして、強い口調で言い返す。
「婚約者なのに?」
ティティス皇女は、完全に馬鹿にした様な口調で言うと、クスクスと笑う。
「婚約者でも、一定の礼儀は必要だ!」
セネトは、カチンと来つつも、真剣な表情を浮かべ、そう言い返した。
「馬鹿馬鹿しいわ。 会いたくなれば、会いに行けば良いだけの話じゃない。 遠慮する必要なんてないわ。 婚約者なのだから」
ティティス皇女は肩を竦め、馬鹿にした口調で言う。
「……お前は、違うだろ」
セネトは、表情を険しくし、唸る様な口調で言い返す。
「そんな事を言って居られるのも、今の内だけよ」
ティティス皇女はそう言うと、何の断りも無く、いきなりロナードの隣に腰を下ろそうとしたので、ロナードは素早く席を立ち、尽かさずセネトの隣に腰を下ろした。
それを見て、ティティス皇女はムッとした表情を浮かべ、ロナードを思わず睨んだ。
「何の前触れもなく、許可も無く、勝手に我が屋敷に上がり込んで来たのですから、それ相応の事情がおありとお見受けします。 一体、どんな大事があって我が屋敷を騒がせたのでしょうか?」
ロナードは、自分を睨んでいるティティス皇女に対し、落ち着いた口調で問い掛けた。
「そんなの、貴方が伯爵の地位を賜ったから、お祝いに来たのよ」
ティティス皇女は、ニッコリと笑みを浮かべ、突然押し掛けた事に対する謝罪の言葉も無く、平然とそう言い放った。
「……そんな気さくに皇女殿下に祝って頂ける程、親しい仲でしたでしょうか? 申し訳ありませんが、後日、前触れを出されて改めてお越し頂くか、私が宮廷に出向きますので、今日はお引き取り下さい」
ロナードは、軽く溜息を付いてから、物凄く淡々とした口調でティティス皇女に言った。
「なっ……」
ロナードの言動に、ティティス皇女はムッとした表情を浮かべる。
「忙しいにも関わらず、時間を作って私に会いに来てくれた婚約者との時間を無駄にはしたくありません。 どうか、お引き取りを」
ロナードは、肩透かしを食らい、怒りでワナワナと身を震わせているティティス皇女に対し、全く気にする様子もなく、更に淡々とした口調でそう続けた。
「ふ、ふ、ふざけないで!」
ティティス皇女は思わず、バンと勢い良くテーブルを叩き、ソファーから立ち上がり、怒りに満ちた表情を浮かべ、声を荒らげる。
それには、部屋に居合わせた侍女たちが、ビクッと思わず身を強張らせる程、大きな声であった。
「大体、貴方たちの婚約は政略的なものでしょ? その内別れるんだから、こんな婚約者ごっこなんて、する必要があるのかしら?」
ティティス皇女は、セネトが困った様な表情を浮かべている事に気が付くと、物凄く馬鹿にした口調でそう言い放った。
その物言いにセネトはたじろいでしまったが、彼女の隣に座っているロナードは、そんな彼女を励ますかの様に、彼女の左手を自分の右手で優しく包む様に握って来た。
「ろ、ロナード?」
ロナードが、急に自分の手を握って来た事に驚き、セネトは戸惑いの表情を浮かべ、思わず彼を見る。
「……確かに、我々は互いの利害が一致して婚約に至りました。 だからこそ、互いの親睦を深める事は、何よりも大事な事だと思っています。 それに、セネトと別れる気など、私にはありませんが」
ロナードは、戸惑っているセネトの手を握ったまま、真っ直ぐにティティス皇女を見据え、落ち着いた口調でそう言い放った。
(そ、そうなのか?)
セネトは、戸惑いの表情を浮かべたまま、思わずロナードを見ると、
「セネトはどうなんだ?」
ロナードはそう言って、真剣な顔をしてセネトの方を見る。
ロナードの綺麗な紫色の双眸に、自分が写り込んでいる事が分かる程近くに、彼の顔があるので、セネトはドキッとすると同時に、彼からの思いがけぬ問い掛けに、
「は? えっ……」
みるみる顔を真っ赤にして、焦りの表情を浮かべ、そう返す事しか出来ずにいた。
「俺の事、嫌いなのか?」
ロナードはとても悲しそうな表情を浮かべ、そう問い掛けて来た。
(はう!)
捨てられた子犬の様に、目をウルウルとさせながら、真剣な瞳で自分を見ているロナードに、セネトは心臓を撃ち抜かれた。
「そ、そんな訳ないだろ!」
セネトは思わず、自分の手を握りしめていたロナードの手を握り返し、焦りの表情を浮かべながらも、強い口調でそう言い返した。
彼女の言葉を聞いて、ロナードは見た事も無いような満面の笑みを浮かべる。
(その笑顔は反則だろ!)
彼のその表情を見て、セネトは忽ち顔を真っ赤にして、心の中でそう悲鳴を上げた。
「じゃあ、立派な婚約式をしないとな?」
ロナードは、ニッコリと笑みを浮かべたまま、優しい口調でセネトに言うと、ギュッと彼女の手を握りしめると、彼女は顔を真っ赤にしたまま、コクコクと何度も頷き返した。
もう、ロナードには自分の目の前に居るセネトしか見えていない様で、彼のティティス皇女への当てつけの様な、物凄く分かり易い愛情表現を目の当たりにして、部屋に居合わせた使用人や侍女たちも、もう苦笑いを浮かべるしかなかった。
「婚約式の話もしたいので、ティティス皇女さまが出て行かれないと仰るのでしたら、此方が出て行きます」
ロナードは、セネトの手を握りしめたまま、ニッコリと笑みを浮かべ、実に爽やかにティティス皇女にそう言い放った。
「は?」
ティティス皇女は、自分の斜め上をいくロナードの言動に、思わず茫然とした様子で呟く。
「行こうか」
ロナードは、優しい口調でセネトにそう声を掛けると、ゆっくりとソファーから立ち上がる。
「え? あ、うん」
セネトは、怒りでワナワナと身を震わせているティティス皇女をチラリと見てから、戸惑いの表情を浮かべつつも、返事をすると、ロナードに丁重にエスコートされ、まるで、ティティス皇女など最初から居なかったかの様に、そのまま二人揃って部屋を出ていってしまった。
「な、何なのよ! ちょっと待ちなさいよ! 私は皇女よ! こんなことをして、許されると思っているの?」
部屋から出て行く二人に向かって叫ぶ、ティティス皇女の叫び声が虚しく、部屋の中に響き渡った。
「あはははは。 傑作ですね! 主。 まさか、押しかけて来たティティス皇女を放置するとは!」
ティティス皇女が屋敷に到着してから、その一部始終を外から見ていたアイクは、腹を抱えてケタケタと笑いながらロナードに言う。
ロナードとセネトは、屋敷から出ると、近くにあったカフェに入り、そのテラスでティティス皇女が屋敷から出て行くまで待つことにした。
「帰らないのだから、此方が出て行くしかないだろ」
ロナードは片足を組み、紅茶を啜りながら、何食わぬ顔をしてそう言い返す。
「そうかも知れないが……」
セネトは、戸惑いの表情を浮かべながら呟く。
ロナードが注文してくれた、アイスティもケーキもセネトは手を付けないままで、ずっと不安そうな表情を浮かべ、テーブルを挟んで彼の向かいに座っている。
その間に座り、ちゃっかり自分の分のスイーツと飲み物を頼んでいたアイクが、満ち足りた表情を浮かべながら、タルトを堪能している。
本来、護衛は主の隣か背後に立っているのが普通なのだが、そう言う事を気にしないロナードは、彼と一緒に食事をしたり、買い物をしたりと、年も近い事もあって、主従と言うよりは友達同士の関係に近い。
その為、今、カフェに居る客たちの中にも、主と共に平然と食事をしているアイクに対し、怪訝そうな顔をして見ている貴族たちも少なくない。
その一方で、彼等を護衛している者たちは、主と友達の様に楽しそうに会話をしているアイクを羨ましそうに見ている。
「あんなのに付き合うだけ、時間の無駄だ」
ロナードは、落ち着き払った口調でセネトに言うと、アイクも頷きながら、
「確かに~。 『私(わたhし)は皇女なのよッ』って……何それ、ウケるぅ。 『此方もですが?』って感じですよねぇ? 殿下」
そう言うと、大きな口を開けてタルトを美味しそうに口に運ぶ。
「全くだ。 馬鹿の一つ覚えの様に、それさえ言っていれば、自分の意見が通ると思って居る時点で、思考回路が幼児と大差ないのだから、俺達が付き合う必要など無いだろ」
ロナードは、落ち着き払った口調でそう言うと、紅茶を啜る。
「その通りですよ」
アイクもヘラヘラと笑いながらセネトに言うと、コーヒーを啜る。
「図体だけデカくなった幼児など一々構うな。 セネト」
ロナードは、啜っていた紅茶が入ったティカップを静かに置くと、不安そうにしているセネトに、優しい口調で言った。
「あ、ああ……」
自分を気遣ってくれるロナードに対し、セネトは複雑な表情を浮かべながら返すと、
「食べないなら、俺が食うぞ?」
ロナードが、セネトが全く手を付けていないのを見て、少し意地悪な表情を浮かべて言うと、
「た、食べるし!」
セネトは、ナルルに続いてロナードにまで、目の前のスイーツを食べられては堪らないと、慌ててそう言い返すと、急いでケーキを口にする。
「ん!」
スプーンで上品に掬い、一口含んだケーキのチョコレートの独特の甘みの後に、後から仄かに来る苦味が何とも言えず、なかなかの絶品だったので、セネトは思わず目を丸くする。
「美味しい」
セネトはそう呟くと、次々とケーキを口に運ぶ。
美味しいケーキを口にして、幸せそうな顔をして堪能しているセネトの様子を見て、ロナードは何処かホッとした様な表情を浮かべつつ、微かに口元を綻ばせる。
「何よ! 何なのよ!」
一人、部屋に残されたティティス皇女は癇癪を起こし、他人の屋敷だと言うのに、近くに置いてあったティカップを手にすると、それを思い切り壁に向かって投げ付けた。
ティカップの割れる音が屋敷中に響き渡る。
部屋の中に居合わせた侍女たちは、怒りの矛先が自分達に向かない内に、モリスに促され、急いで部屋から出て行く。
「皇女様。 お止め下さい!」
近くに居た若い男性の使用人がそう言って、癇癪を起して暴れ出したティティス皇女を宥めようと試みる。
「黙りなさい!」
ティティス皇女はそう怒鳴り付けると、別のティカップをその使用人に投げつける。
「は、早く外に居る皇女様の護衛を!」
モリスは、焦りの表情を浮かべ、扉の向こうから、何事かと様子を見ていた兵士に向かって叫ぶ。
「は、はい」
事態を重く見た兵士は、モリスに言われるがまま、急いで外へと駆け出し、ティティス皇女の護衛に付き添って来た、数人の兵士たちの下に駆け寄り、
「た、助けて下さい! 皇女様が部屋の中で暴れ出して手が付けられません!」
必死の形相で、ティティス皇女の護衛の兵士たちに訴える。
「なっ……」
「リュディガー伯爵が、セレンディーネ皇女さまと一緒に出て行かれたので、まさかと思って居たが……」
「人様のお屋敷で、何をなさっているんだ! あの御方は!」
事態を知った、ティティス皇女の護衛たちは焦りの表情を浮かべ、口々にそう言うと、急いでティティス皇女の下へと駆け出した。
その間にも、陶器のような物が床に激しくぶつかって割れる音や、ティティス皇女のヒステリックな叫び声が聞こえてくる。
「た、助けて下さい!」
「私共では、手に負えません」
廊下から様子を見ていた侍女が、ティティス皇女の護衛達が駆けつけて来たのを見て、必死な形相でそう訴えて来た。
「皇女殿下!」
ティティス皇女の護衛の一人で、恰幅の良い中年男性がそう言って、調度品の上に花を活けていた如何にも高そうな花瓶を床に叩きつけようとした彼女の腕を掴み、それを阻止する。
「何をするの! お前の様な者が気安く、私の体に触れるなど、許される事では無くってよ!」
自分を止めに入った、恰幅の良い中年の男性に向かって、ティティス皇女はギロッと睨み付けると、彼を思い切り怒鳴りつけた。
「お叱りは、後で幾らでもお受けいたします。 ですが、今はお気持ちを鎮める事の方が先です。 ここは、殿下のお部屋ではないのですよ」
中年の男性は、自分を睨むティティス皇女に怯む事も無く、彼女の腕を掴んだまま、落ち着き払った口調でそう言って宥めようとする。
「それが何?」
ティティス皇女は、苛立った口調で言い返す。
「他所様のお屋敷で暴れた事が広まれば、非難されるのは殿下だけでは御座いません。 同腹の兄上であられるネフライト皇太子殿下や、御母君にも迷惑が及びます。 どうか、お二人の為にも、気持ちを落ち着かせ、宮廷にお戻り下さい」
中年の男性は落ち着き払った口調で言うと、
「何よ! 何よ! 何よ! お姉さまのくせに! 窓際皇女のくせに! この私を無視するなんて!」
ティティス皇女は、怒りが収まらない様子で、唸る様な声をあげながら叫ぶ。
「落ち着いて下さい! ここはリュディガー伯爵のお屋敷です! 伯爵の後ろ盾が何方かお忘れですか!」
中年の男性は、落ち着き払った口調で、ティティス皇女に言う。
「セレンディーネ如きが! アルスワット公爵家と縁続きになるなど、絶対にさせないんだから!」
ティティス皇女は、怒りに満ちた表情を浮かべ、唸る様な声でそう呟くと、乱暴に近くにあった花瓶を手で薙ぎ払うと、床に落ちた花瓶の割れる音が部屋中に響き渡り、床に敷かれていた絨毯の上に花瓶の中に入っていた水が広がり、活けられていた花が無残に床の上に散る。
「ああもう! お前、さっきから五月蠅いゾ!」
焼き菓子を食べて腹が満たされ、眠気を催したナルルは、部屋の隅にあるソファーの上で寝落ちしてしまっていたが、この騒々しさに目を覚まし、そう言いながらモゾモゾと身を起こして来た。
「な、なんなの? お前」
ナルルの存在に気付いていなかったティティス皇女は、いきなり、ヌッと起き上がって来た彼女に驚き、思わず悲鳴に近い声を上げる。
「お前、ホントに五月蠅いゾ」
ナルルは思い切り眉を顰めながらそう言うと、徐に庭に面した窓を開け放つと、戸惑っているティティス皇女の下へと歩み寄る。
「な、何をする気?」
自分に詰め寄って来るナルルに対し、ティティス皇女は恐怖に顔を引きつらせながら問い掛ける。
「お前、五月蠅いから、どっか行け」
ナルルは苛立った口調でそう言うと、いきなりティティス皇女の首根っこを片手で掴み上げると、そのまま、恐怖で言葉を失っている彼女を窓際まで引き摺り、そして、まるで槍投げでもする様に、彼女をそのまま空の彼方へ投げ飛ばした。
「こ、こ、皇女殿下!」
ボウガンの矢のように、物凄い勢いで何処かに飛んで行ったティティス皇女を見て、彼女の護衛の兵士たちは揃って青い顔をして、慌てて部屋から飛び出して、何処かへ飛んで行った彼女を探しに行ってしまった。
それには、部屋に居合わせた執事長のモリスも、使用人たちも、ポカンと口を開け、目を点にして立ち尽くす。
「あ~。 これで静かになったゾ」
茫然としているモリス達を他所に、ナルルは清々した顔をしてその様な事を言うと、大きく伸びをして、自分が先程まで寝ていたソファーの上に寝ころび、昼寝を再開した。
「な、何なんだ……。 これは……」
セネトを宮廷まで送り届け、戻って来たロナードが応接間の惨状を目の当たりにして、茫然とした様子で呟いた。
「申し訳ございません。 ご主人様がセレンディーネ皇女殿下と部屋を後にされた後、ティティス皇女様が癇癪を起してしまいまして……」
この僅かな時間で妙に老け込んだ様な、草臥れ果てた様子のモリスは、力なくロナードに説明をする。
「怪我をした者は居ないだろうな?」
モリスから事情を聞き、辺りに散っているティカップなどの破片を使用人たちが片付けている様を見て、ロナードは、焦りの表情を浮かべながらモリスに問い掛ける。
「お陰様で、人的被害は御座いません」
モリスは、落ち着いた口調で答えると、
「それならば良い……」
ロナードは、ホッとした表情を浮かべながら言うと、
「ですが、セレンディーネ皇女殿下から頂いたティセットなどが……」
モリスが、戸惑いの表情を浮かべながらロナードに言うと、
「人と物、何方が大事か明らかだろう? 物は壊れてもまた作れば済む話だが、人は替えが利かない唯一無二のものだ。 お前たちに怪我が無くて何よりだ」
ロナードは、真剣な表情を浮かべ、戸惑っているモリスに向かって言った。
「ご主人さま……」
ロナードの言葉に、モリスは胸が熱くなるのを感じた。
使用人や侍女、兵士などは、貴族にとって使い捨ての消耗品と見做される事が殆どで、彼等は高価な食器や花瓶、宝石など以下の扱いだ。
だから、ロナードがセネトから貰った砕け散った高価なティセットよりも、自分たちの事を大事に想ってくれた事に対し、戸惑いと共に物凄く嬉しい気持ちになったのだ。
特に、以前仕えていたロナードの兄シリウスは、他人に対して物凄く冷淡な所があった為、彼の優しさが一層、モリスやその場に居合わせた使用人たちの心に響いた。
「サリア様に申し上げて、謝罪と賠償をティティス皇女さまに求めて頂きましょう」
モリスは、目頭が熱くなるのを必死に堪えつつ、ロナードにそう言うと、
「勿論だ。 何なら請求する金額に一つゼロを多く書き加えておけ」
ロナードは、物凄く真剣な顔をしてそう言い放った。
「え?」
主人の思いがけぬ言葉に、モリスは思わず聞き返してしまった。
「迷惑料だ。 どうせ物の価値など、あの馬鹿皇女に分かる筈が無い。 ゼロが一つ多くても気づきはしないさ」
ロナードは、悪戯を思い付いた子供の様な顔をして、モリスにそう言い返すと、それを聞いた使用人たちが可笑しくて、思わず吹き出した。
「吹っ掛けた金は、お前たちの危険手当に充てて、屋敷で働く者たちで仲良く、美味い飯でも食べに行けば、今日の事も少しは笑って許せるようになるだろう?」
ロナードは、穏やかな口調で使用人たちに向かって言うと、ニッコリと笑みを浮かべた。
「あ、有難う御座います」
使用人の一人が、感激した様子でロナードにそう言って、深々と首を垂れると、
「礼なら、その金をせしめて、美味い物を食った後にしてくくれ」
ロナードはニッコリと笑みを浮かべながら言った。
「セレンディーネ!」
突然、若い男性の怒鳴り声と共に、勢い良く扉が開け放たれ、ある人物が随分と興奮した様子でドカドカと部屋に入って来た。
「あ、兄上?」
断りも無く、自分の部屋に押し入って来た、腹違いの兄ネフライト皇太子の登場に、セネトは戸惑いの表情を浮かべる。
「こんな時間に何の御用でしょうか? 皇太子殿下」
護衛に居たルチルが、スッと二人の間に割って入り、落ち着いた口調でネフライト皇太子に言った。
「退け!」
ネフライト皇太子は、苛立った口調で言うと、自分の前に立ち塞がったルチルを乱暴に押し退け、戸惑っているセネトに詰め寄った。
「貴様、良くもティを!」
怒りに満ちた表情を浮かべ、唸る様な声でネフライト皇太子は、戸惑っているセネトに言った。
「何の事でしょうか?」
セネトは、戸惑いの表情を浮かべたまま、ネフライト皇太子に問い返す。
「惚けるな! ティが私の部屋にやって来るなり、泣きながら、お前に虐められたと訴えて来たぞ! 髪はボサボサ、全身が擦り傷だらけ、衣服に木の枝や葉を付けて、それは酷い有様だった」
ネフライト皇太子は、怒りが収まらない様で、興奮気味にセネトに言う。
(あ~。 そう言えばナルルがティティスを、外に投げ飛ばしたと言っていたな……)
ネフライト皇太子の言葉を聞いて、セネトはどこか遠い目をしながら、心の中でそう呟いた。
それでもまあ、骨折などせずに、その程度で済んだのだから、寧ろ運が良かったというべきではないだろうか。
「僕が、ティティスをその様にしたと、仰るのですか?」
セネトは、戸惑いの表情を浮かべたまま言うと、
「そうだ」
ネフライト皇太子は、怒りに満ちた形相で言う。
「確かに、ティティスとは会いましたが、僕は彼女に触れてはいません。 それなのに、僕がどうしてティティスをその様な目に遭わせる事が出来るのでしょうか?」
セネトは、落ち着いた口調で、怒り心頭のネフライト皇太子に言う。
「屁理屈ばかり言いよって! そんな事、お前が周りの者に命じれば、どうにでも出来るだろう! それにティが、ノヴァハルトの弟の屋敷に来た時、二人して、ティを除者にしたそうじゃないか!」
ネフライト皇太子は、苛立ちを隠せない様子で、強い口調でセネトに言う。
「誤解です。 ティティスは先触れも無く、リュディガー伯爵家を訪れ、執事たちが制止するのも聞かず、僕たちが居た応接間に乗り込んで来たので、余りに無礼なので当主が、後日、改めて来るようにと言ったところ、帰る様子が無いので我々の方が部屋を出たに過ぎません」
セネトは、落ち着き払った口調で、興奮しているネフライト皇太子に説明をすると、彼女の話に、部屋に居合わせた侍女や、ネフライト皇太子の護衛の兵士たちも、ティティス皇女の非常識さに呆れている。
(それに、侮辱されたのは僕の方だ)
セネトは、その時のティティス皇女の言動を思い出し、湧き上がって来た怒りをグッと抑える。
「ティが悪いと言うか!」
ネフライト皇太子は、キッとセネトを睨み付けながら、そう言って凄む。
「誰の目から見ても、非常識で礼節の欠片も無い言動をしたのはティティスです。 当主はそれを窘めたに過ぎません。 それを虐められたと捉えるなど……」
セネトは、落ち着いた口調で語ると、軽く溜息を付いた。
「黙れ! 大体お前は最近、調子に乗り過ぎだ! お前の婚約者のノヴァハルトの弟もだ! 皇女であるティをもてなしもせず、あろう事か、彼女を放って外出するなど、無礼極まりないぞ!」
ネフライト皇太子は、強い口調でそう非難をするが、彼の言い分にルチルは勿論、その場に居合わせた誰もが『そんな無茶苦茶な』と言う顔をしている。
「無礼を働いたのはティティスの方です。 無礼な輩を何故、もてなす必要があるのですか?」
セネトは、真剣な表情を浮かべ、真っ直ぐにネフライト皇太子を見据えながら言った。
(コイツ!)
ネフライト皇太子は、怯む様子も無く、真っ直ぐに自分を見据え、意見して来るセネトを見て、強い苛立ちを覚えた。
少し前までは、自分が怒鳴り込めば身を縮めて、恐怖に満ちた表情を浮かべ、部屋の隅でガタガタと震えていて、そんな彼女を口汚く罵り、脅し、恐怖と絶望に沈む彼女の表情を見て、優越感に浸る事が、何よりも楽しかったと言うのに、何がどうなって、生意気にも自分に楯突くようになったのか!
「貴様っ!」
ネフライト皇太子は苛立ちを爆発させると、自分に生意気に楯突いて来るセネトに掴み掛った。
「セティ!」
「姫様!」
それを見て、ルチルと部屋に居合わせた侍女たちの悲鳴が上がる。
女など、ちょっと痛い目に遭わせれば、直ぐに自分の言う事を聞くようになるものだ。
だから、この生意気な口を叩く妹も、何時もの様に一発、殴ってやれば大人しくなる。
ネフライト皇太子は咄嗟にそう判断し、セネトに掴みかがったのだ。
だが……。
どう言う訳か、自分の体が一瞬宙を舞い、ドスンと言う大きな音を立てて、背中から床に激突し、背中から鈍い痛みが全身に広がり、痛みと驚きで、ネフライト皇太子は床に転がったまま、鳩が豆鉄砲を食らった様な顔をして、暫く天井を仰いでいた。
「セティ!」
ルチルは急いで、セネトの側に駆け寄る。
「セティ。 大丈夫? 怪我はない?」
ルチルは焦りの表情を浮かべ、セネトにそう声を掛ける。
その様子を、部屋に居合わせた侍女と、ネフライト皇太子の護衛の兵士たちが、茫然とした様子で立ち尽くし、ただ見ているだけだ。
ルチルとセネト当人を除いて誰も、あの瞬間に何が起きたのか、理解出来ずにいた。
(で、出来た……)
セネトは、自分の両手を見ながら、信じられないと言った様子で、心の中でそう呟いた。
セネトはルオン王国から帝国本土へ渡っている途中、立ち寄った町の中でチンピラに絡まれた際、ロナードが、自分よりも何倍も体格の良い男たちを軽々と投げ飛ばしたのを見て、どうやったのか問い質した事があった。
ロナードは一瞬、答えるべきかどうか躊躇った様だったが、彼女が護身術を身に付けた方か良いと判断し、そのコツを伝授してくれたのだ。
練習相手は、カメリアの護衛をしていた男たちだったが、彼等は気の良い連中ばかりで、彼女がコツを掴むまで、根気良く投げ飛ばされる役をしてくれた。
そのお陰で、セネトは向かって来た相手を力任せではなく、相手の勢いを利用して投げて飛ばす術を身に付ける事が出来た。
他にも、力に頼らずに相手を制圧する方法を幾つか教えて貰った。
ただ、実践するのはこれが初めてであった。
「で、殿下!」
「大丈夫ですか?」
暫くして、我に返ったネフライト皇太子の護衛の兵士たちが、掴みかかろうとしたセネトに、見事に投げ飛ばされ、理解が追い付かず茫然としている彼に、そう言いながら慌てて駆け寄った。
その間にセネトは、ルチルに連れられて部屋を急いで後にした。
そうしないと、逆上したネフライト皇太子が何をして来るか分からなかったからだ。
「セティ。 あなた何時の間に、あんなの身に付けたの?」
部屋から離れた廊下を二人は全力で走り、ネフライト皇太子が追い駆けて来ていないのを確認してから、ルチルが息を弾ませつつ、驚きを隠せない様子でセネトに問い掛ける。
「ぼ、僕も実際に使ったのは、初めてだったんだ。 こんなに上手く決まるなんて……」
セネトも、息を弾ませながら答える。
「それよりも見た? ネフライトの顔!」
ルチルは笑いながらそう言うと、その時のネフライト皇太子の間抜けな姿を思い出したのか、プッと吹き出す。
「ああ!」
セネトも笑いながらそう返すと、クスッと笑い、やがて二人は揃って声を上げて爆笑する。
「あ~。 ウケるぅ……」
ルチルは余程、面白かったのか目元に浮かんだ涙を手の甲で拭いながら言う。
「殿下! ルチル!」
ネフライト皇太子が部屋に突撃して来た際、素早く部屋を抜け出してギベオンと兵士たちに助けを求めに行った侍女と共に、ギベオンが血相を変えて駆け寄ってくる。
「ギベオン……」
自分の身を案じ、部屋着のまま駆け寄って来たギベオンの姿を見て、セネトはホッとした表情を浮かべる。
「お怪我は御座いませんか? 殿下」
ギベオンは、セネトの下に来ると、心配そうにそう声を掛けて来た。
「ギベオン! アンタにも見せてやりたかったわ!」
ルチルは、笑いを堪えながらギベオンに言うが、彼は何が可笑しいのか理解出来ないので、キョトンとした顔をして彼女を見ている。
「傑作よ! 怒ったネフライトの野郎がセティに掴み掛ったら、そのままセティに投げ飛ばされて、背中から床に落ちたのよ! ドスンって。 あの馬鹿、自分の身に何が起きたのか分からないって顔してさぁ。 ププッ。 マジ、あの間抜けな顔と来たら! あはははは……」
ルチルは笑いながら、ギベオンにそう語ると、彼女の説明を聞いている内に、ネフライト皇太子の間抜けな姿を思い出し、セネトが可笑しくて堪らすぷふッと吹き出した。
「そ、そんな事が……」
ルチルの話を聞いて、ギベオンは驚いた顔をして、思わずセネトを見る。
「ルオンから帝国本土へ向かう途中で、ロナードに教えて貰ったんだ。 ほらアイツ、細身な割に、自分よりデカイのを軽々と投げ飛ばすだろう? それで……」
セネトは、自分を見ているギベオンに簡単に説明をすると、
「成程」
ギベオンは、ロナードが何度か、兵士たちに絡まれた際、彼等を軽々と投げ飛ばし、制圧しているのを目撃している為、その時の光景を思い出し、思わずそう呟いてから、
(流石はロナード様。 今度、美味しい居酒屋に連れて行って差し上げよう)
ニンマリとした表情を浮かべながら、心の中でそう呟いた。
「流石と言うか……。 ホント、変わってるわよね」
ルチルは、苦笑いを浮かべながら言うと、
「何が?」
セネトが、キョトンとした表情を浮かべながら言うと、
「アンタ達がよ。 普通、女の子が襲って来た相手を投げ飛ばす方法なんて聞かないし、女の子にそんな事を聞かれて、普通はクソ真面目に教えたりもしないわよ」
ルチルは、クスクスと笑いながら言うと、
「確かにそうだが、身に付けていて悪い事では無いからな。 殿下は無駄な事はなさらないし、ロナード様も教えても無駄な相手に、教える方ではないからな」
ギベオンが落ち着いた口調で言うと、
「そうね。 あの子が居てくれて、ホント色々と助かるわ」
ルチルが思わずそう言った。
「いやぁ。 お見事でしたね」
そう言って、何時の間にかカナデがそこに居て、ニコニコと笑みを浮かべながら言った。
「アンタ……」
ルチルは、カナデを見て微かに表情を険しくする。
彼等は、人気のない空き部屋に移動する。
「お二人がお屋敷を出て行った後、ティティス皇女が激怒して暴れたので大変でしたよ。 怒ったナルル殿に、何処かへ投げ飛ばされてしまいましたが……。 その足で兄君に泣き付いていたのですね。 あの方らしくて、呆れて苦笑いしか出ません」
部屋に誰も居ない事を確認するなり、カナデはにこやかな笑みを湛え、落ち着いた口調で報告する。
「それは……。 屋敷の者たちには、気の毒な事をしたな」
セネトが申し訳なさそうに言うと、
「いえ。 物が壊された程度で、怪我人は居ませんでしたから、問題は無いと思います」
カナデは、にこやかに笑みを湛えたまま、落ち着いた口調で答えた。
「全く……。 あの馬鹿皇女は、躾のなっていない犬と同じね」
カナデの話を聞いて、ルチルは自分の額に片手を添え、ゲンナリとした表情を浮かべながら、そう呟いた。
「全くだ」
ギベオンも、呆れた表情を浮かべながら、そう言って頷く。
「ティティス皇女は、セレンディーネ様から、ロナード様を奪うつもりで居るようです。 それで、殿下がいらっしゃると知りながら、リュディガー伯爵家に押し掛けたと言う訳です。 自分が殿下よりも魅力的だと、高を括っていた様ですね」
カナデは、にこやかな笑みを湛えたまま、事務的な口調でそう続ける。
「まあ、確かに見た目だけは可愛いけれど、性格がアレじゃあねぇ……」
ルチルは、呆れた表情を浮かべたまま言うと、
「アレを可愛いと思うのは、女性だけではないのか? 男の自分から見て、そんな風に感じた事が無いのだが」
ギベオンは、自分の胸の前に両腕を組み、淡々とした口調で言うと、
「そうですね。 私も獰猛な小型犬にしか思えません。 実母の第一側妃さまも、皇女には随分と手を焼いている様です」
カナデも何食わぬ顔をして、サラッとそう言って退けた。
「それで、サリアはどう出ると?」
セネトは、真剣な面持ちで問い掛けると、
「今回のリュディガー伯爵家での暴挙を大々的に広めて、ティティス皇女を社交界から締め出し、第一側妃とネフライト皇太子の、社交界での影響力を大きく削ぐつもりでおられます」
カナデは、事務的な口調でそう報告する。
「ふむ。 僕も兄上も社交界にはあまり顔を出さないからな。 僕等の弱い部分から崩そうと言う訳か……」
セネトは、自分の顎の下に片手を添え、真剣な面持ちで呟く。
「その自覚がおありでしたら、ロナード様を連れて社交界に出られては如何ですか? ルフト様もその辺りは疎い様ですし、アルスワット公爵としても、社交界にも楔を打っておきたいでしょうから」
カナデが、落ち着いた口調でそう助言をすると、
「ロナードが、社交界に出るキャラか?」
セネトは、戸惑いの表情を浮かべながら、カナデに問い掛ける。
「少なくとも、兄君のレオフィリス様よりは、社交性があると思います。 ルフト様よりも人目も惹きますし、案外、向いているかも知れません」
カナデは、落ち着いた口調でそう答えた。
「……大量の胃薬が、必要になるように思えます」
カナデの発言聞いて、ギベオンは、溜息混じりにそう言うと、
「同感だわ。 社交界って華やかだけれど、その裏では、お互いの腹の探り合いだもの。 腹芸が苦手な二人には少し厳しいと思うわよ」
ルチルも、複雑な表情を浮かべながら言った。
「それでも、サリア様に近しい誰かが、社交界に赴く必要性はあると私は思います。 そこで得られる情報や、そこでのやり取りの影響力は決して無視は出来ません」
ギベオンとルチルの言葉を聞いても、カナデは考えを改める様子もなく、落ち着いた口調でそう言った。
「だったら、腹芸を身に付けさせるしか無いわね」
カナデの言動に、ルチルは溜息を付きながらそう言った。
「本気で言っているのか? ルチル」
セネトは、戸惑いの表情を浮かべながらルチルに問い掛けると、彼女は無言でニコォと笑みを浮かべる。
(あ、これ、マジなやつだ)
長年の付き合いから、ルチルの表情を見てセネトは悟った。
「じぬ……」
セネトは、ソファーの背凭れに凭れ掛かる様に崩れ込み、疲れ果てた顔をして呟いた。
今日は午後から、リュディガー伯爵家でロナードと共に、ダンスのレッスンを受けている。
(窓際皇女の自分には、社交界など関係ないと思って受けて無かった淑女教育が、まさかこんな形で還って来るとは……)
セネトは、ゲンナリした表情を浮かべながら、心の中で呟くと、チラリと窓際の小さな丸テーブルの側に置いてあった椅子に腰を下ろしているロナードに目を向けた。
流石に数時間ぶっ通しで、これまでやった事もないダンスの練習をさせられ、ロナードも疲れている様で、さっきから一言も発していない。
「本日は、此処までに致しましょう。 お二人とも、今日習った事を忘れず、次のお稽古までしっかり練習をなさって下さい」
二人のダンスの教師をしている、中年の貴族の夫人は何食わぬ顔をして、二人に向かってそう言い放った。
(無茶を言うな。 淑女教育の他にも、やる事が山積みなんだぞ)
セネトは、ゲンナリとした表情を浮かべながら、心の中で呟いた。
執事長のモリスが、彼女を玄関まで見送る為に部屋を出て行き、ロナードと二人きりになると、床を見つめていたロナードが徐に顔を上げ、
「セネト、大丈夫か?」
そう問い掛けて来た。
「大丈夫そうに見えるか?」
セネトは、ムッとした表情を浮かべ、ロナードに問い返す。
「見えないな」
彼は、苦笑いを浮かべながらそう返してから、
「あの夫人、ダンスを教える時は人が変わるな……」
ゲンナリとした表情を浮かべながら、そう呟いた。
(確かに)
最初、笑顔を絶やさず、穏やかな雰囲気を醸し出していた夫人が、ダンスのレッスンを始めた途端、人が変わった様に鬼コーチ振りを発揮した事を想い出して、セネトは心の中でそう呟くと、苦笑いを浮かべる。
「普段、使わない様な筋肉を使った所為で、足が強張っている」
ロナードは、近くにあったソファーに腰を下ろすと、そう言いながら自分の足を揉む。
「足の裏が痛い……」
セネトも、今直ぐにでも、履いているハイヒールを脱ぎ捨てて、ソファーの上に足を投げ出したいが、生憎、ドレスを纏っているので、その様な格好ははしたないとされる為、我慢している。
「俺の背が高い所為で、こんなに踵の高いのを履く羽目になって済まないな……。 少しくらい、身長が縮めば良いのに……」
ロナードは、セネトが履いているハイヒールを見て、申し訳なくなって、思わずそう呟いた。
「背を縮ませるより、僕が背を伸ばす方が余程、現実的だぞ」
セネトは、苦笑いを浮かべながらロナードに言うと、
「確かに」
彼も、苦笑いを浮かべながらそう返した。
「お疲れ様で御座いました。 喉が渇いていると思い、冷たいお茶を用意致しました」
中年の侍女は、ニッコリと笑みを浮かべながらそう言うと、セネトにグラスに氷が一杯入った紅茶を差し出してきた。
冷たく冷えたお茶が、ダンスの稽古で乾ききった喉に染み渡った。
「ふう。 生き返る」
セネトは、一気にそれを飲み干してから、一息つきながらそう言った。
「急に社交界に出られる事になったと聞いて、私共も心配しております」
中年の侍女は、セネトが飲み干したグラスを受け取りながら、そう言って来た。
(それはそうだろう。 僕もロナードも、社交界の事なんて真面に習って来てないのだからな)
セネトは、不安そうな顔をしている、中年の侍女を見ながら、心の中で呟く。
「社交界は魔窟と言います。 お優しいご主人様と皇女様が、意地悪な人たちに虐められないかと、心配で、心配で……」
中年の侍女がそう言うのを聞いて、セネトは苦笑いを浮かべる。
(その心配は不要だと思うぞ。 確かにロナードは、一度自分の懐に入れた相手には、とても誠実で優しいが、敵と見做した奴には情け容赦がないからな。 性格的にやられ放しな訳が無い。 何なら倍返だぞ)
セネトは、真剣に自分たちの事を心配している中年の侍女を見ながら、心の中で呟くと、苦笑いを浮かべる。
「社交の場は、他の皇女や皇子、側妃たちや、有力貴族たちの力関係や、為人を知る事が出来る良い機会はあるが、そこへ至るまでは、かなり大変そうだな」
ロナードは、中年の侍女が差し出した、冷たく冷えた紅茶を飲みながら言うと、
「同感だ。 サボって来たツケが、まさか今になって降り掛かるとは、思いもしなった」
セネトも、苦笑いを浮かべながら言う。
「社交界に出る事が無かったのは、第一側妃たちの所為か?」
ロナードは真剣な面持ちで、セネトに問い掛ける。
「ああ。 僕が、自分たちの知らない所で力を持たない様にする為だ。 まあ、今となってはそれも、無駄な努力だったが」
セネトは、淡々とした口調でそう答えてから、苦笑いを浮かべた。
「世辞にも出来が良いとは言えない、ネフライト皇太子を帝位に就かせる為に、ライバルになりそうな他の兄弟が、帝位に就けるだけの力を、周囲から得られない状態にしようと考えた訳か」
ロナードは、真剣な表情を浮かべたまま、落ち着いた口調で言うと、
「やり方は汚いが、幾ら個人でその能力があっても、周りからの支持と協力を受ける事が出来なければ、帝位に就く事は難しいからな」
セネトは、複雑な表情を浮かべつつも、落ち着いた口調で返した。
「第一側妃は、そう言う事に関してはかなり、頭の切れる人の様だな。 まあ、子育てには失敗して様だが」
ロナードは、淡々とした口調で言うと、セネトは真剣な面持ちで頷き返してから、
「あの兄弟は、母親や周囲の大人たちから、散々甘やかされて育って来たからな。 だから今も、我慢をするとか、深く物事を考えると言う事が出来ずに、自分の本能の赴くまま、やりたい放題していると言う訳だ」
皮肉交じりにそう付け加えた。
「そう言う馬鹿の方が、カルセドニ皇子や兄上たちも、やり易いだろうが、問題は馬鹿兄妹の周りに居る連中だな」
ロナードは、落ち着き払った口調でそう語ると、セネトは頷き返し、
「彼等の支持者の中には、帝国三大公爵の一つ、現宰相を輩出しているマルフェント家がある。 第一側妃はその一門の出で、政治の中枢を担う者が多くいる」
セネトは、複雑な表情を浮かべ、重々しい口調でロナードに説明をする。
「だったら、軍部の支持を得るのが手っ取り早いな……。 社交界では、軍部の関係者との関係作りを積極的にするべきだな」
セネトの言葉を聞いて、ロナードは真剣な表情を浮かべ、そう言った。
「流石ですね」
そう言いながら、カナデが部屋に入って来た。
「カナデ……」
彼の登場に、ロナードは少し戸惑った様な表情を浮かべた。
「慣れない事をなさって、お疲れの所を申し訳ありませんが、ノヴァハルト家の元・家令が行った横領に加担していた者たちの洗い出しが完了しました。 この屋敷に残った者たちの中にも数人居ましたので、彼等には解雇を言い渡し、近々三か月分の給料を没収し、紹介状も書かず、身一つで放り出しておきました」
カナデはにこやかに笑みを湛えつつも、ロナードの様子などお構いなしに、事務的な口調でそう報告する。
「そうか。 手間を掛けたな」
ロナードは、軽く溜息を付いてから、落ち着いた口調で返した。
「いえ。 使用人たちの事を管理するのも、家令の務めですので」
カナデは相変わらず、にこやかに笑みを湛えたまま、サラリとそう言って退けた。
「家令と言うよりも、もう立派な間者だろ? で、ティティスたちの様子はどうなっている?」
セネトは少し意地の悪い表情を浮かべながら、カナデにそう問い掛けると、
「皇女は、事態を知った第一側妃さまに、こってりと絞られ、暫くの間、外出禁止令を出された為、他家が主催する社交界やお茶会に出席出来なくなりました。 ですので、ティティス皇女に対して日頃、不満を抱いている令嬢たちを抱き込む良い機会かと……」
カナデは一瞬、ムッとした表情を浮かべたが、直ぐに笑みを浮かべ、淡々とした口調でそう報告をする。
カナデは、笑顔という仮面を張り付ける事で、自分が何を考えているのか、周囲に悟られない様に徹している様であった。
「ふむ。 僕が呼び掛けたところで、どれ程の令嬢が集まるのか分からないが、やるだけやってみよう」
セネトは、少し自身の無さそうな様子であったが、落ち着いた口調でカナデにそう返すと、
「ご心配でしたら、ルチル嬢に協力を頼めば、簡単に集まると思いますよ」
カナデはニッコリと笑みを浮かべ、セネトにそう助言をした。
「どう言う事だ?」
セネトは微かに眉を顰め、カナデに問い掛ける。
「ルチル嬢は、令嬢たちにとても人気があります。 彼女がお茶会に参加すると知れば、多くの令嬢たちが集まる事は疑いありません。 ご存知なかったのですか?」
カナデはニッコリと笑みを浮かべたまま、淡々とした口調でセネトに説明をすると、
「ルチルが?」
セネトは驚いた表情を浮かべながら呟く。
「はい。 どうやら社交界で、令息たちに囲まれて一方的に交際を迫られ、困り果てていた令嬢を見かねて、令嬢を令息たちの手から助けたそうです。 しかも、そう言った事をしたのは、一度や二度ではないらしく……。 助けた令嬢たちを中心に『ルチルお姉さまをお慕いする会』と言う、ファンクラブまで存在しています」
カナデは、苦笑いを浮かべながら、驚いているセネトにそう付け加える。
「……社交界に何をしに行っているんだ……。 そんな事をしているから、婚約者が出来ないんだろ……」
カナデの話を聞いて、セネトは思わず自分の額に片手を添え、ゲンナリとした表情を浮かべながら、そう呟いた。
「……ルチルなら、やりかねないな」
ロナードは、苦笑いを浮かべながら言うと、
「自分よりも体格の良い令息たちを無双するルチル嬢に、助けられた令嬢たちがすっかり惚れてしまった様です」
カナデは、事務的な口調でそう言った。
「まあ、男の俺の見ても、ルチルは男前だからな」
ロナードは、苦笑いを浮かべたままそう言うと、
「それ、ルチル当人に言ったら、殺されるぞ」
セネトは、真剣な面持ちでロナードにそう忠告をした。
「分かっている。 彼女を敵に回す気はないから安心しろ」
ロナードは、苦笑いを浮かべたまま、真剣な顔をしているセネトにそう言った。
「だったら良いが……」
セネトは、溜息混じりにそう言ってから、
「アルスワット公爵の協力は、兄上を帝位に就ける為には必要不可欠だ。 そのアルスワット公爵が、その様に望んでいるのなら、出来る限りその意向に応えるのが妹である僕の務めだ。 サリアには了解したと伝えてくれ」
真剣な表情を浮かべ、落ち着いた口調でカナデに言うと、
「俺もサリアに世話になっている手前、自分が出来る事には、協力を惜しまないと伝えてくれ」
ロナードも真剣な表情を浮かべながら、カナデに言った。
「分かりました」
彼は、落ち着いた口調でそう返すと、恭しく首を垂れた。
その時、カナデが一瞬だけほくそ笑んだのを見て、アイクは物凄く嫌な予感を覚えた。
「ああ……。 緊張する」
セネトは、先程から忙しく音を立てている自分の心臓を、少しでも落ち着かせようと、胸元に手を添えて、何度も大きく深呼吸をする。
今まで、パーティーに参加する事はあったが、そこで彼女が何かをすると言う事は無かったし、殆ど壁の花で、誰も彼女の事など気にも留めなかった。
でも、今日は事情が違う。
自分たちから積極的に、集まった者たちに接触し、彼等に好印象を与え、少しでも兄カルセドニ皇子への支持を得ると言う目的がある。
今回は、ガイア神教の聖女選別試験を無事に合格した者たちの中から、老子や司祭たちにより厳選なる審査を経て、正式に聖女になった人物を公に紹介する場である。
寺院との繋がりが希薄な、第一側妃やその子供である、ネフライト皇太子とティティス皇女はこのパーティーには参加しないが、兄が寺院の聖騎士をしているセネトは、このパーティーに参加する事を選んだ。
この場所には、多くの寺院の関係者は勿論、ガイア神を熱心に信仰している貴族たちが集まる。
普通のパーティーとは違い、聖騎士をしているカルセドニ皇子の支持を、得易い場でもある。
(責任重大だ)
セネトは、心の中でそう呟くと、ゴクリと息を呑んだ。
「セネト。 大丈夫か?」
自分の隣で、セネトが顔を引きつらせ、何時も以上には緊張している様子を見て、ロナードは心配そうに声を掛けたが、彼女は聞こえていない様だ。
「セネト?」
ロナードは、戸惑いの表情を浮かべ、少し大きな声で声を掛けると、彼女はハッとした表情を浮かべ、声を掛けた彼の方へと振り返った。
「何か、言ったか?」
彼女は、戸惑いの表情を浮かべながら、ロナードに問い掛ける。
「いや……」
彼女の様子に、ロナードは心配になりながらも、そう返した。
宴開始のファンファーレが鳴り響き、身分の低い者から順に会場に入り始めた。
そうして徐々に、人が会場の中に移動していき、セネトとロナードの番が近付いて来たので、ロナードはセネトをエスコートする為、スッと彼女に手を差し出した。
けれども、セネトはそれに気付いていないので、
「セネト」
ロナードは、優しく彼女に声を掛けると、
「え。 あ」
そこで初めて、ロナードが自分に手を差し出している事に気が付くと、慌てた様子で、彼の手の上に自分の手を重ねて来た。
セネトの手は、緊張からか冷たく、微かに震えていた。
「セレンティーネ・ヴァン・リアン・エレンツ皇女殿下ならびに、ご婚約者ユースティリアス・フォン・リュディガー伯爵のご入場です」
入り口に立つ、初老の使用人が声高に、会場に居る者たちにそう告げると、会場からどよめきが起きると同時に、人々の視線が一斉に二人に集まる。
そんな中を、セネトは緊張して震える手で、ロナードの手を握り絞めながら、ぎこちない足取りで会場の中央へと進む。
(セネト……。 今にも倒れそうだ)
自分の隣で、緊張のあまり引き攣った表情で、履き慣れないハイヒールで扱けない様に、慎重に歩みを進めるセネトを見ながら、ロナードは心配そうな顔をして彼女を丁寧にエスコートする。
そうして不意に顔を上げた時、会場に居る者たちの中から、誰よりも強く見つめている視線とぶつかった。
自分と同じ、深い紫色の双眸を持った若い女性……。
(リリアーヌ?)
自分を見ているその若い女性の顔を見るなり、ロナードは驚愕の表情を浮かべ、思わず声に出しそうになった。
(何で……彼女が此処に……)
見間違いかと思い、ロナードは一度視線を手元へ落とし、改めて周囲をゆっくりと見回した後、もう一度、壇上へ目を向けた。
白いローブに身を包んだ数人の司祭たちに両脇を挟まれる様にして、一人だけ白を基調とした、金色の刺繍が施された、高価なドレスに身を包んだ彼女が、静かに笑みを浮かべながら、確かに、間違いなく、そこに立っていた。
「な……んで……」
ロナードは、壇上に立つ彼女を凝視したまま、信じられないと言った様子で、微かに声を震わせながら呟いた。
「ロナード?」
さっきまで、落ち着いた様子で自分をエスコートしていたロナードの手が、微かに震えている事に気付いたセネトは、そう呟くと徐に彼を見上げた。
ロナードは、一点を見つめたまま、恐怖に表情を引きつらせ、その顔からはすっかり血の気が失せていた。
意味が分からぬまま、セネトはロナードが見つめる先へと目を向けた瞬間、思わず我が目を疑った。
「リリアーヌ?」
セネトは、周りに居た者たちにも分かる程の声量で、思わず声を上げると、咄嗟にロナードを見上げた。
一瞬、息をする事さえ忘れていたのか、ロナードは『かはっ』と苦しそうな声を上げ、徐に自分の胸元を押さえると、苦しそうに顔を歪め、その場で足元から崩れ落ちそうになる。
「ロナード!」
咄嗟にセネトが、崩れ込んだロナードの体を支える。
その様子を見た人々の間から悲鳴が起き、近くに居た使用人たちが、ロナードに押し潰されそうになっているセネトを見て、慌てて駆け寄ると、真っ青な顔をして、苦しそうに呼吸を繰り返している彼の体を両脇から支えながら、ゆっくりと近くの壁に凭れ掛けさせる。
ロナードは、壁に身を預ける様な格好で、その場に蹲る。
「大丈夫ですか?」
「誰か! 早く医者を!」
その様子を見て、近くに居た使用人たちが、焦りの表情を浮かべながらロナードに声を掛ける。
「ロナード。 ロナード? 大丈夫か? 返事をしろ!」
セネトは、頻りに胸元を押さえ、苦しそうな顔をしているロナードに、必死に声を掛けながら、彼の背中を摩る。
「……と。 セネト……」
ロナードは、やっと呼吸をしている様な様子で、苦しそうに、助けを求める様なか細い声で、自分の側に居たセネトの名を呟く。
「僕はここだ!」
自分の名を呟くロナードの手を握りしめ、セネトは強い口調で返す。
彼女が握りしめているロナードの手が、震えている。
「……ろ。 にげ……ろ……」
ロナードは、自分の前に身を屈めるセネトの肩をガッと掴み、鬼気迫る様子でそう訴えて来た。
「落ち着け」
セネトは、すっかり動転している様子のロナードに、落ち着いた口調でそう声を掛ける。
「殿下! ロナード様!」
騒ぎを聞きつけ、控室に居たギベオンがそう叫びながら、会場に駆け込んで来た。
「ギベオン!」
セネトは思わず立ち上がり、助けを求める様に声を上げる。
「殿下!」
ギベオンは、セネトとロナードの姿を認めると、人混みを掻き分けながら、此方へと近付いて来た。
「何が……起きて……」
グッタリと壁に凭れ掛かり、真っ青な顔をして、胸元を押さえたまま、苦しそうに呼吸をしているロナードを見て、ギベオンは戸惑いの表情を浮かべながら、セネトに問い掛ける。
「説明は後だ。 早くロナードを此処から連れ出すぞ」
セネトは、何時になく険しい表情を浮かべ、ギベオンにそう言った。
ギベオンと、近くに居た使用人に両脇を抱えられるようにして、入って来たばかりだと言うのに、セネトに付き添われ、会場の外へと連れ出されるロナードを見送りながら、
「もう逃げられませんよ。 ユリアス」
リリアーヌは意味深な言葉を呟くと、ニッコリと笑みを浮かべた。




