誘拐
主な登場人物
ロナード(ユリアス)…召喚術と言う稀有な術を扱えるが故に、その力を我が物にしようと企んだ、嘗ての師匠に『隷属』の呪いを掛けられている。 その呪いを解く為、エレンツ帝国を目指している。 漆黒の髪に紫色の双眸が特徴的な美青年。 十七歳。
セネト(セレンディーネ)…エレンツ帝国の皇女。 とある事情から逃れる為、シリウスたちと行動を共にしている。 補助魔術を得意とする魔術師。 フワリとした癖のある黒髪に琥珀色の大きな瞳が特徴的な女性。 十九歳。
シリウス(レオフィリウス)…ロナードの生き別れていた兄。 自身は大剣を自在に操る剣士だが、『封魔眼』と言う、見た相手の魔術の使用を封じる、特殊な瞳を持っている。 長めの金髪に紫色の双眸を持つ美丈夫。 二二歳。
ハニエル…傭兵業をしているシリウスの相棒で鷺族と呼ばれている両翼人。 治癒魔術と薬草学を得意としている。 白銀の長髪と紫色の双眸を有している。 物凄い美青年なのだが、笑顔を浮かべながらサラリと毒を吐く。
ルチル…帝国の第三騎士団の隊長を務めている女性。 セネトと幼馴染。 今はティティスの護衛の任に就いている。 二十歳。
ギベオン…セネト専属の護衛騎士。 温和で生真面目な性格の青年。 二十五歳。
カルセドニ…エレンツ帝国の第一皇子でセネトの同腹の兄。 寺院の聖騎士をしている。 奴隷だったシリウスとハニエルを助け、自由の身にした人物。
アイク…ロナードの専属護衛をしている寺院の暗部に所属していた青年。 気さくな性格をしている。
湿っぽい空気と、黴の臭い……ヒンヤリと冷たく堅い石の様な感触……
(ここは……何処だ?)
肌寒さを覚え、目を覚ましたロナードは、心の中でそう呟く。
徐に身を起こし、目を凝らし、注意深く周囲を観察してみる。
頼りなく、ランプが周囲を照らすだけの薄暗い空間……。
目の前には、無数の鉄格子が床から天井にまであって、背後や床は無機質な石のブロックが隙間なく並べられ、何処からかヒタヒタと水が滴る様な音が聞こえてくる……。
どう考えても、セネトから貸し与えられている、宮廷内の自分の部屋では無さそうだ。
(誘拐された……のか?)
ロナードは、自分が両手を前にされ、手枷が付けられているのを見て、心の中で呟く。
魔力欠乏症に苛まれ、暫くベッドから起き上がる事もままならなかったが、最近は日常生活に支障が無い程にまで回復はしていたが、心配するセネトたちの言い付けで、宮廷魔術師の仕事を休み、宮廷内で貸し与えられた彼の部屋で療養を続けていたのだが……。
どの位の間、意識が無かったのか分からないが、彼が意識を失う前、宮廷内でちょっとしたボヤ騒ぎがあり、念の為に避難する様にと、侍女が部屋に入って来た事までは覚えているのだが……。
(あれか)
ロナードは、その侍女が何時も見る者では無かった事を思い出し、心の中で呟く。
(帰ったら、セネト達に謝らないと……)
ロナードは、彼の身の安全を図る為、常日頃から周囲に気を配ってくれているセネトやアイクの顔が浮かび、彼女たちに対して罪悪感を覚え、心の中で呟いた。
そんな事を考えて居ると、複数の足音が此方に徐々に近づいて来るのが聞こえた。
「また会いましたね」
周囲が薄暗く、声の主は深々と外套に付いているフードを被っている為、顔は見えないが、背丈や佇まい、声色などから、若い男である事は分かった。
「……」
ロナードは警戒心を顕わにし、表情を強張らせ、声を掛けて来た相手を見上げる。
「貴方の所為で、私は宮廷を出なければならなくなりまして……。 その後、頼れる者もおらず、色々と大変でした。 その腹癒せでは無いですが、ここへ招待してみました。 どうですか? 私たちのもてなしは、気に入ってくれましたか?」
その若い男は、何処か勝ち誇った様子で、そう語った。
「……」
ロナードは真剣な表情を浮かべ、顔が見えない相手の動作や声色などで、相手が危害を加えて来るかどうか判断する事に集中していた。
「おい。 黙ってないで、何とか言ったらどうなんだ?」
彼の背後に居た、スキンヘッドの筋肉質で大柄な、あまり身なりの良くない、柄の悪そうな男が、先程から生意気に自分たちを睨み付けているロナードに対し苛立ちを覚え、そう怒鳴り付けた。
大柄で、如何にも悪者と言った雰囲気の彼が野太い声で凄めば、大抵の者は怯んで、その顔を恐怖に歪めるのだが、目の前の青年は顔色一つ変えず、鋭い眼差しで自分達を見ている。
「生意気な奴だな! 気に入らねぇ!」
捕まっている身だと言うのに、恐怖心や不安の色など微塵も無く、それどころか、敵対心を剥き出しにして、鋭く自分を睨むその青年の目が、その男はとても気に入らなかった。
だから、とっさにそう叫びながら、目の前の青年の頭を思い切り蹴飛ばした。
そうすれば、捕えたこの青年は忽ち、子犬の様に恐怖に身を震わせ、自分達に縋る様な眼差しを向ける様になり、自分が優位に立つ事が出来る。
ロナードは柄の悪い男に思い切り蹴飛ばされ、背後に両腕を合わせる様に手錠をされている為、肩から勢い良く床の上に倒れ込んだ。
「おい! 手荒な真似はしない約束だぞ!」
若い男は不愉快さを顕わにし、柄の悪い男を怒鳴り付ける。
「何言ってやがる。 どうせ殺すんだろ? その前に痛め付けようが大差ねぇだろ?」
柄の悪い男はカチンと来て、強い口調で若い男にそう言い返すと、
「……これだから、金に釣られて雇われた輩は……」
彼は呆れた様な顔をして、軽く肩を竦めつつ、何処か柄の悪い男の事を見下した様な口調でそう言った。
「うるせぇ!」
若い男の言動に、柄の悪い男は益々カチンと来て声を荒らげるが、若い男は彼を無視し、ロナードの前に来ると身を屈め、
「済みませんでした。 大丈夫ですか?」
倒れたロナードの背中に手を回し、優しい口調でそう言いながら、彼の身を起こす。
「チッ……」
その様子を見て、柄の悪い男は面白く無さそうな表情を浮かべ、舌打ちをする。
そして徐に、自分からの一撃をくらい、恐怖心を抱いたであろうと思われる青年の方へと目を向けるが、柄の悪い男の予想に反し、身を起こした青年は怒りに満ち、抜身の刃物の様な鋭い眼光を男に向けて来た。
怯ませるどころか、完全に青年を怒らせたのは、彼から発せられる空気で分かった。
しかも、自分を殺す気満々だ。
『ぶっ殺す!』と、青年の目が言っている!。
柄の悪い男は、貴族の令嬢たちの様に綺麗な顔立ちをしている目の前の青年が、静かに獲物の喉笛に食らいつく機会を伺っている獣の様な鋭い視線を自分に向けている事に気付くと、どう言う訳か、背中が凍り付く感覚に見舞われ、自分でも気が付かない内に冷や汗を流していた。
「おい。 もう一人が到着したぞ」
柄の悪い男が、蛇に睨まれた蛙の様になっていると、不意に扉の向こうから別の男の声がした。
粗雑な木の扉が開け放たれ、顔が見えぬ様に黒いショールが付いた帽子を被り、何故か喪服に身を包んだ、透き通る様な白い肌を有した女性が、ヒールの音を高らかに鳴らしつつ、ロナードの前にやって来ると、
「無事に、掴まえられたようですですね?」
女性は穏やかな口調で男たちに言うと、
「お蔭様で」
若い男は、落ち着いた口調で答えた。
女性はロナードがいる辺りを良く照らす様にと、柄の悪い男に対して顎で指示する。
男は不服そうな顔をしながらも、ロナードに近付くと、ランプの明かりをロナードに近付ける。
ロナードは急に強い光を近付けられたので、眩しさのあまり、思わず目を細め、顔を背けようとするが、柄の悪い男がロナードの顎の下を片手で乱暴に掴むと、目の前に立つ女性に顔が良く見える様に、無理矢理に正面を向かせる。
横顔だけでも十分に、目鼻立ちが整っているのは分かるが、明りに顔を照らされ、正面から改めて見ると、その綺麗な顔立ち以上に、双眸が宝石の様に美しい、とても珍しい紫色である事に気付かされた。
その瞳だけでも、高値が付きそうだと言うのに、この大陸の者とは異なる、北のランティアナ大陸の者の特有のごく薄い赤銅色の肌にスラリと長い手足……。
金髪では無いのが残念ではあるが、これはこれで珍しいので、きっと見た事も無い様な高値が付くに違いない……。
(コイツは殺すよりも、奴隷市場に売り払っちまった方が良いんじゃねぇのか?)
柄の悪い男ですら、そう思ってしまう程だった。
男が蹴飛ばした時に口の端を切ったのか、口元に血が滲んでいるが、臆する様子も無く、青年は自分達を見ている。
「どうやら、当人で間違いなさそうですね」
女性は落ち着いた口調で言うと、その時、ロナードと目が合い、彼女の勝ち誇った様な微笑みが、彼にはとても不快でならなかった。
「さて、早速ですが、私たちと取引をしませんか?」
女性は身を屈めると、ロナードの顎の下に手を添え、自分へ顔を向けながら、不敵な笑みを浮かべ、ロナードに分かる様にランティアナ大陸の公用語でそう言った。
「断る」
間髪置かず、ロナードは無機質な口調で即答した。
「……っ」
何の躊躇もなく、ロナードが即答した事に対し、女性はたじろぐ。
『何と言っているのですか?』
若い男は不思議そうな顔をして、女性に問い掛ける。
『内容も聞かない内から、『断る』と即答して来ました』
女性は、戸惑いの表情を浮かべつつ、若い男にそう答えると、
『はっ! 良い度胸してるじゃねぇか!』
それを聞いて、柄の悪い男は思わず吹き出し、笑いながらそう言った。
顔立ちこそ、その辺の貴族の令嬢に引けを取らぬ綺麗な顔をしているのに、自分が囚われの身にも関わらず、物動じ一つせず、毅然と取引話をも突っぱねるその豪胆さ……。
助かりたい一心で自ら取引を持ち掛ける、その辺の貴族の子息とは、そもそもの価値観が違う様だ。
『それでは困ります』
若い男は、女性に向かって抗議する。
「ゴチャゴチャ言ってないで、さっさと殺せば良い。 その為に俺を連れて来たんだろう?」
ロナードは真直ぐ女性らを見ながら、恐怖など微塵も持ち合わせていない、ハッキリとした口調でそう言い放った。
「あら。 自分がどう言う立場なのかは、理解しているようですね? あまりに鈍感な反応をするので、てっきり分かっていらっしゃらないのかと心配してしまいました」
女性は苦笑いを浮かべながら、ロナードにそう言い返した。
「当然だ」
彼は、実に落ち着いた口調で答えた。
分かっていて、取引に応じないと言うのは、全く何を考えているのか、彼女には理解出来なかった。
『無様に捕まり、相手に利用されるくらいならば死ね』とでも、セレンディーネ皇女辺りにでも強く言われているのだろうか……。
「大人しく従った方が良いですよ? 死にたくは無いでしょう?」
女性は、苦笑いを浮かべたままロナードに言った。
「勝手に吠えていろ。 そもそも、俺を自分たちの思い通りに出来ると思っている所から既に、間違っている。 お前たちには、俺を殺すと言う選択肢以外、存在しないと知れ」
ロナードは、キッと彼女たちを睨み付けながら、淡々とした口調で言い返す。
彼のその言動から、最初からロナードが、自分たちの話など聞く気が無いのだと彼女は悟ると、
「うふふふ……」
女性は俯き加減で、急に不気味に笑い声を上げだした。
『ど、どうしたんだよ?』
柄の悪い男は、急に女性が不気味に笑い出したので、戸惑い気味に問い掛ける。
『彼が泣きながら許しを請う姿が見たくなったわ。 それに、彼の変わり果てた惨めな姿をセレンディーネ皇女に見せた方が、面白いと思わない?』
女性はニッコリと笑みを浮かべ、若い男たちにそう提案すると、
『殺してしまうのは困りますが、貴女の言う事も一理ありますね。 彼にも皇族にも並々ならぬ恨みがありますから』
若い男は、苦笑いを浮かべながらそう言うと、チラリとロナードの方へと目を向ける。
「貴方には、別の交渉方法が良さそうね?」
女性はニッコリと笑みを浮かべ(目は笑っていないが)、ロナードに向かってそう言った。
「さっさと殺せ」
ロナードは、彼女を睨んだまま、淡々とした口調で返す。
(どうやら彼は、自分がセレンディーネ皇女に不利益になる事を危惧している様ね)
女性は心の中でそう呟いてから、
「うふふ。 そんな事はしませんよ。 仲良くしましょう?」
ロナードに向かって優しい口調でそう言うと、ニィィィと不気味な笑みを浮かべた。
何処からか、木製の何かがカタカタと動く音と共に、水がザアーッと流れ出す音が響いて来る……。
あまり深くない石畳で出来た水路に、地下から汲み上げた水が通る場所で、様々な場所から集まった水が水車で持ち上げられ、帝都内にある上水路へと流れ込み、街に住む人々の命と生活を守っている。
ここは、先程よりもヒンヤリとしていて、寝間着のまま連れ攫われたロナードの体には、肌寒く感じた。
「何だよこれ……。 ただ水が少し流れてるだけじゃねぇか。 こんなんで許しを請う様になるのかよ?」
女性に言われて、ロナードを連れて来た柄の悪い男は、拍子抜けした様子で、一緒に来た彼女に言った。
「これは水刑と言って立派な拷問手段の一つです。 水刑にも色々とありますが、今回はこれで十分でしょう。 ここに流れているのは冷たく冷えた地下水を汲み上げた物。 そんな冷たい水に足首程度だけでもずっと浸かっていたら、どう言う事になるのか……見せて差し上げます」
女性は不敵な笑みを浮かべながら、柄の悪い男にそう説明した。
「へへっ。 そりゃ楽しみだ」
柄の悪い男は、イマイチ理解出来ていない様であったが、気に入らないロナードが苦しむ様が見られるならと、声を弾ませながら言った。
「あら。 貴方はどう言う事になるのか、分かっている様ですね?」
ロナードが表情を強張らせているのを見て、女性はニッコリと笑みを浮かべながら言った。
「……陰湿な女め」
ロナードは嫌悪に満ちた表情を浮かべ、吐き捨てる様な口調で返す。
「うふふふ。 言う事を聞かない貴方が悪いのよ。 ここで少し頭を冷やしてなさい」
女性は勝ち誇った様な笑みを浮かべながら、言うが、
「そうは、いくか!」
ロナードはそう言うと、自分を近くの柱と手枷を繋ごうとしていた柄の悪い男に思い切り体当たりをする。
ロナードに体当たりを食らった男は、そのまま勢い良く少量の水が流れる場所へと転げる。
『この野郎!』
柄の悪い男は声を荒らげ、素早く立ち上がり、ロナードに向かって拳を振り下ろすが、彼はそれを軽々と避けると、その男の土手っ腹に膝蹴りを思い切り見舞った後、その後頭部に両手を組んだ手を力一杯振り下ろした。
『がっ……』
柄の悪い男は、ロナードの攻撃をまともに食らい、短い声を上げ、その場に崩れ込んだ。
「さて、お転婆が過ぎるお嬢さん。 俺が此処から脱出するまで、暫しお付き合い願おうか」
ロナードは、淡々とした口調で女性に向かって言った。
「ふざけないで!」
彼女はそう叫ぶと、持っていた護身用の短剣を取り出すと、それを思い切りロナードに向かって繰り出した。
だが、彼女の動きは完全にロナードに読まれており、慣れた様子で手枷をされたままの状態で、彼女の手から短剣を叩き落とすと、素早く彼女の手首を掴み、そのまま思い切り後ろ手にする。
「ぐっ……」
ロナードに手荒く手首を掴まれ、後ろ手にされ、彼女は痛みのあまり表情を歪ませる。
「使い慣れない物を無闇に振り回すものじゃない。 じゃないと、アンタの方が痛い目に遭うぞ」
ロナードは彼女を後ろ手にしたまま、落ちた短剣を拾い上げ、彼女の背中に体を密着させ、彼女の首元に短剣を突き付けながら、落ち着いた口調で言った。
「くっ! 放しなさい!」
彼女はそう叫びながら、何とかしてロナードの手を振り解こうと暴れるが、自分の腕を掴んでいる彼の力は思いの外強く、全くビクともしない。
「俺が無事に逃げる事が出来たら放してやる。 これ以上、痛い想いをしたく無ければ、大人しく従う事だ」
ロナードは、落ち着き払った口調で、女性に言い返した。
(何なのよコイツ! まるで見計らったみたいに! 動きに全く無駄が無い!)
女性は、自分を捕まえているロナードを横目で見ながら、恐ろしく落ち着いている彼を見て、心の中で呟いていると……。
ロナードは不意に眩暈を覚えた。
(急に激しく動いたからか……)
ロナードは、苦々しい表情を浮かべ、心の中でそう呟いていると、何かに気付いた様に、ハッとした表情を浮かべ振り返った瞬間、柄の悪い男が思い切り、彼の左頬に平手打ちを見舞い、周囲にその音が響き渡ると同時にロナードが勢い良く床の上に倒れ込む。
(くそっ! 死角から!)
ロナードは床の上に倒れ込みながら、咄嗟に反応出来なかった事に対し、苦々しく思った。
何時もならば絶対に、こんな醜態は晒す事など無いのに!。
「このクソがっ!」
柄の悪い男は、額に片手を添えつつ、恨めしそうにそう叫ぶと、倒れたロナードの腹を思い切り蹴り付けた。
「かはっ!」
思い切り腹を蹴り付けられ、ロナードは苦痛に満ちた表情を浮かべ、思わず声を上げる。
「このクソ野郎!」
柄の悪い男はそう言うと、苦しそうに咳込んでいるロナードの側に身を屈めると、ガッと乱暴に彼の喉元を掴んだ。
ロナードは苦しそうに顔を歪め、枷をされている両手で、自分の首を絞めている柄の悪い男の手を掴み退けようとしたが、腕に力が入らない所為でそれも出来ず、やがてグッタリと項垂れて動かなくなった。
「ちょっと!」
それを見た女性が、焦りの表情を浮かべながら、男に声を掛ける。
「心配すんな。 ちょっと落としただけた。 死んじゃいねぇよ」
柄の悪い男はそう言うと、思い切り両手で締め付けていたロナードの喉元から手を離した。
彼の首にはくっきりと、柄の悪い男の手形が残っており、彼が容赦なくロナードの首を絞めた事を物語っていた。
「大変です! 寺院の者たちがここへ来ています!」
そこへ、外套に付いたフードを深々と被った若い男が血相を変え、駆け寄りながら二人に向かって叫ぶ。
「仕方がないわ。 彼を若様の下へ連れて行くわよ」
女性は、苦々しい表情を浮かべつつ、柄の悪い男に言うと、
「最初から、こうしとけば良かったんだよ」
彼はそう言いながら、気を失っているロナードを肩の上に担ぎ上げる。
「まだ見付からないのか!」
セネトのヒステリックな声が、部屋の中に響き渡る。
ボヤ騒ぎが収まり、セネトをはじめ、宮に居た者たちが安堵していたのだが、直ぐにロナードの姿が無い事に彼の護衛をしているアイクが、真っ先に気が付いた。
何処か、別の場所にでも避難しているのかと最初は思ったのだが、宮の中やその周辺を隈なく探しても一向に見付からず、皆、『何処へ行ったのだろうか』と焦り始めた。
その後、事態を知ったギベオンが改めて部屋を調べたところ、直ぐに、彼が何時も履いているサンダルが寝室のベッドの近くで片方ずつ離れた場所に散らかった状態で転がっていて、絨毯を良く見ると、何か重い物を引き摺った様な跡があった。
更に、彼が着ていた寝間着以外の着替えの服は全て、リネン室にある事も分かった。
流石に裸足で部屋の外へ行くなど考えられない……。
何者かに誘拐された可能性が高いと言う結論に至り、忽ち、天地をひっくり返した様に大騒ぎとなり、今に至る訳である……。
「お、落ち着いて! 今、皆が必死に探してるから!」
ルチルは、苛立っているセネトを何とか宥めようと、声を掛ける。
「ロナード……」
セネトは顔を青くして、両手で顔を覆い、力なくソファーの上に座り込む。
何時も、何が起きても大抵の事には動じないセネトが珍しく、誰の目から見ても焦っているのが分かる。
「で、殿下!」
兵士たちと共に、街へ捜索に行っていたギベオンが、息を切らせながら、部屋の中に駆け込んで来た。
「見つかったか?」
ギベオンの姿を見るなり、セネトは反射的にそう問い掛けていた。
「報告致します。 街の外れにある軍の食料庫が、燃えているとの知らせが入りました!」
ギベオンは呼吸を整えてから、真剣な面持ちでセネトにそう告げる。
「!」
ギベオンから報告を受けたセネトは、俄かに表情を引き攣らせる。
「そこにロナードが居るの?」
ルチルは戸惑いの表情を浮かべ、ギベオンに問い掛ける。
「今、確認を急がせている。 普段、人気も火の気も無い場所から火の手が上がるのは、不自然過ぎるからな」
ギベオンは、落ち着いた口調で、ルチルの問い掛けに答えた。
「施設への立ち入り申請は後で幾らでも書く! お前たちも直ちに現場に急行しろ!」
セネトは真剣な表情を浮かべ、強い口調でギベオンに言った。
「はっ!」
ギベオンは短く返事をすると、セネトに深々と頭を下げ、急いで部屋を後にする。
(くそっ……僕等がもっと注意していれば、こんな事には……。 もし、無事に助ける事が出来たとしても、ロナードに一体、どんな顔をして会えと言うんだ! もうすっかり、僕の事に巻き込んでしまっているじゃないか!)
セネトは、苦々しい表情を浮かべ、額に片手を添えつつ、心の中で呟く。
(大失態だ。 恐らくボヤ騒ぎの混乱に乗じて、予め宮に忍び込み機会を伺っていた輩に連れ攫われたに違いない……。 兎に角今は、ロナード様を無事に助け出さねば!)
ギベオンは、心の中でそう呟きながら、兵士達が待機している宮廷の外へと急ぐ。
「急げ!」
ギベオンは、用意されていた馬に乗ると、待機している兵士達に命じる。
「はっ!」
一時間ほどして、ギベオンは兵士を引き連れ、燃えていると報告があった、街の外れにある帝国軍の食料庫に辿り着いた頃には、辺り一面が激しく燃えてしまっていて、食料を貯蔵していた建物の石造りの壁だけを残し、全てが焼け落ち、辺りに焼き焦げた匂いが漂っていた。
「これは酷い……」
兵士がそう言いながら、周囲を見回して居ると……。
「人が……居ませんか?」
他の兵士が焼けた食料庫の近くに、複数の人影がある事に気付き、ギベオンにそう声を掛ける。
彼等は急いで其方へ駆け付けると、寺院の者たちが着る白色の外套を纏った、武装した男たちが数人、静かに佇んでいた。
「随分と、ゆっくりだな?」
その中の一人の青年が、ギベオンの姿を認めるなり、そう声を掛けて来て、深々と被っていたフードを片手で払う。
「か、か、カルセドニ殿下?」
ギベオンは、その人物を見て驚きと戸惑いの表情を浮かべ、思わず素っ頓狂な声を上げた。
「久しいな」
カルセドニ皇子は、落ち着いた口調で、戸惑っているギベオンに言う。
「殿下。 何故この様な場所に……」
ギベオンは、戸惑いの表情を浮かべながら、カルセドニ皇子に問い掛ける。
「別件で此処に辿り着いたに過ぎん。 残念ながら、一足遅かった様だ。 どうやら我々を攪乱する為に火を放ったのだろう」
カルセドニ皇子は苦笑いを浮かべながら言う。
「中に……誰も居なかったのですか?」
ギベオンは、戸惑いの表情を浮かべたまま、カルセドニ皇子に問い掛ける。
「ああ。 私たちが探している者たちも、お前たちが探しているユースティリアスもな」
カルセドニ皇子は、落ち着いた口調で答える。
「何故、自分たちがロナード様を探している事をご存知なのですか?」
ギベオンは、戸惑いの表情を浮かべながら問い掛けると、
「腐っても皇子だぞ? 宮廷内での事を知らない訳が無いだろう」
カルセドニ皇子は、苦笑いを浮かべながら、落ち着いた口調で答える。
「隊長! 近くに住む者が、此処から凄い勢いで離れて行った、不審な馬車を見掛けたそうです」
腕に、伝達用の鷲を乗せた、カルセドニ皇子の部下と思われる兵士が、紙切れを手に彼にそう報告して来た。
「ふむ。 では、行こうか。 ギベオン」
カルセドニ皇子は、落ち着いた口調でギベオンに声を掛けると、
「ご一緒すれば、ロナード様とお会い出来るのですか?」
ギベオンは、真剣な面持ちで問い掛けると、
「多分な」
カルセドニ皇子は、不敵な笑みを浮かべながら答えた。
『急いで馬に乗れ!』
ギベオンは、部下の兵士達に向かってそう命じた。
ガタガタと言う音と共に、時折、大きく上下する感覚……。
直ぐ近くに、人が居る気配を感じつつ、ロナードはゆっくりと目を開けると……。
「気が付きましたか?」
目の前でそう声を掛けて来た相手の顔を見た瞬間、ロナードは驚き、目を丸くした。
ロナードの目の前に居たのは以前、彼に自分にを貸す様に声を掛けて来た、ツバル王国り王族の生き残りである、カナデと言う青年だった。
彼は、誘いを断ったロナードの口から、自分の目論見がセネトに伝わる事を恐れ、その日の内に宮廷から姿を消し、以降、行方知れずになっていた。
「生きていたのか……」
ロナードは、思いがけぬ相手と、予想外の状況で再会した事に戸惑いつつ、そう呟いた。
「お蔭様で。 あの後、色々と大変でしたが、私の計画を手助けしてくれる人が現れましてね」
カナデは不敵な笑みを浮かべながら、ロナードに簡潔に事情を説明すると、自分の隣に座っていた人物へと目を向けた。
「それが、我が家の若様と言う訳です」
茶色の長い髪をポニーテールにした、緑色の双眸を有し、褐色の肌、何故か喪服に身を包んだ、若い女性……。
「貴方のお蔭で、私の主はセレンディーネ様に近付く事が出来なくなってしまいました」
彼女は苦笑いを浮かべながら、ロナードに言う。
彼女は、セネトに婚約式をボイコットされ、その腹癒せに夫人が鉱山の視察に訪れたセネトたちを坑道に閉じ込め、爆破に巻き込んで殺そうとした、サルヴェール伯爵家の帝都にいる子息に仕えている侍女だ。
「若様は貴方の様な寄生虫が、セレンディーネ様のお側に居る事を大変懸念されています。 セレンディーネ様の為に、貴方はこの国から消えて頂きます」
彼女は淡々とした口調で、ロナードに言った。
「こんな事をしたら、その若様も、その家族も帝国には居られなくなるぞ」
ロナードは彼女を睨み付けながら、ドスの利いた低い声で言った。
「その前に、貴方が居なくなる方が先です」
彼女は、不敵な笑みを浮かべたまま、言い返す。
「貴方はこのまま、私達と一緒に帝国本土から出て貰う」
カエデは落ち着いた口調で、ロナードにそう告げる。
「ツバルへか?」
ロナードは表情を険しくしたまま、カナデに言うと、
「それは、どうでしょうか……」
カナデの代わりに、女性が不敵な笑みを浮かべながら答えた。
「貴方は、建国祝賀祭で力を使うべきでは無かった。 やがて多くの人達が、貴方の力を知る事になる。 そうなる前に、貴方を保護する必要があると思い、行動を起こしました。 どうか悪く思わないで下さい」
カナデは、落ち着き払った口調でロナードに言うと、
「……俺は、アンタに協力すると言った覚えはない」
彼は、カナデを恨めしそうに睨み付けつつ、ドスの利いた声で言った。
「それは追々、了承を取り付ける事にします」
カナデはそう言うと、ニッコリと笑みを浮かべる。
(コイツ、完全にどうかしてしまっている)
ロナードは、ニッコリと笑みを浮かべるカナデの双眸に、微かにドス黒い何かがあるのを見て、心の中で呟いた。
「建国祝賀祭の一件に限らず、貴方は今後もセレンディーネ皇女や皇族に良い様に利用される事を分かっていて、彼女の下に居続けるつもりなのですか?」
カナデは、窓から見える外の景色に目を向けつつ、落ち着いた口調でロナードに問い掛ける。
「……」
ロナードは、カナデ睨んだまま、無言で居る。
「貴方がセレンディーネ皇女に対し、どの様な感情を持って居ようとも、貴方を保護出来た今となっては、どうでも良い事です。 兎に角、逃げようなどとは思わないで下さいね。 先程の様に痛い思いをするのは嫌でしょう?」
カナデは、自分の問い掛けには一切答える気の無さそうなロナードを見て、軽く溜息を付くと、徐に自分の足元に転がっていた足枷を手に取ると身を屈め、その片方をロナードの脚に付け、もう片方を彼の隣に座っていた柄の悪い男の脚に付けた。
「へ?」
いきなり、何の説明も無く足枷を付けられ、柄の悪い男は驚き、間抜けな声を上げ、サルヴェール伯爵家の侍女も驚いた顔をして見ている。
「こうしたら、走って逃げられないでしょう?」
カナデはニッコリと笑みを浮かべ、戸惑った顔をして自分を見ている二人に言った。
(はあぁぁぁ~? 何でおれにまで足枷を?)
それを聞いて、柄の悪い男は顔を引き攣らせ、心の中で絶叫する。
幾ら逃げられては困るからと言って、これは無いと、柄の悪い男は思った。
「幾ら貴方でも、こんな大きな人のを引き摺っては、逃げられないですよね?」
カナデはニッコリと笑みを浮かべ、ロナードに向かって言った。
(コイツ……)
ロナードは、忌々し気にカナデを睨みつつ、心の中で呟く。
「いやいやいや……。 これじゃあ、小便に行くのも、コイツを連れて行かなきゃなんないって事じゃねぇかよ!」
柄の悪い男が、すっかり困り果てた様子で、カナデにそう抗議する。
「屋敷に着くまでの保険だ。 屋敷に着けば外す」
カナデは、柄の悪い男の反応など意に返さず、淡々とした口調で言い返した。
「へいへい。 分かりやしたよ」
カナデが、足枷を外す気が無いと悟ると、柄の悪い男は諦めた様にガックリと肩を落とし、そう言ってから、
(ったく。 迷惑な話だぜ)
チラリと自分の脚にしてある足枷を恨めしそうに見つめながら、心の中で呟いた。
その時、ドンと彼等が乗っている馬車の上に、何か大きな物が落ちた様な音がした。
「なに?」
サルヴェール伯爵家の侍女が戸惑いの表情を浮かべ、思わず屋根を見上げると、頭の上から何か叫んでいるのが聞こえた。
馬車の上に誰かが乗っている!。
カナデ等がそう認識するとほぼ同時に、ロナードがとっさに身を守る様な姿勢を取った次の瞬間、一体何がどうなったのか、強い衝撃と共に彼等が乗っていた横転した。
「くっ……何が起きて……」
カナデは忌々しそうにそう言いながら、軽く頭を振り、辺りを見回した時、ふと紫色の目と視線がぶつかった。
その相手は、馬車が横転した弾みで頭を強くぶつけたのか、気絶している柄の悪い男を踏み付ける様にして、手枷をされている格好で、カナデが気絶している間に奪った鍵を使い、足枷を外そうとしていた。
「お前っ!」
カナデがそう叫び、とっさに枷を外すのを阻止しようと、彼の左を掴み思い切り壁に押し付けた。
「ぐっ……」
ロナードはドカッと思い切り壁に肩をぶつける格好になり、その弾みで彼の手から鍵が零れ落ちたが、既に足枷が外れていた。
「くそっ!」
その事に気付いたカナデが舌打ちする傍らで、気絶している柄の悪い男を足蹴にして、割れた窓からロナードが逃げ出そうとしている。
「行かせるか!」
カナデは叫ぶと、割れた窓から身を乗り出していたロナードの脚を掴み、思い切り馬車の中へ引き摺り戻した。
「でっ!」
引き摺り戻されたロナードとぶつかり、気絶していた柄の悪い男が徐に声を上げ、意識を取り戻した。
「取り押さえろ!」
それ見て、カナデが叫ぶ。
柄の悪い男は一瞬だけ戸惑ったが、自分の上に誰かが覆い被さっている事に気付くと、思い切り相手の腰辺りを掴み、その体を壁に押し付けた。
ガン! と言う、痛そうな音が馬車の中に響き渡る。
「な、なに? 何が起きたの?」
カナデの背後で気を失っていたサルヴェール伯爵家の侍女がそう言いながら、ゆっくりと身を起こす。
「大丈夫ですか?」
カナデは彼女の方へと振り返り、そう声を掛ける。
横転した際に飛び散った窓ガラスで切ったのか、彼女は手や腕に切り傷があったものの、顔などには怪我が無く、ドレスの上には砕け散った細かいガラス片が無数に落ちていた。
「何とか……」
彼女はそう言いながら、カナデに返事をしてから、ハッとした表情を浮かべ、
「カナデ様! 怪我を!」
カナデの肩に、大きなガラス片が突き刺さっている事に気付いた彼女は、顔を青くして叫ぶ。
「大丈夫です。 この位」
カナデは落ち着いた口調でそう言っていると、ドンと大きな衝撃とともに、大きく馬車が揺れ、馬車は元の体制に戻った。
「さっきから何なの……」
カナデの上に覆いかぶさる様な格好になりながら、サルヴェール伯爵家の侍女は苛立った口調で呟く。
「あの……重いです」
下敷きになっているカナデはそう言うと、
「貴方ね! 女性に対してそれは無いでしょう!」
彼女はムッとした表情を浮かべ、カナデにそう言い返しつつも、彼の上から退く。
(そう言えば、ロナードはどうなった?)
カナデはそう思い、とっさに横へ目を向けると、
「はっ……はっ……」
短く呼吸を繰り返す声と共に、ロナードが柄の悪い男の上に馬乗りになる様な格好でいた。
そして、柄の悪い男は壁に体を凭れ掛ける様な格好でグッタリとしており、動かなくなっており、座席の下に血が滴り落ちていた。
「ひっ……」
それを見たサルヴェール伯爵家の侍女が顔を引き攣らせ、思わず悲鳴を上げる。
ロナードは、さっきの間に柄の悪い男と揉み合いになった挙句、柄の悪い男から短剣を奪い取る事に成功すると、それを相手の胸に思い切り突き刺し、柄の悪い男は悶えた後に、絶命したようだ。
ロナードは返り血を浴びたのか、髪や顔に血がこびり付いており、血塗れの手には、男の胸を突き刺したと思われる血がベッタリと付いた短剣が握りしめられていた。
「は……あっ……ああ……」
血塗れになり、殺気立っているロナードを前にして、サルヴェール伯爵家の侍女は彼を凝視したまま恐怖で腰をぬかし、身を震わせている。
「お、お前っ……」
カナデは、彼女を背で庇いつつ、背中に隠し持っていた短剣を握り締め、声を震わせながらも身構えると、彼を見据えるロナードの、抜身の刃物の様な鋭く、冷たい双眸とぶつかった。
互いに短剣を手に身構えている両者の間に、張り詰めた糸の様なピリピリとした、空気が漂っていると、外からバコッと物凄い音共に、馬車の扉が外れる音共に、扉が明後日の方向へ勢い良く投げ飛ばされた。
それには、カナデは勿論、ロナードも驚いた顔をして、馬車の中を覗き込んで来た相手の顔を見る。
扉を開いた人物は、アルスワット公爵に仕えている、獅子族と人間との混血児であるナルルであった。
「ロナード。 大丈夫?」
彼女はロナードの姿を確認するなり、呑気な口調で問い掛ける。
「何とか……」
ロナードは苦笑い混じりに答えると、
「あわわわ……。 血塗れだゾ。 どうしよう。 ロナードがこんなに弱々だとは思わなかったゾ」
ロナードが血塗れなのを見て、ナルルは忽ち顔を青くして、アタフタしながら呟いた。
「安心しろ。 全て返り血だ」
ロナードが落ち着いた口調で言うと、
「だよね? ボクが思いっきり殴っても、生きてだったんだから、この位でどうにかなる訳ないんだゾ」
ナルルは、ホッとした表情を浮かべながら言うと、
「お前な……」
ロナードは、呆れた表情を浮かべながら呟く。
「ま、まだだ!」
カナデはそう叫ぶと、向かいに居たロナードに体当たりをする様な形で突っ込む。
「があっ!」
思いがけぬカナデの行動に一瞬、受け身を取るのを遅れたロナードは、ゴンと思い切り壁に背中を打ち付け、その瞬間、手から持っていた短剣が滑り落ちた。
それを見て、サルヴェール伯爵家の侍女が素早く床に落ちた短剣を拾い上げる。
「離れろ! さもないと彼の首を掻き切り、血の海にするぞ!」
カナデは、ロナードを背後から羽交い絞めにする様な形で、持っていた短剣を彼の首元に突き付けながらナルルに向かって叫ぶ。
「あわわわ……。 それは困るゾ」
ナルルは、慌てて両手を挙げ、アタフタしながら言う。
「来い!」
カナデは、ロナードの首元に短剣を突き付けたまま言うと、背後にあったもう一つの扉からゆっくりと馬車の外に出た。
馬車の外は、セネトの部下の兵士たちと、寺院の兵士たちにすっかり囲まれていた。
(くそっ……揃いに揃って……役に立たない連中だ)
カナデは、取り押さえられている、彼等が金で雇った男たちを見ながら、忌々しいそうな表情を浮かべ、心の中で呟く。
「もたもたするな!」
カナデは、ロナードの首元に短剣を突き付けたまま、苛立った口調で彼に向かって叫ぶが、ロナードはカクンと力が抜け、その場に崩れ込みそうになる。
「ちょっと!」
それを見たサルヴェール伯爵家の侍女が焦りの表情を浮かべ、ロナードの方へ振り返り叫んだ瞬間、彼女は顔を引き攣らせる。
良く見れば、ロナードの右肩には、カナデが今手にしている短剣と良く似た形の別の短剣が深々と突き刺さっており、そこからかなりの量の血が滴っているではないか!。
しかも、どう言う訳か、顔からもすっかり血の気が失せて、足元が覚束無いくらいにフラフラだ。
「お、おい?」
流石のカナデも、ロナードが辛そうに呼吸を繰り返しているのを見て、戸惑いの表情を浮かべ、声を掛けるが、彼はそのまま力なく、ズルっとその場に崩れ込む。
「おい! 立て! 刺されたいのか!」
カナデは、ロナードの腕を掴んだまま、戸惑いの表情を浮かべ、崩れ込んだまま動けなくなっている彼に向かって叫ぶ。
「諦めて放して下さい。 ロナード様は今、重度の魔力欠乏症で静養中の身です。 この様に長い時間、連れ回して耐えられる様なお体ではありません」
そこへ駆け付けたギベオンが表情を険しくして、重々しい口調でカナデに言った。
「なっ……」
カナデは戸惑いの表情を浮かべて居ると、
「カナデ様っ!」
とっさに何かに気付いた様子で、側に居たサルヴェール伯爵家の侍女が声を上げた瞬間、カナデは一瞬にして地面とキスをする羽目になった。
何が起きたか理解出来ないカナデの背の上に、ナルルが馬乗りになり、彼の腕を後ろに手にして思い切り捩じり上げると、バキバキと骨が折れる音がして、カナデは苦痛に満ちた表情を浮かべ、悲鳴を上げながら、持っていた短剣を落とした。
それを見たロナードはそれを素早く拾い上げ、思い切り何処かへ投げ捨てた。
「ロナード様!」
カナデがロナードの側から離れたのを見て、ギベオンが血相を変え、地面に膝を付けるような形で身を屈めると、倒れたまま動けないロナードの体を抱き起す。
「コイツの首、折る?」
カナデの背中の上に馬乗りになり、彼の腕を片手で握りしめ、もう片方の腕を彼の首に回しながら、ナルルはサラッとした口調でギベオンに問い掛ける。
「それは止めて下さい」
ギベオンは、物凄く真剣な顔をして返す。
「カナデ様!」
サルヴェール伯爵家の侍女が、カナデを助けようと動こうとしたが、直ぐに駆け付けた兵士によって、彼女もまた地面に俯せになる格好で兵士に取り押さえられた。
直ぐに別の兵士たちが駆け付け、ナルルが取り押さえたカナデを素早く拘束する。
「救助が遅くなり、申し訳ありません」
ギベオンはそう言いながら、兵士が持って来たタオルを受け取ると、ロナードの髪や顔などに付いた返り血を優しく拭うが、時間が経ってきた所為で、こびり付いて落ちない……。
「大丈夫か?」
ギベオンたちに協力していたカルセドニ皇子が馬から降り、ロナードの下へと駆け寄ると、心配そうな顔をして声を掛ける。
「カルセドニ皇子……」
ロナードは、彼の姿を確認するなり、立ち上がろうとするが、急に足元がふら付いて倒れ込みそうになる。
「無理をするな」
カルセドニ皇子は、倒れ込みそうになったロナードを素早く抱き止めると、優しい口調で声を掛けるる。
「済みません……」
ロナードはそう言うと、カルセドニ皇子の手を借りながら、ゆっくりと地面の上に腰を下ろした。
「無理をさせ過ぎました。 急ぎ宮廷に戻りましょう。 殿下かお待ちです」
ギベオンは、ロナードの体を支えながら、優しい口調で声を掛けると、かなり疲弊している様子の
ロナードは頷き返した。
「ロナードっ!」
ロナードが無事に救出されたと言う知らせを受け、セネトは堪らずそう叫びながら、ギベオンの手を借り、馬車から降りて来たロナードを見るなり駆け寄って来て、彼が血塗れである事など気にも留めず、思い切り彼に抱き付いた。
「ちょっ……セネト……」
いきなりセネトに抱き付かれ、ロナードは驚きと戸惑いの表情を浮かべつつ、二、三歩後ろによろめき、尻餅を付く様な格好で抱き付いて来た彼女を抱き止める。
「って、何だ。 これ! ドロドロじゃないか!」
セネトは、一頻りロナードの感触を確かめた後、ふと、自分の頬に何かベッタリとくっ付いている事に気付き、慌てて身を離し、改めてロナードを見て、そう言った。
五体満足ではあったが、彼の服や頬などには返り血が付着し、自身も怪我をしているのか、兎に角、酷い有様だった。
「そう言おうとしたのに……」
ロナードは、セネトの反応を見て、苦笑い混じりにそう言った。
「肩を怪我しいているじゃないか!」
セネトは、ロナードを見上げ、彼の肩に包帯が巻かれ、血が滲んでいるのを見て、表情を険しくして叫ぶ。
「この位、大した事ない」
ロナードは苦笑いを浮かべ、自分の事を心配しているセネトに、穏やかな口調で答えた。
「無事で良かったわ」
その様子を少し離れた場所から見ていたルチルも、そう言いながら、ロナードの側に歩み寄る。
「手を煩わせて、済まなかったな」
ロナードは、申し訳なさそうにルチルに言った。
「何にしても、犯人たちを一網打尽にしたのだから上出来よ」
ルチルは、ロナードが乗って来た馬車とは別に、今回の一件に加担した男たちが、ロープで拘束され、ギュウギュウ詰めに乗せられている荷馬車を見ながら言った。
カナデ達を含めて、ざっと十数人はいるだろうか……。
「何を言っているんだルチル! 一歩間違えればロナードは殺されていたんだぞ!」
セネトは表情を険しくし、強い口調でルチルに言い返す。
「そんなヘマはしない」
ロナードは、淡々とした口調で言い返すと、
「馬鹿っ!」
セネトは声を荒らげ、ロナードを思い切り叱り付けると、戸惑っている彼の両腕を掴んだ。
「セネト……」
セネトに一喝され、ロナードは酷く驚いた様な顔をして、彼女を見ている。
「僕がどれだけ、心配したと思っているんだ!」
セネトは、ロナードの両腕を掴んだまま、叱り付ける様な口調で彼に言う。
ロナードは、セネトの予想外の反応に、ただ驚いている様子で、ジッと彼を見据えたまま、黙って佇んでいる。
「もう二度と、こんな風に自分の身を危険に晒す様な真似はするなと、何度言えば! ホントに、ホントに……生きた心地がしなかったんだからな!」
セネトは、薄ら両目に涙を浮かべながら、強い口調でロナードに言った。
傍から見ても、セネトがロナードの事を、相当心配していたのは伝わって来た。
「……済まなかった……」
ロナードは、沈痛な表情を浮かべ、セネトにそう言って謝る。
それでも、セネトの腹の虫はおさまらない様で、ムッとした顔をして、更に何か言おうとしていたので……。
「殿下。 お説教よりも、まずは湯浴みと着替えさせる方が先です。 こんな血塗れなままで居るのは、ロナード様も不快でしょうから」
見かねたギベオンが、落ち着いた口調でセネトにそう言った。
浮浪者ではないかと思う位、酷い格好のロナードの側に、皇女であるセネトが居ると言うだけで、事情を知らず、ただこの一場面を見た者たちから、どんな噂を立てられるか分かったものではない。
「そ、そうだな。 僕も着替えて来るから、お前も湯浴みをして身なりを整えろ」
セネトはふと我に返り、自分がかなり感情的になって居る事に気付くと、気恥ずかしさから、軽く咳払いをしてから、ロナードにそう言った。
「分かった」
ロナードは、淡々とした口調で返事をする。
「此方です」
侍女がそう言うと、ロナードを宮の中へと案内する。
「まさか……カルセドニ殿下が加勢してくれたとはね」
ルチルは、着替えをする為に一旦部屋に戻ったセネトに付き添い、彼女が部屋で着替えを済ませるのを待っている間、廊下で複雑な面持ちで呟く。
「自分が火災現場に駆け付けた時は既に、殿下がいらしたが、ロナード様は連れ出された後だった」
ギベオンは、その時の光景を思い出しながら、苦笑混じりにルチルに語る。
「火は、殿下が付けたんじゃないの?」
ルチルは、複雑な表情を浮かべながら、ギベオンに問い掛ける。
「いや。 殿下の言い分では、我々を攪乱する為に賊が火を放ったらしい」
ギベオンは複雑な表情を浮かべ、ルチルに答えた。
「それにしてもロナード。 自分が誘拐されて殺されそうになってたって言うのに、まるで他人事みたいに、動じて無かったたわね……。 もう少しこう、違う反応をしても良さそうなのに」
ルチルは、戻って来たロナードの様子を思い出し、軽く溜息を付いてから、苦笑混じりに言った。
ルチルの言う通り、普通はもう少し動揺したり、安堵していたり……何らかの反応があっても良そうな感じだが、無事に保護された後、疲労からか、馬車の中では眠っていたが、起きている間は終始落ち着いていた。
「彼にとっては、殿下に要らぬ不安や責任を抱かせない為に、気丈に振る舞っていたのかも知れないぞ」
ギベオンは、ロナードの性格などを加味して、自分なりの見解を語る。
「成程ね……。 サルヴェール伯爵家の時と言い、今回と言い、セネトはロナードのそう言う、自分の事を顧みないのを見て、あんなに怒っていた訳ね」
ギベオンの話を聞いて、ルチルは妙に納得した様子で言った。
「確かに……。 しかし、あんな危なっかしい真似をされれば、殿下が怒るのは当然だろう」
ギベオンは、セネトの心中を察し、落ち着いた口調で語る。
「ロナードとセティとでは、その辺りで考え方の乖離がある様ね」
ルチルは、感情的になって居るセネトに対し、自分の事なのに物凄く淡々として居たロナードの姿を思い出しながら、そう指摘した。
自分が思っていた以上に、セネトが怒るので、ロナードは『何が、そんなにいけなかったのだろうか』と言う雰囲気であった。
「そうだな……。 傭兵なんて仕事をしていれば、こう言う事は日常茶飯事だったのかも知れないが……」
ギベオンは、複雑な表情を浮かべつつ、自分の見解を語る。
「なかなか難儀な子ね……」
ルチルは、ゲンナリとした表情を浮かべ、特大の溜息を付いた。
「悪い人では、無いのだが……」
ギベオンは、苦笑いを浮かべながら言った。
「それは、貴方に言われなくても、もう十分に分かっているわ。 只ちょっと、セティの婚約者としては、自分を蔑ろにし過ぎる節があるわ。 そこは改めて貰わなくてはね」
ルチルは肩を竦め、苦笑いを浮かべながら、ギベオンに言い返す。
「……ロナードは?」
セネトは、部屋の扉を閉めながら、部屋に入って来たギベオンに真剣な面持ちで問い掛ける。
「医者に診せた限りでは、肩の刺し傷が思いの外、深かったようですが、他に大きな怪我はありませんでした。 ですが、幾ら回復してきたとは言え、魔力欠乏症の体であの様に無理をしては……」
ギベオンは軽く溜息を付きながら、セネトにそう報告する。
「暫くの間、絶対に安静だ。 ベッドに縛り付けてでも部屋から出すな!」
セネトは、苛立った様な口調でギベオン達に言った。
「御意」
ギベオンは、落ち着き払った口調で答える。
「今後もロナードの身辺には気を付けろ。 まだ宮廷内に、今回の一件に手を貸した輩が潜んで居る可能性もあるからな」
セネトは真剣な表情を浮かべ、ギベオン達に言った。
「そうね。 用心するに越した事はないわ」
ルチルも真剣な表情を浮かべ、呟く。
ロナード自身、自分がまだ狙われる可能性がある事を理解している様で、ギベオンとアイクが念の為、彼に与えられている部屋では無く、別の部屋へこっそり移る様に促した際も、その理由を尋ねる事もなく、素直に彼の指示に従っていた。
ロナードの身辺には、ルチルが信用する部下達を数人付け、サリアの方からも彼女が信用している部下の術師達を数名派遣されており、皇女であるセネト以上の厳戒態勢だ。
「隷属の呪いの方はどうだった? 広がったりはしていなかったか?」
セネトは、真剣な面持ちでギベオンに問い掛ける。
「サリア様が見た限り、そう言った心配はなさそうです」
ギベオンが落ち着いた口調で言うと、それを聞いてセネトは安堵の表情を浮かべる。
「魔力欠乏症で一番に恐れた事は、アイリッシュ伯が掛けた隷属の呪いが、ロナードを完全に支配してしまう事だったけれど………。 今の所、影響は無さそうね」
ルチルも、ホッとした表情を浮かべながら言う。
「少しずつではありますが、サリア様がロナード様に掛けられている呪いを解呪していっているからでしょう。 自分が見た限り、全身に広がっていた銀色の蔦の様な模様も、随分と色が薄くなっていました」
ギベオンが、落ち着いた口調で語ると、
「このまま、綺麗サッパリ、消え失せてくれると良いんだが……」
セネトは、複雑な表情を浮かべながら呟く。
「呪いの根幹となる『核』を、ロナード様の体から取り出す為には、それに耐えられるだけの体力と魔力が必要です。 今のロナード様は魔力欠乏症で、呪いに対抗出来る魔力が体内に無い状態です。 今はこれ以上、呪いが広がらない様に抑え込むのが手一杯だと思います」
ギベオンは、落ち着き払った口調で言う。
「そうだな……。 なかなか思う様には進まないものだな……」
「おや。 皇女殿下自らお越しは、そんなに私達がした事がお気に召しませんでしたか?」
地下の取調室に身柄を拘束されて居るカナデは、ルチルを伴い、部屋に入って来たセネトを見るなり、嫌味たっぷりに、不敵な笑みを浮かべながら言った。
「黙れ」
セネトは怒りに満ちた表情を浮かべ、テーブルを挟んで向かいに座って居る、カナデを一喝した。
「随分とご立腹の様ですね」
カナデは、不敵な笑みを浮かべたまま、嫌味たっぷりにセネトに言う。
「貴様と雑談する気はない。 何故、この様な真似をした?」
セネトは自分で椅子を引き、椅子に座りながら、怒りに満ちた表情を浮かべたまま、ドスの利いた低い声でカナデに問い掛ける。
「それは、貴方も薄々は理解されているのではないのですか?」
彼はニッコリと笑みを浮かべながら、セネトの問い掛けに答えた。
「ロナードの力が目的か?」
セネトは、真剣な表情を浮かべ、ドスの利いた低い声で指摘する。
「そうですね。 私も彼に危害を加える気は無かったのですが……。 随分と抵抗されたので止む無く。 彼の怪我は大丈夫ですか?」
カナデは、苦笑いを浮かべながら問い掛ける。
「心配ないわ。 今頃は宮廷医が処方した薬を飲んで、グッスリ眠っているでしょうね」
両腕を自分の胸の前に組んでいるルチルが、淡々とした口調で返す。
「建国祝賀祭の一件と関わりは?」
セネトが徐に、淡々とした口調で、カナデに問い掛ける。
「ありませんよ」
カナデは、落ち着き払った口調で即答した。
「まあ、調べれば分かる事だわ」
ルチルは、額に青筋を浮かべつつも、不敵な笑みを浮かべながら言った。
「拷問などを受けている時の証言に、果たしてどの程度の信憑性があるのでしょうか。 その様な事をするだけ、時間の無駄だと思いますが」
カナデは落ち着いた口調で、セネトに言い返す。
「そうやって、僕達の事を侮っていたから、お前は失敗し、今、此処に居るんじゃないのか?」
セネトは意地の悪い笑みを浮かべ、カナデを挑発する様な口調で言うと、彼はカチンと来て、思わずセネトを睨み付ける。
「共犯の女とは、どう言う関係かしら? 彼女はサルヴェール伯爵家の侍女だった様だけれど?」
ルチルは集められた資料を見ながら、淡々とした口調でカナデに問い掛ける。
「彼女は只の協力者です。 今回の事を計画したのは私です。 彼女は何も知りませんよ」
カナデは真剣な表情を浮かべ、ルチルの問い掛けに答えた。
「計画したのはお前かも知れないが、最初に話を持ち掛けたのは、向こうじゃないのか?」
セネトは、淡々とした口調でそう指摘する。
「当ても無く、街の中を彷徨っていた私に、声を掛けて来たのは彼女の主です」
カナデは、落ち着いた口調で言うと、
「そして貴方にこう言ったのでしょう? 『皇族に復讐をしたくはないか?』って」
ルチルはニヤリと笑みを浮かべ、淡々とした口調で言うと、
「まあ、そんなところです……」
カナデは、これと言った表情を浮かべる事も無く、淡々とした口調で答えた。
「まあ、そうでしょうね。 そんな都合良く、声を掛けて来る奴なんて、下心があるに決まっているもの」
ルチルは不敵な笑みを浮かべ、そう指摘する。
「貴方たちも、彼等と似た様な口でしょう? 利用出来るかどうかで、相手を判断する様な人でしょうから」
カナデは、セネトを挑発する様な笑みを浮かべ、意地悪くそう言い返す。
「否定はしないわ」
ルチルは、淡々とした口調で言った。
「ロナード様は何故、貴方の様な人の側に居るのか理解に苦しみます。 貴方に散々利用された挙句、使えなくなれば捨てられてしまうのに……」
カナデは苦々しい表情を浮かべながら、そう呟くと、
「そんな事は、ロナードは最初から理解している。 僕等は互いの利害が一致しているからこそ共に居るだけだ。 お前や周りが思っている程、綺麗な関係じゃない」
セネトは、淡々とした口調で答えた。
「ならば、別に私でも良かっただろうに……」
カナデは、複雑な表情を浮かべながら呟く。
「お前では、彼に掛けられた呪詛を解く術も、人脈も無いだろう」
セネトは、淡々とした口調でそう指摘すると、
「成程……そう言う事ですか……。 呪い付きとは可哀想に……」
カナデは、複雑な表情を浮かべながら呟く。
(私を甘く見ていた様ね!)
ロナードの誘拐に加担し、カナデと共に捕えられ、地下牢に投獄されていたサルヴェール伯爵家の侍女が、彼女の協力者のお蔭で、牢屋から逃げ出していた。
彼女は、協力者の手引きで宮廷に侵入すると、素早く侍女に扮して、他の侍女や兵士たちの会話の内容などから、ロナードが居る部屋を突き止めた。
流石に、あの様な騒ぎがあったばかりなので、襲撃を警戒しているのか、部屋の前や中には護衛の為の兵士と魔術師が数人いたが、彼女は、部屋の入口に居た兵士を手早く術で眠らせると、持っていた強い眠気を催す効果を持つ魔道具を部屋の中に放り込むと、暫く経ってから、護衛の者たちが全員眠っている事を確認して、部屋の中に侵入した。
恐らく、ロナードは奥の続き間で既に就寝していると思われる。
気付かれぬ様に、静かに続き間の部屋への扉を開け、足音を忍ばせ、部屋の奥の中央に配置されている、天蓋付のベッドの上にゆっくりと近付く。
部屋の片隅にランプが灯されているだけの、薄暗い空間であったが、寝台の上に誰かが横たわって居るのは確認出来た。
彼女は素早く、背中に隠し持っていた短剣を手にすると、眠っている相手に気付かれぬ様に距離を縮めると、力強く床を蹴り、そのまま勢い良く、短剣を寝台の上で寝ている相手に突き刺した。
「なっ……」
人間を突き刺した時とは違う感触に、馬乗りになっていた彼女は焦りの表情を浮かべ、思わず声を上げる。
「残念だったな」
不意に背後から、若い男の声がしたので、彼女はハッとした表情を浮かべ、短剣を急いで引き抜くと、声がした方へと身を翻す。
声を掛けられるまで、気配すら感じられなかった事に、彼女は冷や汗を流す。
彼女が入って来た扉側の隅に、暗闇に溶け込む様に、その人物は静かに佇んでいた。
背格好もだが、その声色や雰囲気などからロナード当人では無い。
待ち構えられていた事を悟ると、彼女は苦々しい表情を浮かべ、寝台の上から音を立てずに床の上に降り立ち、素早く身構えた。
「やはり、他に仲間がいたのか」
相手は、落ち着いた口調で、身構えている彼女に向かって言った。
「だとしたら何!」
彼女は、キッと相手を睨み付けながら、強い口調で言い返す。
「大人しく降伏して、洗い浚い話した方が貴方の為だ」
相手は、淡々とした口調で彼女に言った。
「誰がっ!」
彼女はそう叫ぶと、持っていた短剣を握り締め、勢い良く床を蹴ると、相手の懐へ飛び込んだ。
「はあ……」
相手は焦る様子も無く、溜息を付くと、自分の懐に飛び込んで来た彼女の攻撃を軽々と避けて、目にも止まらぬ速さで、手刀で彼女が握りしめていた短剣を床の上に叩き落とし、
「これでも、随分と譲歩しているのだが?」
そう言いながら、彼女の鳩尾に思い切り拳を叩き込んだ。
「あぐっ……」
彼女は、鳩尾に強い衝撃と痛みを感じ、思わず声を上げる。
一瞬にして目の前が真っ白になり、意識が遠退きそうになる。
「ギベオン様! 大丈夫ですか?」
物音に気付いて様子を見に来た若い男が、血相を変えて駆け込んで来た。
「くそっ!」
彼女は苦々しい表情を浮かべ、とっさに相手を思い切り突き飛ばした。
思い掛けぬ彼女の行動に、相手は大きくよろめき、そのまま壁にゴンと肩を強くぶつけた。
(今よ!)
それを見た彼女はそう心の中で叫ぶと、とっさに床の上に落ちていた短剣を拾い上げ、無我夢中でそれを勢い良く相手に向かって振り下ろした。
手ごたえと共に、液体が飛び散り、彼女の頬に付着した。
ただ、そのまま彼女が持っている短剣は、どんなに動かしてもビクともしなくなった。
改めて見ると、相手は眼前に突き出された、彼女が突き出した短剣を素手で握り締める様な形で受け止めており、受け止めた時に切った掌から血を滴らせ、苦痛に顔を歪めていた。
「ギベオン様っ!」
駆け付けた若い男がそう叫ぶと、とっさに女性の肩をガッと掴み、乱暴に相手から引き離し、そのまま勢い良く、ダンッと彼女を床の上に捻じ伏せた。
「くっ……」
思い切り顔を床の上に押し付けられながら、彼女は忌々しそうに、目の前に居る相手を睨む。
彼女が取り押さえられたのを見て、相手は静かに握り締めていた短剣から手を離す。
床の上に転げ落ちた短剣には、血がベッタリと付着しており、傷を負った相手の掌からは、血が滴り落ちている。
短剣の刃先がドス黒く変色しているのを見て、
「早く止血と解毒を!」
彼女を押え付けたまま、若い男は、焦りの表情を浮かべながら、怪我をした彼にそう言った。
「この位、どうと言う事はない。それより裏が取れそうだ。 急いで黒幕の正体を突き止めるぞ」
ギベオンは、持っていた自分のハンカチで、怪我をした部分を抑えつつ、落ち着いた口調で言った。
かれこれ、一時間ほどが経過したが、カナデは不敵な笑みを浮かべたまま、セネト等の質問にのらりくらりと躱し続け、これと言った成果が得られないで居ると、外から扉を叩く音がした。
ルチルが短く返事をすると、扉の向こう側から、
「殿下。 ギベオン様が報告をしたい事があるそうです。 如何なさいますか?」
若い兵士の声がして、扉越しにそう言った来た。
「構わん。 入れろ」
セネトは椅子に座ったまま、落ち着いた口調で言うと、
「はっ」
扉の外に居る兵士は返事を返すと、ゆっくりと扉を開いた。
「取り調べ中に失礼します」
そう言って、ギベオンの代わりに入って来たアイクは、ロープで体を縛り付けられた、若い女を引き摺る様にしながら部屋に入って来た。
その女性は、茶色の長い髪をポニーテールにした、緑色の双眸を有し、褐色の肌、全身を黒装束に身を包んだ、如何にも怪気な格好をしていた。
「申し訳ございません。 カナデ様」
その女は、取り調べを受けていたカナデを見るなり、複雑な表情を浮かべながら言うと、彼に動揺の色が浮かぶ。
「アイク。 その女は?」
セネトは、椅子に座ったまま足を組み、徐にアイクに問い掛ける。
「主の寝込みを襲おうとした、不届き者です」
アイクは、女が逃げぬ様に腕をしっかり掴んだまま、淡々とした口調でセネトに報告すると、それを聞いた彼女は微かに眉を顰め、
「ロナードは、大丈夫なのか?」
そう問い掛けるセネトは、口調こそ落ち着いて居るが、表情は強張っていた。
「ご心配なく。 彼女が襲った相手はロナード様でなく、身代わりをしていた自分ですので」
少し遅れて、そう言いながら手当てを終えたギベオンが姿を現した。
「そうか……」
彼の言葉を聞いて、セネトは安堵の表情を浮かべそう言ってから、
「良くやった」
ギベオンに言った。
「いえ。 これで宮廷内に彼女の仲間が居る事は明らかになりました。 宮廷内に居る者たちを厳しく追及し、全てを白日の下に晒す事が、何よりも優先されるべき事です」
ギベオンは落ち着いた口調で、セネトに言った。
「勿論だ」
セネトは、真剣な面持ちで答える。
「私たちを拷問にかけるだけ無駄よ!」
アイクが捕えている女性は、セネトたちを思い切り彼女を睨み、強い口調で言った。
「ほう? それは楽しみだ。 僕の婚約者に随分と手酷い事をしてくれたな? それ相応の報いをくれてやるから覚悟して居ろ」
彼女に睨まれていたセネトは、彼女を思い切り睨み返し、ドスの利いた低い声で言ってから、
「ギベオン。 ご苦労だった。 後はルチルと僕たちに任せて、お前は休んでくれ」
セネトは、落ち着いた口調でギベオンに言ってから、
「アイク。 お前は引き続き、ルチルの部下たちと共にロナードの護衛に当たれ」
アイクにそう命じた。
「御意」
彼は、恭しくセネトに頭を垂れた。




