剣の刃
主な登場人物
ロナード(ユリアス)…召喚術と言う稀有な術を扱えるが故に、その力を我が物にしようと企んだ、嘗ての師匠に『隷属』の呪いを掛けられている。 その呪いを解く為、エレンツ帝国を目指している。 漆黒の髪に紫色の双眸が特徴的な美青年。 十七歳。
セネト(セレンディーネ)…エレンツ帝国の皇女。 とある事情から逃れる為、シリウスたちと行動を共にしている。 補助魔術を得意とする魔術師。 フワリとした癖のある黒髪に琥珀色の大きな瞳が特徴的な女性。 十九歳。
シリウス(レオフィリウス)…ロナードの生き別れていた兄。 自身は大剣を自在に操る剣士だが、『封魔眼』と言う、見た相手の魔術の使用を封じる、特殊な瞳を持っている。 長めの金髪に紫色の双眸を持つ美丈夫。 二二歳。
ハニエル…傭兵業をしているシリウスの相棒で鷺族と呼ばれている両翼人。 治癒魔術と薬草学を得意としている。 白銀の長髪と紫色の双眸を有している。 物凄い美青年なのだが、笑顔を浮かべながらサラリと毒を吐く。
ルチル…帝国の第三騎士団の隊長を務めている女性。 セネトと幼馴染。 今はティティスの護衛の任に就いている。 二十歳。
ギベオン…セネト専属の護衛騎士。 温和で生真面目な性格の青年。 二十五歳。
ルフト…宮廷魔術師長サリアを母に持ち、魔術師の一家に生まれた青年。 ロナードたちとの従兄弟に当たる。 二十歳。
エルフリーデ…宮廷魔術師をしている伯爵令嬢で、ルフトの婚約者。 ルフトの母であるサリアの事をとても慕っている
カルセドニ…エレンツ帝国の第一皇子でセネトの同腹の兄。 寺院の聖騎士をしている。 奴隷だったシリウスとハニエルを助け、自由の身にした人物。
ティアマト大老子…ガイア神教の最高指導者
「うっ……」
小一時間ほど経つと、それまで眠っていたロナードが、傷が痛むのか、呻き声を上げながら、ゆっくりと目を覚ました。
「気が付きましたか?」
ギベオンは直ぐに、ロナードの下に駆け寄ると、彼の側に身を屈め、覗き込む様にしながら声を掛ける。
「ギベオン?」
ロナードは、自分を心配そうな顔をして見ているギベオンに戸惑いつつ、そう呟いたが、直ぐに脳裏に、セネトが何者かに連れ去らわれる光景が蘇り、
「セネト!」
そう叫ぶと、勢い良く体を起こしたが次の瞬間、激痛に見舞われる。
「っつ……」
ロナードは思わず、怪我をした肩に手を添え、前のめりになって、苦痛に顔を歪めながら思わず声を上げる。
「無理をしないで下さい。 傷が開きます」
その様子を見て、側に居たギベオンは慌ててロナードの背中に腕を回すと、痛みに苦悶している彼に優しく声を掛けると、彼をベッドの上にゆっくりと横にする。
「体の毒はほぼ除去しておる。 気分はどうじゃ?」
中年の司祭に体を支えられ、杖を突きながら、ゆっくりとした足取りで横になっているロナードの側へ来ると、ティアマト大老子は心配そうに声を掛ける。
「大老子……さま……」
ロナードはそう言って、体を起こそうとするが、ティアマト大老子は片手でそれを制すると、
「構わぬ。 横になっていなさい」
落ち着いた口調でそういうと、
「済みません……」
ロナードは申し訳なさそうに返した。
「殿下は、我々と寺院の者とで全力で探しています」
ギベオンは、真剣な表情を浮かべ、ロナードに言うと、
「済まない……。 俺が賊を止められていれば……」
彼は、沈痛な表情を浮かべ、ギベオン等にそう言って謝った。
「いえ。 あの場に居合わせなかった我々が、貴方にとやかく言う資格などありません。 やはり、自分かルチルがお二人の側に残るべきでした。 兎に角、貴方が無事で何よりです」
ギベオンは、真剣な表情を浮かべ、落ち着いた口調でそう言う。
「……」
ロナードは、沈痛な表情を浮かべ押し黙る。
「向こうも直ぐにセティと貴方を間違えた事には気が付く筈よ。 そして、セティと貴方の身柄の交換を申し出て来る可能性が高いわ。 そんなに心配しなくても、流石に自国の皇女を害する様な事はしない筈よ」
ルチルは、落ち着いた口調で自分の見解を語ると、
「……」
ロナードは、とても不安に満ちた表情を浮かべる。
「後の事は我々に任せて、ロナード様は休まれて下さい」
ギベオンは、落ち着いた口調でロナードに言うが、
「……俺も行く」
ロナードは、真剣な表情を浮かべ、ギベオンを真っ直ぐ見上げながら言うと、
「了承しかねます」
ギベオンは間髪置かず、真剣な表情でそう言い切った。
「俺が居ないと判れば、セネトもお前達にも危険が及ぶ!」
ロナードは表情を険しくし、強い口調でギベオンに言い返すと、
「心配しないで。 その辺りは何とでも誤魔化せるわ」
ルチルが、不敵な笑みを浮かべながら、落ち着いた口調でロナードに言った。
「……」
ロナードは、やるせない様な、とても複雑な表情を浮かべる。
「気持ちは分かるけど、貴方が自分の為に無理をする方が、セティは悲しむと思うわよ」
ルチルは、複雑な顔をしているロナードに、優しい口調で声を掛けと、身を屈め、彼の手を握る。
「ルチル……」
ロナードは、不安そうな顔をしながら、ルチルを見る。
「そんな顔をしないで。 セティは必ず、私たちが無事に助け出すから」
ロナードが、セネトの事が心配で堪らないと言った顔をして居るのを見て、ルチルは優しい口調で言うと、
「済まない……頼む」
ロナードは、無念そうな表情を浮かべながらも、ギュッとルチルの手を握り締め、そう言った。
「任せ下さい」
ギベオンが、落ち着いた口調でロナードに言うと、ルチルの手を握り締めているロナードの手の上に、自分の手を重ねた。
「大老子様。 ロナードの事はお願いします」
身を屈めていたルチルは徐に立ち上がると、ベッドを挟んで向かいに立っていたティアマト大老子に、真剣な面持ちで言うと、
「うむ」
ティアマト大老子は、真剣な表情を浮かべ、頷き返すと、
「どちらにせよ、毒が抜けたばかりの体では思う様に動けぬ。 この者たちの言う通り、大人しく体を休める事じゃ」
優しい口調で、ロナードに声を掛ける。
「はい……」
ロナードは、複雑な表情を浮かべながらも、そう言って頷き返した。
「今回の事は本当に済まなかった。 妾の目が行き届かなかったばかりに、其方だけでなく、多くの者に迷惑を掛けた」
ティアマト大老子は、中年の司祭が持って来た椅子に腰を下ろしつつ、申し訳なさそうにロナードに言うと、
「……大老子様が、指示をした訳では無いのでしょう?」
ロナードは横になったまま、顔だけティアマト大老子に向けると、徐に問い掛ける。
「当然じゃ! 誘拐など! 人としての道理と言うものがあろう」
ティアマト大老子は、真剣な表情を浮かべ、強い口調でそう言い切った。
「その言葉を聞けて、安心しました」
ロナードは、真剣な面持ちで答えたティアマト大老子を見て、何処かホッとした表情を浮かべながら言った。
「本当は、其方とはゆっくり話をしたかったのじゃが……。 この様な事になってしまったからには、そうもいかぬ。 宮廷からの迎えの者が来次第、其方は戻りなさい」
ティアマト大老子は、そっとロナードの手を握りながら、優しい口調で彼に言った。
「はい……」
ロナードは、穏やかな顔をして言うと、頷き返した。
「ルチル殿。 妾の配下の者には、連れ浚われた皇女の捜索に、全面的に協力する様に伝えておる。その者と協力し、一刻も早く皇女を救出しておくれ」
ティアマト大老子は、ルチルに向かって真剣な表情を浮かべ言うと、
「承知しております」
ルチルは、落ち着いた口調で答える。
「頼むぞ」
ティアマト大老子は、真剣な表情を浮かべたまま、ルチルに言うと、
「はい」
ルチルは、真剣な表情を浮かべながら頷き返した。
円形闘技場から、自分の手の者に命じ、ロナード(?)を連れ去る事に成功したネフール老子は、周囲に気付かれぬ様に会場を後にすると、街の外れのオアシスにある、自分が経営する農場の屋敷に潜伏していた。
(むふふふ。 上手くいった)
ネフール老子は、ソファーで寛ぎ、ワインが入ったグラスを片手に、ニヤニヤと笑いながら、心の中で呟いた。
今頃、ロナードが居なくなった事に気付いた宮廷魔術師たちが、血相を変えて会場とその周辺を必死に探しているに違いない。
先程は、寺院の若手を完膚なきまでに叩きのめされ、赤っ恥をかかされたので、いい気味だとネフール老子は思っていた。
「さて、そろそろ、じっくりとその顔を拝ませて貰おうか」
ネフール老子は、そう呟き、ゆっくりとソファーから立ち上がった。
この屋敷には地下があって、そこには牢屋と拷問室があり、加虐趣味のネフール老子は時折ここへ来ては、その地下で騙して連れ込んだ旅行者や、奴隷市場から安値で買って来た奴隷たち、捕えられた寺院に反抗的な者などに様々な拷問をして、自分の欲望を満たしていた。
その者たちが息絶えると、豚などに遺体を喰わせ、残った骨は粉砕し、農地にばら撒くので証拠は何一つ残らない。
ネフール老子が、寺院の老子と言う聖職者の顔の裏で、この様な事をして居るなど、同僚たちや家族でさえ知らない。
知っているのは、古くから自分に仕えている、信用出来る使用人と兵士、寺院の所属する暗殺を専門としている連中だけである。
(遠目でハッキリ見る事は出来なかったが……)
ネフール老子は、数人の私兵を連れて、地下室へと通じる階段を下りながら、心の中でそう呟くと、不気味な笑みを浮かべた。
「貴様等! 僕をこの様な所に閉じ込めて、どうする気だ!」
案の定、意識を取り戻したロナード(?)の声が、地下の拷問室の方から響き渡った。
拷問室にある壁に設置された鎖に繋いでおく様に命じたので、目を覚まして、危険な香りがする薄暗い場所に自分がいる事が分かって、さぞ、動揺しているに違いない。
「随分と威勢が良いですな。 見知らぬ場所に連れて来られて、そんなに不安ですかな?」
私兵に入り口の扉を開けさせ、拷問室の中へ入ると、ネフール老子は不敵な笑みを浮かべながら、捕えられているロナード(?)に向かって言った。
「お前はっ……」
相手は自分を見るなり、戸惑いと憤りが混ざった声で呟いた。
薄暗いので、顔が良く分からないが、何となく背がさっきよりも縮んだ様な気がする……。
「なっ……」
カンテラを手に近付いてみると、どう見ても違う人物がそこに居たので、ネフール老子は目を丸くして、あまりの事に絶句した。
「如何なさいました?」
見張りの為にいた、寺院の暗殺者の一人が、戸惑いの表情を浮かべながら、ネフール老子に問い掛ける。
「どうなっておる? 何故、この方が?」
ネフール老子は、ワナワナな体を震わせながら呟く。
どう見ても、目的の相手ではではない!。
顔は良く見た訳では無いが、背がとても高かった事と、何より、深い紫色の双眸はてとも印象的だったので、忘れようが無い。
自分の目の前に今居るのは、全くの別人……それどころか、絶対に取り間違えてはならぬ相手であった。
「えっ?」
一緒に居た、焦げ茶色の短髪に緑色の双眸、褐色の肌、黒装束に身を包み、口元を黒い布で隠している細身の青年は、戸惑いの表情を浮かべ、ネフール老子を見る。
「貴様等……しくじったな!」
ネフール老子は、怒りに肩を震わせ、忌々し気にそう呟くと、側に居た黒装束の青年をギロッと睨み付けた。
「いえ、そんな筈は……」
彼は、戸惑いの表情を浮かべながら、ネフール老子に言い返した。
「我々は老子様に言われた通りの人物を……」
他の者たちも、戸惑いの表情を浮かべながら、ネフール老子に言う。
「この者では無いわっ! 戯けがっ!」
ネフール老子は、セネトを指差しながら、黒装束の青年たちを思い切り怒鳴り付ける。
「っ……」
ネフール大老子に怒鳴られ、黒装束の青年は焦る。
「ですが……側に宮廷魔術師が着るローブが……」
他の者が、戸惑いの表情を浮かべながら、ネフール老子に説明するが、
「馬鹿者っ! 此方はセレンディーネ皇女殿下だ! 何て事をしてくれた!」
ネフール老子は益々憤り、声を荒らげ、彼等を怒鳴り散らした。
「なっ……」
それを聞いて、黒装束の青年はあまりの事に絶句する。
「成程」
セネトは、ポツリとそう呟いてから……。
「どうやら僕は、ロナードと間違われた様だな」
何処か馬鹿にした様な表情を浮かべ、ネフール老子等に言った。
「儂は、黒髪の背の高い、目鼻立ちの整った、異国人風の青年と言ったぞ! この何処が、背が高い、異国人風の青年だ?」
ネフール老子は、額に青筋を浮かべ、怒りにワナワナと肩を震わせながら、黒装束の青年たちに怒鳴る。
「……」
暗殺者たちは揃って、バツの悪そうな顔をして押し黙っている。
(まさか……)
黒装束の青年は、ふと自分たちを追い駆けて来て、彼の暗器の毒にやられた、黒髪の背の高い青年の事を思い出し、心の中で呟いた。
彼は、髪の色はこの国の者には珍しくも無い黒髪だったが、肌の色はごく薄い赤銅色で、紫色の双眸を有した、この大陸の者とは異なる顔立ちの、スラリとした長身の美丈夫だった。
「追い駆けて来ていた方……」
思わず顔を引き攣らせ、黒装束の青年はそう呟いた。
(や、ヤバイ! ヤバ過ぎる!)
思い返してみれば、ネフール老子が言っていた特徴が全て当て嵌まる事に気付き、彼は心の中でそう呟くと、顔を青くする。
「ど、どうするんだ?」
「もし、老子さまの言った通りの人物だとしたら……」
「お前が毒で、動けなくした奴じゃないのか?」
ネフール老子の言葉を聞いて、一緒にセネトを誘拐した暗殺者たちは、戸惑いの表情を浮かべ、口々にそう言った。
「何だと?」
それを聞いて、セネトは酷く動揺し、表情を引き攣らせた。
「申し訳ございません! 事態を周囲に知らせる為に態と騒ぎ立てる上に、一人殺れてしまったので、止むを得ず、剣を交えていた最中に、その者に痺れ薬を塗った暗器を……」
黒装束の青年は青ざめた顔で、ネフール老子にそう説明をすると、
「何てことだ……」
ネフール老子は、この世の終わりの様な顔をして、両手で頭を抱え、そう言った。
「命に別状は無いでしょうが、暫くは動く事もままならないかと……。 それに深手を負わせてしまいました……」
黒装束の青年は、酷く動揺しながらも、そう付け加えた。
「貴様っ! 殿下と間違えただけでなく、連れて来るべき相手に怪我まで!」
ネフール老子は激怒し、持っていた杖で彼の顔を思い切り殴ると、怒鳴る。
「申し訳ございませんっ!」
黒装束の青年は、慌ててネフール老子の前で土下座をすると、深々と頭を下げながら、そう謝罪をする。
「はははは! これは傑作だ! ロナードは派手に大立ち回りをした様だな」
セネトは、豪快に笑い声をあげながら、ネフール老子たちに向かって言った。
「くっ……」
ネフール老子は、苦々しい表情を浮かべる。
「どちらにしても、ロナードがそう簡単に捕まる訳が無い。 激しく抵抗され、下手をすれば全員、殺されていたかもな?」
セネトは、挑発する様に不敵な笑みを浮かべながら、ネフール老子等に言う。
「ぐっ……」
ネフール老子は、益々苦々しい表情を浮かべる。
相手が皇女なので、感情的になって怒鳴り散らす訳にもいかず、我慢して居るのだろう。
「悪い事は言わん。 今直ぐに僕を解放しろ。 この様な暴挙、本来ならば、許される筈が無いのだからな」
セネトは、勝ち誇った様な笑みを浮かべながら、ネフール老子等に言った。
(くそっ……何てことだ! これでは他の老子たちの良い笑い者だ!)
ネフール老子は、苦虫を噛み潰した様な表情を浮かべ、心の中で呟く。
「オレ等が間違ったばかりに、酷い目に遭わせてしまって、済みませんでした」
ネフール老子に、セネトの監視を命じられた黒装束の青年は、申し訳なさそうにセネトに言った。
「……」
セネトは、ムッとした表情を浮かべ、彼を見ている。
「貴方たちは、老子の考えを読んでいたのですか?」
黒装束の青年は、水の入った木のコップをセネトに差し出しながら、複雑な表情を浮かべながら問い掛ける。
「まさか」
セネトは、差し出された木のコップを受け取り、肩を竦め、苦笑いを浮かべながら答えた。
「じゃあ、貴方だけが部屋に居たのは、単なる偶然と言う事ですか?」
黒装束の青年は、戸惑いの表情を浮かべながら、セネトに問い掛ける。
「本当に偶然だ。 もしも、お前達の企みを知っていたのなら、あの場に居合わせたのは皇女である僕でも、ロナード当人でも無く、全く別の人間であった筈だ」
セネトは、落ち着き払った口調でそう指摘した。
(確かに。 皇女を危険に晒す馬鹿は居ない)
黒装束の青年は、心の中でそう呟いた。
「……何にしても、この様な事をされて僕の臣下たちは勿論、兄上や皇帝陛下が黙っている筈が無い。 無駄な足掻きをせず、僕をこのまま大人しく解放するべきだ」
セネトは、差し出された水を一頻り飲み干すと、落ち着いた口調で言った。
「オレたちだって、そう出来るのなら、そうしたいですよ。 でも、オレ達の言う事など、老子様が聞き届けてくれる訳が無いです。 ああ……どうしたら……。 マジで詰みだ!」
黒装束の青年は、困り果てた様子で、両手で頭を抱えながら言う。
「馬鹿な主を持つと、苦労するな。」
セネトは、気の毒そうな顔をして、黒装束の青年に言った。
年の頃は、セネトとそう変わらない位だろう。
どう言う事情で、今回のネフール老子の企みに加担する事になったのかは分からないが、こうして話した限りでは、誘拐や暗殺に向いている様には思えない。
「どの道、オレたちはもう用済みですよ。 この計画が終わり次第、消されるでしょう」
黒装束の青年は特大の溜息を付くと、鉄格子越しにセネトの前に座り、沈痛な表情を浮かべながら、自分の心境を吐露した。
「それが分かっていて何故、この様な事に加担した?」
セネトは、落ち込んでいる彼に、徐に問い掛けた。
「世の中、皆が皆、自分の意志で物事を決められる訳じゃない……と言う事です。 オレみたいな孤児なんて特に……」
黒装束の青年は、沈痛な表情を浮かべ、重々しい口調で語る。
「……生きる為に、ネフール老子に従っていたのか?」
セネトは、真剣な面持ちで問い掛けると、
「……オレ等みたいなのは、そもそも人とも思われて無いんですよ。 選択肢なんて存在しないんです。 従わなければ処分されるだけ。 家畜と同じです」
黒装束の青年は、沈痛な表情を浮かべ、重々しい口調で語る。
「……」
セネトは、神妙な表情を浮かべ、彼の話に耳を傾ける。
「路上でスリや物乞いをして生きるのと、こんな汚れ仕事をするのと、どちらがマシだったんでしょうね? どの道、オレ等みたいなのは、真っ当な生き方なんて、そもそも用意されちゃいないでしょうけど……」
黒装束の青年は、沈痛な表情を浮かべ、重々しい口調で語ると、特大の溜息を付いた。
「……僕なら、お前をこの状況から救い出す事が出来るかも知れないが、話を聞く気はあるか?」
セネトは、真剣な表情を浮かべ、徐にそう切り出した。
「……同情ですか?」
黒装束の青年は、苦笑いを浮かべながら、セネトに問い掛ける。
「それもある。 だが、お前の様な人間を生み出している責任は、皇族である僕等にもある。 その責任を少しでも取りたいと言う気持ちの方が強い。 まあ……僕の自己満足に過ぎないが」
セネトは、複雑な表情を浮かべながら、自分の気持ちを正直に語った。
「変わった人ですね。 貴族さまの殆どは、オレ等の様なのは人とも思って無いので、興味など示さないのに……」
黒装束の青年は、苦笑いを浮かべながら、セネトに言うと、
「……少し前までの僕ならそうだっただろう。 でも、目の前で助けられる人が居るのに、手を差し伸べないのは間違っていると、思える様になったんだ」
セネトは、黒装束の青年を真っ直ぐに見据え、真剣な面持ちで語った。
「……」
黒装束の青年は、何とも言い難い顔をして、セネトをじっと見ている。
「結局それは、僕の自己満足かも知れないし、お前には迷惑な事なのかも知れない。 偽善だと言う奴も居るだろう。 でも、お前に声を掛けずにはいられなかった」
セネトは、真剣な面持ちでそう語った後、苦笑いを浮かべた。
「オレは、今日は人生最悪の日だとばかり思っていましたが、どうやら、そうでは無かったみたいです」
黒装束の青年は、軽く溜息を付いてから、セネトにそう言うと、苦笑いを浮かべた。
「そうか」
セネトは、穏やかな笑みを浮かべ返すと、
「話を……聞かせて下さい」
黒装束の青年は、決意に満ちた表情を浮かべ、セネトにそう言った。
ロナードを宮廷へ送る者を呼びに行くと、寺院の者たちの予想に反して、カルセドニ皇子が数人の部下を連れて来た。
「お久しぶりです。 ティアマト大老子さま」
カルセドニ皇子は、部屋に訪れると、中に居たティアマト大老子にそう挨拶をした。
「カルセドニ皇子か……。 確かに、皇族でありながら、寺院に所属している其方ならば、余計な波風を立てずに済む。 機転を利かせいくれた事、感謝するぞ」
部屋の中央に置かれたテーブルを囲む様に置かれたソファーの一つに腰を下ろしていたティアマト大老子は、落ち着いた口調で言った。
「恐れ入ります」
カルセドニ皇子は、落ち着いた口調で返すと、軽く首を垂れた。
「それで……ユリアスは何方に?」
そして、部屋の中を一通り見回しながら、徐にティアマト大老子に問い掛ける。
「奥で休んでいる。 毒は抜けた様だが、怪我をしている故、丁重に頼む」
ティアマト大老子は、仕切りの向こう側に目を向けつつ、カルセドニ皇子の問い掛けに答えた。
「分かりました」
カルセドニ皇子はそう言うと、連れて来た部下たちに目で合図を送ると、彼等は奥の仕切りの向こうへと行く。
「……良かったのですか?」
彼の部下と、仕切りの奥に居た人物が何やら話しているのを聞き流しつつ、カルセドニ皇子は徐に、ティアマト大老子にそう問い掛けた。
「何がじゃ?」
彼女は、不思議そうな表情を浮かべつつ、カルセドニ皇子に問い返す。
「彼を寺院に連れて行く予定だったのでは?」
カルセドニ皇子は、落ち着いた口調で言う。
「この様な状況で、妾たちが保護すると言ったところで、聞き入れてくれるはずも無い」
ティアマト大老子は、複雑な表情を浮かべながら答えた。
「そうでしょうね」
カルセドニ皇子は、落ち着いた口調で返す。
「何より優先するべき事は、二度と、この様な事を起こす気にならぬ様に、ネフールは老子に厳しい沙汰を下し、驕った寺院の者たちの襟を正させ、皇族や宮廷魔術師たちの間に芽生えた不信感を払拭し、彼等からの信頼を回復させる事だ」
ティアマト大老子は、真剣な面持ちで言った。
「仰る通りです」
カルセドニ皇子は、落ち着いた口調で答えた。
(どの道、ネフールの様な塵カスは、社会的に抹消してやるがな)
カルセドニ皇子は、心の中でそう呟いて居ると、奥の仕切りがカタンと音がしたので、そちらの方へ目を向けると、カルセドニ皇子の部下の兵士に体を支えられる様にして、ロナードがフラフラとした足取りで此方へ来ていた。
「無理をするで無い」
解毒をしたとは言え、そう時間が経っていないので、ロナードの顔色は悪く、動くのも辛そうなのを見て、ティアマト大老子もそう言って、思わず彼に手を差し伸べた。
「大丈夫です」
ロナードは、落ち着いた口調で、自分に手を差し伸べて来たティアマト大老子に言った。
「今回の事は本当に済まなかった。 良く静養して、早く元気になっておくれ」
ティアマト大老子は、沈痛な表情を浮かべ、優い口調でロナードに言った。
ティアマト大老子としては、自分が少し興味を抱いたせいで、ロナードやセネトが大変な目に遭った事に、強い責任を感じている様だ。
「はい。 治療、有難う御座いました」
ロナードは、落ち着いた口調で、ティアマト大老子に返事をすると、首を垂れた。
「では。 私は彼を宮廷に送り届けてきます」
カルセドニ皇子は、兵士に支えられ、自分の下へ歩いて来たロナードの体を支える様に腕を回すと、ティアマト大老子にそう言った。
「頼む」
ティアマト大老子は、頷きながらそう返した。
「行きましょう」
側に居た兵士が徐に、ロナードに声を掛ける。
「はい」
ロナードは、兵士に返事をした後、
「大老子様。 失礼します」
ティアマト大老子にそう挨拶をし、ロナーは、兵士たちに体を支えられながら、ゆっくりとした足取りで部屋を後にした。
(リャハルト……其方が寺院とティルミット家を見限り、帝国から去った時、者の多くが、自分たちの過ちに気付いたと思って居ったのに……。 変っておらぬ。 何一つ。 だが心配するな。 同じ轍を踏まぬ)
ティアマト大老子は、ロナード達が去って行った廊下の方へと目を向けながら、心の中でそう呟いた。
翌日の早朝、ネフール老子が所有する帝都の外れのオアシスにある農場は、大騒ぎになっていた。
数ある倉庫の一つを、武装した兵士が取り囲み、飛竜に乗った一団がその倉庫の屋根を突き破り、内部に侵入していた。
「屋根を壊すなんて、悪目立ちし過ぎですよ」
飛竜の背中に乗って居た、宮廷魔術師長サリアに向かって、応援に駆け付けたギベオンが呆気に取られながら言った。
「ば、ば、化け物だ!」
「空からドラゴンが降って来たぞ!」
突然の襲撃に、倉庫内に居た者たちは、ハチの巣を突いた様に大騒ぎしていた。
「この位の事はしてあけないと、ユリアスの腹の虫が収まらないでしょ?」
サリアはニッコリと笑みを浮かべ、ギベオンにそう返した。
この飛竜はロナードが所有している幻獣の内の一体で、動けない自分の代わりにと、サリアたちに貸したものだ。
「空なんて初めて飛びましたけれど、爽快でしたわね♪」
一緒に飛竜に乗って来たエルフリーデは、物凄く満足そうな顔をしながら、飛竜の背中から降りてきた。
「え、エフィ……早く。 早く降りてよ……」
完全に腰が引け、恐怖に顔を引き攣らせながら、飛竜の背中に乗っているルフトが情けない声で、彼女に向かって言っている。
「ひいいいい」
騒ぎを聞き付け、何処からか出て来たネフール老子は、屋根を突き破って侵入してきた飛竜と目が合ってしまい、その迫力に腰を抜かし、情けない声を上げる。
「セティは何処?」
兵士たちの指揮をしているルチルは、自分の髪を片手で払いつつ、片手に持っていたサーベルの刃先をネフール老子に突き付けながら、ドスの利いた低い声で凄む。
「わ、わ、わ、儂は老子だぞ!」
ネフール老子は顔を青くしながらも、ルチルにそう言い返すと、
「それが何? まさか皇女殿下に手を出しておいて、只で済むと思っていたの?」
ルチルは怒りの形相でギロッと、ネフール老子を睨み付け、唸る様な低い声で言った。
「殿下は何処だと聞いてますのよ! さっさと答えなさい! さもないと、この飛竜に言って、その弛みきった首と胴を別々にして差し上げますわよ?」
エルフリーデも何時になく苛立った様子で、ネフール老子にそう言って凄む。
「ち、ち、地下に!」
彼女たちに凄まれ、ネフール老子はすっかり怯え、声を震わせながら答えた。
「行って下さい。 ルチル様。 ここの者たちは皆、私とサリア様で吹っ飛ばして差し上げますので」
それを聞いて、エルフリーデは側に居たルチルに向かって言った。
「頼んだわよ。 エフィ。 サリア様」
ルチルは背中越しに彼女に言うと、
「了解ですわ」
エルフリーデは不敵な笑みを浮かべながら、ルチルにそう返した。
二人とも、彼等が、ロナードに怪我を負わせ、セネトも誘拐した事に、怒り心頭の様だ。
「お、お二人とも、くれぐれも程々に……」
ギベオンは、心配そうな表情を浮かべ、おずおずとした口調でサリアとエルフリーデに言った。
「私は大丈夫ですけれど、サリア様はどうかしら? ロナードに怪我をさせた上に、質の悪い毒を盛られた事に相当、怒っている様ですので保証しかねますわ」
エルフリーデはニッコリと笑みを浮かべながら、ギベオンにそう言い返した。
その目が笑っていなかったのが、物凄く怖い……。
「心配しないで。 ぜ――んぷ、綺麗に吹っ飛ばしてあげるから」
サリアはニッコリと笑みを浮かべながら、何気に恐ろしい事を言って退けた。
「さ、サリア様……」
ギベオンは、サリアが冗談などでは無く、本気でそうしようとしていると悟ると、恐怖に顔を引き攣らせながら呟く。
(何で……宮廷魔術師の中でも、一、二を争う程に血の気の多い二人が来たんだ……)
ギベオンは心の中でそう呟くと、泣きたい気持ちになった。
「行きましょう。 ギベオン。 巻き込まれたら大変だわ」
ルチルは、向かって来る輩を蹴散らしながら、背中越しにギベオンに声を掛ける。
「そ、そうだな……」
サリアとエルフリーデをこの場に残す事に、一抹の不安を抱きつつも、ギベオンは返事をした。
「何だか、上が騒がしいな……」
セネトは徐に、上を見上げながら呟く。
「お迎えが来た様です。 逃げるなら今しかありません」
セネトの脱出に手を貸す事を約束した、黒装束の青年はそう言うと、何処からか奪って来たのか、鍵束の中から牢屋の鍵を探している。
「そうか」
セネトは落ち着いた口調で言った。
「こんなに早く居場所を突き止められた事には驚きですが、まあ、遅かれ、早かれ、こうなりますよね……」
黒装束の青年は、苦笑いを浮かべながら言った。
セネトが誘拐されたのは、昨日の夕暮れ時だ。
昨日の内にセネトの監禁場所を突き止め、日が昇って辺りが明るくなると同時に、ここに攻め込んで来た。
「では脱出といきましょう。 殿下」
牢屋の鍵を開けると、黒装束の青年はセネトに言う。
「ああ」
セネトはそう言って、頷き返す。
「ところで……」
黒装束の青年は身を屈め、セネトの足枷を鍵で開けながら、そう声を掛けて来た。
「?」
セネトは、戸惑いの表情を浮かべつつ、彼を徐に見る。
「給与ってどのくらい貰えます?」
黒装束の青年は、呑気にその様な事を問い掛けて来たので、
「その手の話は、此処から出たら幾らでも聞いてやる」
セネトは一瞬、呆気に取られたが、軽く溜息を付くと、黒装束の青年に言った。
「約束ですよ?」
黒装束の青年は、声を弾ませながら言う。
(全く。 調子の良い奴だな……)
昨日までこの世の終わりの様な顔をして居たと言うのに、セネトに雇われる際の給与の事を心配している彼を見て、セネトは心の中で呟くと苦笑する。
黒装束の青年としては、長い間、何処まで続いているのか分からない、暗いトンネルの中を進んで来て、やっと外の光が差し込んで来た……そう言う気分なのだろう。
足枷と手錠を外して貰ったセネトは、黒装束の青年に先導され、薄暗く、黴臭い、湿った地下を歩き出した。
そうは言っても、地下の空間はそれ程広くは無く、セネトが閉じ込められていたものと同じ大きさの牢屋が手前にあと一つあって、狭い通路を行った突き当たりの右手に、上へ上がる石畳の階段があるだけだ。
「セティ!」
階段の方から、聞き馴染みのある若い女性の声がして来た。
「ここだ! ルチル!」
セネトはとっさに大きな声で返事をした。
直ぐに、石畳を蹴る鉄の具足の音が複数して、カンテラの明かりが見えてきた。
「ご無事で!」
前を行く、若い男がセネトを見るなり、安堵に満ちた声で言って来た。
「ルチル! ギベオン!」
薄らと照らされている、向こうから来た相手の顔を見て、セネトは心底ホッとした表情を浮かべ、助けに来た相手の名を呼んだ。
「この者は?」
セネトの側に居た、黒装束の青年の存在に気付くと、ギベオンは警戒した様子で、セネトに問い掛ける。
「老子を見限り、僕の脱走に手を貸してくれた」
セネトは簡潔に説明すると、
「信用して大丈夫なの?」
ルチルが、不信感に満ちた目を黒装束の青年に向けつつ、セネトに問い掛ける。
「オレが信用出来るかどうかは、追々で良いでしょう? それよりも今は、ここから出るべきじゃないですか?」
黒装束の青年は、苦笑い混じりに言った。
「それは、そうだが……」
ギベオンは、戸惑いの表情を浮かべながら呟く。
「心配しないでギベオン。 コイツが背中からグサリなんて出来ない様に、私が最後に行くわ」
ルチルが、落ち着き払った口調でそう提案した。
「頼む」
ギベオンも、それが最良と思ったのか、真剣な面持ちで言うと、頷き返した。
「ルチル。 予備の武器を貸してくれ」
セネトは、落ち着いた口調で自分の背後に来たルチルに言うと、
「ええ」
ルチルはそう言って、自分が隠し持っていたショートソードをセネトに差し出した。
「この者に先頭を行かせ、脱出の案内をさせましょう」
ギベオンは剣を黒装束の青年に突き付けながら、真剣な面持ちでセネト等に言った。
「はいはい。 分かりました。 お好きな様になさって下さい」
黒装束の青年は、両手を上げ、敵意が無い事を示しつつも、どうでも良そうな口調で言った。
「それより、ロナードは無事なのか?」
セネトは、真剣な面持ちでルチルに問い掛ける。
(こんな時までロナードの事を……。 どれだけ好きなのよ……)
ルチルは、呆れた表情を浮かべ、心の中で呟くと、セネトを見る。
「少し手傷を負われましたが、無事ですよ」
ルチルがどう答えようかと思っていた矢先、ギベオンが穏やかな表情を浮かべ、セネトに言った。
本当は、ギベオンが言う様な軽症では無いが、セネトに要らぬ心配を掛けまいと、とっさにそう言ったのだと、ルチルは理解した。
「貴女の事を心配していたわよ」
ルチルは、苦笑いを浮かべながら言うと、セネトは安堵の表情を浮かべる。
「自分も助けに行くと言っていましたが、怪我をしているので遠慮してもらいました」
ギベオンが苦笑いを浮かべながら言うと、
「『助けに行く』って……。 あの傷では無理ですよ」
それを聞いた、黒装束の青年が思わずそう言った。
それには、ギベオンとルチルは揃って、『余計な事を!』と言う顔をして、思い切り彼を睨み付けたので、二人に睨み付けられ、黒装束の青年はたじろいだ。
「そ、そんな事は無いわ! と、兎に角、物凄くアンタの事を心配してるって事よ。 良かったわね。 セティ」
ルチルは苦笑いを浮かべ、何とか誤魔化そうとセネトに言う。
「それはつまり、アイツは動けない程の傷を負っていると言う事だろう? そうで無ければ、アイツの性格上、ここに来ている筈だ」
セネトは、真剣な表情を浮かべ、そう指摘すると、ルチルは困惑した顔をして、助けを求める様に思わずギベオンを見る。
「殿下。 本当に大事をとっているだけです」
ギベオンは、真剣な面持ちでセネトに言う。
「どの道、宮廷に戻れば分かる事だ」
セネトは、表情を険しくしたまま、淡々とした口調で言うと、ルチルとギベオンは、困った表情を浮かべながら互いの顔を見合わせ、彼らの話を聞いていた黒装束の青年は、沈痛な表情を浮かべる。
ルチル等によって、無事に地下から出て来たセネトは、目の前の光景に呆然とした。
「こ、これは……」
ギベオンも、自分の想像を超えた光景に思わずその場に立ち尽くし、呆然とした様子で呟く。
この倉庫は、農場内にある倉庫の中でも大きい方だった筈なのに、今や、その原型を留めない程に破壊され、床の上にはネフール老子が雇った傭兵と思われる、柄の悪い男たちが揃って呻き声を上げて倒れており、首謀者のネフール老子は恐怖のあまり、口からカニの様に泡を吹き、腰を抜かして座り込んだまま失禁し、気絶している。
「やり過ぎだ……」
セネトは、額に片手を添え、ゲンナリした表情を浮かべ、呟く。
「ああ。 殿下!」
「あ、セレンディーネ様。 ご無事でしたか。 良かった」
セネトに気付いた、エルフリーデとサリアは、実に清々しい表情を浮かべ、声を弾ませ、そう言って来た。
「お二人とも! 程々にと言った筈ですよ!」
ギベオンが、焦りの表情を浮かべながら、破壊の限りを尽くした二人に向かって、そう抗議をする。
「あら?」
「その様な事、仰いました」
エルフリーデとサリアは揃って、ニッコリと笑みを浮かべながら、その様に言い返した。
それには、ルチルも思わず吹き出し、声を上げて笑う。
「全く……」
セネトも、全く反省する様子もなく、寧ろ楽しそうにしているエルフリーデとサリアを見て、もはや苦笑いを浮かべる他無かった。
「さっさと、そこの爺を縛り上げて、引き上げましょ」
ルチルは、倉庫の隅に放心しているネフール老子に目を向けつつ、セネト等に向かって言った。
「そうだな」
ギベオンはそう返すと、近くに居た兵士に合図を送る。
兵士たちは急いで、持っていた縄でネフール老子の拘束へ向かった。
「もう帰るのですか? もう二度と、この様な事をする気にならない位に、徹底的に叩いた方が宜しいのではなくって?」
エルフリーデは、不満そうな表情を浮かべながら、セネト等に言った。
「いや、もう十分でしょ……」
彼女等と一緒に居たルフトは、何故か物凄く疲れた顔をして、そう呟く。
「これ以上、何処をどう壊すって言うんだ……」
セネトは、朝日に照らされ、すっかり原型を失った倉庫を見て、呆気に取られながらそう呟いた。
「セネト!」
ロナードはそう叫びながら、セネトの元へと駆け出すが、足元がふらついてその場に崩れ込む。
「大丈夫か?」
それを見たセネトは、慌ててロナードの下へと駆け寄ると、そう声を掛ける。
すると、ロナードは自分の前に屈み込んだセネトを思い切り抱きしめ、
「御免……セネト。 俺が不甲斐ないばかりに……」
声を震わせながら、そう言って来た。
(震えている……)
セネトは、自分を抱きしめているロナードの手が震えている事に気付くと、心の中で呟く。
良く見ると、ロナードの肩の辺りには包帯が巻かれており、頬にも幾つも掠り傷があり、世辞にも顔色が良いとは言い難かった……。
「ロナード。 僕は何とも無いから、そんなに自分を責めるな」
セネトは、自分を抱きしめているロナードの手に、自分の手を添えながら、優しい口調で言った。
「でも……」
ロナードは、セネトから身を離すと、沈痛な表情を浮かべながら呟く。
「お前の方が、死にそうな顔をして居るじゃないか……」
ロナードの様子を見て、セネトは苦笑いを浮かべながら言った。
「御免……。 肝心な時に何も出来なくて……。 助けに行けなくて……本当に御免」
ロナードは、沈痛な表情を浮かべながら、セネトに言った。
「そう言う意味で言ったんじゃない。 全く。 何て様だ。 お前はもっと自分を大事にした方が良いぞ。 これでは体が幾つあっても足りない」
セネトは、軽く溜息を付いてから言うと、ロナードの背中を優しくポンポンと叩くと、優しい笑みを浮かべ、
「僕は大丈夫だから、お前はもう休め」
優しくそう言うと、ロナードは複雑な表情を浮かべつつも頷き返した。
「行きましょう。 ロナード様」
ギベオンが優しくロナードにそう声を掛けると、彼の体を支える様に立ち上がり、ゆっくりとした足取りで、彼を部屋へと連れて行く。
「あの毒を受けて、もう動けるなんて……どうなってるんですか? あの人。 幾ら解毒をしたからって……普通半日は動けないですよ」
セネトの脱出に手を貸した、黒装束の青年は、ギベオンに支えられ、フラつきながらも、自分の足で歩いているロナードに、驚きと戸惑いの表情を浮かべながら呟く。
「お前が戻って来たと聞いて、周りの制止も聞かず、部屋から飛び出したんだ。 今回の事に責任を強く感じていたのもあるだろうが、それ以上にお前の事が心配だったんだろう。 一睡もせず、お前が戻って来るのを待って居たんだ。 今頃、ベッドの上に崩れ込んでいるだろうな」
ロナードと入れ違いに現れたカルセドニ皇子は、苦笑いを浮かべながら、セネト等にロナードの事を話した。
「……馬鹿なヤツ……」
セネトは、嬉しい気持ちと、申し訳ない気持ちが入り混じった、複雑な顔をして呟いた。
「無事で何よりだ。 セティ。 流石の私も肝を冷やしたぞ」
カルセドニ皇太子は、安堵の表情を浮かべつつ、セネトに言った。
「ご心配をお掛けして申し訳ありませんでした。 兄上」
セネトは、申し訳なさそうに言うと、
「いや、あの時間帯に警備に隙があった。 お前やユリアスを咎めるつもりはない」
カルセドニ皇子は、落ち着いた口調で言った。
「殿下の仰る通りだわ。 私たちがもう少し、あなた達に気を遣って居ればそもそも、こんな事にはなって無かった筈なのだから……」
ルチルは、苦々しい表情を浮かべながら、セネトに言った。
「何者かが意図的に、警備の隙を作ったと様だ」
カルセドニ皇子は、神妙な面持ちで言ってから、
「おっと……。 そんな話は、今すべき事では無いな。 お前も今日はもうゆっくり休め。 この件については後日、話をしよう」
優しい口調でセネトに言った。
「分かりました。 今日は大人しく休む事にします」
セネトはニッコリと笑みを浮かべ、カルセドニ皇子に言った。
「そうしてくれ。 私はお前が無事に救出された事をティアマト大老子に報告する。 ユリアスには良く養生する様に伝えてくれ」
カルセドニ皇子は、落ち着いた口調で言うと、
「伝えておきます。 色々と有難う御座いました。 兄上」
セネトはそう言うと、カルセドニ皇子に深々と頭を下げた。
それから数日後……。
「お前の処遇が決まったぞ」
セネトの脱出に手を貸した、黒装束の青年の下に、ギベオンが訪れ、淡々とした口調でそう告げて来た。
彼は、ネフール老子を見限り、セネトの下に身を寄せてから、牢獄にこそ入れられなかったものの、セネトを誘拐した賊の一人と言う事で、部屋に軟禁されていた。
「やっぱり、処刑ですか?」
彼は、苦笑いを浮かべながら問い掛ける。
「いや。 ある方の護衛をさせる」
ギベオンは、落ち着き払った口調で告げると、それを聞いた彼は、物凄く驚いた。
「これから、その方の下へ案内するから付いて来い」
ギベオンは、事務的な口調で告げると、『付いて来い』と言わんばかりに、踵を返した。
彼は慌てて、ギベオンの後を追い駆けた。
広々とした廊下に出ると、前を行くギベオンが事務的な口調で、
「そのお方は、アルスワット公爵の分家の方で、近く、殿下と婚約される」
(アルスワット公爵の分家って、無茶苦茶いい所のぼんぼんじゃないか! しかも、お姫様の婚約者とか……。 そんな大事なお人の護衛をオレにって……何考えてるんだよ)
ギベオンの話を聞いて、彼は戸惑いの表情を浮かべながら、心の中で呟く。
「お前は既に、その方と会った事がある。 故に、向こうはお前に対して良い印象を持っていない可能性が非常に高い。 最悪、殺しに掛かるかも知れん」
ギベオンは、淡々とした口調で告げるので、それを聞いた彼の顔から、みるみる血の気が引く。
(オレ、貴族のお坊ちゃんに、そんなに恨まれる様な真似したっけ?)
そして、その様に思った。
「まあ、会えば分かる」
ギベオンがそう言うと、ある部屋の前に立ち止まり、徐に扉をノックすると、中から返事がしたので、彼は何の躊躇いもなく部屋の入口の扉を開く。
そこには、セネトを間違えて誘拐した際、誘拐に気付いて追い駆けて来て、彼とやりあった、例の『美人さん』が居た。
(は? え? ええーーっ! いやいやいやや……)
ロナードを前にして彼は、戸惑いの表情を浮かべ、思わずギベオンを見ると、彼は真剣な顔をして静かに頷いただけであった。
(ま、マジかよ……)
ギベオンの態度を見て、彼は心の中でそう呟くと、思わずたじろいだ。
「いゃあ……。 そんなに睨まないで下さい。 照れ臭いですよぉ」
黒装束の青年は、たじろぎながら、自分を思い切り睨み付けているロナードに言った。
ロナードは、部屋の中央に置かれたテーブルを囲む様に配されたソファーの中で、一番の奥にある物に座っており、物凄く不快な顔をして、部屋の入り口の前にギベオンに伴われて立っている、黒装束の青年を睨んでいる。
(美人なのは知っていたけれど、こう面と向かって睨まれると……流石に怖い)
流石の彼も、ロナードに敵意を剥き出しにされ、睨まれているのでたじろぎ、心の中で呟いた。
「……コイツをミンチにしても良いか? ギベオン」
ロナードは、黒装束の青年を睨んだまま、唸る様な声でギベオンに問い掛けた。
(オレに殺され掛けた事、根に持ってるな……)
その言葉を聞いて、彼は心の中で呟くと、苦笑いを浮かべた。
「お気持ちは分かりますが、それは勘弁してやって下さい。 彼はネフール老子を見限り、殿下の脱走に手を貸してくれたのですから」
ギベオンは困った様な表情を浮かべ、そう言ってロナードを宥める。
「……」
ロナードは、物凄く不満に満ちた表情を浮かべて居る。
「あの時は、ホっっントに済みませんでしたっ!」
黒装束の青年は物凄く真剣な表情を浮かべ、ロナードにそう謝罪してから、深々と首を垂れた。
彼としても、ロナードの事は予想外で、目的を達する為に止むを得ず取った手段であって、ロナードを害する意図は無かったのだが、そう弁明したところで……だ。
「謝罪をさせる為だけに、コイツを俺の所に?」
ロナードは、淡々とした口調でギベオンに問い掛ける。
(鋭いな。 この人)
黒装束の青年は、心の中でそう呟くと、苦笑いを浮かべた。
彼も、セネトが下した事には度肝を抜かれ、ロナードがそれを許してくれるのか、不安でならなかった。
「彼はネフール大老子に見限り、殿下を助けた所為で行く場が無いそうで、殿下たちの下で働きたいと言って居ます」
ギベオンは、落ち着いた口調でロナードに、黒装束の青年が此処に居る経緯を簡潔に語った。
「……お前ほどの腕ならば、傭兵としても立派にやっていけるだろう。 態々、主従に縛られる必要は無いと思うが」
ロナードは淡々とした口調で、複雑な表情を浮かべている黒装束の青年に言った。
「オレを評価して下さるのは嬉しいんですが、相手は老子ですよ? 自分を裏切った奴を生かしておく筈が無いじゃないですか」
黒装束の青年は、自分の腹の前で組んだ両手をモジモジと動かしながら、困った様な表情を浮かべながら言った。
「あの爺は、今回の事で寺院内の地位も失い、社会的にも屠られる。 お前に構っている余裕があるとは思えないが……。 まあ……老子の家族や家臣に逆恨みされる言う可能性は否めないが……」
ロナードは、軽く溜息を付いてから、淡々とした口調で言う。
「でしょ? 行き場のない、哀れなオレに救いの手をお願いします」
黒装束の青年は、物凄く真剣な面持ちでロナードに言うと、縋る様な眼差しを彼に向ける。
「……」
ロナードは、凄く迷惑そうな表情を浮かべながら、彼を見ている。
(確かにコイツなら、相手に気付かれぬ様に護衛をするのは勿論だが、密偵でも暗殺でもこなせるとは思うが……)
自分に縋る様な視線を向ける、黒装束の青年を見ながら、ロナードは心の中で呟いた。
「ギベオン。 セネトは何と言っているんだ?」
ロナードは、助けを求める様にギベオンに問い掛ける。
セネトの事である。
何の考えも無しに、この黒装束の青年を自分と面会される訳が無い。
「ルチルは制約魔術で縛れば、側に置いても大丈夫ではないかと言っています。 殿下もルチルの考えに賛同しています」
ギベオンは、事務的な口調でロナードの問い掛けに答える。
「……制約魔術と言うが、要は呪いの一種だろう? 俺は賛同しかねる」
ロナードは、あまり気の進まない様子でギベオンに言うと、
「お気持ちは分かりますが、これは彼の為でもあります。 自分たちや貴方が彼を信頼しても、他の者はそうはいかないでしょう。 多くの者は彼の事を良くは思わない筈です。 周囲に要らぬ疑念や不安を抱かせない為にも、必要な事だと自分は考えます」
ギベオンは、自身も隷属の呪いを受けているロナードの心中を察し、複雑な表情を浮かべながら、彼にそう返した。
ロナードはテーブルの上に片方の肘を付き、その上に顎を乗せ暫く、物凄く真剣な顔をして思慮して居たが……。
「……ギベオンがそこまで言うのなら、お前達の考えに従おう」
観念した様に軽く溜息を付くと、ギベオンに答えた。
(この人のお姫様への信頼、半端無いな……)
少し渋りはしたが、黒装束の青年の予想を良い意味で裏切る返事をロナードがした事に戸惑いながら、心の中で呟いた。
「ご理解頂けて助かります」
ギベオンは、ホッとした表情を浮かべ、ロナードに言った。
彼も、ロナードが全力で断って来たらたらどうしようと、内心思って居た様だ。
「それで、コイツの面倒を俺が見ろと言う事だろう?」
ロナードは、『フーッ』と軽く溜息を吐いてから、気乗りしない様子でギベオンに静かに言った。
「はい。 ロナード様には専属の護衛が居ませんので……。 今回の一件もありますし、以前から殿下が心配されておられましたので……」
ギベオンはニッコリと笑みを浮かべ、ロナードに答える。
「そうか……仕方が無いな……」
ロナードは、額に片手を添えつつも、意外にもあっさりと返した。
(ありゃ? もっと嫌がると思ったんだけどな……)
自分の想定を遥かに超え、あっさりと受け入れたロナードに、黒装束の青年は戸惑いの表情を浮かべながら、心の中で呟いた。
「……それで、お前の名前は?」
ロナードは、渋々といった様子で、黒装束の青年に問い掛けると、
「オレみたいな使い捨ての駒に、名前なんて無いですよ」
彼は苦笑いを浮かべながら、ロナードの問い掛けに即答した。
「……」
それを聞いて、ロナードは忽ち表情を曇らせ、黙ってしまった。
(あれ? 何か、マズイ事を言ったかな? オレ)
思っていた反応と異なり、かなり深刻な顔をして居るロナードに、黒装束の青年は戸惑いの表情を浮かべ、心の中で呟く。
「ならば、お前は寺院に居る時は、何と呼ばれていたんだ?」
ギベオンは真剣な面持ちで、黒装束の青年に問い掛ける。
「うーん……大抵は『おい』とか『お前』とか……あとは番号や身に付けている腕章の色とかで呼ばれていました」
黒装束の青年は天を仰ぎ、一瞬だけ考えてから、実にアッサリとした口調で答えた。
それに、ロナードは益々表情を曇らせたので、黒装束の青年は戸惑った。
「名前が無いと言うのは不便ですね……」
ギベオンは、ロナードが何故、その様な顔をするのか理由を知っているのか、黒装束の青年に気の毒そうな視線を向けつつも、淡々とした口調で言った。
ロナード自身、イシュタル教会の孤児院では、人では無く、物の様に扱われて来たし、孤児院から逃げ出した後も、各地で不遇な子供達を目にしてきた。
そう言う風に扱われる辛さを理解しているが故に、ロナードは彼に安易な言葉を掛ける事が出来ずに居た。
「気にした事が無いんで……。 好きな様に呼んでもらって構わないですよ。 単純に数字で一、二でも、何でも」
黒装束の少年は、ヘラヘラと笑いながら、物凄く軽い口調で言った。
「それは流石に……。 物では無いのだから……」
それを聞いて、ギベオンは俄かに眉を顰め、真剣な面持ちで言った。
(ギベオンさん。 やっぱ良い人だわ)
ギベオンの反応を見て、黒装束の青年は心の中で呟いた。
セネトの周りたちの多くは不審がって、自分と関わりを持ちたがらない中で、ギベオンだけが、黒装束の青年の事を何かと気に掛け、優しい声を掛けてくれて居た。
セネトに彼の事を頼まれていたのもあるかも知れないが、それでも、今まで自分の事を汚物でも見る様な目を向け、暴力を振るい、暴言を吐き散らし、酷い扱いをして来た者たち違い、ギベオンは卑しい身分の自分に対しても、真摯な態度を崩さないので、黒装束の青年は好感を抱いて居た。
「じゃあ……『アイク』でどうだ?」
ロナードがポツリとそう言うと、それを聞いた二人が思わず、彼の方へと目を向ける。
「アイク……」
ギベオンがそう呟いて居ると……。
「あの……オレ、学が無いので、どう言う意味があるのか、分からないんですけど……」
黒装束の青年は、戸惑いの表情を浮かべながら、ロナードに言う。
「『剣の刃』と言う意味だ」
ロナードは、淡々とした口調で答える。
「剣の刃……」
黒装束の青年は、呟いてから、
(やべぇ。 かっけぇ……)
心の中で呟くと、嬉々とした表情を浮かべた。
「気に入らないか?」
少し、戸惑って居る様子の黒装束の青年を見て、ロナードは徐にそう問い掛けると、
「いえ! いいえ! メッチャ良いです! かっけぇ……」
黒装束の青年は、目を輝かせ、嬉々とした表情を浮かべ、声を弾ませて答えた。
「そうか。それは良かった」
ロナードは、喜んでいる黒装束の青年を見てそう言うと、フッと笑みを漏らした。
「主~っ。 重いでしょう? お持ちしますよ?」
『アイク』と名付けられた黒装束の青年は、嬉々とした表情を浮かべながら、自分の名付け親で、新たな主となったロナードに声を掛ける。
ロナードは両手で、分厚い魔道書を数冊抱えており、細身の彼だと尚更、重そうに見えた。
「……だから、その呼び方は止めろと……」
ロナードは、嫌そうな表情を浮かべながら、自分の下へ駆け寄って来たアイクに言った。
「えー。 良いじゃないですか。オレに名前をくれたの、主なんですから」
アイクはニコニコと笑みを浮かべながら、ロナードに言い返した。
彼は一週間ほど、セネトの臣下になる為の手続きや、臣下としての心得や作法、制約魔法を施したりした後、今日から正式にロナードの護衛の任務に就いたのだ。
アイクは、寺院とは関係の無い、全く違う場所で再スタート出来る事に心から喜びを感じており、物凄くウキウキして居るのだが、ロナードは至って普通だ。
いや寧ろ、そんなアイクをちょっと冷めた目で見ている。
「お前は、犬猫か何かか?」
ロナードは、呆れた表情を浮かべ、冷ややかな視線を向けつつ、淡々とした口調で言った。
(ああ……。 そんな冷たい目で見られるのも、何か良い)
テンションの高いアイクは、心の中でそう呟く。
「じゃあ、忠犬って事で。 宜しくですワン」
アイクはニッと笑みを浮かべ、冗談混じりにそう返すと、
「……」
ロナードは物凄く複雑な表情を浮かべ、視線を逸らした。
(おや、機嫌を損ねたかな?)
ロナードの反応を見て、アイクは心の中で呟き、不安そうに彼を見て居ると、
「そんな風に、自分を卑下するな」
ロナードは、複雑な表情を浮かべたまま、アイクにそう言った。
「えっ……。 あ、はい……」
思いがけぬ言葉に、アイクは戸惑いの表情を浮かべつつ、返事をした。
「ん」
ロナードはそう言って、徐に自分が抱えていた分厚い魔道書を差し出して来た。
「えっ……」
アイクは戸惑いの表情を浮かべ、ロナードを見ると、
「……手伝いたそうだったからな」
ロナードは、素っ気ない口調でそう言った。
「はい!」
アイクはニッコリと笑みを浮かべ、声を弾ませて嬉しそうに言うと、ロナードが持っていた魔道書を全て受け取った。
(何だかんだで優しいな。 この人)
アイクは、戸惑いながらも、ロナードが自分を受け入れようとしている事を感じ、心の中で呟いた。
「あら。 ユリアス」
ふと、背後から若い女性の声がしたので、アイクはロナード共に振り返った。
少し癖のある背中まである黒い長い髪を下ろした、少し目尻が上がった緑色の双眸を有し、紫の糸で刺繍を施されたフード付のローブに身を包んだ、色白で小柄な、可愛らしい顔立ちの女性が居た。
(この人って……倉庫をぶち壊した人じゃん……)
アイクは彼女を見るなり、心の中でそう呟くと、顔を引き攣らせる。
セネトが誘拐された際、彼女が監禁されて居た倉庫をド派手に破壊した者たちの一人で、原形を留めない程に破壊したと言うのに、まだ暴れ足りない様子にしていた事をアイクはハッキリと覚えていた。
「貴方、見掛けない顔ね」
彼女は、物珍しそうに、アイクを見ながら言った。
「ああ。 アイクと言うんだ。 今日付けで俺の護衛に配属された 。これからちょくちょく顔を合わせる事になると思う。 宜しく頼む」
ロナードは、淡々とした口調で、その女性にアイクの事を紹介する。
「あ、アイクです……」
アイクは緊張した面持ちでそう挨拶をすると、
「ふーん。 これでギベオン様も少しは貴方のお守りから、解放されるって事ですわね。 良かったですわね」
彼女は、ちょっと意地悪な表情を浮かべ、ロナードに言った。
(お守り……)
アイクは、皮肉たっぷりな物言いの彼女にちょっとカチンと来たが、心の中でそう呟きつつ、ロナードの方へと目を向け、
「ギベオンさんに、お守りされてたんですか? 主」
徐にロナードに問い掛ける。
「されて無いと言いたい所だが、他人から見たらその様に見えるのなら、そうなのかも知れない……」
ロナードは、複雑な表情を浮かべつつ、彼が思ったよりも正直に答えて来た。
(いや、そこは否定しよう?)
ロナードの返答に、アイクは思わず苦笑いを浮かべ、心の中で呟いた。
「そう言えば俺、野草園に用事があったんだ。 悪いがアイク。 先に詰め所に本を持って行ってくれるか?」
ロナードは、ふと何かを思い出した様な表情を浮かべ、アイクにそう言った。
「えっ……。 あ、ちょっ……」
戸惑いの表情を浮かべ、ロナードを呼び止めようとしたが、彼は振り返る事無く、そそくさと何処かへ行ってしまった。
「大丈夫ですわ。 直ぐに戻って来ますわよ」
一緒に居た女性は、苦笑いを浮かべながら、戸惑っているアイクに言うが、
「いや……でも……」
アイクは、ロナードの言う宮廷魔術師たちの詰め所が何処なのか分からないので、困った様な表情を浮かべながら呟くと、
「仕方がないですわね。 詰所まで案内して差し上げますわ」
アイクの心中を察し、女性は軽く溜息を付いた後、そう言った。
「有難うございます」
察してくれた彼女に、アイクは素直に感謝の言葉を述べた。
(この人、怖いかと思ったけど、良い人ぽいな)
倉庫を嬉々として壊していた彼女に、少し恐怖心を抱いていたアイクだが、思いの外、普通だったので、心の中で呟いた。
自分に救いの手を差し伸べてくれたセネトもそうだが、ギベオンを筆頭に、自分に優しく接してくれる人たちが多く居る事に、アイクは素直に感謝したい気持ちになった。
「そうでしたわ。 私とした事が自己紹介がまだでしたわね? 私はエルフリーデ。 ユリアスと同じ宮廷魔術師ですわ。 貴方の事は色々と聞いていますけれど、ネフール老子を見限って正解だったと思いますわ」
一緒に廊下を歩いて居ると、彼女は何気にそう言って来た。
「は、はあ……」
アイクは、自分の前を行く彼女に、少し気の抜けた返事をする。
「あれエフィ。 その人は誰?」
宮廷魔術師たちの詰め所に来るなり、アイクを見て、眼鏡を掛けた青年が不思議そうな顔をして、エルフリーデに問い掛ける。
「アイクと言うそうよ。 ユリアスの護衛ですって」
エルフリーデは、素っ気ない口調で答えると、
「あー。 君がね。 話は聞いてるよ」
彼は、苦笑混じりにそう言ってから、
「僕はルフト。 これでも宮廷魔術師長の息子だよ」
彼は、ニッコリと笑みを浮かべながら、アイクにそう名乗ると、
「自分で『これでも』って言ってる時点で、どうかと思いますわよ」
エルフリーデは思わず吹き出し、笑いながらルフトにそう言って小馬鹿にすると、
「良いんだよ別に。 魔術でユリアスに敵うなんて、微塵も思ってないし」
ルフトはムッとした表情を浮かべ、エルフリーデに言い返してから、
「それで、ユリアスは?」
アイクに問い掛ける。
「野草園です」
アイクがそう答えると、
「それにしても、『少し』と言う割には遅いと思わない?」
エルフリーデはふと、ロナードが来ない事を不思議そうに言う。
「確かに……」
アイクは、近くの机に持って来た魔道書を置いてから、そう呟いた。
「あの言い様だと、直ぐに来そうな感じでしたのに……」
エルフリーデはそう呟く。
「あの、野草園ってどこですか?」
アイクは心配になり、エルフリーデに問い掛けると、
「良いわ。 私が案内して差し上げますわ」
エルフリーデがそう言うと、
「二人とも心配し過ぎ。 野草園なんて滅茶苦茶人目がある場所で、ロナードを襲う様な人なんて居ないよ」
ルフトは苦笑いを浮かべながら、心配そうにしている二人に言った。
「そんな事、分からないですわよ」
エルフリーデはムッとした表情を浮かべ、ルフトに言い返す。
「そうですよ。 今日は特に暑いので、倒れてるかも知れないですし」
アイクも真剣な表情を浮かべ、ルフトに言い返した。
二人は急いでロナードを探しに野草園がある方へと向かった。
アイクが言う様に、今日は一際、日差しが強く、空気も暖められて、ローブを脱ぎ捨てたい程に暑い。
野草園には、国外から持ち込まれた薬草もあり、日が沈むと夜間は冷え込む事がある為、寒さに弱い薬草が枯れないよう、ガラス温室の中にある。
日中は全ての扉が開け放たれているものの、温室の中と言うだけあって、外よりはずっと暑い筈である。
「やっぱり、倒れているのではないかしら……」
エルフリーデは、自分が思った以上に外が暑くなっているので、不安そうにそう呟いた。
そうして二人は、野草園に来たのだが、そこにロナードの姿が無い……。
「主?」
アイクは周囲を見回しながら、呼び掛けていると、何処からか、可愛らしい幼い猫の声が聞こえてきた。
「?」
アイクは徐に、猫の声がした方へ振り返ると、少し長めの黒髪を有した、黒いローブを着た人物が木陰の側で蹲っていた。
「主!」
アイクは慌てて、温室の中から出ると、木陰の方へと駆け寄り、それを見た子猫たちが蜘蛛の子を散らした様に、一斉にその場から逃げる。
「?」
木陰に蹲っていた人物は驚いた様子で、駆け寄って来たアイクの方へと振り返った。
「アイク?」
ロナードは、驚いた表情を浮かべ、自分の背後に立っているアイクを見上げる。
その両手には、彼の片手にスッポリと収まりそうな程、とても小さな猫が両脇の下を抱えられ、両脚をプラーンとぶら下げた様な格好で、キョトンとした顔をしてロナードに抱かれていた。
彼の足元には、母猫だろうか。
あまり体の大きく無い、少し痩せた猫が鶏肉を茹でた物だろうか、地面に置かれているそれを、脇目も触れずに無心に貪っていた。
「……なに……してるんですか?」
てっきり、強い日差しに気分が悪くなり、蹲っているのかと思ったアイクは、自分の想像とは違う状況に戸惑いながら、徐にロナードに問い掛けた。
「え……いや、見ての通り、母猫に餌をやってるんだが……」
ロナードも、何故か物凄く焦った様子でアイクが駆け寄って来たので、子猫を抱いたまま、戸惑いの表情を浮かべながら答える。
「は?」
ロナードの返答を聞いて、アイクは思わず間抜けな声を上げ、目を点にした。
「来るのが遅いので、何かあったのではないかと心配して来てみれば……貴方ね……」
遅れてやって来たエルフリーデは、呆れた表情を浮かべ、ロナードに言った。
「え……」
ロナードは、戸惑いの表情を浮かべながら呟く。
「はあ……驚かさないで下さいよ。 こんな所に蹲ってるから、てっきり、気分が悪くなって動けなくなってるのかと思いましたよ」
アイクは、深々と溜息を付いてから、額に片手を添え、ロナードに言った。
「何か御免……」
アイクの様子を見て、ロナードは申し訳なさそうに言った。
「全く……」
エルフリーデも、呆れた表情を浮かべながら呟いてから、
「それは、何処から拾って来まして?」
母猫を見下ろしながら、少し苛立った口調でロナードに問い掛ける。
「いや……拾って来たんじゃ無く、温室の中に迷い込んで来ていたんだ。 その時は酷い雨だったし、今にも子供か生まれそうな感じだったから……放って置けなくて……」
ロナードは、叱られた犬の様な表情を浮かべつつ、ちょっと腹を立てている様子のエルフリーデに説明した。
「はあ……」
エルフリーデは片手を額を当て、呆れた表情を浮かべながら、溜息を付いた。
「もしかして……ここは猫を入れては駄目だったのか?」
ロナードは、戸惑いの表情を浮かべながら、エルフリーデに問い掛ける。
「そう言う訳では無いですけれど……貴方の事を良く思っていない人が、貴方がこの子たちを世話していると知って、猫に危害を加える可能性も有りますもの……。 あまり関わらない方が良いのではないかしら? 可哀想ですけれど」
エルフリーデは、複雑な表情を浮かべながら、ロナードに説明すると、それを聞いたロナードは沈痛な表情を浮かべ、自分が抱いていた子猫を優しく地面の上に下ろした。
「ここは、そう言う倫理とか慈愛などを持ち合わせない、冷たい人たちも、沢山居る所ですから……」
エルフリーデは、複雑な表情を浮かべながら、そう付け加えた。
「……分かった。」
ロナードは、悲しそうな表情を浮かべながら、隠れていた茂みの下からヒョッコリと顔を出し、母乳を貰(mモラ)おうと、まだ覚束無い足取りで駆け寄る子猫たちに目を向けながら言った。
(はあ……もうすっかり絆されてるじゃない……)
ロナードの表情を見て、エルフリーデは心の中でそう呟くと、呆れた表情を浮かべる。
「でも、そうですわね……。 鼠の駆除係りとして、この親子を置けないか、聞いてみたらどうかしら?」
エルフリーデは、寂しそうなロナードを暫く見てから、思い出した様に唐突にそう言った。
「え?」
ロナードは思いがけぬ言葉に、驚いた表情を浮かべ、思わず彼女の方を見上げた。
「そう言う役職がありましてよ。 首輪を付けている猫は鼠捕りの役職を与えられていて、宮廷……更に言うとは皇帝陛下の所有物ですので、宮廷内に居ても誰も文句は言えませんし、傷付けるなんて以ての外ですわ」
エルフリーデは偉そうに、自分の胸の前に両腕を組んでから、何故か照れ臭そうな様子で、自分を見ているロナードから視線を逸らしつつ、ぶっきら棒な口調で言った。
「おお!」
それを聞いて、アイクが嬉しそうな顔をして声を上げる。
「そう事を管轄しているのは何処だったかしら……。 セレンディーネ殿下にお伺いすれば分かるかしら?」
彼女は思い切り眉間に皺を寄せ、額に片手を添えながら、ロナード達にそう語る。
「エルフリーデ……」
彼女の思いがけぬ言葉に、ロナードは驚いている様な、それでいて嬉しそうな表情を浮かべながら、彼女を見ている。
「私も実家に犬を飼っているの。 メリって言う白いフカフカの毛の小型犬で、私が幼い頃に買ってもらったから、もうヨボヨボのお婆ちゃんなのだけど……」
そんなロナードの視線に、エルフリーデは照れ臭そうにしながら、自分の愛犬について語った。
「そうなんですね」
アイクは、ホッコリとした表情を浮かべながら言った。
寺院が管轄する施設で、幼い頃から集団生活を余儀なくされ、個としての自由や時間は殆ど無かった彼だが、伝令などの為に、犬や鳩、鷹等の猛禽類の世話をした経験があり、動物は好きなのだ。
「……猫はそんなに好きでは無いけれど……。 人なりに小動物を慈しむ心はありましてよ」
エルフリーデは、ちょっとツンと澄ました態度で、ぶっきら棒にそう言った。
「セネトに聞けば良いんだな?」
ロナードは、嬉しそうな表情を浮かべながら、エルフリーデに問い掛ける。
(な、なによ。 その笑顔! たかが猫位で、そんなに嬉しそうな顔しないでよ!)
ロナードの満面の笑みを見て、エルフリーデは鼓動が早くなるのを感じつつ、微かに顔を赤らめながら、心の中で呟いてから、
「そ、そうですわ」
軽く咳払いをして、平静を装い、淡々とした口調で彼女は答える。
「分かった」
ロナードは、嬉しそうな顔をしてそう言うと、徐に立ち上がると、魔術師たちの詰め所に向かう為、歩き出した。
「有難う。 エルフリーデ」
ロナードはふと足を止め、自分の後ろに居たエルフリーデに向かって、ニッコリと笑みを浮かべながら言った。
「べ、べ、べ、別に貴方の為じゃ無く、そこの猫の親子の為でしてよ」
エルフリーデは顔を真っ赤にしつつも、ロナードから目を逸らし、素っ気ない口調で答えた。
「へへへへ……」
エルフリーデの言動を見て、アイクが嬉しそうにニヤニヤと笑っていると、
「な、何ですの?」
エルフリーデは、顔を赤らめたまま、ムッとした表情を浮かべ、アイクを見る。
「エルフリーデ様も何だかんだ言って、良い人ですね」
アイクは嬉しそうにそう言うと、ニッコリと笑みを浮かべる。
「――ッ!」
アイクにそう言われ、エルフリーデは顔を真っ赤にすると、思わず視線を彼から逸らした。




