後編。
「これで、2人きりだ」男がささやく。
「そ、そうですね」棒読み気味で女が答えた。緊張しているのが手に取るように分かる。
「なんで、そんなに離れるの?」
「そ、それは、ひ、久しぶりに会ったからよ」
「でも、僕はずっと君のことを――」
「わ、わたすも、あな、あな、あなたの――ごめんなさい!私やっぱり無理です!」
顔を真っ赤にした坪井がマイクの前でしゃがみ込んだ。
仕切り窓の向こうではヘッドフォンを着けた惇子が必死で笑いを堪えている。
「いや良かった!良かったですよ坪井さん!!」
「でも、これ、恥ずかし過ぎません?」
「恥ずかしいぐらいが……あ、少し待って下さい」イケメンボイスのままだったグリコが声を元に戻す「恥ずかしいぐらいが丁度良いんですよ。聞いてる方も」
突然の結婚で来れなくなった佐倉サカエの穴を埋める方法は2つ。
1つは脚本の修正で、こちらは梶山が別室で鋭意作業中。もう1つは代役を立てることだが、
「坪井さんってカワイイ声してるよね」と、惇子が発言、
「そうですね。お兄さんが好きそうな感じです」と、グリコも (調子に)乗り、
「試しにやってもらえる?」と、梶山から直々のお願いもあり、
「試しになら――」と、現在に至っている。
まあ、何故坪井が断らなかったのかについてはこれまでの流れから大体察して頂けるかと思うが、とにもかくにも彼女は編集者なのである。
「なら、今のシーンは飛ばして、シーン7からやる?」と惇子。
「ですね。坪井さんのセリフも少ないですし」
「じゃあ坪井さん。先に一度目を通して貰えます?」
「――やっぱりやらなきゃダメですか?」
「読んでみて貰ってダメそうなら考えますよ」と惇子は言ったが、坪井の押しに弱いキャラクターを把握しての発言だろう。
「ところで先輩。サカエさんのお相手って?」
「名前は聞いたけど全然知らない人」
「サカエさん、まだ若いですよね?」
「年は私のふたつ上だから、25か6――でも、あの人も『恋多き乙女』だしなあ」
「ヒロインへの感情移入スゴイですもんね」
「まあ、私は坪井さんの初々しい感じも好きだけど――あれ?坪井さん大丈夫?」
そこには再び顔を真っ赤にして固まっている坪井が立っていた。
「――これ、大丈夫なんですか?」
「局のコードには触れていないはずですよ」
「お兄さんもチェックしながら書いてると」
「でも、だって、これ、明らかに女性から男性のあれを――その、」
「ああー」惇子とグリコが同時に得心したと云う声を上げた。「……そういう意味なんだ、ここ」――君たち分かってなかったのかね。
「さすが向学館」
「三流大の私たちとはレベルが違いますね」
「それにこれ、」言い難そうに坪井が続ける。「確かに文体は梶山先生っぽいですけど、中身は全然、別の人が書いたような」
「いや、兄貴にだってそういう面はあるから」
「ちょっとエッチな脚本だって、」
「そんなことありません!」突然、坪井が持っていた脚本を机に叩きつけた。
「梶山曹節ですよ?『セタチュー』の」
ちょっと、おいおい、坪井?
「全国の全世界の読者が先生の純愛小説を待って、読んで、涙を流しているんですよ?」
確かに、それだけを望んでいる読者もいるけどさ。
「それなのに、こんな――こんな全然純愛じゃないもの書いてちゃダメじゃないですか」
でも、そこまで言う権利はあなたにはない。
「私は『セタチュー』の!純愛小説家の梶山曹節が好きなんです!」
そして、それは決して言ってはダメ。
「あの、坪井さん」
「なんですか!!」
「仕切りの向こう、お兄さんが――」
特に、作家本人の前ではね。
「手直しが出来たから持って来たんだ。絡みを減らして惇子とグリコくんだけでもいけるようにしてみた」
「あの、先生、私――」
「ごめん。それでも、こっちも僕なんだよ。坪井くん」
なにしろあなたも、編集者なんだから。
*
録音部屋での一件からしばらくの間、坪井東子は客間のソファで仮眠を取らせて貰った。
終電が終わっていたとは言え、タクシーの一つも呼べないことはなかった。
けれど、惇子とグリコの希望もあり、そして何より自身の中のわだかまりもあって、彼女はこの場から逃げることを良しとしなかったのである。
惇子が貸してくれた毛布と枕にはこの家の匂いが染みついていて、彼女は夢の中で梶山曹節の小説を初めて読んだ時の事を想い出していた。
夢の中でも、涙を流していた。
*
明け方4時。客間に入って来た森永の気配で坪井は目を覚ました。
「坪井さん、起きてますか?」
「森永さん?――収録は?」
「終わって、今、先輩が調整してます」
「――先生は?」
「コンビニです。朝ごはんの買い出しに」
「私、さっきは――」
「いいえ、こちらこそふざけ過ぎてしまって――お好きなんですね?」
「えっ?」
「お兄さんの小説。私は脚本しか読んだことないですけど」
「あ、ええ、はい、好きなんです――小説」
「だから、でも、これ、」
「プレーヤー?」
「私たちの音源が入ってます」
「でも、私、」
「聞いてみて下さい。私もお兄さんには泣かされた一人なんです」
そう言ってグリコ・森永久美子は笑った。この笑顔がどれほど珍しいモノであるか坪井はまだ知らなかったが、多分、惇子に言っても信じては貰えないだろう。
*
玄関の扉を開けて外に出ると、世田谷の朝には霧が立ち込めていた。
この時間、梶山家の周りで聞こえるものと言えば新聞配達のバイクの音とサヨナキドリの歌声ぐらい。佐野元春の『サムデイ』でもBGMにかけて貰いたいところだが……私の年がバレてしまうだろうか?
「坪井くん?」買い物袋を手にした梶山が玄関前の彼女に気付き、駆け寄ろうとして少しためらう。
「先生」代わりに坪井が梶山の方へ駆け寄って行く。ほんの少しだけ、息を弾ませて。
「起きたんだね?」
「――さっきはすみませんでした」
「いや、僕も大人気なかったと思う」
「でも、先生――の小説に対する私の気持ちもウソではないんです」
「それは分かっているけど、」
「でも、さっき、森永さんから皆さんの音源を聞かせて頂いて、」
「――森永くんから?」
「森永さんも先生の脚本で泣いたって――それで、わたし想い出したんです」
「――ちょっと待って、森永くんが?」
「――なにかおかしいですか?」
「あ、いや――それで?」
「『セタチュー』の頃のインタビューで、先生、こんなこと言っていたんです」
さて。ここでそのインタビューの内容や坪井の想い等を延々と書き述べることも出来ないことはない。ことはないが、それはあまりにも無粋と言うものだろう。彼――幸か不幸か純愛小説家として世界に名を馳せてしまった若かりし頃の梶山曹節が言いたかったのは、ただこういうことなのだ。
「愛にも、色々な形があるはずだ」
*
と云うことで、向学館文芸部所属・坪井東子 (27)は悩んでいた。
と云うのも最近、彼女の担当作家であり向学館きっての人気純愛小説家でもある梶山曹節 (36)についての怪聞・醜聞が部内を飛び廻っていたから――ではなく、担当作家の別の一面を彼女が見付けてしまったからである。
つまりそれは、これまでの彼のブランドイメージを壊すことなく新しいステージに――出来れば二人の力で――上っていける可能性が示されたと云うことでもあるし、それが出来た時に初めて、本当の意味での編集者になれることに気付けた――と云うことでもある。
だからこの私、梶山曹節のような大作家先生を坪井のような小娘に担当させて来た向学館文芸部長の私・本田文代 (51)としては、彼女の成長を言祝ぎつつ、この「ちょっとエッチなオーディオドラマ」の幕を引きたいところなのだが――もう少し続くようですね。
*
「いやーん、お兄さん、会いたかった~」と、突然梶山に抱き付く一人の女性。
「さ、佐倉くん?」と、動揺する梶山。
「サカエ!あんた、熱海は?」と、叫ぶ惇子。いつから立ち聞きしていたんですか?
「待ってくれ、サカエ。俺が悪かった!」と、叫ぶ男――って、誰だお前は?
「うっさいわね。旅館の女中に色目使いやがって」と、これが佐倉サカエか。「うーん、やっぱここは良いわね。まさにホーム・スイート・ホームって感じ」
「まあ、気持ちは分かりますけど」と、グリコ。あなたも立ち聞きしてたのね。
「先生、行きましょう!」と、梶山の手を取る坪井。若い子は大胆で良いわね。
「え、ちょ、ちょっと」
と、まあ、今回の物語はこんなドタバタの内に終わるわけだが、この物語の続きは梶山・坪井の両名に委ねたいと思う。希望も不安ももちろんあるが、なにしろ、彼女は編集者なのである。
(おしまい)