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前編。

 向学館文芸部所属・坪井東子 (27)は悩んでいた。


 と云うのも最近、彼女の担当作家であり向学館きっての人気純愛小説家でもある梶山曹節 (36)についての怪聞・醜聞が部内を飛び廻っていたからである。


 曰く『複数名の若い女性を夜な夜な自宅一軒家に招き入れてる』だの、


 曰く『その一軒家から夜中・明け方近くに怪しい声が聞こえてくる』だの。


 もちろん、このような流言飛語を真に受けるような坪井ではなかったが、それでも可能性は検証しなくてはならない。


『若い女性というのは年の離れた妹さんとそのお友だちのことね、多分。大学を出たばかりとかだし、若い女の子たちなら明け方近くに奇声を上げることも多分あり得るでしょう――うん。何も問題はない。多分』


 また曰く『妹さんとのインセスト・タブーを破っている』だの。


『いや、まさか、そんな、先生に限って』と坪井は思ったが、怪しい部分もあると言えばあるような気はする。


『たしかに妹さんってボディタッチ多めだし、人の間合いに平気で踏み込んで来るタイプだし、言われてみれば先生との距離も妙に近過ぎたような気が――』


 まあ、坪井がここまで悩む理由も分からないでもない。


 なにしろ梶山曹節と言えば十二年前に発表した純愛小説『世田谷の中心で愛を叫んだケダモノ (以下、セタチュー)』が世界累計6千万部 (!)を記録し、世間での評価も『純愛と言えば梶山、梶山と言えば純愛』という感じで固定されている聖人君子的タイプの作家なのである――まあ、だから、口の悪い批評家連中からは「人間の真実が描けていない」だのなんだの言われたりもしているのだが、これはまた別の話。


 なので、そんな彼に「複数名の若い女性」だの「インセスト・タブー」だのと言ったスキャンダルでも出た日には日本だけでなく世界を揺るがす大騒動にもなりかねない。


『ここは私がことの真偽を確かめなければ』


 と云うことで、そう坪井は決心した。


 業務範囲を大きく越えている気がしないでもないし残業代は下りないだろうが、まあそれも良いだろう。なにしろ彼女は編集者なのである。


     *


 と云うことで、ここは東京・世田谷にある梶山曹節の自宅前。時間は夜の9時を少し回ったところであり、周囲を徘徊する怪しい人影はもちろん坪井東子である。


『勢いで来ちゃったけど「ことの真偽」ってどう確かめればいいのかしら?』


 ここに来るまでに当然思いついておくべき疑問をいまさら思いつくのが坪井らしいと言えば坪井らしいが、そう言えば、


『何故、梶山のような大作家先生を自分のような小娘が担当しているのか?』


 と云う当然あって然るべき疑問についても未だ彼女から質問されたことがないが――と、どうも現場に動きがあったようだ。


「ちょっと、むこう向いててよ」玄関向こうの部屋の窓から艶かしい女性の声が聞こえて来たのである。


『え?!』以前坪井がお会いした時とは印象がかなり異なってはいるが、この声はたしかに梶山の妹・惇子の声だ。


「だいじょうぶ、見ているだけだから」女性の声に続き今度はいやに艶っぽい男性の声がしたが、これは……


『先生?』こちらもいつもと印象が大きく異なるものの、間違いなく梶山本人の声である。


「だって、恥ずかしいよ」


「そんなことないよ」


「ちょ、ちょっと、じっと見ないでよ」


「手、邪魔かな」


『いやいやいやいやいやいや。え?なに?わたし半分冗談のつもりでここに来たんですけど?いや、でも、まさか、あの梶山先生にかぎって?』


「これなら恥ずかしくない?」


「――うん」


『いや「――うん」じゃなくてさ。そんな声に出してやるもの?普通?って普通が何かサンプル数が少ないワケですけれども』


 あのな坪井。そう云う問題ではなくない?


『そ、そうよ。問題はそこではないわ――けど、それでもやっぱり、たとえ兄妹間であったとしても、こういう事柄は全くの個人の自由でありまして、』


「じゃあ、今度は私の番ね」


『でもでもでもでも、やっぱりなんかヤダ。私はヤダ。だって梶山曹節と言ったら――』


「あの、すみません」坪井が何かを口走るが早いか彼女の背中を叩く者がいた。


「キャー!」あまりにも突然のことに (と彼女には思われたのだ)坪井の叫びは世田谷中に響いた。


     *


「ちょっとエッチなオーディオドラマ?」


 と、阿呆の子のような顔で坪井が言う。ここは梶山家1階書斎――を改造した録音スタジオである。


「そう。ちょっとエッチなオーディオドラマ」


 書き物机のうえに置かれたノートパソコンで音声データを加工しながら梶山惇子 (24)が言う。先ほどまでの艶かしい声とは一転、少年のような声と喋り方である。


「ここで収録してるんです」全員に缶コーヒーを配りながら森永久美子 (21)――坪井の背中を叩いた女性だ――が説明する。「その、皆さんの言う、ちょっとエッチなオーディオドラマを」


「ちょっとエッチなオーディオドラマ??」坪井が繰り返して尋ねる。


「そう。ちょっとエッチなオーディオドラマ」缶コーヒーを開けながら惇子も繰り返す「ね?グリコ」


「そうですね。お兄さん脚本のちょっとエッチなオーディオドラマを収録しています」持って来ていた買い物袋からチョコクッキーを取り出しながらグリコ・森永久美子が返す。今、彼女、結構大事な事を言いましたね。


「君たち『ちょっとエッチな』って言いたいだけになってないか?」と、スウェットにドテラ姿の梶山は言う。とてもではないがベストセラー作家には見えない。


「あの――」チョコクッキーを分けて貰いながら坪井が手を挙げた。


「なに?」と梶山。


「さっき森永さん『お兄さんの脚本』――って言われました?」


     *


 ことの起こりは数年前、梶山惇子が某大手動画サイトにBL考察チャンネルを立ち上げたところにまで遡る。


「でも考察だけじゃ登録者増えないのよ」そこで始めたのが二次創作のオーディオドラマだったワケだ。


「私はその時にハンティングされました」女性出演者だけのBLドラマというのもそれほど珍しいものではないが、後に『七色グリコ』との異名を馳せることになる森永のボイスに登録者数が激増、チャンネルは異様な盛り上がりを見せることになる。


「そこで惇子が調子に乗って」


「調子に乗ったわけじゃないわよ。好きなことを好きなようにしただけよ」


 この『好きなこと』の詳細はとてもここに書ける類の物ではないが、登録者数の激増よりもチャンネルの閉鎖をサイト側が選んだ――と云う事実から諸々の事情を察して頂ければと思う。


「でも、捨てる神あれば拾う神――かどうかは微妙ですが」グリコのファンの一人に某深夜ラジオのディレクターがおり「BL要素なしで『ちょっとエッチなオーディオドラマをしてみないか?』と打診されたんですね」


「でも、ラジオに流すには私のシナリオじゃ弱いらしくて」と惇子が続ける「それで、兄さんに脚本を頼んだってわけ」


「そしたら、これが大反響を呼びまして」


「もちろん、僕の――梶山の名前は伏せてたんだけど」シリーズ化され、深夜ラジオ界では久々の大ヒットとなっているのだそうだ。


「で、今夜は明日の朝締切り分の録音なんだけど」と惇子「実はもうひとり仲間が」


 タッタカ、タッタカ、タッタカ、タッタカ。


「ごめん。噂をすればね――はいはーい。うん?グリコは来てる。アンタは?」


 電話に出る惇子の横で梶山が坪井を手招きする。


「さっきの脚本のことなんだけど」


「ちょっとエッチな?」


「それ――まあ良いか。その脚本だけど、やっぱり梶山の名前のこともあるし、口外法度でお願いしたいんだ」と、子どものような瞳で梶山が言う。いつもの事ながらこの瞳で見つめられると坪井は断れない。


「分かりました――口外法度ですね」なにしろ彼女は梶山の編集者なのである。


「なに言ってんのよ!」突然、惇子の怒声がスタジオ内に響き渡った。


「愛の方が大事?私にそんなこと分かるわけないでしょ!!」ツーツーツーツー。通話は終わったが惇子の体から発せられる怒気は収まりそうにない。


「佐倉くん?」と、恐る恐る梶山が尋ねる。


「サカエのやつ、結婚したって」


「へ?」


「『愛こそがすべて』って――今、熱海」



(続く)

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