名も知らねば行き処もない
寝落ちした
「な……名前?」
今初めて会ったばかりの人間に自分の名前を尋ねるとは随分頓狂な事をする女性だが、これで俺が名前を知っていたら軽くホラーだ。じゃあ俺は何処で名前を知ったんだという話にもなってくる。
「し、知りませんけど」
「……そうか。私も知らぬ。何があったかさえ不確かだが、どうやら記憶がすっ飛んでしまった様だ」
「は、はあ」
話していると調子が狂うが、身分を証明する方法が一つだけある。記憶喪失だかなんだか知らないが、これなら直ぐにでも身元が判明する筈だ。
「第二高校に行ってみれば良いんじゃないでしょうか?」
「第二高校? 何だそれは」
「何だそれはって……重症ですね……国民全体の母校ですよ。決まってるじゃないですか」
この国に籍を置く人間は全て界立第二高等学校の出身だ。例外はない。国界選挙をくぐり抜けて今の大人達は生きている。卒業を迎えれば俺も当然そうなる訳だが、凄まじい事にあの学校は過去に在籍していた生徒の記録を全て保有している。遥か昔に途絶えた服を着る女性でも、この手段を使えば確実に身元が判明する筈だ。
女性は首を傾げるばかりだった。
「……済まぬが、私はその高校とやらには行っていない気がする」
「そんな馬鹿な話ありませんよ。あそこ入るのは義務ですから」
「義務…………幾度考えてもその様な記憶がない。そもそもここは何処だ?」
「は?」
記憶喪失にも程度がある事は知っている。名前覚えてないここが何処かも分からない自分の母校さえ分からない。本当に重症だ。言語さえ忘れて喋れなくなっていたらどうなっていたか。
「……名乗れないんじゃ仕方ないか。俺は賽原蓮二です。学校が分からないなら案内…………」
言いかけて止まる。安宿先生の言葉が脳裏にちらついていた。
『君は参加義務を免除されてるだけで有権者に違いはない。その内に君を懐柔しようとしてくるだろうね』
俺は全く怖がっていないが、帰路の途中で絡まれずに済んだのは多分幸運だ。それを往復するとなると今度こそ絡まれる可能性がある。
校外で俺達は『対等』じゃない。死亡・負傷につながらなければ何をされても文句は言えないのだ。
「…………取り敢えず、俺の家入りますか?」
自分でも何を言ってるのか分からなかったが、普通に下心丸出しだった。
その格好こそ奇妙奇天烈だが、彼女の顔立ちは非常に整っている。記憶があるならともかく、ここが何処かさえ分からない女性を放置するのはいただけないという親切心……もとい下心が、俺のありえない発言を招いた。
相手がとんだ下衆野郎とも知らずに、女性はじっと俺を見つめた。夕陽に晒されたその瞳は、黄昏色の光を放ってこちらを見据えていた。
「良いのか? 私は何処の誰とも知らぬ不審者だぞ?」
「野宿させる訳にも行きませんから。ああ勿論強制はしませんよ。どうしますか?」
女性は顎に手を当てて考え込んだが、すぐに結論を出して頷いた。
「お言葉に甘えて世話になろう。かたじけない」
よし来た。
「じゃあそこが家なので上がってください」
ここから徒歩ゼロ分。手間が無くて助かるが、何故彼女はわざわざ俺の家の前に倒れたのだろう。偶然だろうか。
家に連れ込んだ俺も俺だが、この女性について考えるうちに猛烈な違和感を覚える様になった。
「ここが蓮二殿の家か……」
「最低限の物しかないんであんまり面白くないですよ」
和服だけならまだしも、履物もよく見たら下駄だ。当然そんな物がこの国にある訳がない。言葉遣いが微妙に古めかしいのもそうだが、旧世代の異物さながらの浮きっぷりを見せている。
俺の家で一番目立っているのはこの女性だ。
と言ってもこの家にテレビはなく、ベッドとキッチンとお風呂と僅かなフリースペースしかないので、マイナス方向で目立っているとも言える。
「名前思い出すまで、勝手に名前を決めてもいいですか?」
「異論はない。私も名乗るべき名が手持ち無沙汰で困っていた所だ」
「じゃあ……エツナさん。何でその恰好をしてるのかってのは覚えてますか?」
エツナ(仮)は自分の身体を見下ろす。
「…………何の問題も無かろう」
「いや、大有りですよ。だってそんな服……この国には存在しないんですから」
存在しない服を着ている上に第二高校を知らない。そもそもここが何処かも分からない。後ろ二つは記憶喪失のせいに出来るが、服ばかりは誤魔化せない。否、これらの事を総合すると、まずあり得ない結論が導き出される。
それはこの国の人間ではない、という結論。
この結論があり得るのだとしたら俺は学校の教育を疑わなければならないが、財閥のお坊っちゃんお嬢様も通う学校で偏った教育をするだろうか。あの学校が貧民から平民しか居ないならともかく、世界の支配者を決める為の選挙までする学校だ。そんな事をしたって何にもならない。
「存在しない……? では何故私はそんな服を着ている」
「俺に聞かれても困ります。まあ今日はもう休んで下さい。狭苦しい家ですけど、ベッドは勝手に使っていいんで」
「貴方はどうするつもりだ?」
無言で押し入れを指さすと、エツナは申し訳なさそうに眉を歪めた。
「……本当に良いのか?」
「押し入れをゴミ溜めか何かと勘違いしていませんか? 布団さえ敷けば案外快適ですよ」
閉塞感が欠点ではあるが、同時にここは自分の家でもあるのでそこは目を瞑ろう。ここ以上に安心出来る場所はない。もし刺客が俺を懐柔しに来たとしても居留守を使えばいい。流石に居留守を使うなという校則は無いのだから。
「じゃあ夜食にしましょうか。あんまり豪華なものは作れないのでそこは勘弁してくださいね」
「文句は言うまい。既に貴方には一宿一飯の恩がある」
「ははは、大袈裟ですね。この国は住居と食料を無償提供してくれるんです。エツナさんも記憶喪失する前は普通に暮らしてたでしょう?」
彼女は答えない。無視された訳ではないだろうが、妙に跋が悪くなってきたので俺は黙って料理を始めた。
「ごちそうさまでした…………ん?」
簡素な食事を終えて締めの挨拶をする。エツナさんは横目で俺の行動を不思議そうに見つめていた。
「何ですか?」
「それは一体何の真似かと疑問に思ったのだ。この国の風習か?」
「はあ?」
記憶喪失……記憶喪失か? 随分ピンポイントで忘れているではないか。挨拶を忘れて言語を覚えているのか。まだやってんのかよと突っ込まれた事はあるが、挨拶そのものを突っ込まれた事は一度も無い。今度ばかりは俺も違和感の方に正当性を覚えた。
「…………まあ、そんなもんです。いい時間ですしエツナさん。先にお風呂入っていいですよ」
「何と。蓮二殿は私に偉く親切だな」
「女性を差し置いて先に入る勇気はありません。俺は適当に待ってるのでどうぞ」
風呂の方向に一応掌を向けると、エツナさんは意気揚々と脱衣所の方へ向かっていった。お風呂の事はちゃんと覚えているって……おかしいぞ。
俺は見知った番号に電話を掛け、応答を待った。
「……はぁい。もしもし」
電話口にいるのは安宿先生だ。いつにも増して怠そうな声が携帯を通して聞こえてくる。
「あ、安宿先生ですか? まあ安宿先生以外番号知りませんけどッ」
「……そういう言い方をされると、私が君に口説かれてつい教えてしまったみたいだな。何か用? 事故でも起きたの?」
「いや、実は―――先生にしか相談出来ない事があって」
「恋の相談はお断りだよー」
「誰に恋してるんですか俺は。そうじゃなくてですね―――」
もう片方の手で声をくぐもらせつつ、俺は帰宅途中に起きた出来事を全て彼女にぶちまけた。最初は下心から一人で抱え込む気満々だったが、この違和感を言葉にしないともどかしさでどうにかなってしまいそうだった。
「…………着物を着た女性で、学校の事も覚えてない? それって本当に記憶喪失かな」
「記憶がないんだから記憶喪失でしょ」
「そりゃそうだ。けどそんな人が君の家の前に倒れていたというのが引っかかる。私にはどうも偶然とは思えない―――ねえ、候補者の差し金という可能性はあるんじゃないか?」
「差し金って懐柔のですよね。関連性が全く見出せないんですけど」
「買収出来ない相手によく使われる手段だよ。自分の身内を差し向けて親密にさせるんだ。それでうまいこと恋仲にでもなって身内票にしてしまおうっていう魂胆。例えば君みたいに強情な奴でも、親しい間柄の人間に頼まれたら断りにくいだろう?」
「…………えげつないなあ」
「国界選挙に勝つ為なら手段は誰も選ばないよ。勿論校則には従うけどね。それか単純に弱みを握って脅迫という線も考えられるか」
「ええ! 幾ら何でもやりすぎでしょッ。脅迫なんて校則スレスレの最低な行為ですよ!」
「…………校長先生に脅迫を仕掛けた人間の発言とは思えないね。自覚あるんだ?」
あるに決まっているだろう。選挙に参加したくないというのは俺の我儘に過ぎない。それを押し通す以上は最低になってしまう覚悟はしなければ。
「……ま、今日は一先ず慎重にね。怪しんでるって事はまだ気付かれてないんだろ」
「一応。多分。恐らく。きっと」
「頼りないなぁ。ボロを出したくないなら今日はもう寝れば? 明日、校長にでも聞きに行けば良いよ」
「そうします」
通話終了ボタンを押して、携帯を閉じる。
誰かの刺客とは盲点だったが、一体誰の刺客だろう。有力候補とされる候補者の情報を触りしか知らないので皆目見当がつかない。
シャワーの流れる音が止まり、程なくエツナさんが出てきた。