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『生きる意志を問う者』

 一定のリズムで身を揺らす振動と、床の冷たさ、長時間膝を抱えて座っていたことで体の節々から伝わる痛みに耐えながら、この狭く薄暗い空間に押し込められてからどれだけの時間が経過したのだろうかと、彼はぼんやりと思った。

 視線だけでまわりを見回すと、自分と同じように、粗末な恰好の子どもたちが、十数人座っているのが見える。

 どの子どもも、表情は(うつ)ろだ。

 最初はしくしくと泣いたり、悲痛な声で親を呼ぶ者もいた気がするが、もはや、皆疲れ果ててしまったようだ。

 どうして自分はこんな場所に居るのだろうかと、彼は思考する。

 この振動から、おそらくは馬車に乗せられているのだろうということは想像できた。

 しかし、己がどこから来て、何処へ運ばれていくのか、まったくわからない。

 というか、この思考さえも、程なく忘却の彼方に消え去ってしまうのだろうと、彼はなんとなくわかっていた。


 馬車は、時折止まっては、上背のある髭面の男が、子どもをひとりずつ降ろして用を足させた。

 外には同じような馬車がいくつも停まっており、どうやら自分たちを虜にしているのは、商隊のような集団らしいとわかった。

 手足には鎖が嵌められているため、大きな動きはできず、隙を見て逃亡などできそうになかった。

 用足しのために停車するのはあくまで馬車を走らせている大人たちのタイミングなので、時折漏らす子どももいた。

 汚物は放置され、車内には臭気が充満し、入り込んだ羽虫がわんわんと音を立てて飛び交った。

 食事は時折与えられた。

 おそろしく硬いパンで、無理に噛み千切ろうとすれば歯が欠けそうだった。

 仕方がないので、手で引き千切っては口に含み、唾液でふやかしてからどうにか呑み込んだ。

 味はまったくしなかった。


 最初に、この状況に疑問らしき思いを抱いてから、何日経過したのか。

 何人かの子どもは、ぐったりと伏したままぴくりとも動かなくなっていた。

 そのうえ、排泄物とは別の腐敗臭が漂い始めた。

 もう、排泄をする子どもはいなくなっていたが、それでも時折馬車は止まり、動かなくなった子どもから放り投げるように降ろした。


 子どもの数が半分程になった頃、にわかに外が騒がしくなった。

 馬車の振動が激しくなり、龍馬の(いなな)きと人の雄叫びが聞こえた。

 唐突に馬車が止まり、衝撃で何人かの子どもが倒れた。

 彼も、危うく床に半身を叩きつけられそうになったが、咄嗟に右手を着いて耐えた。

 ひと際大きな悲鳴が聞こえると、一転して静寂が車内を包んだ。

 小さく馬車が揺れ、誰かが乗り込んできたのがわかった。

 車内を、足音がゆっくり進む音がした。

 自分たちの面倒を見ていた男の、ごつごつという大きな足音とは違い、まるで綿の上でも歩いているかのように、音は静かに響いた。

 それでも、足音は少しずつ大きくなり、彼の前に来て、唐突に止んだ。

 彼は、床に落としていた視線を、ゆっくりと上げた。

 すると、服も肌も髪の毛も、すべてが真っ白な女が、自分を見下ろしていた。

 白の中で、赤い唇と、紫色の瞳が、強く目を引いた。

 顔立ちは、記憶のない彼にもそうとわかるほど、比類がないほどに美しかった。

 直感的に彼は、女が人間でないことを悟った。

 では何者なのか。

 もしかしたら、死そのものなのかもしれないという想念が頭を(よぎ)った。

 もしそうだとすれば、こんなに美しい死とは、()むべきものではないのかもしれない。


「ほう……これは興味深い」


 彼を見下ろしながら、鈴を転がすような、澄んだ声で女は呟いた。


「この子ども……汚染魔素に適応している」


 彼には、女がなにを言っているのかわからない。

 ただ、彼女が己に興味を持ったらしいということは、なんとなく理解できた。

 女は、めずらしい動物を観察するように、ゆっくりと身を屈めて、彼の顔を覗き込んだ。


「おまえ、生きたいか?」


 問われて、彼は戸惑った。

 彼女が死そのものであるという己の荒唐無稽な思考は、ひょっとしたら真実であったのかもしれないと思ったのだ。


「〝生きる〟というのは、ただ命を繋ぐということではない。生存したいだけなら、このまま黙っていれば、外の連中がすぐに救助してくれる」


 やはり、自分の考えは、単なる妄想だったようだと彼は気付く。

 女は、なにか難しい問い掛けをしているようだ。

 幼い以前に、衰弱のため思考がまとまらない彼には、女の言葉の意味するところを推しはかることなどできない。

 ただ、この問いに対する答え次第で、自分の未来が大きく変わるということが、どういうわけか彼には理解できた。


「心して答えろ……おまえは、人の運命を翻弄(ほんろう)し、気まぐれに命を奪うこの世界の理に抗う、自らの意志で〝生きる〟ことのできる存在としてありたいか?」


 彼は、細く息を吸い込み、掠れる声をどうにか絞り出す。


「…………ぅ……生き(あり)、たい」


 自分自身でさえ聞き取れたか怪しい小さな声だったが、女は薄く微笑むと、彼を抱き上げ、他の子どもたちには目もくれず、馬車から降りた。

 馬車の外では、軍装の人間たちが、身形の悪い男らを捕らえ、他の馬車から子どもたちを降ろしていた。

 地面には、屍がいくつか転がっている。

 軍装の人間たちに抵抗して殺されたのだろうと彼は察した。

 女は、他の軍人たちに指示を出している三白眼の男に近付いた。


「サクヤか。その子どもは?」


 男に問われ、女は彼の乗せられていた馬車を顎で示した。


「あそこから保護した。他にも子どもが残っているから助けてやるといい」

「そうか。わかった」

「それとな、この子どもは私が貰う」


 男は(まゆ)(ひそ)める。


「貰うというのは――」

「育てるという意味だ。なにか別の用途に使ったりなどしない」


 男は微かに逡巡した様子を見せたが、小さく溜息を吐くと、口元を歪めながらも頷いた。


「わかった。どうせあんたには誰も逆らえん。好きにするがいい」



 軍によって一網打尽にされた人狩り商団の馬車の一台からは、後に、()()の名簿が発見され、彼の名前が発覚した。

 クレス・ナイアというその子どもは、しかし、何ヶ所も転売されて来たらしく、何処で捕らえられたのか調べることは叶わなかった。

 他の子どもにしても、故郷や親元に返された者は一割程度にとどまり、残りはティファニア国内各地の孤児院に預けられたり、里親に出されたりした。

 クレスは、自分を引き取った人ならざる女に王都まで連れ帰られ、側壁塔で彼女の身の回りの世話をしながら、魔法とは似て非なる不思議な術理を教え込まれていった。




 王都北門前の大通りから続く緩やかな坂を登って来た鳥馬が、少しずつ速度を落として立ち止まると、リエッタの後ろに乗っていたクレスが身を(ひるがえ)すようにして降りる。

 着地すると、曲げた膝を伸ばしつつ、馬上のリエッタを見上げる。


「送ってくれてありがとう、リエッタ。それと、さっきは本当にごめん」

「も、もういい。私も言い方が悪かったし。ってか何回謝るのよ」


 リエッタは一度そっぽを向くが、一瞬考えると、おずおずとクレスに顔を向ける。


「サクヤさんのことは別にしても、なにか困ったことがあればいつでも頼って来なさい。私じゃ頼りないっていうなら、他の人でもいいから」

「それはありがたいけど……でもどうしたの急に」

「べつに急にじゃないわよ。前から思ってたの。あんたの人間関係って、自分とサクヤさんで完結しちゃってるでしょ? そりゃ他にもかかわってる人はいるんでしょうけど、私も含めて眼中にないって言うか……」


 リエッタを見上げるクレスは、核心を突かれ、内心動揺する。

 たしかに己は、師と自分と、それ以外を明確に分けて見ている。


「あんたは賢いし器用だから大抵のことは自分ひとりでこなせちゃうんでしょうけど、普段から人に頼れるようにしとかないと、いざって時に困ることになるわよ? それに、いろんな人と繋がらないと、世界は広がらないから」

「それ、シェジアさんの受け売り?」

「ぐっ。なによ! 悪い! とにかく、忠告はしたから! なにか困ったことがあったら……ううん、べつになにも無くてもいいから、いつだって訪ねて来なさいよ。いいわね?」

「うん……ありがとう」


 リエッタは今度こそ顔を背け、手綱を操りながら言う。


「それと! 次こそは私が勝つから! その時は、あんたが私に奢るのよ!」


 クレスの返事も待たず、リエッタは鳥馬の横腹を蹴って走り出す。

 その後ろ姿を見送りながら、クレスは小さく呟いた。


「それは、無理だと思うな」

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