第四百五十四節 『虚無』
夜空の一部は雲に覆われているとはいえ、月と星は地上を照らしており、陽が沈んでなおティファニアの空は濃密な藍色に染まっている。
その中を、漆黒の濁流が南の彼方に向かって伸び、空間の拉げる悲鳴のような音は、大陸の端にまで響き渡った。
ほんの五秒にも満たない放射を経て、ミツキの手から放たれた重力波の束は収束する。
ひと息ついたミツキは前方へ目を凝らすも、視界は定まらない。
空間の歪みが戻らないのか、極限まで圧縮された大気が放つ高熱ゆえか、重力波の軌跡が陽炎のように揺らいでおり、魔素の知覚能力もうまく機能しない。
しかし、その現象が徐々に収まると、ミツキの口元に引き攣った笑みが浮かんだ。
「………………おい、マジか」
重力波を受ける直前と同じ位置に、魔王は浮かんでいた。
その体には傷ひとつ付いていないどころか、衣服の乱れすら見られない。
「無傷って……あるのか、そんなこと」
今の攻撃で斃せるとは思っていなかったが、さすがに効果なしとは想定外だ。
先程までミツキは、白炎と不温度による熱応力も、際限なく撃ち込まれる〝屑星〟も、魔王にまるで通じないのは、黒髪の男の肉体の頑強さゆえだと考えていた。
しかし、今のがまったく通じないとなると、他になんらかのカラクリがあるとしか思えない。
「見事だミツキ。やはり天龍の〝咆哮〟も会得していたな。しかも、単純に魔力の差ゆえか、オリジナルよりもだいぶ高出力だ。天龍から放たれた〝咆哮〟はトリヴィアの肉体でも耐えられたが、今のを食らえばきっと無傷ではいられなかっただろう」
「今のおまえの体だって肉と骨でできてんだろうが。どうしてあんな攻撃を耐えられるんだよ。おかしいだろ」
魔王はミツキに視線を向けたままほくそ笑む。
「ああ、いいなあ……おまえの体から発散される負の感情が、いっそう濃密になったのがわかるぞ。切り札が通じず落胆したのだな?」
ミツキは舌打ちだけして返答はしない。
今はなにを言っても魔王を喜ばせる気がする。
「知りたければ教えてやる。どうして私があれほどのエネルギーを浴びて無事だったのかを。速い話が、この男の特性によって、我が身に受ける〝咆哮〟を消したのだ」
「特性?」
「そう、たとえばミツキ、おまえなら念動、あるいはそれを極めることで獲得したらしい魔素の操作能力。絶影獣なら大気の支配、獄落鳥なら熱と炎、不凍體なら極低温、蜃楼妓なら精神支配、天龍なら重力操作、他にも魔族や異世界人、一部の人間の〝祝福持ち〟が持つような、個体特有の能力がこの身にも備わっているのだ」
魔王は右手を突き出し、人差し指を立ててみせる。
その先端に、黒い点が出現する。
一瞬、圧縮した汚染魔素かとミツキは思うが、すぐにまったくの別物だと悟る。
魔素の探知を働かせても、なにも感じとれない。
そしてすぐ、目の前の現象の異常さに気付く。
魔法とは魔素によって引き起こされる。
つまり魔王が使おうとしているのは、魔法の類ではない。
というか、この世界の万物に、魔素が宿っているのに、その魔素がまったく感じ取れないということ自体があり得ぬ話なのだ。
そう考えると、黒い点に見えるのは、実際にそう色付いているわけではなく、おそらく光すら受け付けない、完全な〝無〟だからではないか。
そこまで思考したところで、ミツキの背筋に悪寒が走る。
今、己はなにか、途轍もなくヤバいものを前にしているのではないか。
動揺するミツキの姿に満足したのか、魔王は口の両端を高く釣り上げながら伝える。
「今からこいつで攻撃してやる、が……受ければおまえはそこで終わる。だから、避けろよミツキ」
魔王が己を指さすのと同時に、ミツキは翼から噴き出している炎の勢いを微調整することで、正面を向いていた体を横へ開く。
その胸の前すれすれを、黒い線が伸びた。
線は大気によって減衰することもなく遥か遠方まで伸び、王領の西北西、第二副王領に聳える山の頂付近に命中した。
幻獣の視力を得ているミツキは、夜間であっても遠方まで見渡すことができる。
その視力で辿った黒い線の先に、巨大な穴のようなものが出現したのを認め、驚きのあまり一瞬呼吸が止まる。
さらに、魔王の指先から伸びた線が消えた直後、全身に強烈な空気の流れを感じ、凄まじい勢いで穴の方へ引き寄せられた。
「な、んだ!?」
咄嗟に翼の炎を強く吹かし、体勢を立て直しつつ、絶影獣の能力で己の周囲に気流の隙間を作る。
なにが起きたのか確認しよう穴の方へ視線を向けた途端、ギョッとなる。
穴は消え失せ、そこにあるはずの山が消えていた。
否、麓を残して半球状に抉れている。
「なにが、起きたんだ?」
高エネルギーの魔力攻撃を受け、吹っ飛んだ、ということではないようだ。
地上へ目を向けると、山の周囲の樹々が倒れているのがわかる。
ただし、樹は山の反対側ではなく、山の方へ向いている。
つまり、爆発のようにエネルギーが外へ発散されたのではなく、内に向かったのだとわかった。
「内に向かって、消えた?」
「概ね正解だ。内に向かったわけではないがな」
背後から声を掛けられ、ミツキはびくりと肩を跳ねさせる。
「…………魔王、おまえ……なにをした?」
ゆっくりと振り向いたミツキに、魔王は肩を竦めてみせる。
「今自分で言っただろう。消したのだ、文字通り、跡形もなく」
「……消した?」
ミツキはいま一度山の方を見る。
山があった場所には、土煙が大きく舞い上がって刻々とその形を変えている。
魔王の言葉を信じるなら、山が、ひょっとしたら周囲の大気も含め、完全に消えたことで、巨大な真空の空間が生じ、そこへ一気に空気が流れ込んだために、先程の急激な気流が発生し、中心付近の土砂が捲き上げられたということか。
「あ、あるいは、土砂そのものも、ある程度真空の空間に吸い上げられたのか」
いや、そんなことはどうでもいいとミツキは気付く。
つまり魔王は、物質を消滅させることができる。
「い、いや違う! 物質だけじゃない! エネルギーもだ!」
だから先程、重力波を受けてもまるで効いた様子がなかったのだ。
そして、おそらく魔王は、その気になれば己も、地上のティファニア兵も魔族たちも、一瞬で消すことができるのだろう。
「理解したようだな」
魔王は愉快そうにミツキを観察している。
「捕捉すると、この男の能力は〝虚無〟の現出だ」
「〝虚無〟?」
「おそらく、この世界ではない、どことも知れぬ場所に、果てしなく〝無〟が広がっているのだろう。それが〝虚無〟だ。この男は、ほんの一瞬ではあるが、その場所とこの世界を繋げることができるのだ」
「……つまり、消えた物質もエネルギーも、その〝無〟に取り込まれた、ってことか?」
「おそらくな。まあ私も、この男の生前の記憶の残滓を汚染魔素として取り込んだだけなので、正確なところはわかっていないのかもしれんがな」
不意に、ミツキは、サクヤが幻獣並みの力を有する白生の元となった異世界人を打倒した方法がわかった気がした。
たとえ黒髪の男には及ばずとも、くだんの異世界人の力なら激闘は必至だったはずだ。
幻獣と同等以上の力のぶつかり合いともなれば、ティファニアの国土に甚大な害を被る可能性があっただろうし、眷族である黒髪の男の屍兵を操作するサクヤも、命を落とす危険は低くなかったのではないか。
実際、ブリュゴーリュ軍との戦で、サクヤの向かった地方には、後に大きな地形の変化が確認されたが、それで済んだのはむしろ幸運だったと今のミツキにはわかる。
そしておそらく、勝負を速攻で決めたのは、黒髪の男のこの能力なのだろう。
きっとサクヤは、異世界人の死体を得るため、その体以外を〝虚無〟に吸わせたのだ。
白生の体が純白なのも、その時に色さえ失ったからなのかもしれないとミツキは推察した。