第四百五十二節 『最後の戦い』
「なにが、起きてる?」
状況を把握するため、魔素の知覚能力で黒曜宮をスキャンしたミツキは、振動の原因を特定した瞬間、動揺のため足元のバランスを崩し、その場に膝をつく。
「これは……黒曜宮を構成する王耀晶の中を、汚染魔素が移動している」
それも、一部ではなく、すべての汚染魔素だ。
そして、その向かう先が魔王だと気付いた直後、フロアの床や壁面から大量の黒い靄が吹き出した。
「くっ!」
このままでは汚染魔素に触れると判断したミツキは、自分自身と、トリヴィアを閉じ込めた王耀晶の周囲を、靄が避けるよう念動を使う。
視界一面を黒い靄が覆い、フロア中を汚染魔素が満たしたことで、魔素の探知さえ利かなくなる。
なにが起きても対処できるよう身構え警戒していると、少しずつ汚染魔素が晴れていく。
「なっ!? これは――」
視界が戻ると、フロアの様子が一変していた。
一面漆黒に染まっていた床や壁は、ガラスのような無色透明になっている。
黒曜宮になる前の、水晶宮を構成していたプレーンな王耀晶だ。
「ってことは、汚染が完全に抜けたのか」
では、黒曜宮を染め上げていた汚染魔素はどこへ消えたのか。
その答えは、ミツキの目の前にあった。
先程まで魔王が立っていた位置を中心に、濃密な闇が淀んでいる。
凝縮された汚染魔素だ。
先程、汚染魔素に侵されたミツキは、体内魔素から精製した王耀晶を還元することで、浄化に成功したわけだが、もし今目の前にある闇に触れれば、今度は問答無用で影人間化するだろうと直感する。
闇は液体のように揺らいでおり、質量さえ得ているように見える。
だから、攻撃すると周囲に飛び散りかねないと判断し、手が出せない。
「魔王はあの中か」
闇はみるみるその体積を減らし、ついには人間のシルエットになると、そのまま沁み込むようにして魔王の中へ消えた。
ふたたび姿を現した魔王は、一見すると黒曜宮の汚染魔素を吸収する前と変わらない。
しかしミツキは、鼓動が早鐘を打つように激しくなり、呼吸が荒くなるのを自覚する。
「……存在感が、格段に増したな」
これまで長く戦い続け、異世界人や魔獣、魔族も多く相手にしてきたミツキは、この世界にはシンプルな強さの指標があると気付いている。
即ち、体内魔素量の多さと、魔力の強さだ。
幻獣や、異世界人でも上位の実力者は、そのいずれもが頭抜けていた。
元より魔王はその中のトップだったが、巨大な構造体を穢していた大量の汚染魔素を回収した今、シンプルに脅威度が数段跳ね上がったとミツキは感じる。
ただ、黒曜宮から汚染魔素が抜けたということは、魔王はこの建物を支配できなくなったはずだ。
つまり、先程までのように王耀晶を操って攻撃されることはなくなる。
それどころか、魔素を操る己にとって、周囲を純粋な王耀晶に囲まれた建物の中は、このうえなく有利なフィールドになったのだとミツキは考える。
ということは、相手のパワーアップを勘定に入れても、必ずしも悪い状況ではない。
今度はこちらが地の利を生かして追い詰める番だ。
考えを巡らせることで己を鼓舞するミツキに対し、魔王は視線を落とし、自分の手を開いたり閉じたりしている。
まるで、自分の体の動かし方を確認しているようだ。
「…………この期に及んで、私とおまえにはひとつだけ利害の一致することがある」
「は?」
唐突に放たれた魔王の言葉に、ミツキは戸惑う。
「……なんの話だ?」
「戦闘に巻き込み、トリヴィアの体を傷付けたくないということだ。場所を変えるぞ」
「ぁごっ!?」
返答する前に顎が跳ね上がり、衝撃に明滅する視界が激しく揺れる。
一瞬で間合いを詰められたうえ、顎を蹴り上げられたと察する間もなく、跳躍した魔王に鳩尾を殴打され、今度は弾丸のような勢いで床に叩きつけられる。
床をバウンドしつつ、ミツキは混乱する頭で考える。
あれだけの汚染魔素を吸収しておいて、仕掛けて来るのが格闘戦とは、まったく思いもよらなかった。
黒い閃光に、汚染魔素や王耀晶の操作など、魔法的な攻撃を好んで繰り出して来た先程までとはまるで別人だ。
そういえば、トリヴィアから黒髪の男に依り代を替えてから、己の呼び方も「キミ」から「おまえ」に変わっていた。
おそらく、肉体の変更が魔王の性格や嗜好にも影響しているのだろう。
「ぶ、ごふっ!」
追撃の蹴りを脇腹に受け、ミツキはジャイロ回転しながら、黒い閃光によってぶち抜かれた壁の穴から、黒曜宮の外へ弾き出される。
「ぐっ……っそ!」
〝黒鎧〟の翼から白炎を噴き出して上昇する。
飛行しつつ、魔素の知覚能力で、自分の体に宿った魔素を介して怪我の具合を確認する。
「肋骨が四本、砕けてる」
意識した途端、激しい痛みに襲われ、生身の左半身から脂汗が噴き出る。
歯を食いしばりながら、体内魔素を操作する。
折れた骨を構成する細胞、物質、分子、原子、その原子核に宿った魔素に干渉し、粒子レベルで肉体を破壊される前の状態へ戻していく。
つまり、以前身に宿していた最上位の治癒魔法と同じ現象を、意識的に再現してみせた。
ついでに、飛行からの墜落と、王耀晶の礫に貫かれたことで負った怪我も癒し、剥落した〝黒鎧〟も再生させる。
ダメージは残っているが、形だけでも怪我を負う前に戻せたと安堵した直後、黒曜宮に空いた穴から飛び出した魔王が、ミツキを追って上昇して来る。
その背中からは汚染魔素が噴き出ており、漆黒の翼を生やしているように見える。
ホバリングするミツキの前まで上がると、魔王はいかにも好戦的そうな笑みを浮かべる。
トリヴィアに入っていた時には見せなかった表情だ。
やはり、性格が肉体に引っ張られているようだとミツキは察する。
「黒曜宮を出るから汚染魔素を回収したわけか。今度こそ本気でやるつもりみたいだな」
「そうとも。小細工なし、一対一の空中戦だ。これでおまえをねじ伏せてやろう」
「ああそうかよ。でも気を付けることだな。おまえがトリヴィアの体から出た以上、オレも加減しながら戦う必要はなくなったんだ」
ミツキは右手の爪を長く伸ばし、指先から爪先まで白炎を奔らせる。
同時に、広げた右手の内から氷の破片が飛び散り、ドライアイスを焚いたように白い煙状の気体が噴き出る。
「不凍體の液体を滲ませているのか。爪の方は、獄落鳥の炎だな」
「それだけじゃねえぞ。さっき格闘戦を仕掛けられて不覚をとったうえ、今度は空中戦でオレを討ち負かすときた。オレの潜在意識の底に沈んでいるはずの絶影獣と天龍が、すぐにでもおまえを引き裂きたがってる」
先程まではトリヴィアを救うために自分を抑えていたが、殺意を解放した途端、一部の幻獣たちの意識の残滓がミツキの中でいきり立った。
もっとも、蜃楼妓は意識の底で観戦を決め込み、不凍體についてはよくわからない。
ともあれ、おかげで魔王が黒曜宮の汚染魔素を吸収した後に覚えた動揺はすっかり収まり、激しい興奮に体が昂っている。
「おまえさ、汚染魔素に感染させた魔族共からは崇拝されてたみたいだけど、汚染魔素の影響の薄い幻獣たちからは嫌われてたみたいだな」
「奴らは闇地の主、つまり王のようなものだった。それがある日、突然侵略を受け、別の王に征服されて顎で使われるようになった。憎まぬわけがあるまい」
「オレの中の奴らが言ってるよ。力を貸してやるから、魔獣と魔族を利用した罪を贖わせろとさ」
「畜生風情が。これだから愛せないんだ」
魔王が右手で手刀を作ると、汚染魔素が細く吹き出し、刃を形成する。
左手からも汚染魔素を噴き上げ、ミツキとは対称的な構えとなる。
「獣なんぞに心を乱されるなよミツキ。人の心で私を憎み、人として絶望して死んでくれ」
「絶望するのもくたばんのもおまえの方だ。ケリをつけるぞ魔王!」
ふたりがそれぞれの翼を羽ばたかせ、白と黒の刃を交えると、闇に包まれようとしているティファニアの空に閃光が弾けた。