第四百三十九節 『魔王』
サクヤを閉じ込めた王耀晶をオメガが担ぎ上げる。
「なんだ、見た目よりぜんぜん軽いな」
「王耀晶の特性だ。サクヤは華奢だしな。あ、そっちのそれも一緒に頼む」
ミツキの視線を辿ったオメガは、床に転がっている全身を漂白したような女を見て、顔を顰める。
「サクヤの屍兵かよ。置いてってもよかねえか?」
「いや、サクヤには必要なものだ。ここに置いてったら、もう後から回収はできない気がする。オレもおまえもトリヴィアもいなくなるんだから、せめてそいつを護る手駒は残してやりたい」
「そうかよ……うぉ、冷てえな。そりゃそうか、死体だもんな」
身を屈め、拾い上げた白生を脇に抱え、オメガは立ち上がる。
「じゃあオレはこのまま黒曜宮から脱出するぜ」
「ああ……いや待て。地上から伸びてた階段、破壊しちゃったけど降りられるか?」
「問題ねえ。下のフロアを適当に壊して、残骸を地上へ落とす。そいつを足場にとび跳ねながら降りゃいい」
「ああ、なるほど。おまえならできるか」
一瞬ミツキは、自分が抱えて地上まで飛んで降ろしてやらねばならないかと考えたが、その必要はなさそうだ。
「下へ降りた後は、そのままサクヤを抱えて王都を脱出する。んで、こいつはどっか安全なとこへ置いて、フィオーレまで突っ走る」
「ミューを連れてハリストンへ行くんだったな」
「ああ。たぶんおまえとは、ここで今生の別れになんな」
「だろうな」
数秒の間、ふたりは無言で相対していたが、やがてオメガは、誤魔化すような笑みを浮かべて顔を背ける。
「へっ。湿っぽいのは性に合わねえ。ま、おめえもあいつの目ぇ覚まさせたらうまいことトンズラして身ぃ隠せや」
「ああ」
オメガはミツキに背を向け、最後に短く伝える。
「世話んなった。達者でな」
次の瞬間には、熱風を噴き上げ、炎の轍を残し、オメガの姿は消えた。
「…………おまえもな」
ミツキは身を翻すと、上階へ続く階段を登っていく。
程なく、左右を壁に挟まれると、物音ひとつしないこともあり、軍靴が床を踏む規則的な音が、いやに大きく響いて聞こえるようになる。
単独での行動は、天龍を討伐して以来だ。
殺風景な階段をひとりで進んでいると、おのずとこれまでの戦いの日々が思い出された。
「……長かった」
〝情報の祝福者〟から、この世界と異世界人召還の真実を知らされ、自分の為すべきことを見定めて以来、オメガを除けば誰にも真意を明かさずに、戦ってきた。
一部の勘の鋭い仲間を除き、ほとんどに人間は、ミツキが魔王を討ち果たして人類を救うために戦っているのだと思っていたはずだ。
同胞や同盟国の兵たちが一丸となって戦っている間も、たったひとりで、人の身では到底勝ち目などあるはずのない幻獣に立ち向かい、その都度、死の淵に立たされた。
なにかがひとつ、ほんの少しズレただけで死んでいた、ということが幾度もあった。
そんな苦痛と不安に満ちた孤独な戦いに耐えて来られたのは、ただひとりの仲間を救いたいという願いを心の拠りどころとし、決して希望を手離さなかったからだ。
そう考えた瞬間、ミツキの脳裏にふたりの人物の顔が浮かんだ。
「ああ、そうか」
想い人を救うために、周囲から見放され、トラウマを酒で紛らわせながらも、かつて死にかけた闇地へふたたび戻ることに人生を賭したレミリス。
第一王女をティファニアの頂に座らせるため、戦争さえ利用し、あらゆる犠牲を払い、最期は己の命さえ使い捨てたサルヴァ。
あのふたりも、こんな気持ちで孤独と苦難を乗り越えてきたのかもしれないとミツキは思う。
「今行くぞ……トリヴィア」
そう口にしたところで、ミツキは階段を登りきった。
黒曜宮最上階は、ドーム型の天井に覆われただだっ広い空間だった。
これまでの階と大きく異なるのは、階段の前から、赤い絨毯が真っ直ぐ伸びているところだ。
絨毯の左右には無数の柱が立ち、回廊のようになっている。
柱の大きさが尋常でないため、自分がネズミにでもなったような錯覚をミツキは覚える。
そのさらに先には、まるでピラミッドのような高さの雛壇が聳えている。
絨毯は段の最上部まで敷かれており、その行き着く先には玉座が据えられ、鎧とドレスを合わせたような衣装を身に纏った、灰色の肌の女が腰かけている。
黒を基調としながらも複雑な意匠が施された豪奢な装いは、いかにも魔王らしい。
その顔は、懐かしくも見慣れたものだった。
「……やっと会えたな」
魔王は肘掛けに右肘をつき、拳に頬を預け、身を僅かに傾けている。
彼女の左右には、金や宝石で装飾を施された武器や鎧が並べられ、壇上にも巨大な陶磁器や彫像、絵画や金銀の工芸品などが、ところ狭しと置かれている。
おそらく、大陸中の国々を攻め滅ぼした際に略奪した宝物を、猿猴将あたりが王の権威の象徴と人間への勝利の証として飾ったのだろう。
さらに、玉座の後ろには巨大な十字架が立てられており、ひとりの男が磔にされている。
その人物は黒い長髪を腰のあたりまで垂らし、顔には刺青のような紋様が浮かんでいる。
身に着けた服は、サクヤが囚人を〝蟲憑き〟にして組織したティファニア軍の治安部隊、〝影邏隊〟に支給された黒い軍装だ。
ミツキは男に見覚えがあった。
自分たちと一緒に召喚され、選別を突破するも、側壁塔にて反攻しようとしたために、レミリスの手で死の呪いを発動され、見せしめに殺された異世界人だ。
後に、サクヤが死体を回収して屍兵に仕立て、〝黒死〟と名付けて使役していたとは知らされていた。
魔王は、その〝黒死〟を闇地の奥で打ち倒した後、空中要塞の動力源として利用していたという。
しかし、王都で大量の王耀晶を得たことでその役目を終え、今は、人に似た見た目とサクヤの施した防腐処理を活かし、やはり、人の世を蹂躙してきた魔王の権威を伝えるためのオブジェに仕立てられているのだと察せられた。
周囲を仰々しく飾り立てながら、その中心で微動だにしない魔王は、彼女自身が飾り物のようだと、ミツキの目には映る。
その魔王は、どこか遠くへ視線を向け、侵入者に注意を払うどころか、気付いてすらいないようだ。
しばらく様子を窺っていたミツキは、相手に動きがないのを見てとると、玉座に向かって歩き出す。
途中、柱の影から護衛がとび出してこないかと注意するも、敵の気配はない。
どうやら、このフロアに居るのは魔王と己だけのようだ。
「護衛どころか世話役のひとりさえいないのか……これで本当に〝王〟だなんて――っ!?」
周囲へ向けていた視線を魔王へ戻した瞬間、ミツキは歩みを止める。
壇上の魔王が立ち上がり、己を見下ろしている。
その足がゆっくり前へ出され、階段を降りて来る。
警戒したミツキがその場から動けずにいると、段を半分ほど下ったところで、魔王が立ち止まる。
その顔を見て、ミツキは息を呑む。
先程まで人形のように表情の抜け落ちていた魔王は、ミツキを見つめて微笑みを浮かべた。
「久しぶりだな、ミツキ」
懐かしい声を耳にして、ミツキは己の体が小さく震えるのを自覚する。
「キミが無事でよかった……その半身は私が吹き飛ばしてしまったのだものな。ほんとうにすまなかった。あの時、私の心は闇地の奥で遭遇した、あの得体の知れない靄のようなものに支配され、破壊衝動を抑えることができなかったんだ」
魔王は胸のあたりを押さえると、一転して沈んだ表情に変わる。
「あの後、私は自分の中に入り込んだ謎の魔獣に操られるように、闇地の魔獣を率いて人の世界へ攻め入った。しかし、長い時間を掛け、少しずつ自分の意思を取り戻し、肉体の主導権を取り返したんだ。それでも、こうして今なお魔族の王として人間と敵対しているのには、理由がある」
真剣な顔で、魔王は訴える。
「件の魔獣の正体は、多大な情報に染まった魔素だった。私はそいつからこの世界についてのとても重大な情報を得たんだ。いいかいミツキ、この世界は、人間の垂れ流して来た負の感情によって汚染されているんだ。その負の感情は、魔素に干渉し、少しずつ世界そのものをも蝕んでいる。闇地はそんな魔素によって穢された土地で、魔獣も汚れた魔素の影響を受けて生まれた存在だったんだ。魔獣が人間に敵意を抱くのは、奴らが負の感情に支配されているからなんだ。そして、その穢れはこの世界にさらなる悪影響を与えようとしている。闇地の更なる拡大や魔獣の増加。そして人心の荒廃をも招くのさ。やがて世界中で戦火があがり、人類は殺し合いの果てに滅びることとなる。私たちの参加させられて来た戦いは、そのほんの兆しに過ぎなかったんだよ。そして、それを止めるには、魔族によって人類を間引いたうえ、徹底した管理統制を敷き、彼らが負の感情を発散させないような仕組みを作るしかないんだ」
魔王は額に手を当て、苦悩に歪んだ表情を浮かべる。
「私だって本当はそんな真似したくない。人も魔族もたくさん犠牲になるからね。でも、長い目で見て人類を救済するには、他に方法がないんだよ。それに、人が負の感情を生み出さなくなれば、やがて魔族への影響も無くなる。その時は、人と魔族の融和さえ実現できるはずさ。わかるかい? ミツキ。私とキミがずっと苦しめられてきた、酷く醜く残酷な人の世に終止符を打ち、この世界に真の平和をもたらすことができるんだよ」
ふたたび、穏やかな笑みを浮かべると、魔王はミツキに手を差し伸べる。
「だからミツキ。私と一緒にこの世界を正しい方向へ導いてくれないか? きっとそれが、私たちが召喚された本当の理由なんだ」
己に親しげな顔を向ける魔王を凝っと見つめていたミツキは、目を伏せ深い溜息を吐く。
そして、一瞬の間を置いて顔を上げると、笑みを浮かべる相手に向け、言葉を返した。
「初対面の相手に向かって、馴れ馴れしいぞおまえ」