第四百六節 『腐泥より湧き出でし者』
その壮年のティファニア兵は、走行中の龍馬の上で身を起こしながら、横へ視線を向ける。
すると、建物を挟んで身を隠すようにしながらも、自分と並行して走る四体の魔族の姿を捉える。
いずれも同じ魔獣種で、小柄な人間程の大きさだ。
トカゲのような見た目だが、顔立ちは人に近く、大きく裂けた口に鋭い歯が並んでいる。
口の端を釣り上げて笑っているようなその顔に、兵士はおもわず舌打ちする。
「有鱗童か……気味の悪い」
闇地低~中深域に棲息する魔獣種で、非力ながら素早い動きと、小さな群れで狩りをする習性が、冒険者や開拓民に恐れられている。
間違いなく己に狙いを定め追って来ていると兵士は確信する。
仕方ない、と胸の内で呟き、走る騎兵たちの列から外れる。
まんがいち列の中で攻撃を受け転倒でもすれば、後続の仲間を巻き込み、味方に大きな被害を出しかねないと判断したのだ。
兵士は左手で手綱を握りながら、右手に持った槍を構える。
槍型の量産型耀晶器、耀晶槍だ。
ティスマスの得物と同じデザインだが、穂先である王耀晶の色が違う。
つまり、付与されている魔法が異なるということだ。
自分を追って来ている魔族らが、僅かに後方へ下がったと兵士は気付く。
武器を構えた己を警戒し、攻撃を断念した、などということはない。
一気に襲いかかるため、助走をつける目的で距離を開けたのだと彼は察する。
兵士は柄を持つ手に力を込めると、槍を大きく振り上げ、穂先を頭上で旋回させる。
同時に、魔力を流すと、薄い水色の王耀晶が光り輝き、穂先に水が纏わりつく。
「……来やがれ」
兵士が小さく呟くと、呼応するように魔族らが速度を上げる。
そのまま間合いを詰めて来たかと思うと、近くの建物に向かって跳躍し、三角跳びで次々と兵士に飛びかかってきた。
それを待ち構えていた兵士は、大きく槍を振りながら、呪文を唱える。
「〝水刃操乱〟!」
弧を描いた穂先から飛び散った水が、極薄の刃となって魔族らを両断する。
そのうち先頭を走っていた個体は、三枚におろされ、疾走する龍馬に踏みしだかれて地面のシミとなった。
「ふう」
ひと仕事終え、兵士は息を吐く。
『おい、離れすぎだぞ。敵を始末したんなら早く戻れよ。列が乱れんだろ』
通信を受け、兵士は舌打ちしつつその仲間の方を見やる。
「うるせえな。文句を言うなら援護法撃のひとつでも――」
仲間を横目で見ながら返事をしつつ、龍馬を列に戻すため身を傾けた兵士は、急に首や腕を絞められ、馬上で仰け反る。
「かっ!?」
息を詰まらせながら、兵士は己の体に無数の触手が絡みついていることに気付く。
その触手を目で辿ると、近くの建物の窓から上半身を覗かせた、カニと人間を掛け合わせたような見た目の魔族の、ハサミの間から幾本もの触手が伸びているのに気付く。
油断した、と兵士は思う。
味方に意識を向けた僅かな隙を突かれた。
一瞬の後には、触手を引かれて地面に叩きつけられ、運良く即死するか、地面に転がったまま集まってきた魔族どもに食われて終わりだ。
覚悟を決めながらも、おもわず恐怖で目をきつく閉じた兵士だったが、どういうわけか触手が緩み、体にかかっていた力も消えた。
「かはぁ!? な、ゲホッ、なん、だ!?」
目を開けた兵士は、千切れた触手と、その使い手の魔族が肩から腹までを大きく引き裂かれながら燃えあがり、今まさに倒れようとしているのを発見する。
その視界の端を、緋色の影が駆け抜けていくのに気付き、兵士はなおも首に絡む触手を力任せに引き剥がしながら、影の正体に向け礼の言葉を叫ぶ。
「すまねえオメガ! おかげで命拾いしたぜ!」
背後からかけられた感謝の言葉を耳にし、オメガは鼻を鳴らす。
「ふん。油断しやがって。未だ序盤戦だってのにこんな調子じゃあ先が思いやられるぜ」
駆け続ける騎兵部隊と魔族との戦闘が始まってから、オメガはテトとともに、味方の遊撃に奔走していた。
今のふたりの脚であれば、長く伸びた騎兵縦隊のかなりの範囲をカバーすることができる。
同じような危機に見舞われた兵士を、オメガは既に六名救っていた。
ただし、いつまでも護ってやれるわけではない。
ミツキとともに王宮へ向かう間に、ほとんどの兵とは別れることになるのだ。
考えている間にも、ヴォリスから蟲の通信で指示を受けた後方の部隊が、列から離脱し街へと散っていく。
市街戦は比較的人間有利とは聞いているが、敵もそれなりに長く王都を占拠し、拡張された非市民区になど来たことのない兵より余程土地勘があるはずだ。
街を取り戻すといっても、そう簡単にはいかないだろうとオメガは思う。
「まあいい。こいつらも覚悟のうえだろ。オレも自分の役目を――」
独り言ちていたオメガは、鼻を大きくひくつかせると、顔を歪めた。
「……なんだ、この臭いは」
騎兵たちの進行方向に顔を向け、今一度鼻を鳴らし、呟いた。
「こいつは、腐臭か?」
騎兵を率いて駆け続けるミツキは、周囲の景色に見覚えがあると気付く。
「ここは……市場か」
異世界人に対して行われた血生臭い選別を生き延びた後、しばらくは側壁塔で暮らすことになったミツキは、監督官だったレミリスの指示で、この非市民区へ買い出しに出向き、街の不良少年たちに絡まれたのを返り討ちにして、そのリーダーだった若者らの姉で商人のイリスと知り合い、彼女に連れられこの市にやって来て、この世界ではじめて買い物を経験したのだ。
すぐに気付けなかったのは、あまりに人気がないからだ。
以前、この市場は活気に満ち、人混みで溢れかえっていた。
人や出店がないと、ちょっとした広場のようだとミツキは初めて知った。
「市場に来たってことは、拡張された区画は抜けたってことか。城壁までの距離は半分を……ん?」
走行中の馬が、小さく沈みこんだのを感じ取り、ミツキは口を噤む。
その原因はすぐにわかった。
龍馬が踏み出すたび、足が地面に深く沈みこんでいる。
しかも、急激に周囲の空気が淀み、異臭が鼻を突いた。
「これは……地面がヘドロ化してる。腐っているのか?」
「その通り!!」
妙に甲高い男の声が響いたかと思うと、前方の泥がぼこぼこと波打ち、大きく盛り上がったため、ミツキは馬の手綱を引いて急停止する。
後続の騎馬が続いて止まるも、ぬかるみに足をとられて数騎が転倒する。
「ミツキ! これは!」
隣に並んだレミリスをちらと見て、ミツキは頷く。
「ああ。他の魔族とは桁違いの魔力だ」
直前まで気付けなかったのは、この相手も地中に潜んでいたからだ。
千遍万華といい、芸のない連中だとミツキは思う。
考えている間にも、黒く盛り上がった泥が崩れ、その内から黄金色のスライムのようなものが姿を現した。
スライムは大きく脈動すると、一瞬で人のような形状に変化する。
そのフラットな顔面に、穴が開き、口が形成される。
「待っていましたよ、人の襲撃者たち。私は――」
言葉の途中で、黄金のスライムの表面が白く曇り、その動きが止まる。
ミツキが前方一帯を凍結させたのだ。
「凍らせてみたが……この程度で死ぬ相手じゃないな」
「わかっているならさっさと行け」
隣のレミリスが、馬から降りる。
「この見た目に魔力、間違いなく私が担当する〝近衛〟だろう」
「ああ、そのようだ」
ミツキは馬を方向転換させると、レミリスに短く伝える。
「死ぬなよ?」
レミリスは言葉では応じず、微かに微笑して見せる。
龍馬の腹を蹴り、ミツキは元来た方へ進みながら、兵たちに通信で伝える。
「ここはレミリスたちに任せる。オレたちは少し戻って迂回路を進むぞ」
駆け出したミツキに、兵たちは続こうとするが、その前に振り向きレミリスに敬礼する。
「ご武運を!」
そう大声で伝えて最後の一騎が走り去ると、その場には三人だけが残る。
「お嬢様、お供いたします」
「こいつ、爪は通いるのか?」
自分に歩み寄るアリアとテトに、レミリスは振り返りもせずに言う。
「こいつは私がやる」