第八節 『決死』
「……グッグ……グッグッグッ……グッグッグッグッグッグッグッグ……グッグッグッグッグッグッグッグッグッグッグッグッグッグッグッグ」
魔獣は嗤っていた。
そして、ミツキは確信する。
やはり用心のためではなかった。
嬲っていたのだ。
そして今、瀕死にまで追い詰めた獲物を前にして、さも愉快そうな笑い声をあげている。
人間という例外を除けば、これ程までに悪辣な生き物をミツキは知らなかった。
これは、もうダメかと、ぼんやりと思った。
そして、何気なく横を向いて、驚いた。
ローブを纏った首なし死体が間近に倒れている。
屍はすべて炎に焼かれたと思っていたミツキは、自分の出場前に一試合行われていたことに思い至った。
確か、甲殻類のような魔獣に頭を潰された手斧使いだ。
遺体の傍らには、確かに手斧が投げ出されている。
そういえば、とミツキは考える。
鬼女に守られ熱風をやり過ごした自分とは違い、この首なしの手斧使いは自力で魔法の巻き添えを生き残り、その後の試合にも負けはしたが善戦したのだ。
「悔しかっただろ?」
自然と言葉が口を衝いて出た。
右肘で地面を押すようにしながら、上体を起こす。
派手に吹っ飛ばされたためか、魔獣との距離は随分開いていた。
脇腹に視線を移し、手で触って確認する。
衝撃でさらに多くの血を流したようだが、内臓は飛び出していないようだった。
体を引きずるようにして立ち上がり、死体の傍に落ちている手斧を拾う。
そのまま屍にも手を掛けると、纏っているローブを手頃なサイズに引き裂き剥ぎ取った。
「悪いな……仇も取ってやれないけど、どうか力を貸してくれ」
屍に声を掛けてから、魔獣に向き直りつつ剥ぎ取ったローブを左腕に巻き付ける。
「キミ! もういい!」
鬼女の声が聞こえた。
魔獣との戦いに集中していたため、まったく耳に届いていなかったが、あるいは戦闘中もずっと声を掛け続けてくれていたのかもしれない。
しかし、「もういい」とはどういうことか。
まさか諦めろとでも言うつもりか。
「私が魔法を使わずに勝ったから、対抗して魔法を使わないのだな!? だが、もう十分だろう!? 気概は認める! だから、いい加減魔法を使うんだ!」
必死に叫んでいるが、未だに勘違いしていた。
「ふっ……ふふ……」
口から洩れた笑いに、自分で驚いた。
いつまでも見当違いな発言を続ける女が、妙にツボに入ったのだ。
「グッグッグッグッグッグッグッグッグッグッグッグッグッグッグッグ……グッグッグッグッグッグッグッグ……」
「ふふふ……ふふっ……ふくくく……くっくっくっく……くっははは……」
魔獣の嗤い声と己の笑い声が重なると、余計にテンションが上がってきた。
一方で、心の中では自身を冷静に客観視してもいた。
肉体的な苦痛と精神的なストレスが限界に達し、脳内麻薬が分泌されているのだろう。
もはや痛みも気にならず、内心で企てている無謀な試みにも躊躇を覚えない。
右手に構えた手斧を魔獣に向け、嘲るような口調で叫んだ。
「おぉい、耳障りな笑い声を上げてんじゃあねえぞ畜生風情が!! 毛皮がなけりゃ何もできねえ腰抜けのくせに、見苦しく体当たりしたのがたまたま当たったぐれえでもう勝ったつもりかぁ!? こっちはまだピンピンしてるっつーのに何を勘違いしていやがる! 頭かち割ってやるからとっとと掛かって来いよこのハゲ!」
ミツキの挑発に、魔獣の嗤いがぴたりと止んだ。
突き出た目を大きく見開き、歯を剥いたまま口角を上げた表情は笑い顔にも見えるものの、逆立てた毛と口から洩れる低い唸り声から嚇怒しているのは間違いなさそうだ。
「なんだよ、ケダモノの分際で怒ったのか!? いっちょ前に歯ぁ剥いて威嚇しやがって! やめとけやめとけ、さっきからテメエ、まともに噛み付くことさえできてねえじゃねえか! そんな見せかけの牙で無理に喰らいついたりすりゃあボッキリいっちまうだろ? でもまあ、牙なんぞなくともそのブタみてえな笑えるツラがありゃ、見世物小屋とかで飼ってもらえるか! テメエみてえなしょぼくれた畜生にはその方がお似合いだよなぁ!」
そう言って、ダメ押しに鼻で笑ってみせた。
途端、魔獣は猛然と駆け出した。
よだれを撒き散らしながら開けた口には、凶悪な角度で反り返った牙が一本の欠けさえなく左右対称に並んでいる。
喰らいつく気満々だな、とミツキは内心でほくそ笑む。
そのために、わざと牙を貶したのだ。
それにしても、トラやライオンとてああも見事な牙は備えていまい。
喰らいつかれれば只で済まないのは火を見るより明らかだ。
タイミングを誤ればひと噛みで即死ということもあり得るし、試みがうまくいったところで致命傷を負う可能性は十分にある。
賭けにもならない程リスキーな作戦だが、この期に及んではもはや死んでも構わないとミツキは考えていた。
独房で目を覚まして以来、過酷な環境と理不尽な仕打ちにどうにか耐えてきたが、いい加減うんざりだった。
どうせ、何もわからないのだ。
この状況から解放されるのなら、命など惜しむ理由もない。
が、それでも最後までやられっぱなしというのは癪に障った。
せめて、この忌々しいケダモノだけでも道連れにせねば気が済まない。
脳内で怒りが爆発し、多量のアドレナリンが分泌され、眼前に迫り来る死への恐怖を塗り潰していく。
数歩先まで距離を詰めた魔獣が、跳びかかろうと踏み切り、口を開けた顔面を大きく突き出した。
その光景が、ミツキにはコマ送りのように見える。
ああ、これはと思う。
事故に遭った時など、その瞬間がスローモーションに感じるというあれだろう。
確か、タキサイア現象とかいったか。
好都合だ、と思う。
そして、手斧を投げ出すと、ローブの端切れを巻き付けた左腕を突き出しながら踏み込んだ。
左腕に焼けるような傷みを覚えると同時に、飛び散った鮮血がミツキの顔に降りかかった。
突き出した腕が魔獣の顎に捉えられ、食い込んだ上下の牙の隙間から血が吹き上がっている。
巻き付けた布が奏功したのか、辛うじて食い千切られてはいないものの、肩から先を喪失するのは時間の問題と思われた。
引きちぎるつもりか、魔獣が首を左右に振り、ミツキの体が大きく揺さぶられる。
あと二、三度も振り回されれば、腕は間違いなく肩口からもげるだろう。
鬼女が、兵士たちが、出番を待つ残り少ないローブの面々が、観客席の得体の知れない者たちが、魔獣の勝利とミツキの死を確信した直後、闘技場のひとりと一匹に誰もが予想し得なかった変化が生じた。
ミツキを引きずり回す勢いだった魔獣が、膝を折り、苦し気に咽始めたのだ。
腕に食い付かれながら、その様子を見下ろすミツキは、苦痛に脂汗を浮かべつつも試みが為った歓びに口元を釣り上げていた。
「毛皮に身を守られ目も傷付かないお前でも、さすがに舌までは守れていなかったな!」
そう言ったミツキの左手は、魔獣の口内でがっちりと舌を握りしめていた。
千切れかけた腕に渾身の力を込めて握れば、魔獣はえずきながら身を震わせ後退る。
「俺の腕が千切れるか、お前の舌が握り潰されるか、このまま根競べといくか?」
ミツキの言葉を理解したのか、魔獣はいったん腕を吐き出そうと口を開けた。
しかし、それこそがミツキの狙いだった。
「この瞬間を待ってたんだ!」
そう叫ぶなり、右手をローブの裾ごと魔獣の口内に突き入れた。
そして、先程拾って袖の内に忍ばせていた槍の穂先を喉奥に突き立てると、つっかえ棒の要領で口腔内に固定した。
「グッグゲガカッ!」
さしもの魔獣もこれには無様な呻きを漏らしてもがき苦しんだ。
穂先は顎が閉じないよう縦に突き立てられ、いくら頭を振っても外れず、それどころか激痛と呼吸を阻害される苦しみまで伴って、ますます深く突き刺さった。
たまらず、身を捩じらせながら地面を転げまわる。
「腹を見せたな?」
丁度魔獣が仰向けになる瞬間を見計らって、ミツキがその腹部を踏み付けた。
肺を潰された魔獣は涎を吐き散らしながら苦し気に喘いだ。
そして、なんとか腹が下になるよう体勢を戻そうとするが、ミツキに馬乗りで抑え込まれる。
「古今東西、四つ足の動物ってのは腹が弱点と決まっているが、どうやらお前も例外じゃなさそうで良かったよ」
そう言って魔獣の腹部を撫でる。
腹に鈍色の体毛は生えておらず、白っぽい柔らかな産毛に覆われている。
「身を護るため毛皮を固く進化させたんだろうが、お前の体型じゃ腹を晒すことは少ないだろうからな。口ん中もそうだが、普段隠れている部分ってのは鍛えようも無いから弱くなりがちだ」
マウントポジションで魔獣を見下ろすミツキの手には、左手を引き抜いた直後に回収した手斧が握られていた。
危機を察知した魔獣は、前肢を振り回し爪での攻撃を試みるが、ミツキが上体を逸らすだけでことごとく空を切る。
「こうなりゃひっくり返った亀とかわらないな」
手斧を構えると、腹の中心に向けて振り下ろした。
柔らかな手応えと同時に血が飛び散り、魔獣の体が大きく震えた。
「やっぱり、刃が通る」
引き抜き、振り上げると、再び振り下ろす。
そして、再び引き抜く。
手足をバタつかせ体を揺する魔獣の腹を足で締め上げどうにか抑え込みながら、ミツキは徐々に攻撃のペースを上げていく。
「散っ々、弄んで、くれやがって! 醜い、化け物が、人間を、ナメるんじゃ、ねえ! くっそ! 見苦しく、もがいて、ねえで、とっとと、くたばれ! くそ! くそ! 死ね! 死ねえぇぇぇ!!」
悪態をつきながら、魔獣の体に何度も斧を振り下ろすミツキだったが、唐突にその傷口が弾け、数メートル程も吹き飛ばされた。
「な……んだ? なに、が、起こった?」
顔の生暖かい感触を掌で拭う。
大量の血液で濡れていた。
倒れたまま横目で魔獣を窺えば、先程斧で付けた傷から断続的に血を噴き上げている。
その光景に、心臓、もしくは大きな血管を傷付けたのだと悟った。
あれだけの体と運動性能の生き物なのだから、血圧は相当なものだったのだろう。
動脈が破裂すれば、間欠泉のような勢いで吹き出しても不思議ではない。
ともあれ、どうにか勝利したらしい。
そう悟った瞬間、意識が遠退いた。
火事場の馬鹿力でどうにか乗り切ったが、もはや体はガタガタだ。
なにより、血を失いすぎた。
このまま意識を手放してしまえば楽になれると、ミツキは目を閉じかけた。
「起きろ!」
鬼女の叫びが聞こえ、ミツキは辛うじて意識を繋ぎ止めた。
「もう少しじゃないか! 立ち上がって戻って来い!」
もう眠らせてくれと思いつつ、気を失ったらどうなるのかと想像した。
兵士がやって来てタンカで運び出され医務室で介抱してもらえるのか。
そんなはずなどないとすぐにわかった。
独房を出てから今に至るまで、自分たちローブの集団の命がどれ程軽く扱われてきたことか。
起き上がれないのなら、それまでと判断され、放置されるのは目に見えていた。
魔獣との決着を付ける直前、死んでもいいとは考えたが、せっかく勝ったのであれば最後まで足掻ききろうとミツキは思った。
四肢に力を入れ、ゆっくりと体を起こす。
全身、特に脇腹と左腕が酷く痛んだ。
それに、手足が重く思うように動かない。
立ち上がろうとして、ガクリと膝が折れた。
手を突いた地面は、血溜まりだった。
「……地獄かよ」
こんなところで死んでたまるか、と思う。
歯を食いしばると、膝に手を付き、どうにか立ち上がった。
身を引き摺るようにして歩き出す。
手足を動かすと、腹から血が滴り、地面を赤く汚した。
左手が動かないので、右手で傷を押さえる。
女は叫び続けているが、もはや意識が朦朧として、言葉の意味を考える余裕もなかった。
途中何度も立ち止まりながら、入り口の前にたどり着くと、扉が重苦しい音をたてて持ち上がった。
控室にはふたりの兵士が待っていた。
最初に待機していた部屋からミツキを連れてきた三人の姿は見当たらない。
「よお、よく生き延びたな」
兵士のひとりから声を掛けられた。
独房を出て以降、他の兵士たちから向けられてきた嘲りや軽侮の込められた口調ではなく、どこか敬意のようなものが込められているのをミツキは感じた。
「あの魔獣には武器が効かねえんだ。かといって、魔法も生半なもんじゃ効果は薄い。奴を倒すなら、強力な炎で焼き殺すか、水で溺れさすのが一般的なんだが、自分から口に腕を突っ込むようなイカれた野郎ははじめて見たよ。それに、腹に毛皮がないってのも良く見抜いたもんだ。普通はわかってても狙わねえんだけどな」
「そりゃ……どうも……で、オレは、どうすりゃ、いい?」
立っているのがやっとという状態のミツキに気付いた兵士は、急いで通路の扉を開いて手招きした。
「一応、控えの間に戻るまでが試験ってことらしくてな。悪いが手は貸せん。最初に通って来たからわかると思うが、この先の長い廊下を真っ直ぐ進んで突き当りの扉だ」
応える余裕もなく、ミツキは兵士の横をすり抜け廊下へと出た。
背後の扉が閉まる直前、「ありゃダメかもな」という兵士の声が聞こえた。
壁に肩を預けるようにしてミツキは進む。
戻ることができれば手当をしてもらえると考えていたわけではなかった。
むしろ、やはり放っておかれる可能性の方が高いような気がした。
それでも足を動かし続けるのは何故だ、と自問自答してみる。
すると、鬼女の声が思い出された。
先程出会ったばかりの、いわば赤の他人(人と定義してよいのかも怪しいが)にもかかわらず、瀕死のミツキに向けた叫びからは、必死さの中に真摯な気遣いが感じられた。
このまま死ぬとしても、最後にひとこと礼ぐらいは言いたい。
それに、どうせなら、ひとり血溜まりの中で死ぬより、美女に見守られて逝きたい。
人間離れした姿ではあるが、美女は美女だ。
そんなことを考えている間に、扉の前にたどり着いていた。
寄り掛かりながら扉を開き、倒れ込むように室内へ踏み入ると、何か柔らかい感触に受け止められた。
「……な、んだ?」
「まったく無茶をする! だが、見事だったぞ! まともに戦っても勝てないと言ったが、あれは取り消そう!」
顔を上げると、女が見下ろしていた。
ということは、この柔らかい感触は、オッパイか。
ついさっき、美女に見守られながら逝きたいと考えたが、それどころか胸の中で最後を迎えることができるらしい。
上出来じゃないかと、ミツキはニヤけた。
「何を笑ってるんだキミは。待っていろ、すぐに治療を始める」
「ち、りょう? どう、やって?」
片手でミツキを支え、腹の傷に当てた女の手が、青白い光を発した。
温かい、とミツキは思った。
「無詠唱かよ」
「スゲエな」
少し離れた場所から兵士たちの呟きが聞こえたが、この時のミツキには言葉の意味が解らなかった。
「治癒魔法で傷を塞ぐ。これで出血は収まるし感染症も防げる」
「……助かる、のか?」
「それは……」
ミツキの質問に、女の表情が歪む。
「私の魔法で、傷の治療はできる。しかし、キミは血を流し過ぎた。キミの種族がどれだけの失血に耐えるのかわからないが、顔色を見ればもうギリギリだというのは間違いない。この後の成り行き次第ではあるが、流れた血を補わないことには……」
「やっぱり、ダメか」
「弱気になるな! せっかく、苦労して化け物に勝ったんじゃないか! それを無駄になどさせるものか! 私はあきらめないぞ!」
戻って良かったと、ミツキは思った。
記憶を失くし、何もわからず理不尽に死ぬはずだったことを思えば、最後に本気で己の身を想ってくれる相手に出会えたのは、幸運だったと言えるはずだ。
「ありがとう」
「え? ……ちょっと、ダメだ! 気をしっかり持て!」
女の悲鳴を聞きながら、ミツキは暗い眠りへと落ちて行った。
最後に、名前ぐらい聞いておきたかったと思ったが、記憶を失っている以上、女も自分の名前を忘れていると思い至る前に、彼の意識は完全に途切れた。
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