第三節 『魔獣』
「騒ぐな! いいか!? 私から見て右手の扉は控えの間へと繋がっている。これからひとりずつそこへ入り、自分に合った武器を選んでもらう。後は広場へ出て命懸けで戦うだけだ。言っておくがそれ以外に貴様らが生きてここを出る術はない! 死にたくなければ勝利のみを考え人事を尽くすことだ」
兵士の言葉が終わるまでの短い間で、ローブの集団はパニックになりかけていた。
ある者は頭を抱えて蹲り、ある者は近くの兵士に掴みかかって槍で殴り倒された。
馬車の中での実験から、おそらく兵士の話の意味を正しく理解した者は半数かそこらだっただろうとミツキは推測している。
言葉のわからぬ者が半数を占めるにもかかわらず、ほとんど皆が同じように狼狽しているのを目の当たりにし、監獄などのシチュエーションにおける集団心理の実験を目の当たりにしたような、奇妙な感慨をミツキは他人事のように感じていた。
「待ってくれ! なぜそんなことをさせられるんだ!? 私たちが何かしたのか!?」
ローブの集団の中のひとり、おそらくは男、が声を上げた。
しかし、先程まで話していた兵士は、質問の声を完全に無視し、横の兵士に何か声を掛けた。
すると、声を掛けられた者を含めた兵士三人が、ローブの集団の中のひとりを取り囲み、引きずるようにして部屋の横のドアの中へ入って行った。
悲鳴を上げながら隣室へと消えた境遇を同じくする者の様子に、ローブの集団は動揺を強め、一部の者らは恐慌をきたしかけていた。
一方、上官と思われる兵士は、かまうことなく別の兵士へと何かの指示を出していた。
「なぜ何も答えない! 理由も知らされず命懸けで戦うなど、納得できるはずがないだろう!」
先程と同じ声だった。ミツキが背伸びして集団の前方を窺うと、ローブの集団の中からひとりが、指揮官の兵士へ歩み寄るのが確認できた。
「答えろ! 私たちは何故たた――」
言葉の途中でスイカを踏み潰したような音が上がり、兵士に詰め寄ろうとしたローブの男の頭部が破裂した。
天井に飛散した血と脳漿が、粘着質な音を伴って室内に赤と桃色の雨を降らせる。
ローブの集団は弾かれたように後退り、ミツキは押されながら兵士とその前に転がる男に視線を向けた。
前傾姿勢で膝から頽れたローブの男は、首から断続的に血を吹きながら、未だビクビクと動きつつ絶命していた。
その様子を眼前に見下ろす指揮官の兵士は、ローブの男の頭があったあたりにかざしていた右手をゆっくりと下ろし、ローブの集団を見回した。
「今の貴様らは、己の置かれた状況について質問する権利さえ持っていない。そして、少なくともこの国では、己に許された権限を逸脱した者には相応の罰が与えられる。ただし、国民であるどころか人であるかすら不明な貴様らに適用される刑法などなく、したがって我らは貴様らを魔獣同様に扱うよう指示を受けている。即ち、御せぬなら〝駆除〟せよ、とな。理解したのなら、これ以上我らの手を煩わせてくれるな」
そう言うと、兵士は何事もなかったかのように部下への指示を再開した。
集団を取り囲んだ兵士たちにしても、誰一人として先程の死に反応する者はおらず、撒き散らされた頭の中身も天井から垂れ落ちるに任せている。
先程まで不安と混乱と兵士らへの反発から騒めいていたローブの集団は、今の一件ですっかり委縮し、室内は水を打ったように静まり返っている。
ミツキはというと、人の頭が吹き飛ぶ光景をごく近くで見たうえ、今もべちゃべちゃと天井から落ちてきている血と脳漿の色と匂いに吐気を催しながらも、ローブの男が何によって殺されたのか考えていた。
ローブの男と相対した兵士は、銃火器の類を使用していない。
ただ腕を上げ、手をかざしただけだった。
自分が見逃す程に小型の兵器、あるいは他の兵士による狙撃とも思えなかった。
前者であれば、例えば暗殺用の仕込み銃のようなもので人の頭が粉々になるとは思えないし、後者にしても、ほとんどの兵隊を視界に捉えているミツキの視線から逃れることも、部屋に犇めく他のローブの者たちに当たらぬよう避けて撃つことも、難しいはずだ。
というか、それ以前に甲冑でその身を鎧い槍で武装した者たちが火器を使うのか疑問だ。
そんな思考を遮るように、〝ビーーー〟というけたたましい音が施設内に鳴り響き、ミツキはおもわず身を竦ませた。
音が鳴ったのはほんの一瞬だったが、耳鳴りが残るほどの大音量だったうえ、危険を警告するブザーのような不穏な響きだったこともあり、周囲の者たちも小さく声を漏らしたり、思わず尻餅をつくなど怯んだ反応を見せた。
そして、ここに至り、ミツキは己の心が恐怖に塗れていることを自覚した。
膝ががくがくと笑い、腕を上げることもできない。
自分の体ではないかのように感覚がなかった。
不自由なのは身体だけでなく、うまく思考することもできない。
状況を冷静に観察するよう努めてきたが、先程の凄惨な死と立て続けの大音響が引き金となり、不安が一気に噴出したようだった。
「おい! あれを見ろ!」
後方から声が上がり、振り向くと、部屋の奥に設えられた鉄格子の窓に数人が張り付いていた。
いい加減、へたり込んでしまいたかったが、どうにか窓の方へと足を踏み出す。
とにかく、何が起こっているのか把握するよう努めなければならない。
一度でも心が折れれば、二度と立ち上がれないだろうとミツキは思った。
集団をかき分けるようにして窓へと駆け寄ると、外の広場にローブを纏った者が、ひとりふらふらと歩いているのが見えた。
その手には兵士たちが持っているのに似たデザインの槍が握られており、時々立ち止まっては不安そうに周囲を窺っているようだった。
「さっき、連れて行かれたヤツか?」
ミツキの呟きに、答える声はなかった。
皆同じローブを纏い、フードを被って顔も確認し辛い以上、集団の中から個人を判別するのは難しい。
ローブの人物が広場の中央付近に近付いた時、ミツキたちが覗く窓とは反対の壁が左右にゆっくりと動き出すのが見えた。
「なんだ?」
壁が動いて開いた空間は、暗くて奥がよく見えなかった。
おそらくは通路で、かなり奥まで続いている。
しかし、人が使う通路にしては広すぎないだろうか。
そう考え、ミツキは兵士の口から出た〝魔獣〟という単語を連想し、口内の唾をグビリと飲み込んだ。
すると、一瞬、通路の闇が蠢いたように見えた。
瞬きして眼を擦り、再び視線を戻す。
おもわず「うっ」と声を漏らした。
見間違いではなかった。通路の闇が徐々に輪郭を帯び、その異形は姿を現した。
巨大なナメクジ、否、ウミウシに近いだろうか。
遠目の目測ゆえかなりアバウトではあるが、サイズは高さ二メートル程度、全長は四メートル前後程に見える。
楕円に近いドーム状の体躯をうねる様に蠕動させ、ゆっくりと前進している。
色は無色の半透明に近く、地面に接している体の縁だけが、発光性のクラゲのように不気味な虹色の光を放っている。
体の前方には、イカのような目玉がびっしりと付いており、その下に人の肛門のような小さく窄まった器官が確認できた。
そして何より、半透明の体の中に内臓が見えているのが強く目を引いた。
ウミウシの化け物が体を動かす度、体内の臓器がドクドクと脈打つ様は、グロテスクなのを通り越して三流のホラー映画のようなチープで滑稽な印象さえ受けた。
「何だよあれは……あんな……あんな、生き物なんて……」
居るわけがなかった。
少なくとも、地球の、深海などを除いた、既に人が踏み入った領域に、あのような生物が存在するはずはない。
だが、もしかすると自分が知らないだけではないのか。
自分の行ったことのない異国については、マスメディアやインターネットなどから得た情報しか一般的な日本人は持っていない。
だとすれば、仮に情報源が偽りの情報を提供していた場合、外の世界が自分の常識をはるかに逸脱していたとしても不思議ではないはずだ。
あるいは、自然界の生物ではなく、人為的に作られた生命体という可能性はないか。
自分たちは生物兵器の実験に使われているという推測は、先程の仮説よりは説得力があるような気がしないでもない。
「いやいやいや……ないって」
ミツキは己の想像を否定した。
トンデモ本レベルの発想ではないかと思ったからだ。
そもそも、今重要なのは、自分の置かれた状況をどうにか打開する方法を見出すことだ。
己の認識が正しければ、ローブの集団は順番にあの化け物と戦わされることになる。
遅かれ早かれ自分の出番も回ってくるはずだ。
化け物を倒す以外に生存の道がないのだとすれば、これから目の前で繰り広げられるであろう、おそらくは、惨状を見届けたうえ、対処法を考えるのが現在取り得る唯一の手段ではないか。
そう思考し、広場へと意識を戻す。
ウミウシの化け物はゆっくりと、しかし確実に眼前の獲物に向かって前進している。
一方、不幸にも最初にローブの集団の中から選ばれた生贄は、化け物の方を向いて呆けたように立ち尽くしている。
「……何で動かないんだ」
戦うにしろ逃げるにしろ、まずは得物を構えて動き回るべきではないのか。
まさか、恐怖のあまり竦み上がっているのではないか。
だとすれば、何か声を掛けるべきだろうか。
このままでは、彼(あるいは彼女)は、何もできずに殺されてしまうのではないか。
それとも、何か考えあったうえでの、あの対応なのだろうか。
それに、声を掛けたところで、奴が言葉を解さなければ意味はないのではないか。
しかし、それでも……。
ミツキが逡巡していると、彼の右側から耳をつんざくような怒号が響いた。
「何をしている! まずは得物を構えて間合いを測れ! その化け物は鈍足なうえに体内の臓腑まで透けている! ならば側面へと回り込み、心臓を狙って槍を突き入れるんだ!」
驚いたミツキは声の方へ顔を向けた。
広場に向けて助言を叫んだ主は、どうやら自分の隣に立つ長身の人物らしかった。
案の定、フードを深く被って顔は窺えないが、声から察するに女性のようだ。
それにしても、大きい。
軽く身長二メートルはありそうだ。
「そうだ! それでいい!」
女の声を聞いて広場に視線を戻すと、ローブの人物(あるいは人以外の何か)は、槍を構えて数歩後退ってから、化け物を中心に反時計回りに移動し始めていた。
どうやら女の助言が届いたらしい。
ミツキはすぐに声を上げなかった己を恥じた。
この女は、化け物の特徴を観察したうえローブの人物の状態も正確に把握し、生存のための適切なアドバイスを与えたのだ。
目の前で危機的な状況に晒されている者へ手を差し伸べるなど、人として当然の振る舞いではないか。
余裕のない状況にもかかわらずそれを実行した長身の女に比べ、目の前の人物のピンチに思い至りながらも、己のことばかり考え即座に声を上げられなかった己のなんと浅ましいことか。
ミツキが自己嫌悪に陥りかけている間にも、広場の状況は刻々と変化していた。
槍を構えたローブの人物は、化け物の側面へと回り込み、あと一歩で槍を突き刺せる程に間合いを詰めていた。
しかし、化け物の体は、柔らかそうではあるものの極めて肉厚で、槍を内臓まで届かせるには一メートル以上の深さまで突き入れる必要がありそうだ。
ゆえに、ローブの人物は槍の石突き付近に手を添えて、深く長く突き刺さるよう身を捩りながら腰を落とした。
これはイケるかとミツキが思ったその時、またしても隣の女が大声で叫んだ。
「待て! 様子がおかしい! 気を付けるんだ!」
その言葉を聞いたミツキは、ローブの人物を窺った視線を化け物へと移す。
「それは、反則だろ……」
確かに、移動速度はナメクジ並みに遅い。
だが、正面を向いていたはずの目や窄まった器官は、瞬時に側面へと向いていた。
前を向いていた顔を横に向けたというよりも、半液状の体表面を滑るようにして、特定の器官を横へ移動させたという印象だった。
無数の目が一斉に蠢き、目前で槍を構えた外敵を瞬時に捉えた。
そして目の下にある窄まりが〝グパッ〟と大きく口を開けた。
「怯むな! 槍で目を薙いで間合いをとれ!」
しかし、長身の女が大声で叫んだ助言を、ローブの人物は聞き入れなかった。
仕方がないとミツキは思う。
勝利を確信した瞬間、一気に優勢を覆されたのだ。
女のアドバイスに耳を貸す余裕などとてもなかっただろう。
ローブの人物は無数の目に捕捉され、おもわず槍を手放すと、後方へ跳び退った。
瞬間、化け物の開いた窄まりから、無数の触腕が放たれ、ローブの人物を絡め取った。
ローブの人物は抵抗する間もなく窄まりの中へと引きずり込まれ、穴の縁に手をかけて断末魔の悲鳴を上げたと思った直後、ズルリと化け物の体内へ引きずり込まれた。
それだけでも十分にショッキングな光景だったが、その後さらに悲惨な見世物が待っていた。
半透明の化け物の体内へ飲み込まれたローブの人物は、そのまま胃の中に流れ落ちた。
体が透明ゆえ、ローブの人物がもがきながら消化されていく様子は遠目にもよくわかった。
獲物を腹に入れ満足したのか、化け物は衛兵たちに縄を掛けられ牽引されると、抵抗もせず通路へと姿を消した。
その間、少なくとも数分の間、ローブの人物はその身を胃酸に溶かされながら生存していた。
ミツキの周囲では広場での戦い、というか捕食を目の当たりにした数人が嘔吐し、また数人が強引に出口へと殺到して兵士らの攻撃によって無惨な死体になり果てた。
ミツキはというと、化け物が去った出口をただ茫然と眺め続けた。
槍や剣を渡されたからといって、一体どうしろというのか。
あんな化け物相手に勝てる人間などいるはずがない。
あるいは、それでも勝てる者をふるいに掛けるための催しなのだろうか。
であれば、自分は間違いなくふるい落とされる側だろう。
そんな絶望的な思考を巡らせていると、背後から兵士の声が聞こえた。
「次はお前だ。観念してきりきり歩け」
ビクリと身を震わせ、恐る恐る振り返れば、フードの集団のひとりが悲鳴を上げながら兵士に連行されて行くところだった。
へなへなと崩れ落ちると、隣に立つ長身の女が苦々しげに呟くのが聞こえた。
「まるで、屠殺場に連れて行かれる家畜だな」
いや、とミツキは思う。
少なくとも人は、食材となる牛や豚に感謝する。
そして、それだけが理由ではないにしても、屠殺に際して無駄に苦しめようとはしない。
だから、生きながら化け物に食わせるなど、扱いとしては家畜以下だと言わざるを得ないはずだ。
だが、ミツキは知っていた。
歴史を振り返れば、人は他者に対して際限なく冷酷にも残忍にもなれるのだ。
義務教育における社会科の授業でさえ習う人の本質の一端を、ミツキは比喩でもなんでもなく文字通り吐き気がするほどに実感していた。