第六十三節 『泥梨』
泥水の溜まった塹壕の底で身を屈めながら、ティスマス・イーキンスはガチガチと歯を鳴らしながら呟いた。
「じっ、地獄かな、ここは?」
無意識に出た言葉の後で、そういえば精霊信仰に〝地獄〟という概念はないなと、どうでも良いことに思い至る。
〝地獄〟というのは、死後に悪人が落ち、苦痛を味わわされる場所のことだが、自分たちがそういった概念を持っているのは、原初精霊派やら神聖精霊派やらが興る以前の、今ではその名さえ忘れられた古代宗教の名残が、今も残っているからなのだと、大分昔に冒険者仲間から聞いたことがあった。
遠方で爆音が鳴り、背を預けた土壁の上から頭や肩に無数の小石が降り注ぐ。
どうしてこんな時に昔耳にしたどうでも良い話を思い出したのだろうかと自問したティスマスは、己の置かれている状況に心が付いていけず、思考が逃避しかけたのだと思い至る。
傍らを窺えば、弓を抱え矢を握りしめたエウル・クーレットが、反対側の土壁をじっと睨み付けている。
自分と同じように全身泥まみれだが、体は震えていないようで、微動だにしないのは少々常軌を逸しているなとティスマスは思う。
ティスマスや、他に身を屈めている兵士たちがガタガタと震えているのは、なにも恐怖のためばかりではない。
先日、敵の魔法を凍らせて防いだとかいう理由で突如出現した氷の壁が徐々に融け、塹壕内に冷水が流れ込んでいるからだ。
日中の今でさえ震えが止まらぬほど寒いのだから、もしこのまま夜を迎えれば、確実に凍死者が出るはずだ。
ではなぜエウルが震えていないのかといえば、おそらくは全身が怒りのために火照り、寒さなど感じていないからではないかとティスマスは推測する。
ディエビア連邦軍が進軍を再開したのは、夜が明けた直後だった。
遠方から迫り来る歩兵部隊に対し、ティファニア軍は初戦と同じように、弓を射掛けて迎撃しようとしたが、同じ戦法が二度通用するほど甘い相手ではなかった。
エウルの号令で矢を放とうとしていた弓兵隊は、敵の後方で地響きのような音が鳴ったのに続いて、笛を吹いたような奇妙に甲高く尾を引く音を耳にした直後、塹壕を直撃した爆撃によってまとめて倒されていった。
それが敵の魔道兵器による攻撃であることは間違いなかったが、その異常な威力に加え激しい音と衝撃によって、生き残った兵たちは恐慌状態に陥った。
そこへ、迫っていた敵歩兵部隊が塹壕へ侵入し、乱戦となった。
当然、ティファニア軍は不利な戦いを強いられた。
敵は最新の魔導兵装を携え、自軍は最初の爆発で半壊しているような状態だったのだ。
塹壕の最前列に配置されていた兵で生き残った者のほとんどは、為す術もなくライフルで撃ち抜かれ、あるいは銃剣で刺し殺され、さらには初めて目にする筒状の魔道兵器を投擲され、その爆破に身を引きちぎられ、次々と命を落としていった。
ティスマスやエウルとて例外ではなかった。
混乱した頭で半分泥に身を沈めながら、半狂乱で槍を振るっていたのをティスマスはぼんやりと記憶している。
エウルはと言えば、衝撃で意識を失い、泥にめり込んでいた体をライフルの銃剣でつつかれていたところに意識を覚醒させ、反射的に抜き払った短刀を相手の腹に突き立ててめちゃくちゃにかき混ぜた。
近くに居た別の銃兵にライフルを向けられたが、距離が近かったため銃身を握って狙いを反らし、そのまま相手に跳びかかって首を絞めながら泥の底に沈めて窒息死させたという。
当然、そんな状態では、殺されるのは時間の問題だったが、後方に控えていたジャメサ率いる剣盾隊が駆け付けたおかげで、どうにか一命をとりとめたのだった。
剣盾兵が装備する盾は、かつてブリュゴーリュとの戦の際に敵重騎兵の攻撃を防ぐためパイク兵が装備していたものだ。
馬上槍のチャージに耐えるよう作られた分厚い盾は、ライフル弾を数発喰らっても耐えるだけの強度を有しており、狭い通路で避ける場所もないうえ泥水でまともに動き回れず、おまけに寒さで引き金も満足に引けなくなったディエビア連邦軍の銃兵たちは、剣盾兵によって押し潰されるようにして討ち取られていった。
それでも、筒状の魔道兵器で剣盾兵の一割ほどが犠牲となったが、塹壕という狭い空間で用いるのには不向きな兵器のようで、自軍を爆風の巻き添えにする敵兵も少なくはなかった。
切り札の兵器を使いこなすことのできなかったディエビア歩兵の第一陣は程なく壊滅した。
敵の爆撃は間もなく再開されたが、ジャメサ達は生存者たちを担ぐと、脇目もふらずに退却を始めた。
こうして生き残った者たちが救助された直後、通信情報隊から塹壕内を大きく後退するよう指示が発せられた。
塹壕は複数の区画に分かれており、戦の前に自分の受け持つ場所周辺の構造は頭に叩き込まされていた。
区画は縦横の位置を数字で表していたが、塹壕陣地帯はフィオーレを輪のように囲っているため、横を現す数字は三桁に至っている。
問題は縦を表す数字で、二十区画に分かれており、数字が大きくなるほどフィオーレに近くなる。
たとえば、〝百二十・七〟という区画まで後退したとすれば、六区画分敵に押し込まれたことになる。
そして二十区画分押し込まれた時点で、塹壕は突破されるということになる。
ティスマスたちは救助された後、七区画分後退した。
敵からは、こちらの位置が見えないため、爆撃はランダムに行われている。
その援護を受け進軍して来た歩兵を討ち取るのが、今のティスマスたちの役目なのだが、このままでは敵と戦う前に、爆撃か寒さで死にそうだと彼は思う。
冒険者として自由気ままに生きてきた己が、柄にもなくひとつの組織に所属した結果がこれかと、その脳裏に後悔が過る。
ネガティブな思考を振り払うように小さく首を振ったその時、傍らのエウルが立ち上がりつつ弓を構えた。
同時に、頭上で複数の足音が鳴り、穴の中に敵の銃兵が降って来た。
迷路のように張り巡らされているうえ、氷のように冷たい泥水に満ちた塹壕内を避け、壁を乗り越えてきたのだろう。
跳び下りる前に円筒状の魔道兵器を投げ込まなかったのは、壁の内側に寄り掛かるようにした身を潜めていた自分たちに気付かなかったからだろうとジャメサは推測する。
最初に飛び降りたひとりは、着地する前にエウルの放った矢に頭部を貫かれ、派手な水しぶきを上げて泥水の中に沈んだ。
さらにエウルは、三本同時に番えた矢を放ち、着地してすぐライフルを持ち上げた銃兵三人の急所をピンポイントで射抜いた。
ティスマスも咄嗟に立ち上がると、おそらくエウルがあえて狙わなかった目の前の銃兵の喉を薙ぎ、続けて数歩離れた場所でライフルを構えた敵の胸を投擲した槍で貫いた。
他の兵士たちも立ち上がって応戦しようとするが、冷え切った体は思うように動かせず、先に敵の攻撃を許してしまい数名が銃弾に倒れた。
それでも、壁を乗り越えてきた敵の隊が比較的少人数だったこともあり、どうにか殲滅することに成功する。
ティスマスがエウルを窺えば、土壁にもたれるようにして呻いている敵に、矢を向けている。
「よせ。どうせもう死ぬ」
そう言って制止しようとしたティスマスを無視して、エウルは敵の眼窩を射抜いた。
「……たとえ死にかけでも、ライフルは引き金さえ引ければ撃てる。とどめは刺すべきだよ」
エウルは無感情に呟いた。
こいつがこれだけ酷薄な表情を見せるのははじめてだとティスマスは思う。
最初の爆撃で弓兵隊の半数以上を殺されてから、ずっとこの調子だった。
責任感が強く仲間想いな奴だからこそ、多くの部下を一方的に殺された憤りは計り知れない。
しかし、ティスマスもべつに人道的な感情から、敵兵へのとどめを止めたわけではなかった。
単に、そんなことをしている時間すら惜しかったのだ。
「くそっ! 走れ!」
エウルの手を引きながら、ティスマスは周りの兵たちに叫んだ。
仲間同士魔法で通信をしていて判明したことなのだが、敵の部隊が全滅した場所には、直後にほぼ必ず爆撃が加えられるのだ。
「まっ、待ってくれ! 動けないんだ! オレも連れていってくれぇ!」
悲鳴を聞いてティスマスが振り返ると、土壁に手を突き必死に起き上がろうとしている部下と目が合った。
その体に視線を向ければ、腹と腿から血を流している。
ライフルで撃ち抜かれたなら、助かる見込みは薄い。
そこで、以前ミツキの言っていたことを思い出す。
銃弾は背後に抜けていた場合、意外と助かることも多いのだという。
治癒魔法を掛ければ、意外とどうにかなるのではないか。
だが、ティスマスは足を止めなかった。
爆撃までの時間と爆風の影響範囲は、既になんとなくではあるが感覚で掴んでおり、引き返せば確実に巻き添えを食うという確信があったからだ。
現に、爆撃前に鳴る笛のような甲高い音が、既に聞こえていた。
「……許してくれ、許してくれ、許して……」
そんな呟きを耳にしてエウルを窺えば、彼は歯を食いしばっていた。
ああ、なんだ、自分の声か、とティスマスが気付いたところで、背後で鼓膜を劈くような音が鳴り、続く衝撃でふたりは吹き飛ばされ、泥の中へと投げ出された。




