第六十二節 『老騏』
エリズルーイの起こした津波をクロゼンダが凍らせて止めてから三日後、ディエビア連邦軍はフィオーレの東に聳え立つ巨大な氷壁を避け、北と南に軍を分けて再び攻め寄せて来た。
対するティファニア軍も、南北に戦力を割り振ったうえでそれを迎え撃つ。
塹壕陣地帯後方に位置する本陣では、サルヴァに代わってカナル・フーリッツ・シケルが総指揮を執ることとなり、本陣の天幕に詰めていた。
「いやいや、なんで今更おいらが総大将なんてやらされてんだ!? サルヴァのボウズはなにやってんだよ!」
昨日まで新兵たちとともにフィオーレの守備を任されていたというのに、突然呼び出されて前線の総指揮を任された元大将軍は、後輩騎士の身勝手な振る舞いに抗議の叫びを上げる。
「隊長は自分で最前線に出向いて戦に参加したかったのでしょう。あれで非常に好戦的な気性ですので。それが先のブリュゴーリュとの戦争で味を占めたようです。我が上官の身勝手な振る舞い、どうか御容赦ください」
そう冷静に返答して深々と頭を下げたのは、カナルの護衛を命じられ本陣に残された親衛隊員のオギュールド・スノヴェルだ。
元大将軍を前にしてか、普段の礼を欠いた暑苦しい口調ではなく、いかにもお堅い軍人といった言葉遣いに戻っている。
「あん? いやに堅っ苦しいしゃべり方だなおい。おまえさん、そんなキャラだったかい? もっと体育会系で、いつもガハハーって笑ってた印象があったんだけどな」
「キャラ」という単語を耳にした瞬間、オギュールドが身を強張らせたのにカナルは気付く。
経験上、あまりポジティブな反応ではないとわかった。
なにやらトラウマでもあるのかと、老将は訝しく思う。
「これが私の素です。尊敬する閣下の前で、あのような無礼な演技などしたくはありません」
「尊敬、ときたかよ」
「はい閣下、あなたを心より尊敬しています」
おいおい勘弁してくれとカナルは内心辟易とする。
本音を言えばカナルは、サルヴァの既存の秩序を破壊するような振る舞いを快く思っていない。
ブリュゴーリュとの戦の後、王都に戻ったサルヴァは、ドロティアを女王にするべく、かなり強引な手段で王とその周囲の人間の力を削いでいるらしかった。
あの男がセルヴィスを傀儡にしたのだとカナルは承知しているし、元々はただの内気な小娘に過ぎなかったドロティアを狂わせたのも奴の仕業だろうとほとんど確信している。
それでもサルヴァを止めないのは、今では紛れもなくあの男がティファニアの守護者の筆頭であり、かつてそうであった自分はただの老いぼれに成り下がってしまったからだ。
ブリュゴーリュとの戦の最中、兵士たちの信頼を掠め取ろうと動いてみたこともあったが、戦を終えてみれば大戦果を挙げたサルヴァの地位は盤石なものとなり、もはや自分の手に負える相手ではなくなった。
むしろ、半端に対立するような真似をしたため、奴の警戒心を買ってしまったとカナルは後悔していた。
そして今となっては、そんな自分にできるのは、募兵に応じて軍に入って来た若い連中に多少の教練を施したり、酒や女の楽しみ方を教えてやることぐらいなのだと考えている。
サルヴァに対抗する気力も体力もない。
自領にも戻らず、フィオーレでひたすら遊び人の不良老人を演じていたのも、未だ軍にも政治にも影響力のある己が、サルヴァに目を付けられ消されたくなかったからだった。
それが、よりにもよって、サルヴァの部下から熱い視線を向けられ歩み寄られてもありがた迷惑でしかない。
自分の部下を取り込もうとしたなどと勘違いされれば、戦争のどさくさで殺されても不思議はないだろう。
どうしたものかと考えて頭を掻きながら、カナルは自分を見つめる青年騎士に言葉を返す。
「おいおい勘弁してくれよ。おいらが軍で活躍していた時期は、おまえさんが未だこの世に生まれてもいねえ頃だぜ? おまえさんぐらいの年頃だったら、ディエックの野郎とかの方が身近に活躍を知れたんじゃねえのかい? いや、まあ奴は死んじまったけどよ」
「いいえ。生前父が酒に酔った時、唯一上機嫌に話してくれたのが、カナル大将軍の英雄譚でした。先々代の王の治世で奴隷を解放するきっかけとなった第十一副王領戦役で上げた武功。その後、数々の手柄を立てて大将軍になるまでの軌跡。どれも幼き日の自分にとっては憧れであり、それはいつしか騎士になりたいという生きるための希望へと変わっていったのです。ですから、閣下こそ私の英雄であり、唯一無二の目標なのです。なればこそ、親衛隊での屈辱的な扱いにも私は耐えて来られたのです」
「へ、へえ、なんだかよくわからねえけど面映ゆいな。それにしても、そんな話をして息子に夢を与えるなんざ、なかなかいい親父さんじゃねえか」
「いえ。それ以外の時は常に不機嫌で、私をボコボコにしては血を流したまま酒を買いに行かせるような真性のクズでした。軍人のくせに最後は酒場の喧嘩で人を殺め、自らも極刑となりました」
重えよ、とカナルは内心で嘆息する。
この本陣天幕内で、当面の間、自分を信奉するこの若者と護衛の兵に囲まれて過ごすのかと思うと気が滅入る。
そして、それ以上にカナルの気が沈む原因となっているのが、ここにやって来てからずっと鳴り響いている轟音と、断続的な地面の揺れだ。
「ったく、いい加減にして貰いてえな。前線の連中は大丈夫なのか?」
そう呟いて、そそくさと天幕を出る。
遠方を窺えば、奇妙に甲高い音が尾を引くように鳴った直後、耳を劈くような爆音が轟き、塹壕陣地帯で柱のように土砂が舞い上がる。
どうやら、ディエビア連邦軍が新たに投入した魔導兵器による攻撃らしい。
なぜ、最初からこの兵器を使ってこなかったのかは不明だが、おかげでティファニア軍は窮地に追い込まれている。
「ったく、こんな地獄に自分から飛び込むとか、気が知れねえや」
サルヴァ・ディ・ダリウスという男は、頭のネジが一、二本外れているのは間違いない。
しかし、それが同時に、あの男に奇妙な英雄的資質を与えているのも間違いないとカナルは思う。
己の命にすら紙切れほどの価値も見出していないからこそ、何の躊躇いもなく死地に飛び込み、圧倒的な剣や魔法の才覚で結局は生還する。
しかし、それに付き合わされる周りの兵士たちはたまったものではないだろう。
だから、今の己にできることは、引き際を見極めるという一点に限るとカナルは考える。
サルヴァが兵を率いて特攻まがいの突撃を仕掛けようとしても、今の己の立場なら後退の命令を送り、兵士たちを救うことができるかもしれない。
通信情報隊から上がって来る戦況報告と、本陣天幕内に設置された王耀晶製のタブレットに映しだされる士官たちの視覚情報から戦の流れを見極め、迷路のように入り組んだ塹壕内を後退させ、あるいは塹壕を放棄してフィオーレに逃げ込む命令を出す。
それは、負け戦を知らないサルヴァにできなくて、経験豊富なカナルだからこそできることでもあった。
前線の爆風で空高く巻き上げらえた砂や小石が足元にぱらぱらと降り注ぎ、カナルは我に返る。
「閣下、ここは危険です! 天幕へお入りください!」
背後からオギュールドに声を掛けられ、カナルは身を翻す。
「わーかってるっつうの。ただでさえ爆音で耳がイカレそうなんだから、そうギャンギャン喚くない」
自分のすべきことを思い定めた老将は、天幕内の長卓に並べられた王耀晶のタブレットに視線を落とし、表情を歪めながら呟いた。
「あ~あ、やっぱり地獄じゃねえか」




