第一節 『虜囚』
想像を絶するほど不快な目覚めだった。
硬い床は肌に痛みを覚える程冷たく、こめかみには打撲による鈍痛が残っている。
部屋の空気は悪臭に満ち、咳き込むほどに埃っぽい。
おまけに、身にまとっている服はごわごわと硬く、僅かに身をよじっただけで毛羽立った生地が全身の皮膚に擦れた。
よくぞ今まで眠っていられたものだと、その人物は己自身の図太さに呆れつつ身を起こした。
「……何処だ、ここ」
暗い。
時間はわからないが、夜であることは間違いあるまい。
ただ、おそらくは部屋の上に設えられた天窓から月光が差し込んでいるため、辛うじて室内の様子は確認できた。
といっても、何もない。
あえて挙げるなら、扉がひとつと床に穴がひとつ。
それ以外は、石造りの壁と床だけに覆われた三畳程度の酷く狭苦しい空間だった。
いや、本当に何処だよと思考し、待てよと思い至る。
そもそも自分は誰だ。
「記憶が……ない」
多分、おそらく、日本人だ。
先程、起き掛けに口にした言葉が日本語だということは間違いない。
続いて、体をまさぐる。
男だ。
自分は、日本人の男だ、多分。
石壁に手を付き、身を起こす。
己の体を確認するため服に手を掛ける。
初めて気づいたが、丈長のローブのようなデザインだ。
袖が広く、裾は脛の下まで覆ったワンピースで、首元にはフードが付いている。
ボタンやポケット、ベルトループのような余分な意匠の施されていない極めて簡素な作りだが、袖回りが幅広で弛むようなデザインなため、小さいものであれば袖の中に入れておくことができそうだ。
寒さと、布が肌を削る不快感に堪えつつローブを脱ぐ。
月光に照らされた腕は、細身だがよく引き締まっているように見えた。
視線を下げれば、腹筋は割れ、太腿から踝にかけて筋肉の隆起が確認できる。
続いて、肩から指先まで、視線をゆっくりと移動させる。
皮膚にはシミひとつなく、血色も良いように見える。
ざっと見た限りではあるが、若く健康な体ではありそうだ。
少しホッとすると、途端に寒さが耐え難いものに感じられ、彼は急いでローブを纏った。
腰を下ろし、深呼吸する。
自分が何故こんな所にいるのか、わからない。
それ以前に、何処に住んでいて、どんな人間関係を築き、どんな日常を送って来たのか、何もわからない。
ただし、すべての知識や経験が完全に消え去ったわけではなさそうだ。
そうでなければ、日本語を話すことなどできないし、自分が日本人であるという推測もできなければ、体の様子から年齢を推し量ることもできないだろう。
では、日本とはどんな国だったのかと自問してみる。
四季があり自然が豊か、先進国で都市部は人であふれる、その他、民族、歴史、文化、政治、様々な情報が頭に溢れた。
よく憶えているじゃないか、自分のこと以外は、と自嘲せずにはいられない。
無理やり笑おうとして、側頭部に痛みが走った。
そうだ、まったく何も思い出せないわけではなかった。
腫れたこめかみを押さえる彼の脳裏に、おそらく、この部屋に入れられる直前のものと思われる光景が蘇った。
温かくどこか懐かしい、不思議な空間を揺蕩っていたところ、唐突に、何か不快な感触の粘液のようなものと一緒に、床にぶちまけられた。
混乱し叫び声を上げようとして、喉の奥に詰まった液体を吐き出した。
目を開けることもできなかったが、室内の照明は瞼の上からでも瞳を焼く程にまぶしく感じられた。
周囲からひとひそと話声が聞こえ、むせ返りながら震える手足に力を込め立ち上がろうとした。
途端、異国語で罵声を浴びせられると同時に、何か硬いもので殴り倒され、そのまま意識を失った。
それだけだった。
自分自身を証明するための記憶としては、あまりに意味不明で頼りない。
ただ、なぜか殴られる直前に聞いた異国語は、意味を理解できた。
何語かもわからなかったが、まるで日本語を聞いたのと同じぐらい自然と耳に入って来たのだ。
顔もわからぬ人物は確かに自分に向かって吐き捨てた。
「化け物め!」と。
そこが刑務所の独房などよりはるかに劣悪な環境だと、彼は滞在二日目にして早くも理解することとなった。
まず、夜は震える程に冷える一方で、昼間はうだるように暑い。
しかも、床に空いた穴は排泄用らしく、気温の上昇に伴い異臭は更に耐え難いものとなった。
おまけに、臭気に引き寄せられたのか、穴の周りには羽虫が湧き、時折彼の周囲を纏わりつくように飛び交った。
一度、捕らえて観察してみたが、ハエ程度の大きさでカマキリとゾウムシを混ぜたような悍ましい姿に鳥肌が立ち、潰すと黄色い汁が飛び散った。
明らかに、日本では見られない虫だ。
食事と水は朝夕の二度、扉下に設けられた横幅三十センチほどの挿入口から差し入れられた。
穴の外側には蝶番のとり付けられた板で蓋がされており、普段は外を覗くことができない。
木製のプレートに乗せられた食べ物(と思われる物体)は、ペースト状で饐えた匂いを発し、歯ごたえはないくせにいつまでも口内に纏わりつき、味は苦みとえぐみの塊、要するに死ぬほど不味かった。
箸もスプーンもフォークもないので、手先か舌だけで口に運んだ後は、食器を挿入口から外に出さなければならない。
怠ると、次の食事は抜かされる。
このルールを理解するまでに、彼は三度食事を食べ損ねることになった。
食事を運んでくる人間には、何度も声を掛けた。
気候や施設の環境、見たこともない虫から、ここが外国である可能性は高そうだと判断し、わかる限りの言語で話し掛けた。
「すみません、日本語わかりますか? Can you speak English? ¿Habla español? Oui, je me débrouille? Sprechen Sie Deutsch? 你会说汉语吗? 한국어를 할 수 있으세요? ……」
一度として返答はなく、自分の意外な語学力に驚かされただけだった。
扉の向こうに力の限り叫んでみたこともあった。
反応は、あった。
何か動物の叫び声、或いは自分の知らない言語の悲鳴が呼応するように上がった。
扉に遮られ、微かな音しか届かなかったが、思わず耳を塞ぎたくなるような、気味の悪い声だったため、それ以来叫ぶのはやめた。
脱出しようとも試みた。
まず、扉を蹴破ろうとしたが、びくともせず、踵を痛めただけだった。
次に、壁をよじ登ろうとした。
天窓から外に出ようと考えたのだが、部屋の狭さに比べ、天井までの高さは十数メートルもありそうだった。
しかし、壁に凹凸はなく、石には継ぎ目こそあるが、指先はおろか爪を差し入れることさえ難しい。
また、狭い部屋ではあるが、幅は彼の身長より広く、手足を壁に突っ張らせて登るのも不可能だ。
そもそも、よく見れば天窓には目の細かい格子が嵌められており、登りきったところで外せるとも思えなかった。
そして、排泄用の穴は、体を通すには小さすぎた。
仮に通り抜けられたとしても、深さは不明であり、挑戦する勇気はなかっただろう。
ひと通り外界とのコミュニケーションや脱出を試し終えると、暇になった。
臭いには三日ほどで慣れたが、暑さと寒さは耐え難く、何か気を紛らわさないことには気が狂いそうだった。
そこで、自身の身体能力を把握するため、狭い室内でできる範囲の運動を試みた。
軽く腕を振り、そのままシャドーボクシングしてみる。
拳を突き出す度、風切り音が鳴る。
そのまま体が動くに任せると、自然と肘や膝蹴りを交えたコンビネーションを繰り出していた。
いやに手慣れた動きで、自分自身に驚く。
次に、壁に向かって跳躍すると、三角跳びの要領で部屋を登ってみる。
四回ほど壁を蹴ったところで着地する。
そのまま天窓まで行けそうだったが、間違いなく降りられなくなると予想できたからだ。
逆立ちすると、そのままの姿勢で腕立てしてみる。
軽く五十回を超えたところで、一旦打ち切る。
短時間ながら、激しい運動に息切れひとつしていなかった。
一般的な成人男性の平均を大きく上回るスペックの肉体なのは間違いないだろう。
喜ぶよりも薄気味悪いという感情が先立った。
ここが日本でない以上、自分は何らかの理由で異国に滞在中、トラブルに巻き込まれたのではないかと考えていたが、異常な身体能力と語学力を考慮するに、スパイや工作員のような活動をしていたのではないか。
まさかとは思いつつも、外国の間者に加えられるであろう激しい尋問や拷問を想像すると背筋が凍った。
あるいは、そういった仕打ちの果てに、己は記憶を失ったのではなかろうか。
体に外傷はないが、薬物を用いた尋問の後遺症と考えれば、あり得なくはないのではないか。
いずれにせよ、先行きはあまりに不透明であり、多少人より動ける程度では気休めにもなりはしない。
それ以前に、一生この独房の中で飼い殺されることさえあり得るのだ。
考えることが億劫になり、彼は床へ大の字に寝転がった。
天窓から覗く空はどす黒く曇っており、己の心を映したようだ。
すると、上空から落ちてきた水滴が頬を打った。
次いで無数の雨粒が降り注ぎ、間もなく滝のような豪雨が独房を襲った。
気流を感じなかったため気付けなかったが、どうやら天窓は格子のみでガラスが嵌められていないらしい。
彼はローブを脱ぐと、この部屋に入れられてからはじめてのシャワーを暫し満喫した。
体感で一時間程度降り続いた雨は、まるで蛇口を閉じたように唐突に止んだ。
降り注いだ雨水は、ほとんどが排泄用の穴に吸い込まれたが、部屋の中心付近の床がわずかに凹んでいるらしく、小さな水溜りができていた。
これは、と思い彼は水溜りを覗き込んだ。
空は早くも晴れ間を覗かせ、部屋の中に陽光が差し込んでいたこともあり、案の定、水面には彼の顔が映り込んだ。
やはりというか、見覚えのない人物だ。
造形は平均的で、なんとも特徴のない顔だが、ただひとつ、ひどく目を惹く箇所があった。
左目の真下、下瞼に沿うように黒い二重線が引かれている。
線は目の端とこめかみの半ば程の位置で上下T字に折れており、線の上にはジオメトリックな模様が三つと、十字に放射状の線を加えた模様がひとつ描かれている。
「なんだこれ……タトゥー、か?いや……」
皮下に墨を流し込んだにしては、黒が濃すぎる。焼き印か、或いは皮膚に直接プリントされたような印象を受けた。
「これは……なんというか……オシャレすぎるだろ……」
自分に言い聞かせるように、おどけたような軽い口調で呟いてみたが、声が震えていた。
先程予想したように、囚われる以前、諜報活動に携わっていたのであれば、顔面にこれ程目立つ記号が描かれているのは致命的であったはずだ。
一般人にしても、身体装飾の類にしてはあまりに思い切り過ぎている。
「つまり、ここに入れられる際に付けられたと考えるのが最も自然か……」
国や時代によっては、犯罪者や囚人を識別する目的で入れ墨や焼き印を施すこともあったという。
それに、よく見ると顔に印刷された記号は、バーコードに似ていなくもない。
そう考えれば、どんな用途でこのような処置が施されたのか、予想することは難しくなかった。
それにしても、顔に印字するというのは、非人道的というか、悪趣味と言わざるを得ない。
そもそも、解放する気があるのなら、もっと場所を選ぶのではないか。
顔に刻まれた記号は、彼の心をかき乱し、疲弊させ、いつの間にか彼は水溜りの中心で意識を失っていた。
それからというもの、彼は自分の先行きについて考えるのを意識的に避けるようになった。
ネガティブな思考を続けると、精神が擦り減るばかりだと実感したためだ。
と言っても、記憶を失い、自分の置かれた状況もほとんど理解していない彼が考えることなど多くはない。
ゆえに、体の使い方を知るのと、筋力が衰えないようにする目的で、ほとんどの時間を運動に費やした。
くたくたになるまで動いて眠れば、何も考えずに済む。
それに、妙にポテンシャルの高い己の肉体を使うことは、記憶の無い彼にとっては新鮮で、唯一の娯楽と言ってもよかった。
ある時、夜中にふと目覚めた彼は、そのまま寝付くことができず夜空を見上げていた。
何か考えていないとまた先行きへの不安に苛まれると思い、気紛れに自分の仮の名を考えてみることにした。
ここが異国である以上、外国人にも覚えやすく、発音もしやすい名前が良いだろうと思考し、候補を口にしていく。
「スズキ、ホンダ、トヨタ、ってこれじゃ苗字か……イチロウ、ヒデキ、ケイスケ、シンジ……」
適当に、日本の有名企業や海外で活躍したアスリートの名を挙げてみるが、いまいちぴんと来ない。
「有名人の名前なんて、他人のものだしな」
というか、なぜそんな俗っぽい知識はあるのに自分のことは姓名さえ覚えていないのかと苦笑する。
「どうせなら、なにか今の自分に因んだ名前とか……」
と言っても、記憶喪失で牢獄暮らしという状況から名前を考えるというのは、些か無理がある。
「ダメだ、思いつかん」
嘆息して上空に視線を向けると、真円を描いた月が普段薄暗い独房を煌々と照らしている。
目を覚ました原因はこれかと考えると同時に、ふと脳裏に浮かんだ。
「……ミツキ」
月を観る、でミツキ。
まさしく現状から連想した名前だ。
〝月見〟という日本人の風習に因んでいるのも、国外に囚われていると予想される今だからこそ相応しい気がする。
それに、仮名で表記した場合、様々な漢字が当て嵌められそうなのも、自分というものがわからず、先行きも不明な己に合っていると思えた。
誰に名乗るでもないが、当面自分の名は〝ミツキ〟ということに決め、彼はまどろみの中へ落ちていった。
翌朝、何か硬質な音を耳にしたミツキは、瞬時に覚醒し、壁際まで跳び退った。
重苦しい響きとともに扉がゆっくりと開いていくのを見て、咄嗟に身構える。
部屋で意識を取り戻してから丁度十日目、ようやく解放されるらしい。
しかし、その結果自由を得るのか、無惨に命を落とすのか、あるいは死以上の苦痛を与えられるのか、現時点では想像もできない。
ゆえに、相手の出方によっては即座に強硬策を取れるよう、ミツキは腰を落としやや前傾姿勢で身構えた。
いきなり小銃でも突き付けられるようなら、イチかバチか銃弾をかいくぐり、無力化した後、銃を奪い逃走する。
己の身体能力であれば、おそらく可能だ。
そんなミツキの心構えは、次の瞬間あっけなく霧散することとなった。
金属質な足音を響かせ室内に踏み込んできたのは、鎧で身を固め、槍を携えた人物だった。
鎧のデザインは中世のヨーロッパ的で、鉄兜の口元や胸から股にかけて赤色の布を垂らしている。
鎧には、近未来的な幾何学模様が彫り込まれ、布にもジオメトリックな刺繍が施されている。
訪問者の出で立ちを見て呆気にとられたミツキは、攻撃姿勢の彼を見て踏み込んできた兵士の一撃に対し反応が遅れた。
突き出された石突きに脾腹を貫かれ、胃液を吐き散らしながら頽れる。
咳き込むミツキの眼前に、槍の穂先が突き付けられると同時に、兵士の声が独房に響いた。
「召喚実験体三二五番だな? 急で悪いが、これから殺戮ショーに出演してもらう。短い間だが、娑婆の空気を堪能してくれ」
予想通りというか、はじめて目覚めた直後、殴り倒された際に聞いたのと同じと思われる言語だった。
そして、聞き覚えのない言葉なのに、やはり母国語同然に理解することができた。
とはいえ、自分の置かれた状況は、ますますわからなくなるばかりだ。
ただひとつ確信できたのは、自分の予想を大きく超える程、状況は最悪ということだけだった。
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