第四十七節 『攻防』
エリズルーイとその副官のヴィラは、遠方にティファニア軍の塹壕陣地帯を臨む平野にて馬を降りた。
平野の向こう、左右にどこまでも広がる塹壕は、ふたりの立つ位置からは、ただの溝にしか見えない。
だが、その下にはティファニアの弓兵が矢を番えて犇めいているはずだ。
平野に散らばる自軍の兵の屍がそれを証明しており、ヴィラは恐怖に足を竦ませる。
遠方からの矢に晒され回収することもできない同胞の屍は、このまま手をこまねいていては、遠くないうちに腐敗しはじめるだろう。
やや潔癖症の気があるヴィラは、腐臭に包まれ大量の虫が湧いた戦場を想像し、胃の辺りが酷く重くなって無意識に口を手で押さえる。
「さすがに、非武装の女ふたりに、矢を射かけたりはしないようですわね」
青い顔で俯いていたヴィラは、上官であるエリズルーイの、独り言とも自分に話し掛けたともつかない言葉を耳にして我に返り、咄嗟に返答する。
「それでも、既に敵の矢の射程圏内に足を踏み入れております。そしてティファニア軍は、おそらく既に我々を捕捉し様子を窺っていることでしょう。奴らを刺激しないよう、動きには十分にご注意ください」
「これから攻撃するというのに、なにを注意しろというんですの?」
そう言ってエリズルーイは、身を屈め地面に手を置く。
「も、もう攻撃を始めるのですか?」
「時間を掛ける意味などありまして? 面倒事は手早く済ませるに限りますわ。それとあなた、死にたくなければ私から三歩以上離れないことをお勧めしますわ」
ヴィラが返答する前に、エリズルーイは短縮詠唱をはじめる。
「カレ・ズィス・パラ・ミラ・オーキン・ロウイラ・〝局地隆起〟」
呪文を唱えた直後、エリズルーイを中心に地面が大きく盛り上がった。
足場の揺れに、ヴィラは膝を着き四つん這いになる。
二人が乗って来た鳥馬も、退化した羽をバタつかせて奇声を上げている。
「な、なにやってるんですか! こんなことをしたら、自ら敵の的になるようなものではないですか!」
「その前に相手を殲滅すれば問題ありませんわ」
そう答えると、エリズルーイは続けて塹壕の方へ手を掲げる。
「ペスメルズ・エヴァロッテ・ギヴリシオラル・ミスティーカ・ゲヴェスエッカ・エラルク」
ヴィラには意味の解らない詠唱に続いて、エリズルーイの突き出した手の前に魔法陣が出現する。
その魔法陣の左右に、同じ魔法陣が現れたかと思うと、一瞬で視認できない程の範囲に数え切れぬほどの魔法陣が展開される。
「こ、これは……まさか、魔法の重複行使!? そんな真似、できるはずが……それも、この異常な数!」
「この程度、識る者にとっては造作もないことですわ」
その光景は、塹壕側からも確認されたらしく、溝の中から大量の矢が一斉に放たれる。
すべての矢は、放物線を描きながら、エリズルーイとヴィラの立つ隆起した大地の先端に向かって落ちて来る。
「あ、ああ……このままでは」
ヴィラは四つん這いのまま後ずさりし、高く盛り上がった足場から逃げ出しかけるが、事前のエリズルーイの忠告を思い出しどうにか踏み止まる。
一方のエリズルーイは、蹲って震える副官には目もくれず、前方を見据えたまま詠唱を始める。
「セレナ・ワイタス・ホーン・ロア・テレジウス・ヴェラ〝召水起波〟」
詠唱完了と同時に、大量の水が魔法陣から噴き出し、瞬く間に平野を覆っていった。
圧倒的な水量により生じた高波は、エリズルーイの魔法で隆起した大地の倍以上の高さにまで膨れ上がり、すべての矢を飲み込みながら塹壕陣地帯へと向かう。
ヴィラが視線を巡らせると、自分たちの周囲は完全に水没していた。
足場を作ったのはこのためだったのだと、彼女は思い至る。
「す、すごい、これなら……あ、しかし隊長、後方の本隊にも被害が及ぶのでは!?」
「あそこは丘陵地帯になっていますから簡単には水没しませんわ。それに、本来平野でこの手の水魔法を使っても、すぐに水が捌けるうえ大地に吸収されますの。だから味方が被害を被る心配など無用ですわ」
「は、はは……なるほど、しかしこの津波を喰らえば敵の塹壕は崩壊するか、健在でも中の兵士は溺れ死ぬわけですね!」
「まあ、そうなるでしょうけれど、念には念を入れて、敵陣が水に覆われたところで、雷撃魔法を使いますわ。威力が高い一方で、精度と効果範囲の狭さがネックの魔法ですが、この状況なら水に漬かった敵兵すべてを感電死させることができますの」
それなら、溺死を免れた者まで、残らず掃討できるだろう。
ヴィラは、この作戦を考案したアキヒトと、それを想像を絶する規模の魔法で実現したエリズルーイに対する畏怖のため、四つん這いの手足ががくがくと震えるのを自覚する。
「さて、もう少しで水が敵陣に達しますわね。今のうちに――」
再び前方に向け手をかざしたエリズルーイは、言葉を途切れさせると、敵陣を凝視し不快そうに顔を歪めた。
口を綴んで動きを止めた上官をヴィラは訝し気に見上げる。
「た、隊長? どうし――」
「やられましたわ」
その呟きの直後、凍えるように冷たい突風が吹き抜け、ふたりは足場から落ちぬよう身を硬くする。
蹲りながらも副官が前方を窺えば、敵陣へと迫っていた津波が動きを止め、その色を真っ白く変色させている。
「な、なにが、起こって――」
「氷結魔法、いえ、冷却魔法ですわね。これだけの水を凍らせて止めるとなると一級魔法レベルの威力でしょうけれど、敵陣に魔力反応が確認できたのは、ほんの一瞬でしたわ」
「そんなこと、できるわけありません!」
「普通はそうですわね。となれば答えはひとつ、先程の魔法を行使したのは、〝祝福持ち〟ということですわ」
エリズルーイの推測を聞き、ヴィラは納得する。
天才を止められるのは、天才だけということなのだろう。
なにかを学べると思い無理を言って上官に同行したが、自分の無力を思い知らされただけだった。
打ちひしがれた彼女は、聳え立つ氷塊と化した津波の向こうに思いを馳せる。
この稀代の天才の魔法を容易く止めた敵兵とはいかなる人物なのか。
時を同じくして、ティファニア側の塹壕の前に立った長身の美丈夫が、眼前の氷壁を見つめながら手を下ろした。
「て、敵の魔力反応、確認できません」
敵が魔法を使ってくることを想定して男に随伴していたリーズが、声を詰まらせながら呟く。
視界一面が氷に覆われているのだから、魔力反応を見るどころではない。
「……終わったのなら、帰る」
「あの、私はどうすれば」
「……所属の部隊に戻れ。用があれば、またうちの団長が声を掛けるだろう」
そう呟き踵を返したのは、迫り来る津波を一瞬で凍らせた魔法の使い手、クロゼンダ・マニハだ。
ドロティア王女の親衛隊員であり、〝氷冷の祝福〟を持つという男の背をリーズは無言で見送る。
塹壕に対し敵が水攻めを仕掛けて来る可能性をサルヴァに示唆したのはミツキだったという。
その対策として、あの若き総督は、本国から〝祝福持ち〟の部下を招き、塹壕内に待機させていたのだった。
奇抜な戦略と用兵による戦力の削り合いから、傑出した実力者による大規模な攻防まで、戦局は目まぐるしく変化する。
きっと、その変化に対応できなくなった方が滅びるのだろう。
そんな戦争の只中にあって、自分に何ができるのかなどわからない。
それでも、自分たちが背負う街を守るため、せめて死力を尽くそう。
そう決意し、所属の弓兵隊に戻るべく、リーズは霜の下りた地面をザクリと踏みしめた。