第十節 『名前』
正門脇の出入り口を開いて側壁塔へと入ったミツキに、鬼女が飛び付くような勢いで駆け寄って来た。
「キミ! どこまで行っていたんだ! 周囲を探しても見当たらないから心配したぞ。あの男の死体を片付けるなら、私も手伝ったのに」
どうやら黒髪の男の遺体を処理して来たのだと勘違いしているらしい。
ミツキを気遣う鬼女のローブは、若干焦げていた。
「いや、なんか忙しそうだったから。それより怪我はないか? その、火傷とか」
「ああ、大丈夫だ。掌が多少火ぶくれしたが治癒魔法で完治した。食料も守り切ったぞ!」
そう言って持ち上げられた鬼女の手には、食べ物の入った麻袋がしっかりと握られていた。
女の後ろを覗き込めば、石造りの建物がところどころ黒焦げ、一部の石材にひび割れが生じ、数カ所人型の凹みさえできていた。
そして広間の片隅にはボロボロの毛玉のような有様の犬男がへたり込んでいる。
いったいどれほどの激戦が繰り広げられたのか想像もつかない。
心底外に出ていてよかったと、ミツキは不本意ながらサクヤに感謝した。
「いつまで入り口で話し込んでいる。中に入れないだろう」
ミツキを押し退けるように建物へと入るサクヤを目にして、鬼女の顔色が変わる。
「えぇ? なんでこの女と一緒なんだ?」
動揺を隠しきれない鬼女を見て、サクヤの口角が微かに持ち上がるのをミツキは見逃さなかった。
しかし、説明しようと口を開く前に、サクヤがミツキの腕に絡みついていた。
「ちょ、おま、何してんだ」
「男と女が逢引きする理由などひとつしかあるまい? なあ、ミ・ツ・キ」
「はあ!?」
鬼女の灰色の肌が、薄青く染まっていく。
目尻は垂れさがり、唇はプルプルと震えてさえいた。
サクヤの言動と鬼女の反応に、ミツキは激しく戸惑う。
「ち、違うから! 死体埋めるの手伝ってもらっただけだから! ってかサクヤおまえ、何意味不明なこと言ってんだ! ほんとおまえ、そういうとこだぞ!」
「ふふん、冗談だ馬鹿め。まあ、これで名前の件は帳消しにしてやる」
名前の件とは、〝ミツキ〟という名と相容れないという意味を含ませ、〝サクヤ〟という名を提案したことを言っているのだろう。
意外と根に持つ奴だと、ミツキは内心で舌打ちした。
「そういうことだから! ほら、何にもないからこの性悪とは!」
引き攣った笑顔で説明するミツキに、鬼女はぼそりと呟いた。
「ミツキ……って、なんだい?」
「え……っと、オレの名前?」
「じゃあ……サクヤは?」
「それは……」
「こいつが付けた私の名前だな」
ミツキが言い淀む間に、サクヤが答えていた。
余計なことをと、横目でサクヤを睨むミツキの肩を鬼女の手が掴む。
ギョッとして鬼女へ視線を戻せば、二メートル超の長身で上から被さるようにミツキの顔を睨み、大声で捲し立ててきた。
「ずるいぞ!! 先にキミと出会ったのは私だし、キミを犬の熱波から守ったのも、怪我を癒したのも私だ!! なのになんでそんなチビ女と出かけて、名前まで付けて呼び合っているんだ!!! 私の方が、私の方が先なのにぃぃぃ!!!!」
鬼気迫る表情に、ミツキの足ががくがくと震えた。
魔獣より怖い。
ミツキの怯えに気付いたのか、鬼女は我に返ると、慌てて肩から手を離した。
「すす、すまない! 私としたことが、取り乱してしまった。キミが誰と何をしようと、私に口出しする権利などないのに」
そう言って、長身がミツキより小さく見える程に身を縮ませて落ち込む。
「いや、一緒に出掛けたのは、あんたが忙しそうだったからコイツに声を掛けただけで、別に他意はないんだよ。それに名前の件だって、これから一緒に生活するのにずっと〝あんた〟とか〝キミ〟じゃ困ると思って、とりあえず思い立って最初に傍にいたこのチビに付けただけなんだ。戻ったらあんたにも名前を贈ろうと思っていたし、順番で序列が付くとかもまったく考えちゃいない。だからそんな風に落ち込まれると、その、困る」
多少の虚言も混じっているが、他意がないのも名前の件も嘘ではない。
「……本当か?」
「もちろん」
「じゃあ、私にも、名前をくれないか」
鬼女は上目遣いにそう言ったが、ミツキとのあまりの身長差に顎を引きすぎて、しゃくれ顔になっている。
不意打ちの変顔に吹き出しそうになるのをどうにか堪え、ミツキは思考した。
サクヤという名が自分の名前の元である〝月〟に因んでいる以上、鬼女にも同様の配慮をしなければ、先程の言葉が嘘になる気がする。
ただ、日本に所縁があるような印象のサクヤと違い、日本人離れした体格の鬼女に和名はしっくりこない。
〝酒吞童子〟とか〝茨木童子〟とか、あるいは〝愛染明王〟とか〝青面金剛〟とかなら似合いそうな気もするが。
ともあれ、洋風の名前で月に因むものはと考え、神話に登場する女神などどうかと思い至った。
「トリヴィアってのはどうかな」
「トリ、ヴィア?」
「そう。俺の世界の異国の神話で、ヘカテーっていう狩りや戦いの得意な月の女神と、ディアーナっていう同じく狩猟や貞節を司る月の女神が居て、その両方を示す名前なんだ。俺の名前が〝月〟に因んでいるから、月の女神から名前を貰おうと考えたんだけど、どうかな?」
ミツキが窺うと、悲壮感の残っていた鬼女の顔に、満面の笑みが広がっていた。
「素敵な名前だ。響きが良い、由来が良い、なによりキミが……ミ、ミツキが考えてくれたのが、良い!」
「そうか。気に入ってくれたなら嬉しいよ。じゃあ、あらためてよろしく、トリヴィア」
「はわわぁ~こちらこそよろしく、ミツキぃ」
ミツキの手を掴んで、トリヴィアはぶんぶんと上下に振った。
はしゃぎ気味の握手なのだろうが、肩が脱臼しそうだ。
「ケッ! 何茶番をやっていやがる!」
トリヴィアの背後からの声に、上下運動が止まる。
助かったと思いつつ、声の方を窺うと、千切れかけのローブを腰に巻き付けた直立歩行の獣がこちらを睨み付けていた。
一瞬の逡巡を経て、犬男だとミツキは理解した。
半裸になるといっそう、犬感が増す。
こいつだけ米国製のカートゥーンから抜け出してきたようだとミツキは思う。
「なんだ、もう立ち上がれるのか? 意外に頑丈だな」
トリヴィアの冷めた声に、犬男は唸りで応える。
「あの程度でオレがやられるわけねえだろ。そもそも、閉所でさえなけりゃ、テメエみてえなウスノロになんぞ捕まることすらねえんだ。あんなもんで勝ったとか思ってんじゃあねえぞ」
「そうか? 私もまったく本気ではなかったが、何なら今から外で仕切り直してもいいんだぞ?」
振り向きざまに上から睨み付けるトリヴィアと犬男の上目使いの視線がぶつかり、数秒ほど沈黙が流れた。
緊張に耐え切れず、ミツキはつい口を出していた。
「ええっと、おまえにも付けてやろっか? 名前」
「あぁん!?」
犬男の視線がミツキへと向けられる。
「いや、ほら、名前無いと不便じゃん?」
「アホらしい! 好きなように呼びやがれ!」
興が削がれたとでも言うように、犬男は背を向けた。
「好きに呼んでいいのか。じゃあポチで」
次の瞬間、ミツキは首を掴まれ持ち上げられていた。
視線を下げると、犬男が唸りをあげてこちらを睨み付けている。
頸動脈を圧迫され、ミツキは焦りを覚える。
気道を絞めてこないので、すぐに殺すつもりはないようだが、言葉ひとつでこの短気な獣の気分は容易に変わるだろう。
「テメエ……ナメてんのか?」
「ミツキ!」
トリヴィアが犬男に襲い掛かろうと身構えたが、犬男がミツキの首に力を込めたことで、トリヴィアは動きを封じられた。
手出しすれば、トリヴィアの拳が届く前に、ミツキの首をへし折るという警告なのだろう。
「貴様、ミツキに傷ひとつでも付けてみろ! 八つ裂きどころでは済まさんぞ!!」
「黙ってろ巨猿女」
犬男はトリヴィアを一瞥するとミツキに視線を戻した。
「おい、随分と可愛らしい名前を考えてくれたじゃねえか。どういうつもりだ? あぁ!?」
タチの悪いヤンキーみたいだと思いつつ、ミツキは慎重に言葉を選んで話した。
「すまない。今のは冗談だったんだ。悪気はなかった。名前は、別にちゃんとしたやつを考えてある」
「冗談だぁ!? まったく笑えねえなあ! つまらねえ冗談で人を不快にさせると、それだけで首が折れることもあるって教えてやろうか!? ……だが、まあそうだな。じゃあこうしようぜ。本命の名前とやらを聞かせてみな。オレが気に入れば、ここまでにしといてやる。だが、次につまんねえことを言いやがったら、そん時は、わかってるよな」
ゴクリと唾液を飲み込み、ミツキは頷いた。
そして、数秒前に考えた名前を口にした。
「オメガ」
犬男の耳がピクリと動いた。
名前の響きを吟味するように、しばらく考え込む。
「オメガ……どういう意味だ?」
「オレの世界の異国で使われているギリシア文字ってのがあるんだが、その二十四文字の一番最後の文字が、オメガだ。最後の文字ってことで、〝最終〟とか〝究極〟って意味で使われることもある」
犬男は黙ったまま数秒間ミツキを睨むと、唐突に手を離した。
「ミツキ!」
駆け寄って来たトリヴィアの肩に手を置き安心させつつ、ミツキは犬男に声を掛ける。
「気に入ってくれたか?」
「悪かねえってだけだ。まあ、今回は勘弁してやらぁ」
そう言って廊下の奥へと立ち去る後ろ姿の、股の間を見ると、長い尻尾が左右に揺れていた。
どうやら気に入ったらしい。
そんな犬男の様子に、ミツキはひそかにほくそ笑む。
実のところ、オメガという名は好意的な意味合いで付けたわけではなかった。
狼の群れではアルファを頂点とした序列が形成され、最下位の個体をオメガと呼ぶ。
ミツキは首を絞められたことへの密かな意趣返しとしてオメガと命名したのだった。
「まあ、ヤンキーっぽい奴が好きそうな名前だったってのもあるんだけどな」
「どうしたミツキ?」
「いや、なんでもない。それより、さすがに腹が減ったよ。今夜の分の食料を食べないか」
「そうだな。あ、あの犬男、いやオメガだったか。自分の分の食料を取り忘れている」
「そのために喧嘩してたんじゃないのか?」
「奴は袋ごとまとめて独占しようとしてたから、奴の分も含めて守らなければならなかったんだ。ちょっと渡してくるから、先に食べててくれ」
そう言うと、トリヴィアはオメガが歩いて行った廊下へと駆けて行った。
「先にって、ここで食うのか?」
激戦の痕跡を残す広間を見渡す。
しかし、先程奥の倉庫まで軽く歩いた印象では、この広間以外はろくに掃除もされていないようだった。
今夜だけはここでやり過ごし、明日から掃除を始めるかと考えたところで、背後に気配を感じて振り返った。
「うわっ、なんだサクヤか。こんな状況で人の後ろに立つなよ。びっくりするだろ」
「チビ、ね」
その一言に、ぎくりと身が強張った。
「それに、随分と舌が回るじゃないか。見直したよ」
「い、いや。さっきのアレは言葉の綾というか……」
サクヤはミツキの言葉を無視してその背後へ進むと、トリヴィアが残していった袋の中から一人分の食料を取り出した。
「言葉の綾もいいが、不用意な発言は時として身を亡ぼすということを覚えおけ」
そう言い残し、サクヤは食料を持って建物の外へと姿を消した。
ひとり広間に残されたミツキは、小さく「はい」と呟くのだった。