第三十八節 『夢』
暗闇の中、手を引かれながらヒカリは必死に走っていた。
周囲の風景は視認できないが、自分の手を掴んで眼前を走る人物の背中は、光源がないにもかかわらずはっきりと見えている。
別に不思議ではないと、息を切らせて走りながら、彼女は思う。
なぜなら、これは夢だからだ。
そう自覚できるのは、これまで数え切れぬほど同じ夢を繰り返し見てきたからだ。
その理由もわかっている。
この夢の元となった体験が、彼女の心に強烈な印象を残しているのだ。
後に、カルティア人のエリズルーイから聞いた話によれば、異世界人を召喚した国の多くは、何らかの選別作業を行い、大量に呼び出した被召喚者のほとんどを間引き、精選したごくひと握りの精鋭を兵士として使うのだという。
無駄に多くの異世界人を抱えたところで養うには膨大な費用が必要となるし、徒党を組まれれば反攻を招く可能性も高いからだ。
しかし、ディエビア連邦だけは、例外的にひとりの異世界人も間引こうとしなかった。
人道的な意図からではない。
これまで、奴隷の輸出を主産業にしてきたこの連邦国家は、殺すぐらいなら異世界人も奴隷として売り捌こうと考えたのだ。
売り物を傷付けたくないとの意図から、よその国のような命懸けの選別も行われなかった。
代わりに魔力の測定だけが行われ、高い数値を出した者だけが、ダイアスにて高度な洗脳と拘束処置を施され、王直属の戦力として運用されることとなった。
あるいは、体の大きい者や、鋭い爪や牙を備えた見るからに戦闘能力の高そうな個体も、戦奴として軍に使役されることとなった。
さらに、魔力がなく戦向きでもないとされた個体のうち、人間離れした容姿の異世界人たちは、多くが好事家に売られた。
彼らがどうなったかは、買い手によってまちまちだった。
愛玩動物として飼育された者などはまだ運の良い方で、見世物にされたり、狩りの標的にされたり、珍味として食材にされた者までいたようだった。
そして、力がなく、この世界の人に似た容姿の者たちは、一般的な奴隷と同じように扱われた。
その多くは鉱山など劣悪な肉体労働現場に送られたが、ごく一部の者たちは娼館や、特に容姿の優れる者は富豪や権力者の愛妾として売られることになったのだった。
ヒカリもその中のひとりだった。
幸いだったのは、商品価値を高めるため、売られる前にこの世界のマナーや教養を時間を掛けて身に着けさせられたことだ。
この猶予期間がなければ、、己はどこかの金持ちにでも売り飛ばされていたはずだとヒカリは思う。
それでも、数ヶ月が経過し、遂に出荷される日を迎えた。
そして、ぎりぎりのタイミングで、彼女が囚われていた施設が襲撃された。
襲撃を行ったのは、鉱山に送られたが反乱を起こし、国への反抗勢力と手を結んで各地で虐げられている奴隷を開放して回っている被召喚者たちだった。
出荷の直前、間一髪で救出された彼女は、混乱に乗じて襲撃者のひとりに手を引かれ、夜の闇に紛れて逃走したのだ。
今、彼女が見ているのは、まさしくその時の夢だった。
ふたりは町から出ると、森の獣道を傷だらけになりながら駆け抜けた。
そして、ちょうど夜が明ける頃に、開けた丘の上へとたどり着いた。
息を切らした彼女は、立ち止まると同時に膝から崩れ落ちた。
この世界に召喚されてからこれほど激しく運動したのははじめてだった。
泥と汗にまみれ、疲労と恐怖で震える彼女に、自分の手を引いてくれていた人物が、一度離した手をあらためて差し伸べてくれた。
「大丈夫?」
返答もできずに、彼女は相手を見上げた。
同時に、地平線から陽光が差し込み、その人物の顔を照らし出す。
「よく頑張ったね。もう安心していいよ」
自分に向けられた言葉が日本語だと気付き、彼女は大きく目を見開いた。
目の前の人物の容姿は、明らかにこの世界の人間のものとは異なっており、彼が自分の同胞であると彼女は確信した。
そして朝焼けに色付いた青年の手を戸惑いながらも掴んだ。
そうだ、とヒカリは思い出す。
後に、記憶のない自分たちがお互いの名を考え合った時、この時の光景が強く心に残っていたからこそ、自分は彼に〝暁人〟と名付けたのだ。
彼は己の未来を照らしてくれた曙光であり、いずれはこの国に夜明けをもたらす存在となる。
そんなヒカリの想いは現実となり、ディエビア連邦を革命へと導くことになるなどとは、助け出された当時の自分は想像もしなかったと、夢のクライマックスを眺めながらヒカリはぼんやりと思う。
差し出された手を握りながら相手の顔を窺えば、高く昇った陽の光がさらに強く青年の顔を照らし、彼女はその輝きにおもわず目を閉じかける。
それでも、自分を命懸けで救ってくれた恩人の顔をよく見ようと、彼女は大きく目を見開いたのだった。
視線の先には、茶色くくすんだキャンバス地が広がっており、その隙間から差し込む朝陽の眩さに、ヒカリは目を閉じかけた。
どこだろうと考え、すぐに、ここ数日寝起きしている天幕だと思い至る。
彼女は、ディエビア連邦新政府軍の他の女性幹部らと同じ天幕で寝起きしている。
他の女性幹部というのは、自分と同じ世界の別の時代から召喚されてきたトモエとフレデリカ、カルティアからの亡命者ながらダイアス王を見限って自分たちの協力者となった魔導士のエリズルーイ・フラン、そしてアキヒトによって提供される現代文明の発明品、特に武器をこちらの技術で再現してきたエンジニアのマリ・ジュヴィラメリンという四人だ。
各々が傑出した能力の持ち主である彼女らに比べると、凡庸と言わざるを得ないヒカリが特別扱いされているのは、アキヒトのパートナーとして認知されているからだ。
救出されて以来、ヒカリは常にアキヒトと行動を共にしており、革命軍生え抜きのメンバーのほとんどが先の戦で命を落とした今、彼女は最古参の幹部のひとりという立ち位置だった。
しかし、隣国との戦争を前にして、とある理由から彼女の組織内における存在感は薄いものになっていた。
この朝にしても、陽が高く昇る時間までヒカリだけが眠りを貪っていた。
他の女たちは、陽が昇るより早く起床し、これからはじまる戦の準備のため働いているはずだ。
ヒカリは、夢で見た記憶によって高揚していた気持ちが急速に冷め、代わりに憂鬱な感情が心に沸き上がるのを自覚しながら、気だるげに身を起こした。
「起きたぁ?」
横合いから声を掛けられ、彼女はビクリと肩を竦める。
慌てて視線を巡らせると、白衣を肘まで捲り上げた女が、ビーカーに注いだ液体を啜っていた。
彼女の前の小机には、科学の実験器具のようなガラス製の容器と、ピーナツに似た食感のこの世界の木の実の殻が散乱している。
「……マリさん」
「はいはいマリさんですよぉ」
そうおどけるように言って、女はオリーブグリーンのショートヘアをかき上げると、ビーカーの液体を一気に煽る。
それがなくなると、メスシリンダーに満たされた液体をビーカーに注いだ。
それは、彼女が自分で精製した蒸留酒だった。
ヒカリは彼女が自分の就寝前からずっと飲み続けていたことを理解した。
しかし、別に驚いたりはしない。
ティファニアとの戦の準備が始まってから、彼女は仕事中以外のほとんどの時間を飲酒に費やしている。
如何な酒豪とて、これでは程なく健康を害するのは目に見えてる。
さりとて、言って止める性格でもないということをヒカリはよく知っている。
だから飲酒を止めるのではなく、仕事を引き合いに出して嗜めることにする。
彼女は仕事に対しては誰より真摯だからだ。
「いいんですか? 戦の直前に魔導技師長のあなたが飲んだくれていて?」
「ヒカリちゃんがそれを言うかな~」
そう返され、ヒカリは気まずそうに目を伏せる。
たしかに、今の今まで眠っていた自分が言う筋合いでもない。
「大丈夫、大丈夫ぅ、あとはこっちに持ってきたパーツを組み上げるだけだから、私が指示を出さなくてもニコくんたちが勝手にやってくれるのさ」
そう言ってマリは、凶悪な度数の酒を再び煽った。