第七節 『腑術』
女の視線に射竦められたミツキは、激しい動揺にもかかわらず指一本動かせぬまま、直立姿勢で正面に視線を固定されていた。
「案ずるな。こんなものは外法ですらない。カエルがヘビに睨まれて動けなくなるのと同じだ」
そう言って、少女のなりをした妖女は、ミツキへ一歩踏み出す。
まさか、騙されたのか、と考え、ミツキは軽いパニックに陥りかけた。
「そう怯えるなよ。おまえを欺いたわけではない。力は今から与えてやる。ただ、暴れられると手元が狂うので、体を固定させてもらっただけだ」
どういう意味だ、と問いたくても問えないミツキに構うことなく、女はローブに隠れていた右手を持ち上げる。
木の枝のように細く、陶器のように滑らかな質感の腕だ。
指は人と同じ五本。
先端の爪はマニキュアを塗ったように紅い。
そして、その中指の先端から、気味悪く濡れ光る触手のようなものが伸び、ピチピチと体をくねらせている。
「蛭だ。腑術という外法で私の指先の神経と繋げたうえ、蟲術で操っている。これからおまえに行うのは、腑術を用いた外科手術だ。この蛭を眼球の脇から頭蓋内へ挿入し、脳に神通を使うための器官を形成する」
女がミツキの顔に手先を向ける。
同時に指先の蛭が身を延ばすのが見えた。
脳の外科手術など聞いていない。
しかも、蛭で施術するなど冗談ではない。
抗議しようにも、うめき声ひとつあげられない。
どうにか逃れようと体に力を込めようとするが、まるで自分の体ではないようにびくともしない。
「心配せずとも大した痛みはない。脳には痛覚がないからな。後遺症も残らないはずだ」
蛭が目の脇から入り込んできた。
異物感に涙が流れる。
眉間の奥の鈍い痛みに背筋が寒くなる。
こうしている間にも、蛭は脳を目指して体をくねらせているのだろう。
目の前の女に意識を向ける。
口の端を釣り上げ、細めた目からは喜悦の感情が窺える。
なんでコイツ笑ってるんだと、ミツキは内心で薄気味悪く思う。
「ああすまない、知識はあるのだが経験するのは初めてなものでな。楽しくてつい表情が緩んでしまう。人の脳をいじくるというのは、なかなか刺激的な体験だと思わないか?おまえも怯えてないで、初体験を存分に満喫してくれ」
ふざけるな、と心の内で罵倒した。
この女、人が動けないからといって好き放題言いやがって。
これが終ったら、どうしてやろうか。
そうだ、まずは両目、もとい三つ目をえぐり、歯が全部折れるまで顔面を殴り付け、耳と鼻を削ぎ落し、次に腹を裂いて内臓を―――と考えたところで、ミツキは己自身の思考に違和感を覚える。
ちょっと待て。
この女が忌々しいのは間違いないが、なぜこんな残酷な発想が浮かぶのだ。
「おや? ふふ……」
そうだ、こんなに可愛らしいのに、暴力なんてとんでもない。
というか今、忌々しいと思ったか?
冗談じゃない。
こんなにも愛おしいというのに、自分はなんてことを考えていたのだ。
彼女は自分に力を与えようと、こうして体の中にまで入ってくれているのだ。
そう考えるだけで官能に身悶えしそうだ。
いや、今は悶えることもできないが。
「己の感情が制御できないか? 既に脳への施術は始まっているからな。その思考の乱れは副作用だ。と言っても、どうせ体は動かせないのだ。今は安心して狂っていてくれ」
そうか、既に脳をいじられているのか。
それでこんなにも、悲しいのか。
こうして女の好きなようにされていることも、こんな女に頼らなければ生き延びることのできない己の無力も、こんなわけのわからない世界に召喚された理不尽も、独房で目覚めて以来一度も風呂に入れていない不潔な体も、ただただ悲しい。
そう、悲しすぎて、可笑しい。
こんな意味の解らない状況、笑わずにいられるものか。
魔獣ってなんだよ。
あの不細工なツラ、思い出すだけで吹き出しそうだ。
鬼女と犬男は、まだ喧嘩しているのだろうか。
なぜ初対面であそこまでいがみ合えるのか。
バカみたいで笑える。
なんだよ、この世界、意外に楽しいじゃないか。
何もかも笑い飛ばしてしまえばいい。
いや、今は笑えないけど。
「ふむふむ、おまえの脳髄はこうなっているのか。んん? 私の世界の〝人〟より発達している部位があるな。まあ、問題にはなるまい。ここをこうして……こう」
途端、楽しさも悲しさも消え失せ、形容不能な感情に心を支配された。
なんだこれは。
これは……そう、孤独感だ。
いや、優越感か?
いやいや、空腹感? 疎外感? 正義感? 親近感? 使命感? 罪悪感? 現実感? 既視感? 空腹感? 飢餓感? 憂鬱感? 爽快感? 敗北感? 屈辱感? 違和感? 劣等感? 責任感? 安堵感? 嘔吐感? 焦燥感? 虚無感? 異物感? 圧迫感? 恐怖感? 悲壮感? 充足感? 脱力感? 疲労感? 清涼感? 一体感? 倦怠感? 切迫感? 絶頂感? 開放感? 多幸感? 恍惚感? 喪失感? 寂寥感? 嫌悪感? 感? 感? 感? 感? 感? 感? 感? 感? 感? 感? 感? 感? 感? 感? 感? 感? 感? 感? 感? 感? 感? 感? 感? 感? 感? 感? 感? 感? 感? 感? 感? 感? 感? 感? 感? 感? 感? 感? 感? 感 感 感 感 感 感 感 感 感 感 感 感 感 感 感 感 感 感 感 感 感 感 感 感 感 感 感 感 感 感 感 感 感 感 感 感 感 感 感 感 感 感 感 感 感 感 感 感 感 感 感 感 感 感 感 感 感 感 感 感 感 感 感 感 感 感 感 感 感 感 感 感 感 感 感 感 感 感 感 感 感 感 感 感 感 感 感 感 感 感 感 感 感 感 感 感 感 感 感 感 感 感 感 感 感 感 感 感 感 感 かん かん かん かん かん かん かん かん かん かん かん かん かん かん かん かん かん かん かん かん かん かん かん かん かん かん かん かん かん かん かん かん かん かん かん かん かん かん かん かん かん かん かん かん かん かん かん かん かん かん かん かん かん かん かん かん かん かん か か か か か か か か か か か か か か か か か か か か か か か か か か か か か か か か か か か か か か か か か か か か か か か か か か か か か か か か か か か か か か か か か か か か か か か か か か か か か か か か か か か か か か か か か か か か か か か か か か か か か か か か か か かか・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
ニュルリ、と蛭を引き抜かれた途端、ミツキは白目を剥いて前のめりに倒れ伏した。
女は指先の蛭をブチリと毟り取って捨てると、看守の男に目で合図を送る。
看守は虚ろな目のままにミツキへ近寄ると、足先で軽く胴を押して転がし、あおむけに体勢を変えた。
白目を剥いたまま口の端から涎を垂らしたミツキの顔を女は覗き込んだ。
額の目がキョロキョロと動き、何かを観察しているようだ。
「……問題ないようだな」
そう言って顔を上げ、額の目を閉じた。
運の良いやつだ、と女は思う。
神通を授けるための儀式の成功率は、実は極めて低い。
通常は額に穴を開け、そこから施術を行うのだが、十人にひとり成功すれば幸運だと言える。
今回に限っては蟲術との合わせ技で傷を付けることなく施術できたものの、それでも成功率は三割程度だったのではないかと女は思っている。
とはいえ、神通は個人の素養によって使える力もその強さもまるで異なる。
せっかく施術が成功しても、まったく力が発現しないという場合もあるのだ。
「おまえはどうかな?」
意識を失い転がる男の間抜け面に視線を落とし、女は微かにほほ笑む。
長命を誇る女の種族にとって、最大の娯楽は未知の探求だ。
先に伝えた目的に偽りはないが、この男が無事に力を得ることができたなら、あるいはこの男の生き様を観察すること自体を楽しめるかもしれない。
「失望させてくれるなよ?」
まあ、使えないなら使えないで、相応の対処をするまでだと女は考える。
虫と融合させ生体兵器に仕立てるか、あるいはあらためて解剖してみるのも面白いかもしれない。
先程、脳を観察して思ったが、やはり自分の世界の〝人〟と異世界人の男では異なるところもあるようだ。
腑術を使い男の〝中身〟を調べれば、己の好奇心はきっと満たされるだろう。
横たわる男の胴体に沿わせるようにして虚空に指先を動かし、女は静かにほくそ笑んだ。