第八節 『逃亡者』
ブリュゴーリュ北部、隣国との国境地帯の山林を疾走する影があった。
時刻は夕暮れ時。
疾走するその人物、否、人と呼ぶにはあまりに獣染みたその生物は、あと少しの辛抱だと考えながら懸命に足を動かしていた。
陽さえ沈めば、形勢は完全に逆転する。
追跡者は夜目が利かない。
辺りが闇に包まれれば、逃げ切るのも相手を皆殺しにするのも容易だ。
実際、その生物はそうやって闇に紛れることで逃げのびてきた。
しかし、ここにきて敵の追撃も激しさを増している。
なにより、あの妙な武器を多数の追跡者が装備しているという状況はあまりに危険だと考える。
己とともに行動していたあの男も、本来であればこの世界の人などに後れを取ることはあり得ないはずだったが、飛翔中に翼を撃ち抜かれ、なんの抵抗もできないままに殺されたのだ。
思考する間にも、耳元を風切り音が掠め、その生き物は恐怖に全身の毛を逆立てる。
背後で鳴る複数の甲高い金属音から、敵が予想以上に間を詰めてきていることに気付き焦りを覚える。
「まうい! この距離らと、一斉に撃たれたら避け切れな――」
爪先に衝撃を感じ、疾走していたその生物の体が浮き上がる。
背後に気を取られていたため、進路上の地面に盛り上がった木の根に気付けず、足を引っかけてしまった。
咄嗟に、中空で身を回転させ、体勢を立て直す。
人間離れした身のこなしだ。
そのまま問題なく着地するはずだったが、脇腹を何かが掠め鮮血が飛び散り、バランスを崩す。
迫り来る地面を視認しながら、その生物は己の迂闊さを呪う。
ようやく国境までたどり着いたというのに、一瞬の気の緩みでこのザマだ。
転倒した己は周囲に生い茂る野草を派手に揺らして敵に居場所を教えてしまう。
当然、例の武器による斉射を受け、身動きをとれなくなるほどの傷を負うだろう。
その時点では致命傷でなかったとしても、後は間合いの外から何度も体を撃ち抜かれて終わりだ。
己はこんなところで死ぬわけにはいかないのにと、その生物は自分に迫る死よりも、任務を達せられないことに狼狽する。
そうだ、己の命は己自身のものではない。
己のすべては王の所有物なのだ。
それをこんな場所で無駄にすることなど断じてできない。
どんな手を使ってでも王に情報だけは届けなければならない。
そんな強烈な使命感も空しく、地面に背中から叩き付けられて転がる。
枯れ葉と腐葉土が衝撃を吸収したため、肉体へのダメージはさほどでもないが、次の瞬間にでも一斉に攻撃を受けるはずだ。
その生き物は、回避よりもまず最初の攻撃を凌ぐため、身を縮め頭を抱えてやり過ごそうとする。
しかし、予想していた攻撃は数秒経っても行われる気配がない。
「……な、なんら?」
訝しみながらも、再び逃走に移るため身を起こしかけるが、複数の人物によって抑え込まれ、口まで塞がれ、その生物は完全に自由を奪われた。
「……なんだ?」
迷彩色のツナギと、同じ柄にペイントされた革鎧を身に着け、目出し帽を被った追跡者が呟いた。
その両手は、先程追跡対象を狙撃した、先端が筒状の武器を支え、右肩に押し付けるように構えている。
仲間の声に反応し、近くを進んでいた別のふたりが振り向く。
三人ともに男なのは間違いないが、目出し帽のため顔は窺えない。
「銃声が止んだな。仕留めたか?」
別の追跡者が呟く。
男はたしかに「銃声」と口にしたが、先程まで響いていたのは、金属同士を打ち付けたような甲高い音だった。
「いや。あれを単発で仕留められるのはフレデリカぐらいだろう。仮に運良く急所を撃ち抜いても、簡単に死ぬとは思えん。仕留めていたとすれば、斉射音が響いていたはずだ」
「じゃあ、返り討ちに遭ったと?」
「それも違う気がするな。反撃を喰らうとすれば待ち伏せに遭った場合だろうが、周りの木は細く地形的にあまり隠れるような場所はなさそうだし考えにくいだろう。それに、あちらもまとまって動いている以上、仮に誰かひとり殺られても、他のふたりが反撃するはずだ。それで仕留められるかは別としても、交戦した音が聞こえんのは不自然だ」
「ってことは、普通に逃げられたと考えるのが妥当か」
「ああ……だが、なにか引っ掛かる」
そう言って、その追跡者は側頭部に手を当てる。
すると、目出し帽の内側で耳に装着した銀のイヤーカフが、微かに震えた。
「おい。奴は聴覚が優れているから音声通信は極力控えろって言われただろ」
「推測通り逃げられたんならそんな気遣いは不要だろう。とにかく安否だけでも確認する」
そう言って男は、イヤーカフのパーツの一部に触れながら、離れた場所の仲間に呼び掛ける。
「三班聞こえるか? 銃声が途切れたがどうかしたのか?」
少し待つも、応答はない。
追跡者は再び問い掛ける。
「三班どうした? 聞こえないのか?」
やはり答える声はない。
ここに至り、三人の顔に緊張が浮かぶ。
「まさか、殺されたのか?」
「なにか妙だ。ここまで奴を追跡してきて、このタイミングでの反撃はどう考えても想定外だ」
「まさか、仲間と合流したんじゃないのか?」
「たしかに、ここは国境地帯だし、迎えが来ていたとしても不思議じゃないだろう」
「いや、あり得ない。上は奴がブリュゴーリュから送られた間諜と断定している。しかし、あの国は隣国との戦争に負け、実質亡びているはず。迎えなど来るはずがない」
「帰る場所もないんなら、ここまで執拗に追う必要なんてあるのか?」
「それを判断するのはオレたちじゃない。それより、状況がわからない以上、一旦後退して本隊と合流しよう」
そう言って、男が再びイヤーカフに手を当てる。
「こちら一班。五班、聞こえるか」
『――こちら五班。予定通り迂回中だ。通信で連絡してきたということは緊急か?』
「そうだ。三班と連絡がつかない。先程銃声も途切れた。どうやら異常事態だ。作戦をちゅ――」
そこで、突風が吹き、男の声が途切れた。
風に煽られ咄嗟に足を踏ん張った追跡者のひとりは、顔を上げて大きく目を見開いた。
先程まで味方と通話していた仲間の頭部が消えており、一瞬の間を置いて首から間欠泉のように血液が吹き上がった。
「はっ!? な、なっ!?」
男が口をパクパクさせていたところ、傍らでキンッという金属音が鳴り、続いてもうひとりの仲間が声を荒げた。
「おい構えろ! 敵だ!」
「て、敵!? あの猫女か!?」
「ちげえよ! 槍を持った人間の男だ! その槍でクナキの首を刎ね飛ばしやがったんだ!」
そう言って、男は続けて発砲する。
もうひとりの男は、仲間の狙った方向へ視線を向け、木々の幹を蹴って森の中を飛び回る人影を認めた。
その手には、確かに長槍が握られ、体は枯草色のマントに包まれている。
「お、おい、なんだあいつ。木を蹴って跳ねまわってるぞ。なんであんな真似ができるんだよ」
「知らねえよ! どうせ補助魔法かなにかだろ! そんなことよりおまえも手伝え!」
三度目の銃声に続き、男は仲間に倣って跳び回る敵を狙い撃とうと試みるが、相手の素早さに翻弄され、まったく照準が付けられない。
筒状の武器を下ろしつつ、震える声で仲間に訴える。
「だ、だめだ、あんなに素早く、しかも地面じゃなくて頭上を飛び回られたら、狙いを付けられるわけない。に、逃げよう」
「馬鹿野郎! クナキが殺られたんだぞ! このままみすみす――」
男が言い切る前に、その首元から鮮血が吹き上がった。
仲間に視線を向けた男の隙を見逃さなかった槍使いが、木を蹴った勢いで滑空しつつ、すれ違いざまに頸動脈を切り裂いたのだ。
血を吹き上げながらゆっくりと頽れる仲間に愕然とした表情を向けながら、最後に残った追跡者の男は、地面に着地した男に得物を向けるが、射撃する暇もなく投げられた槍に眼窩を貫かれ、ひっくり返るようにして倒れた。
槍使いは、仰向けに倒れた敵の目から上空に向かって伸びる己の槍を引き抜くと、喉に手を当て口を開いた。
「こちらティスマス。とりあえず、こっちの三人は処理が完了したんで、捕獲班と弓隊もよろしくぅ」