第五十九節 『事情通』
四人乗りの馬車の座席の一方に深く身を沈めたミツキは、相対する片眼鏡の男に警戒の視線を送りながら問うた。
「この街はいったいどうなってるんだ?」
ミツキにそう問われ、エカロ・チリーネフは首を傾げる。
「申し訳ないのですが、質問の意図が少々……」
問い掛けが抽象的すぎたかと反省し、ミツキは言葉を変えて再び疑問を投げ掛ける。
「あの靄が人の正気を奪い、この国の王様とやらに服従させることはわかっている。ティファニア国に攻め入った兵士たちもそうやって洗脳したんだろ? さっき歩いてみて、この街の住人もやはりまともじゃなくなっていた。オレがわからないのは、奴らがなぜ、何事もないように仕事をして日常生活を送っているかだ」
「ああ、そんなことですか」
「あ?」
含み笑いを漏らすエカロに、ミツキの表情が険しくなる。
「……なにがおかしいんだよ」
「おっと、これは失敬。べつにあなたを嘲笑ったつもりはないのです。ただあまりにも、当たり前すぎることを尋ねられたもので、なぜそのようなことを聞くのかと思いまして」
「当たり前だと?」
「ええ、王が民の平穏な生活を願うのは当たり前のことでは?」
ミツキは靄に包まれた窓外に視線を向ける。
「これのどこが平穏なんだよ」
「靄のことを言っているのであれば、あなたは誤解をしていらっしゃる。この靄は王の意思を遍く民に伝えるため必要なものなのです。靄に触れたすべての民は、王の御心をこころから理解し、感銘し、王の願いに添うよう生きていけるようになるのです。王が隣国を欲すれば、兵は皆一騎当千の益荒男となり身命を賭して戦に向かい、王が民の平穏を願えば、ただ心穏やかに日々を過ごす。彼らが狂っているように見えるのは、王の意に添うという目的以外のすべてが無意味となるため、道理や常識、欲望や生理現象に至るまで、あらゆるものが行動に影響を与えなくなるというだけのこと」
その結果できあがるのが、先程靄の中の露店で見た腐肉を売る商人やそれを嬉々として買う女ということなのだろう。
エカロはさも当然のように靄の存在を肯定したが、これがブリュゴーリュという国を狂わせた元凶であるのは間違いなさそうだ。
それに、とミツキは考える。
今のエカロの話しぶりからすると、やはりブリュゴーリュ王がこの靄を操っている、もしくは靄を操る何者かを支配している、と判断して間違いなさそうだ。
うまくすれば、ブリュゴーリュ王ひとりを討つだけで、この戦争に決着を付けることができるかもしれない。
「城まで今少し時間が掛かります。他に質問などあれば、どうぞ何なりとお尋ねください」
この男は、仮にも敵国の将である己に対して、なぜこうも気安いのかとミツキは疑念を抱く。
もしかしたら、〝王の意に添うという目的以外のすべてが無意味となる〟からこそ、ミツキに対する敵意も警戒もないのか。
それどころか、ミツキを王の元へ連れて行くという目的を優先するため、情報を餌にしてこの場に引き止めているとは考えられまいか。
いずれにせよ、情報を仕入れる好機だ。
「この靄はブリュゴーリュ王が出しているのか?」
「左様でございます。まさに奇跡の御業と言えましょうな」
重要な情報をさらりと明かす。
どうやら、この男もまともではないらしい。
それとも、嘘を言っているのだろうか。
「靄は魔法で出しているのか?」
「いいえ。この世界にこれ程強く、かつ大量に、人の精神に作用する魔法など存在しません」
魔法じゃないのか、とミツキは意外に思う。
同時に、ひとつの仮説が心に浮かぶ。
「この国の王ってのは、もしかして異世界人か?」
エカロは一瞬口を噤み、少しの間を置いてから口を開く。
「王は王。この世界、異世界、すべて含めて〝人〟という括りに収まる存在ではありませんな」
これまでになく曖昧な回答に、はぐらかされたのか、とミツキは疑う。
そこで続けてブリュゴーリュ王の正体について追及しようと考えるが、エカロの言葉に質問を遮られる。
「申し訳ないが、これ以上、王についての質問は控えていただきたい。私ごときがあの方を語るのはあまりに畏れ多い」
先回りされるかたちで質問を封じられ、ミツキは舌打ちしそうになる。
これで王の正体については聞けなくなった。
とはいえ、知りたいことならまだまだいくらでもある。
次の質問はと考え、ミツキはふと、この男との最初のやり取りで少し気になったことを訪ねようと思う。
「さっき、あんたとはじめて対面した時、あんたはオレの正体をよく知っていたよな。オレがティファニア軍の副将だということ、そして異世界人だということ、ついでにティファニアの異世界人が四人ということまで」
「ええ、私はなんでも知っておりますので。ああ、いや、それはさすがに語弊がありますな。正しくは、なんでも知ることができますので」
男の発言をミツキは聞き流す。
やはり、この男も靄のせいでおかしくなっているようだ。
「その時にあんたは、オレの名前の前に〝覚醒者〟と言い添えた。あれはなんだ?」
それは素朴な疑問だった。
自軍の私兵たちが、己に〝人間狩り〟なる不本意な仇名を付けたように、何らかの方法で先の戦でのミツキの活躍を知ったブリュゴーリュ軍が、敵将に付けた異名か何かだと思っていた。
ただ、なぜそれが〝覚醒者〟なのかと、少し疑問に思っただけに過ぎなかった。
だからこそ、エカロの回答に、ミツキは顔色を変えることとなる。
「カルティアは、召喚体を国と番号で管理しています。あなたの顔面、左目の下に刻印された数字と記号はまさにそれですな。しかしながら、召喚体の数は膨大なうえ、実際に活躍する者はごく少数に限られます。そこで、我々は強い力を有した個体に対し、コードネームを設定することに決めたのです」
「…………は?」
「もっとも、あなたの場合、最初は魔力反応さえ検知されなかったことから、選別試験通過後も名称は未設定でした。しかし、ブシュロネアで活躍したことが評価され、前回の報告会でコードネームが付けられたというわけです。とはいえ、私自身は前回の報告会には参加しておりませんので、その情報は後から取得――」
「ちょ、ちょっ、ちょっと待ってくれ!」
ミツキは慌てて手を前に突き出し、エカロの話を遮った。
その顔は動揺に強張っていたが、大きく息を吸い、どうにか気持ちを落ち着けようとする。
この男は、今、カルティアと口にした。
ティファニア王を唆して自分たちを召喚し、他国にも何らかの形で働きかけて異世界人を召喚させているという国の名だ。
自分の理解が正しければ、今の発言は、そのカルティアの内情を暴露したもののようだったとミツキは考える。
なぜ、ブリュゴーリュの高官の口から、カルティアの情報が語られるのだ。
「……あんた何者だ?」
「私はブリュゴーリュ王の側仕えを拝命――」
「それはさっき聞いたよ! なんでカルティアの情報をそんなに深く知っているんだって聞いてんだ!」
「ああ、それでしたら、私が元は亡命という体裁でこの国へやって来たカルティアの工作員の長だったからですな」
エカロは事も無げにそう言った。
「そ、それじゃあ……あんたとその仲間が、この国の異世界人、オレたちが戦った虫騎士等を召喚したのか?」
「虫騎士? ああ、〝鉄騎蟲〟のことですな? ええ、ええそうですとも。〝鉄騎蟲〟の他にも〝無限嬢〟〝雪兎〟〝千軍妃〟という、遠征軍に付けた四体の召喚体はすべて我々が呼び出しました」