第五十八節 『出迎え』
市場の露店から走り去り、さらに三十分ほど進んだところで、ミツキはおもむろに足を止めると、小さく息をついてから、周囲に鋭い視線を走らせた。
道の左右の建物の中からは、鉄を打つ槌音や金属を削る耳障りな騒音が絶えず聞こえてくる。
おそらく、鉄器を作る職人の工房なのだろう。
先ほど、市場で見かけた夫人の様子は明らかにまともでなかったが、それでも彼女は食材を買い、気が触れているなりに日常生活を送っているように察せられた。
ということは、つまりは他の住人達も、日常をなぞるように行動している可能性が高いのではないか。
職人も、この靄に包まれた街の異常など気にかけることもなく、仕事に従事しているのかもしれない。
不気味だとミツキは思う。
しかし、今そのことはどうでもいい。
ミツキは鉄球を握って身構えながら、靄に咽ぬよう制服の袖で口元を押さえ大きく息を吸うと、視界を覆われた前方に向かって声を張る。
「大人数で囲んでいることは気付いている! こそこそと隠れていないで姿を現したらどうだ!?」
一瞬の間を置いて、靄の奥でパチパチと音が鳴る。
おそらく、拍手だとミツキは察する。
「さすが、単身で敵の本拠地に乗り込むだけはありますな! お望み通り姿をお見せいたしますが、どうか攻撃はしないでいただきたい! 当方に交戦の意思はございませんので!」
男の声に続いて、自分を取り囲む気配が動くのをミツキは感じ取る。
声の言うように、殺気は感じられない。
だから囲まれるまで気付かなかったのだ。
視界が最悪とはいえ、もっと注意するべきだったと、ミツキは臍を噛む。
やがて、周囲の靄の中に人影が浮かび上がる。
ひとりや二人ではない。
微かな足音から、数十人はいるとわかる。
そしてミツキは理解する。
殺気がないから気付けなかったのではない。
周囲の者たちからは、人間らしい気配がまったく伝わってこないのだ。
まるで、人形にでも囲まれているようだとミツキは感じる。
「サクヤの屍兵や蟲憑きとも違うな」
屍兵はもちろん、蟲憑きも元の人物の能力を超えたスペックを発揮することはない。
その点、靄の洗脳を受けた人間は、ブリュゴーリュ騎兵のように戦闘能力の向上や凄まじい闘争心を発揮したかと思えば、今周囲を囲う者たちのように気配を断つ術まで身に着けている。
人間性と引き換えに、人体の潜在的なスペックを完全に引き出しているということだろうか。
そうだとすれば、この点については完全にサクヤの上位互換だと言えた。
「かと思えば、どうも正気を保った奴まで居るらしい」
ミツキは警戒のため周囲に巡らせていた視線を正面に据える。
程なくして、靄の中に三人分の人影が浮かび上がり、ミツキに近寄るにつれその色を濃くしていく。
「出迎えご苦労さん。で、あんたいったい誰なんだ?」
ミツキは己の前に現れた三人の中心に立つ中年男に話し掛ける。
左右の人物がブリュゴーリュ軍の軽騎兵に似た出で立ちなのに対し、その男だけは金糸の刺繍が施された丈の長い濃紺の上着を着用し、胸元を白いスカーフで飾っており、妙に小洒落ている。
どう見ても、兵士には見えない。
高級そうな仕立ての衣装と、兵士に守られた位置取りから、おそらくは、この国の官僚ではないかとミツキは推測する。
男の顔は少し痩せこけ、薄い唇に大きめの鷲鼻、やや垂れ下がった目に片眼鏡をかけている。
「はじめまして、ティファニア軍の副将にして現在ティファニアが擁する四人の異世界人のうちのひとり〝覚醒者〟ミツキ殿。私は王の側仕えを拝命しておりますエカロ・チリーネフと申します。どうぞ、お見知りおきを」
ミツキは目の前の男の発言に顔色を変えた。
こいつはなぜ、自分の情報を知っているのだ。
〝覚醒者〟というのがなにかはわからないが、異世界人という情報からティファニア軍での立場まで言当てられるというのは、見過ごせる状況ではない。
まさか、ティファニア軍内に内通者がいるということか。
もしそうだとすれば、由々しき事態だ。
この作戦のことは、少数の幹部にしか知らせず、その話し合いの場も盗み聞きなどされぬように影邏隊とサクヤの眷族の蟲を使って厳重に警戒していた。
ということは、情報を流した者がいたとすれば、それは軍上層部の人間である可能性が高いということになる。
しかし、仮にそんな者がいたとして、この靄に覆われた街の仲間に、自分が潜入するより早く情報を届けることなど可能なのだろうか。
いや、敵も異世界人を保有している以上、サクヤの蟲を使った通信のような、特殊な連絡手段がないとも限らない。
そして今の口振りは、被召喚者の事情への深い理解を窺わせた。
そこまで知る人間となると、ティファニア軍上層部でも限られてくる。
ミツキの脳裏に、サルヴァ、レミリス、アリアと、自分たちと関わりの深い人物らの顔が立て続けに浮かんだ。
疑心暗鬼になりかけているミツキに、エカロ・チリーネフと名乗った男は言葉を継ぐ。
「王があなたをお待ちです。馬車を用意してありますので、どうかご同行いただきたい」
「は? なんだそれ? この国の王様が敵のオレになんの用だよ」
「さて、何用でしょうな。王陛下の深謀遠慮はたかが人ごときには到底理解できるものではございませんからなぁ。あなたの侵入を王にお伝えしたところ、ただ連れてこいと、そうおっしゃられたので、私はお連れするのみですよ」
命令されたからといって、敵の刺客を国の王の前に連れて行くなど、まともな判断ではない。
盲従、という言葉がミツキの脳裏に浮かぶ。
一見するとまともなようだが、やはりこの男も靄によって洗脳されているらしい。
ミツキは一瞬男に従うべきか否か迷うが、そもそも己に拒否権がないということに思い至る。
たとえ敵に囲まれていようと、普段のミツキなら〝飛粒〟で一掃できるし、遠方から矢を射られたところで念動で止められる。
しかし、靄によって視界を遮られたこの場では、敵の姿も攻撃も確実に認識する術がない。
だから、この場で目の前の男を殺し、己を取り囲む兵士たちと戦うという選択は極めてリスキーだと言えた。
それに、とミツキは考える。
虫騎士にしろ目の前の男にしろ、ここまで王を妄信しているということは、王がこの靄となんらかのかかわりがあるのは間違いあるまい。
ならば、まずはこの男に従って王宮に入り、隙を突いて攻勢に転じ、王の身柄を確保するというのが、現状考え得る方策としては最善といえるのではないか。
「わかった。同行しよう」
「お聞き入れいただき助かります。ではこちらへ」
踵を返した男に続いて靄の中を進む。
程なく、周囲を囲んでいた兵士の集団とすれ違う。
その手に携えた弓を見て、ミツキは自分の選択が正しかったのだと内心で胸を撫で下ろす。
もし、戦って切り抜けることを選んでいたら、今頃全身を射抜かれハリネズミのようになっていたことだろう。
馬車は、少し歩いた場所に停められていた。
もし、ミツキの動きに合わせてこの場に配置しようとしていたのなら、音で察知できぬはずはない。
おそらく、正門を直進しはじめた時点で、己の進路は悟られていたのだろう。
街中が靄に覆われ状況で、どのような方法でその情報が片眼鏡の男らに伝えられたのかはわからない。
しかし、探る時間は十分にあるはずだ。
馬車の前に佇み考え事をするミツキに、エカロ・チリーネフは促す。
「ささ、城まで然程時間もかかりませんゆえ、どうか中でお寛ぎください」
扉を開けてほほ笑む片眼鏡の男を一瞥し、ミツキは無言で馬車へ乗り込んだ。