第五十七節 『霧中』
薄闇の中、ミツキの目の前には、巨大な壁が聳え立っていた。
否、壁に見えるそれは、都市を丸ごと包み込む靄だ。
近くまで来ると、城壁を遥かに超える高さまにで達した靄の迫力に圧倒される。
いったい、どんな奴がこんな得体の知れないものを作りだしているのか。
「ここいらでいいですかね」
「へ? おぶっ!」
馬が急停止したため、ミツキはシェジアの首元に顔面をぶつける。
「停まるなら停まるって言ってくれ!」
「ああ、そりゃ気ぃ付きませんでした。なんせ送迎なんざ傭兵の仕事じゃねえもんで、勘弁してくださいよ」
悪びれもせずシェジアは言う。
敵と遭遇することまで考え、護送役には実力者を選んだのだが、どうにも荒っぽい。
ミツキは鼻を押さえながら、馬から飛び降りる。
「いや、こっちこそ悪いなここまで付き合わせて。ここからオレは徒歩で潜入するから、あんたは敵に気付かれる前に、日が昇らないうちに本陣へ戻ってくれ」
そうミツキに促されるが、シェジアは馬上からミツキを見下ろし動こうとしない。
ミツキは訝し気に女傭兵を見上げる。
「どうした?」
「無事に戻ってくださいよ?」
「え?」
己の身を気遣う発言に、ミツキは意表を突かれる。
出立に際して、トリヴィア以外に自分を心配してくれる者などいなかったため、ミツキは不覚にも嬉しくなる。
「ミツキさんが死んだんじゃあ、先日の約束は反故になりますんで。あんたにはこれから私たちの面倒を見てもらわにゃならなりませんから、最悪無事とはいかねえでも、口は利ける状態で戻って来てくださいよ」
「あ、はい」
言いたいことを言うと、シェジアはさっさと本陣の方へと走り去って行った。
あの女になにかを期待していたわけではないが、一瞬気遣われたと思っただけに、ドライな対応に寂しさを覚える。
「……行くか」
地平から差し込む朝日に顔を照らされ、ミツキは靄に向かって歩き出した。
薄桃色の靄は、朝日を浴びて黄金色に輝いている。
その美しさに一瞬目を細めたミツキは、思い切って靄の中へと踏み入った。
「うっ……やっぱ、視界が酷く悪いな」
おそらく、三メートル先もまともに見えていないだろうと感じる。
それに、やたらと甘ったるい臭いがする。
ミツキは左腕の袖で口元を覆い、右手を制服のポケットに突っ込んだ。
中ではいつでも〝飛粒〟を放てるよう鉄球を握り込んでいる。
「しかし参ったな。こうなにも見えないんじゃ、鉄球を飛ばしても軌道を確認できないぞ」
たったひとりで何も見えぬ場所にいる心細さから、無意識に独り言が多くなる。
もし敵がいたとして、この視界の利かぬ場所では、相手も聴覚頼みになる可能性は高い。
そう考えれば、あまり無駄口を叩くのは得策とは言えない。
だから、ミツキは独り言が無意識に出ないよう、口を強く引き結ぶ。
が、数歩歩いただけで、素っ頓狂な声を上げた。
「ひゃっ!」
突然、正面に巨大な壁が現れ、ミツキは驚きに身を固くする。
「な、なんだ、これ……あ、もしかして、街を囲う城壁か?」
見上げれば、かなり上まで暗い影となっており、壁の高さが窺えた。
ビゼロワは城郭都市だ。
ティファニア王都をはじめ、進軍中目にした都市の多くも城郭都市だったことから、この世界の大きな都市は城壁に囲まれているのが一般的なのだろうとミツキは察している。
ただし、街の背面には角度の高い山が聳え立っているため、城壁は山に接して途切れている。
「この壁を辿って行けば、いずれ門にはたどり着ける。問題はそこからどう侵入するかだな」
衛兵がいる場合、戦闘になる可能性は高い。
できれば、この任務はスニーキングで終わらせたいが、城壁をよじ登って侵入するのは難しそうなので、門を目指す以外の選択肢はないだろう。
そう考え、ミツキは両手に握れるだけの鉄球を持ち、身構えながら壁に沿って進む。
やがて壁が途切れ、門に辿り着いたと悟る。
「人の気配がない……衛兵はいないのか? いや、それどころかこれ――」
ミツキは壁を右手に曲がり、薄暗い場所を進みながら独り言つ。
「門、開いてるじゃないか。どうなってるんだ?」
訝しく思いながら、チラと地面に視線を向ければ、踏み均された土に馬蹄の跡が無数に残っている。
おそらく、この門を通ってブリュゴーリュ軍はティファニアへ向け出立したのだろう。
「この馬の足跡は全部同じ方向、門の外に向けて走っている。それに、人の足跡も見当たらない。まさか、ティファニアへの遠征軍が出発してから、誰も出入りしていないのか?」
己の想像通り物流が止まっているのだとすれば、都市がまともに機能しているとは思えない。
住民が皆死んでいたとしてもおかしくはないだろう。
「まいったな……街中死体だらけとかだったら、かなり嫌だぞ」
呟きつつ、靄の中を進む。
事前に調べた情報によれば、ビゼロワの正門から伸びる道は、そのまま城まで繋がっているという。
ならば、まずは道なりに歩いて行けば、いずれ城にはたどり着けるはずだ。
しかし、都市を突っ切って城に辿り着くまで、どれ程の距離があるのか、ミツキにはわからない。
靄に包まれているため、街がどれだけ大きいのか、本陣からは視覚的に確認することはできなかった。
「まあ、いい。とりあえず、ちょっと急ぎめに歩いて……ん?」
ミツキは口を噤んで耳を澄ませた。
あり得ない音を聞いたような気がしたためだったが、目を閉じ耳をそばだてているうちに、気のせいではないと確信する。
「これ……槌音だ」
ブリュゴーリュの主産業が鉄器の生産で、首都の城下町でも製鉄の煙が絶えず上がっているとは、開戦直前のサルヴァとの会話で知っていた。
それに、職人であれば、早朝から仕事を始めていてもおかしくはない。
だがしかし、こんな状況で、よもや人が生活し、まして仕事に従事しているなどとは、ミツキには思いもよらなかった。
「ってことは、少なくとも死の街じゃなさそう――っ!」
ミツキの独り言は、目の前の靄の中を人影が通り過ぎたことで遮られる。
おいおい、普通に人が出歩いているのかよと、ミツキは今度は心の内で呟く。
だとすれば、正門から堂々と侵入した己など、すぐに見つかるのではないか。
「いや……それにしては静かすぎる。なにも起きる気配がない」
衛兵がいなかったのだから、警戒する気がないということなのだろうかと考え、いや、そもそも警戒する意味がないのだと思い至る。
自分以外であれば、何者であろうとあの靄は洗脳してしまうというのだから、衛兵を置く必要さえないのだ。
「だったら、こそこそする意味もないな。予定通り最短で城に向かう」
そう呟き、ミツキは正門から伸びる道を恐る恐る進みだした。
そうして一時間ほどは歩いただろうか、ミツキの周囲は人の気配で溢れていた。
相変わらず靄が濃いので周囲の人々の姿を確認することはできないが、煙る視界の向こうに露店のようなものが立ち並んで見えることから、どうやら市場に踏み込んでしまったのだとミツキは悟る。
だが、それにしては活気がない。
人々の話し声は聞こえるのだが、ティファニア王都非市民区の市ように露天商が張る叫びも、客が値切るために交渉する声も、聞こえてはこない。
微かに耳に届くのは、よく聞き取れない囁き声だけだ。
よもやこの靄は、音も遮断するのではあるまいなと、ミツキは疑い始める。
「ん? な、んだ、この臭いは」
漂って来た腐臭に、ミツキは顔を顰める。
臭いの元は、どうやら右手に見える露店らしいと察する。
嫌な予感を覚えつつも、ミツキは臭いの元を確認しようと露店に歩み寄る。
「うっ!! こ、これは……!!!」
シルエットしかわからぬ露天商の前には、食材を陳列するための台のようなものが置かれていた。
その上に並べられているものを見て、ミツキはおもわず手で口を押さえた。
萎びた野菜屑や雑草にしか見えない植物、ネズミやトカゲの死体、それらは少なくともこれだけの大都市に住む人間の口にするものではない。
が、それ以上に異質なのが、ハエのたかった山盛りの腐肉だ。
雑に解体されたそれらの中に、人の手指や顔の一部が確認できた。
走り出そうと一歩後退ったところ、横に人影が現れ、ミツキはギョッとする。
どうやら壮年の女らしく、露店に買い物に来たらしい。
ミツキは女を止めようか迷うが、女は気付かず露天商に話し掛ける。
「ワタしの、旦ナが鉄のしゅウかくに排セツをもよヲしタノだけれド、猫ノ紙片とサジが欲しカッタらしくッテ今日のスウプはろっ骨と踊ってミたコトデ、なんだか気持チガ良いノかしラ?」
ミツキは女の意味不明な言葉に目を見張る。
その意味を介したのかわからないが、店主は靄の向こうから差し出した手で腐肉をひと掴みすると、女の前にべちゃりと叩き付けた。
「マア、とってモ、ジュウシイでのこぎりの性キがニコゴるワぁ」
女は音程の外れた声で嬉しそうに腐肉を掴むと、腕に下げた籠へ放り込み、代金を台の上に置く。
それは、貨幣にも紙幣にも見えない、ただの鉄の端切れだった。
ああ、そうか、とミツキは思う。
この都市の住人は紛れもなくこの靄に冒されている。
人の腐肉を嬉々として受け取った女と、ブリュゴーリュ兵によるティファニアの街や村での蛮行が重なる。
ミツキは急き立てられるようにその場から離れると、この靄の発生源を排除すべく駆け出した。