第五十六節 『潜入』
夜明け前、ブリュゴーリュの首都ビゼロワとティファニア軍本陣の間にある平野を騎馬が駆けていた。
鳥馬の背に跨った影はふたつ。
手綱を握ったシェジアの肩に、後ろのミツキがしがみ付くように掴まっている。
遠方の空はうっすらと色付いてきているものの、未だ視界は悪く、しかも地面はところどころ岩が剥き出しになっている。
そのためか馬の走りはかなり荒い。
ミツキの体ががくがくと揺れるのを肩越しに感じ取ったのか、シェジアが声を掛けてくる。
「振り落とされねえように、しっかり掴まっててください!」
「ああ、わかってる!」
「つか肩じゃなくて腰に抱きついた方が安定しますよ!? なんでそうしないんですか!? もしかしてテレてんですか!? そんな童貞の小僧みたいな――」
「いいから、ちゃんと走りに集中してくれ!」
ミツキの返答に、シェジアは小さく舌打ちして口を噤んだ。
賭場での一件以来、この女は妙に馴れ馴れしいところがある。
反目されるよりは余程マシだが、彼女とその取り巻きである私兵どもの粗野な性格というかノリは、正直少し苦手だとミツキは感じている。
とはいえ、私兵どもの統御はサルヴァよりも己の役目である以上、彼女たちとの付き合いにも慣れていかねばとも思っている。
考え事をしていると、馬が体を大きく跳ねさせ、ミツキの尻が鞍から数センチほど浮き上がる。
慌ててシェジアの肩を掴む手に力を込めたミツキは、その手の中指に薄い光を発する指輪を視認し、本陣を出立する前のやりとりを思い出す。
「本っ当~にひとりで行くのか?」
出立を控えたミツキに、トリヴィアが問い掛けた。
昨日の昼にミツキの潜入が決定してから、既に同じ質問を数十回されている。
ミツキの出発を見送るため、トリヴィアとサクヤ、そしてサルヴァが、本陣の外れに顔をそろえていた。
護衛の兵以外に、シェジアもその場に居合わせているが、彼女の役目はミツキをビゼロワの近くまで運ぶことなので、実質、見送りに出ているのは三人だけだ。
ブリュゴーリュ側の間者が本陣内に入り込んでいる可能性を考慮し、最低限の者にしか作戦の通達はされず、寂しい出立となったのだ。
夜が明ける前に移動を終えるため、あたりは未だ闇に包まれ、松明の炎が各々の顔を浮かび上がらせている。
「ああ。オレ以外はあの靄に耐えられないってんだから、仕方ない」
「考えたんだが、私なら風で体の周囲を覆って靄を防げると思うんだ。だ、だから、やっぱり私も一緒に――」
「確証はあるのか?」
そう横から口を挟むのは、呆れ顔のサクヤだ。
トリヴィアはサクヤに鋭い視線を向けるが、サクヤは怯んだ様子もなく言葉を継ぐ。
「風で防ぐと言うが、あの靄の性質を完全に解明できているわけではない。わかっているのは魔法由来の現象ということだけだ。風で防げなかった場合、おまえはあの靄によって即座に洗脳され敵の駒へと成り果てる。その時、真っ先におまえの攻撃の犠牲になるのは、行動をともにするミツキだぞ」
サクヤの言葉に、トリヴィアは悔し気に歯を食い締める。
「キミがひとりで死地へ赴こうとしているのに、私には何もできることがない!」
思いつめた様子のトリヴィアに、ミツキは口を噤んで思考する。
このまま置いて行ったら、後先考えず追って来やしまいか。
「……何もできないなんてことはないさ」
「え?」
ミツキの言葉に、トリヴィアは俯いていた顔を上げる。
その目の前に、緩く開いた手を差し出した。
「この中指に嵌めてある指輪の石は王耀晶だ。魔法の効果を半永久的に保つことができるらしい。よかったら、何か補助の魔法をかけてくれないか?」
同行させることなくトリヴィアの力を借りる方法を考え、ミツキはドロティアからもらった指輪のことを思いだした。
魔法に詳しくないため、誰にどんな魔法をかけてもらうか迷っているうちに、戦争の準備で忙しくなり、結局、今に至るまで放置していたのだ。
ミツキの提案に、トリヴィアは一瞬表情を輝かせるが、すぐにその顔が曇り、再び項垂れる。
「すまないミツキ。私の一族は闘争に魔法を持ち込むことを忌避している。当然、身体能力を向上させたり、攻撃や防御の性能を上乗せするような魔法は卑怯と考えられている。だから、私はこの世界の人が使うような能力の強化や補助を目的とした魔法なんて知らないんだ」
「最初に闘技場で会った時に、オメガの炎からオレを守ってくれた魔法はどうだ? 防御の魔法でも役立つと思うんだが」
「あれは、単純に自分の周囲に魔力を込めた気流を発生させただけなんだ。防御のための機能を持った魔法というわけじゃないから、私自身の操作を介さない以上、その指輪にかけたところで、単に風が発生するだけの効果しか得られないだろう」
「……そうなのか」
考えてみれば、これまでの戦いでもトリヴィアは、ほとんどその身一つで戦って来た。
そして、戦いの中で魔法を使うことを極端なまでに厭忌してきた。
そんな魔法で能力を底上げするなど、彼女の種族にとっては、アスリートのドーピングのようなものなのだろう。
「そうか……じゃあ仕方が――」
そう言って下ろしかけたミツキの手をトリヴィアが掴んだ。
「ど、どうした?」
「風纏」
トリヴィアがそう口にした直後、ミツキの周囲に気流が発生し、指輪が輝きを放った。
ミツキの身を浮き上がらせかける程の風は、徐々にその勢いを失い、指輪の輝きもやがて収まっていった。
「今のは?」
「ジュランバー要塞で兵士たちの試験や訓練を担当していた時に、槍使いの冒険者が使っていたのを思い出したんだ。詠唱の内容までは覚えていなかったが、私の得意な風の魔法だったし、祝福者とやらに無詠唱で魔法が使えるなら、私にもできるかと思って試してみたが、うまくいったみたいだな」
そう言ってトリヴィアは笑みを浮かべる。
風が完全に止んだ後も、指輪の石は仄かに光を宿し、透明だったその色もトリヴィアの魔力と同じネオンブルーに変化している。
「いったいどんな魔法なんだ?」
「えっと、おそらく風による攻撃からの防御、それと、風を纏っての機動力と跳躍力の増幅、だと思う」
移動と防御、その両方に効果があるというのはありがたかった。
それに、あの靄の中で戦うことになるのであれば、風を纏えるというのは、かなり役立つのではないか。
まして、魔法の使い手がトリヴィアであれば、効力にはかなり期待できるはずだ。
「ありがとう。この指輪を嵌めていれば、トリヴィアが一緒に戦ってくれているのも同然だ。すごく心強いよ」
ミツキに礼を言われ、トリヴィアは身をくねらせながらデレデレと表情を崩した。
「いつまでイチャついてんですか。いい加減、夜が明けちまいますよ?」
シェジアに急かされ、ミツキは慌ててトリヴィアと繋いだ手を離す。
「わ、わかってる。じゃ、サルヴァ、後は任せた」
「ああ、了解だ。キミが靄の発生源を叩き、街の周囲が晴れ次第、全軍で突入する。キミの仕事に比べれば簡単なものだ」
「ああ、まったくな。で、サクヤ、おまえはなにかないのか?」
ミツキに問われ、サクヤはミツキの左の腰に視線を向ける。
そこには二振りの耀晶刀が差し込まれていた。
「……その腰の剣」
「え、ああ、さすがにひとりで十二対持っていくのはかさばるから、一対だけにしたんだ」
耀晶刀は王耀晶製の剣だ。
サクヤは赤肌の女との会話を思い出す。
あの女は、自分と王の目的が同じだと言っていた。
目的とは、王耀晶でできたティファニアの王宮、水晶宮だ。
赤肌の女の目的は魔素の結晶である王耀晶を大量に吸収することで飢えを満たすことにあったが、ブリュゴーリュ王の目的は権力者としての所有欲だろうとサクヤは考えていた。
しかし、ビゼロワの様子を見るに、ブリュゴーリュ王は普通の人間か疑わしい。
それに、国をここまで荒廃させてまで、敵国の王宮を求めるというのも普通ではない。
だから、敵の王が水晶宮を、ひいては王耀晶を求めるのは、人間らしい物欲などではなく、赤肌の女のように、大量の魔素に対する渇望からではないのかとサクヤは考え始めていた。
そして、そんな場所に王耀晶製の剣を携えて行くというのは、間違いなくリスキーな行為だといえた。
「ミツキ、その剣だがな」
「ん? 耀晶刀がどうかしたのか」
「…………ああ、いや、高価なものなのだろう? せいぜい無くさぬように気を付けることだな」
「そんなの、言われるまでもないって。いや、オレの身より剣の心配かよ」
サクヤはミツキの文句を無視して身を翻すと、本陣に戻るため歩き出す。
己の推論を証明するためには、実験する以外に方法はあるまい。
だから、あえてミツキに耀晶刀を置いて行けとは言わなかった。
もし、敵国の王が耀晶刀をミツキから奪うようなことになれば、いったいなにが起こるというのだろう。
好奇心に口の端を歪めるサクヤの背後で、ミツキを乗せ走り出した馬の嘶きがあがった。