第五十五節 『無効』
ミツキは溜息をつきながらテオに小さく頷くとサクヤに続いて天幕内へと進んだ。
「おいサクヤ、あの靄の調査が終わったんならオレだけじゃなく皆も集めブホッ!」
ミツキは振り向いたサクヤから煙のようなものを浴びせられむせ返った。
「ケホッ! ちょ、おい! 何の真似ブェッヘ!」
サクヤは皮革製の袋の口をミツキの顔に向け、色の付いた気体を断続的に吹きかける。
「ゴホッ! おまっ、いい加減にしろって! ケヘッ! どういうつもりだよ!」
「ふむ。咽るだけか。やはりおまえには効果がないようだな」
サクヤの言葉の意味を計りかねながらも、ミツキはつぶっていた眼を開いて煙のような気体を手で払った。
その色が、仄かに桃色がかっているのに気付き、言葉に詰まる。
「へ? ちょ、ちょっと待てよ。この煙みたいなのって、まさか……」
「ああ、お察しの通り、ビゼロワを覆う靄だ」
そう言って革の袋を手の中で潰すと、その口から最後に残った気体がミツキの前に吐き出された。
「はっ、はあぁ!? ざっけんなよおまえ!! なにしてくれてんだ!! 毒だったら死ぬだろうが!!」
サクヤの自分に対する横暴は普段から目に余るが、今回ばかりはさすがに度を越している。
気色ばむミツキに、サクヤは淡々と無感動な声を返す。
「いちいち声を荒げるな鬱陶しい。問題ないと確信があったからこそ試したのだ。いい加減、その程度のことは察してもらいたいものだな」
「問題がないって……じゃあ使い魔が戻らなかったのは、あの靄が原因じゃなかったってことか? ってことは、危険なのは靄じゃなくて、街の中でなにかに襲われたのかよ」
「いや、使い魔が戻らなかったのは、間違いなくあの靄が原因だ。影を伝って街の際まで行き、こうして革袋に採取して成分を分析してみたが、極めて危険な物質だった。使い魔だけでなく、大抵の者に劇的な効果をもたらすはずだ」
その回答を聞いたミツキは額に手を当て目をつぶり、サクヤがそれ以上言葉を続けぬよう手を突き出し、少し待つようジェスチャーで伝えつつ、思考した。
こいつはいったいなにを言っているんだ。
「問題がない」と言ったすぐ後に「極めて危険な物質」と宣ったということは、つまり、おまえなら危険な物質を試しても問題ないだろう、と言っているのか。
再び抗議の叫びを上げようとしたミツキは、はたと気付く。
〝危険な物質〟を吸い込んでむせ返ったというのに、なぜ己はなんの不調も感じていないのか。
そんな疑問を察したのか、サクヤはミツキの突き出した手を払いながら言う。
「〝大抵の者〟に効果があるとは言ったが、おまえに効果があるとは言っていない。今、説明してやるから、まずは落ち着いて、これ以上私の話を遮るな」
何か言い返そうと、ミツキは口を開きかけるが、結局諦めたように口を噤むと、嘆息しながら小さく頷いた。
「まず、あの靄の正体だが、一部の生物の出すフェロモンに近い物質だ」
「フェロモンって……虫とかが仲間を集めたり、仲間に危険を知らせたり、あと発情させたりする物質だよな」
「ああ。あの靄を呼吸などによって摂取すると、物質を放出した者を盲目的に信奉するようになるとともに、身体機能が向上し、性格面では攻撃性が極端に増す一方、モラルはもちろん生存欲求などによっても行動が抑制されなくなる。つまり、物質の放出者に利するためなら、行軍中に体力を維持するため自国での略奪はもちろん、人を殺して食すのにも躊躇しなくなる。戦場に出れば、死を恐れることもないというわけだ」
「それって、つまり――」
「そうだ。ブリュゴーリュ軍の兵どもは皆あの靄にやられていた。おそらくブリュゴーリュの擁していた異世界人たちも同様だ」
ミツキは、戦場で覚えた違和感の正体はこれだったのかと思い当たる。
兵たちが薬でもキメたような様子で死ぬまで戦ったのも、あの虫騎士が人の王などにあれだけ心酔していたのも、あの靄が原因だったのだ。
「……それ、どうやって調べたんだ? 成分の分析だけじゃ、そこまで具体的な効能はわからないだろ」
「無論、実験はした」
「は? 実験だと? ちょっとまてよ、その実験台になった人間はどうしたんだ?」
「ああ、それなら影邏隊員を使った」
「影邏隊員を? 奴らに憑けた蟲はどうした?」
「憑けたまま靄を吸わせた。大した効能だったよ。私の蟲の効果を打ち消したのだからな。おかげで影邏隊員を数名ツブす羽目になった。まあ、死体は屍兵に再利用したがな」
そう言うサクヤは、変わらぬ無表情ではあるものの、どこか不愉快そうだとミツキは感じる。
自分の外法を上回られたのを屈辱に感じているのかもしれないと、なんとなく推察する。
「でも、変だな。虫騎士は国王に心酔していた。でも、あんな化け物の心を操るなんて芸当、この世界の人間にできるのか?」
「さあな。私もこの世界に詳しいわけではないからな。まあいずれにせよ、おまえが調べれば済むことだ」
「……え?」
ミツキは身を固くした。
なぜ、そこで自分を名指しするのか。
「先程伝えたように、あの靄はおまえには効力を発揮しない。なぜかといえば、あの靄は生物の体内魔素の流れに影響を与えるからだ」
サクヤの言い分に、ミツキは首を傾げる。
魔素や魔力については、完全に門外漢ゆえ話が見えてこない。
「この世界のあらゆる生物は、体内に魔素の流れを持っている。身の内の見えない血管のような流れで魔素を循環させ、それが生体活動にも影響を及ぼしている。魔素欠乏で体調を崩し、最悪死に至るのはこのためだな。そして、その影響は肉体のみならず精神にも強く作用する。この性質は、魔法と類似した力を持つ私やトリヴィアやオメガにも言えることだ。無論、敵方の異世界人も同様だっただろう。つまり、私たちではあの靄に耐えることができない」
自分が戦った赤肌の女だけは自力で耐えたようだが、とサクヤは内心で思う。
「しかしミツキ、おまえだけは例外だ。元々魔素の存在しない世界から来たおまえは、体内に魔素の流れを持たない。私がおまえの脳に後から増設した器官は、体外魔素を取り込むことにより念動等の現象を引き起こすので、おまえ自身の体内に魔素の流れを作り出すわけではない。それゆえ、あの靄はおまえに対して効果を発揮しない」
ミツキは話の流れに不穏なものを感じつつ、微かに苦笑いを浮かべながら言葉を返す。
「そ、そうなんだ。それはまあ僥倖、と言っていいのかわからないが、今回はそれであの靄の中にも問題なく入れるってことか……いやでも待ってくれ。まさかひとりであの中を見て来いってんじゃないだろうな?」
「まさか、そんなわけがないだろう」
「ははっ! そうだよな! いくらなんでもあんな不気味な敵地にひとりで潜入して偵察なんてさせるわけないよな! ああビビったぁ。で、どんな対策を考えてるんだ? もしかしてもう靄を無効化する方法を見つけているのか?」
へらへらと笑うミツキに、サクヤは冷たい視線を向ける。
「そんな簡単に対処法など編み出せるわけがあるまい。〝そんなわけがない〟というのは、偵察だけで済むわけがないという意味だ」
ミツキの表情が強張り、額に脂汗が浮かぶ。
「おまえ以外にあの中で活動できる者がいない以上、おまえがひとりで潜入し、あの靄を発生させている奴をどうにかするしかあるまい」
「い、いやいや、なに言ってんだ、中にどれだけの敵戦力がいるかわからないんだぞ?」
「べつに防衛軍がいたとしても相手にする必要はない。おまえは術者の排除だけを済ませればいい。あとは先日の発案通りトリヴィアに靄を吹き飛ばさせ、全軍を突入させられるだろう」
「兵隊はやり過ごせても、被召喚者がいたら逃げるのは難しいだろ! オレひとりで強敵に対応しろってのは博打が過ぎるって!」
「それならおそらく問題ない。私の魔眼で靄の中を見ても、ブリュゴーリュ軍に随伴していた被召喚者が発していたような強大な魔力は確認できない。現時点で強敵はいないと断言できる」
「そ、そのマスクを使えば、おまえやトリヴィアでも中で動けるんじゃないのか?」
「無理だ。靄の外で気体を摂取する程度なら何とかなっても、あの中に入れば皮膚からでも吸収される可能性は高い。靄の影響を受ければ、その時点で敵に洗脳されるに等しい以上、そんなリスクは冒せない」
ミツキはそれ以上の反論を断念した。
強敵がいないというのであれば、今の、力を付けた己にとっては、アタラティアでの街道の迎撃任務や国境砦の攻略よりかは、危険性は低いようにも思われた。
しかし、街を丸ごと包む不気味な靄を遠目に窺うと、なにか途轍もない罠が待ち受けているのではないかと、ミツキは感じずにいられなかった。