第三節 『呪殺』
「先程からそこの羽虫が益体も無いことをたずねていたが、軍事目的で呼び出したということは、要するに余所の国を滅ぼしてこの国の領土とすればよいのだろう? 今後の行動方針を決めるためとりあえず様子を窺っていたがもはや十分だ」
そう言って、その人物はフードを引き下げた。
瞬間、ミツキは部屋の重力が何倍にも増したような錯覚に陥り、危うく膝を突きかけた。
一見すると、ミツキと同様この世界の人間に似た、ただの優男だ。
二重瞼の涼し気な目元、薄い唇、鼻筋が通り、眉毛は薄く、瞳は燃えるような紅。
流れるような黒髪がフードからこぼれ、腰のあたりまで届いている。
最も特徴的なのが、頬から首にかけて見られる、黒い模様だ。
トライバルタトゥーのようにも見えるが、こちらの世界に召喚されてから独房に閉じ込められていた以上、最初から男の肌に浮かんでいだと考えるのが妥当だろう。
それに、よく見れば模様の縁が薄ぼんやりと赤黒い光を発している。
鬼女が魔法を使う際に見せた、瞳や手から発する青い光に似ているが、魔法を知らないミツキにも、もっとずっと禍々しいものであると容易に理解できた。
男は単に顔を晒したというだけで、殺気も怒気も発していない。
それでも、他のローブの三人など目にも入らぬほど、傑出した存在感を放っていた。
こいつに比べれば、先程冷や汗が出る程の迫力を見せた鬼女でさえ、ただの小娘に見える。
その鬼女はというと、ミツキを守る様に男との間に割り込んだが、よく見れば手が小刻みに震えている。
犬男の反応はさらにあからさまだ。
壁際まで後退り、身を縮めながら「ヒューヒュー」と情けない喘ぎを漏らしている。
それは、まさしく犬の反応そのものだった。
もしローブの内に尻尾があるなら、丸めて股に間に挟まっていることだろう。
「いいだろう。このオレが力を振るえば、国どころか世界さえ滅ぼすことが可能だ。記憶を失おうとも、己がどのような一族の出であるかはよくわかっている。喜ぶがいい、このオレこそ貴様らの大本命、己が世界においてはただのひとりで世を覆し、あらゆる種の存亡を気紛れに決めるだけの力を持つ絶対なる支配者よ。ただしだ、貴様ら如き虫共には従わん。まずはこのオレ自身の手で貴様らの国を支配し、次いでこの世界を己が気の向くままに蹂躙する」
とんでもないことになった。
もう、いい加減にしてほしいとミツキは投げやりな気持ちになる。
この理不尽極まりない状況で、自分が置かれた立ち位置と進む先をどうにか見定めようと、必死の思いで目の前の女軍人から情報を引き出そうとしていたというのに、唐突に盤面がひっくり返されようとしている。
いっそのこと、この場で黒髪の男に殴りかかり、ひと睨みで分子レベルまで分解されてしまおうかと、破滅的な欲求が脳裏をよぎる。
「寝惚けたことを抜かすなよ戦奴風情が」
良からぬ妄想に放心していたミツキは、レミリスの信じ難いセリフを聞いて我に返った。
慌てて彼女に視線を向ければ、冷めたような面持ちで黒髪の男を見据えている。
「このオレ相手によく吠えた。蛮勇にも程があるが、肝の大きさだけは褒めてやってもいい」
「だ・ま・れ、同じことを何度も言わせるな勘違い男め。貴様なぞ所詮いいように使われるためだけに呼び出された奴隷以下の存在に過ぎん。罰せられたくなければ今すぐ這いつくばってご主人様に泣いて詫びてみせろ。私の憐みを誘えたなら、情けを掛けてやらんでもない」
レミリスの正気をミツキは本気で疑った。
言葉の内容以上に、この化け物と相対して全く怯まないというのが、勇気や度胸など通り越して、もはや頭がおかしいとしか思えない。
男を窺えば、さすがに気分を害したという面持ちでレミリスに氷のような視線を向けている。
ミツキは自分が睨まれているわけでもないのに動悸が激しくなり、悪寒に襲われ吐気すら催していた。
「そうか、貴様はもういらん。そこの使用人ともどもひき肉に変え、それをこの国の玉座の前にぶちまけてやろう。他に近衛と重臣の数十人も肉塊に変えてやれば、この国の王も話を聞く気になるだろう」
そう言って男が一歩踏み出すのと、レミリスが口に手を当てるのは同時だった。
ぼそり、とレミリスが何か呟くのをミツキは確かに聞いた。
それが拘束具起動の符丁かと思い、まさかこの女、拘束具を自分で外したことを忘れたのではあるまいかと推測する。
おそらく、男の圧倒的な迫力を前にして、記憶が混乱するほど動転したのだろう。
だから、レミリスとアリアが男に蹂躙される場面を見まいと、ミツキは顔を反らした。
しかし、ミツキの耳に届いたのは、どさり、というあまりに地味な音だった。
なんだ、と思い、おそるおそる様子を窺えば、レミリスは先程と同じ姿勢で立っており、代わりに男が視界から消えていた。
「……いったい、なにが」
視線を動かすと、すぐに男の姿が目にとまった。
長い黒髪を扇状に広げ、男は石造りの床へ伏していた。
横を向いた顔を窺えば、先程まで視線だけで殺されそうだった紅い瞳は光を失い、口の端から一筋、血が流れ床を汚し始めていた。
「え……まさか、死んだ、のか?」
「……呪殺か」
ミツキの言葉の後に、誰かが呟いた。
その不穏な響きとは裏腹に、可憐で少し儚げな印象の声音だった。
聞き覚えのない声だったため、言葉を発したのが最後に残された背の低いローブの人物だとミツキは気付いた。
「ほう、よく知っているじゃないか。召喚直後に採取した血と体毛を媒介にして、事前に死の呪いをかけておいた。本来は最も使えそうにない個体を見せしめにして貴様らを従わせる予定だったが、逆に最も強力な力を持った奴で試すことになるとはな。まあ、そいつに効いた以上、残った全員にも有効なのは間違いあるまい」
やはり拘束具以外の対策を隠していたらしい。
それにしても、〝最も使えそうにない個体〟というのがミツキを示しているのは明白だった。
この長身長髪の男が暴走しなければ、自分が見せしめにされていたのかと思うと、ようやく収まった吐気がぶり返すような心地だった。
青褪めるミツキをよそに、少女のような声音の人物は、レミリスに問う。
「呪いの発動条件を教えていただきたい。監督官殿の合図だけでは、我らの行動を完全には縛れないはずだ。こちらとしても、知識のない状態で地雷を踏んだのではたまったものではないのでな」
「いいだろう。呪いは拘束具と同様、私が符丁を口にする以外に、私の死、そして私から一定以上距離が離れた場合に発動する。ただし、この呪いは〝私の死〟を除いた発動条件の変更が可能だ。例えば、口頭での発動権限の他者への移譲、あるいは、発動までの距離の変更等だな。今後、貴様らを使う際、任務に合わせていろいろ融通を利かせることもできるというわけだ」
「現時点での発動距離というのは、逃亡など企てず、そちらに従って行動している分には安全な距離、という認識でよろしいか?」
「その認識で間違いない」
「拘束具を解いた理由は?」
「制魔鋏絞帯は万能ではない。符丁を言う前に口を封じられれば、発動させる前にこちらが殺されるリスクがある。それに、頑丈には作ってあるが、モノである以上、壊れることもある。自分で壊したり外そうとすれば強烈に締め上げる仕様だが、それを耐えながら破壊されない可能性とてないわけじゃない。加えて、器具を外すことにより、反抗を試みる奴がいないか試したというのもある」
ということは、長身黒髪の男は、まんまとハメられたということらしい。
あるいはあの男も、ある程度の罠は予想したうえで跳ね除けるつもりだったのかも知れないが、いずれにせよ結局は呪いに勝てなかったわけだ。
突出した実力者がああもあっさり殺された以上、他の面々も逃れることは難しいと考えるべきだろう。
レミリスの目論見通りに動かされているような気がして、どうにも面白くないが、こうなってしまっては逆らいようもなかった。
「さて、伝えるべきことは伝えた。要するに、当面はこの施設で行儀良くしていろということだ。逃亡すれば死、私やアリア、兵士や市民に危害を加えても死、だ」
そう言ってレミリスは背後のメイドに視線を送った。
メイドが進み出ると、手に数枚の毛布と麻の袋を抱えている。
どうやら主人が話している間に用意していたらしい。
長身の男のトラブルに気を取られていたため、まったく気付かなかった。
「とりあえず二日分の食料と毛布だけは用意した。この施設の一階には空き部屋がいくつかと水場、倉庫がある。どう過ごすかは貴様らで好きに決めるといい。そちらの通路の先に階段があるが、二階は私とアリアが使うので許可なく上ってくるな。それと今後の衣と食については、そうだな、おい貴様」
レミリスの目がミツキに向けられた。
突然話を振られ、たじろぐ。
「うえ!? な、なんすか?」
「貴様に任す。詳しい話は明朝アリアを迎えに寄こすので私の部屋まで来い」
「……えぇ」
なぜ自分が、と思う。
最も弱いからだろうか。
それともこの世界の人間に似ているからなのか。
いずれにせよ、酷く面倒だ。
「あと、そこのそれは貴様が始末しておけ」
顎で示されたのは、黒髪長髪の男の遺体だった。
何故、自分にばかり仕事を振るのか、ミツキは心の内で頭を抱えた。
「始末って……どうやって?」
「先程倉庫があると言ったな? 工兵の使う土木器具がしまわれているはずだ。そこの扉から外へ出ると、林が広がっているから運んで適当に埋めろ」
「ここって城壁の一部なんすよね。なんで周りが林なんすか?」
「城壁の周囲は非市民区との境に一定の間隔で土地を空けるよう定められているからだ」
城郭の外は非市民区だとレミリス自身が先程言っていたのをミツキは思い出した。
非市民区というのは、呼び名からしてスラムのような場所ではないかと推察できる。
だとすれば、城壁周囲の土地を使わせないのは警備上の理由ということなのだろうか。
城壁すれすれまで建物を作られれば、そこをよじ登ったり、建物の影に隠れたりして、良からぬ輩が郭内に侵入しやすくなるだろう。
あるいは、市民と非市民の住処を物理的に隔てようという差別的な政策の表れなのか。
この国の政治も文化も何もわからない現状では判断が付きかねた。
そこで、ひとつ小さな疑問が生じた。
「あの、最後にもうひとつだけいいですか」
「まだ何か質問があるのか?」
「ここって〝国〟なんですよね? 国名とか……」
「ああ、そうか。言っていなかったか」
レミリスは何か自嘲的な薄笑いを浮かべると、胸に手を当て芝居がかった動作でミツキらに一礼した。
「ようこそ自由と平等の国、ティファニアへ。我々は貴様らを歓迎する」