第三十二節 『血と剣』
己を押さえ込む兎づらに眼を剥きながら、オメガはかつてない危機に狼狽える。
先程の打撃が脳を強く揺らしたらしく、手足に力が入らない。
「詰みです。このまま氷の剣で頭を貫いて差し上げましょう。あなたもなかなかの使い手でしたが、所詮はただのケダモノだったということです。王に仕える私の信念の前には――」
勝利に酔い、饒舌に語る兎男の口が唐突に止まる。
その胸からは赤い杭のようなものが突き出ていた。
「これは! どこ、から!?」
攻撃されたことを悟り振り返った兎の目に、掌から赤い筋を伸ばした褐色肌のメイドの姿が映る。
「な、なんだ、その武器は?」
「操血魔法でございます。隙だらけだったので、急所を貫かせていただきました。と言っても、急所が人と同じであるかは存じ上げませんが」
「血、だと? はは! 迂闊でしたね! そんなものすぐに凍らせて――」
「〝燃躰沸血〟」
アリアが唱えると同時に、兎男の体は燃えるような熱を発し、全身から赤く色付いた煙が上がる。
「ガッ!? ぎぃええぇぇぇぇぇぇぇぁ!!」
身の内から焼かれる苦痛に、兎男はのたうちまわる。
「今のは熱血魔法。私は〝血の祝福者〟。自分自身の血を媒介にした場合に限るという制限付きではございますが、無詠唱での魔法行使も可能なのです。熱波は防げても、身の内から焼かれるのは耐えられなかったようでございますね」
体毛も大半が焼け焦げ、熱傷を負った肌が剥き出しとなった兎男は、ぼろぼろの姿でオメガの傍らにうずくまった。
そんな異世界人を、アリアは無表情で見下す。
「やはり、メイドに勝る執事などなし」
兎男はビクンと体を震わせると、一瞬で手に創り出した氷の刃で自分と繋がる血の筋を断ち切った。
「おや? まだ動けましたか」
無表情のまま驚きの言葉を発するアリアの前で、兎男はゆっくりと立ち上がる。
「わ、私の身は……王に捧げたものだ! こっ、こんな場所で果てるわけには、いかん! なんとしても、ティファニアを落とし、我が王に献上せねば!」
「あなたが離れている間に、あなたの軍の敗北は必定となりました。その致命傷と全身火傷も考慮すれば、残念ながら志を遂げるのは難しいかと」
「黙れぇ!!」
兎男の雑な斬撃を難なく躱し、アリアは血の滴る手を前方へ翳すように構える。
「待てアリア」
いつの間に近付いたのか、兎男の右側、少し離れた場所に立つレミリスが声を掛けた。
接近に気付かなかった兎男は、慌てて距離を取る。
「手柄を奪うようで悪いが、こいつは私に譲れ。試し斬りがしたい」
兎男はレミリスが腰に差す装飾の施された剣を見てからその顔に視線を移し、大きく目を見開いた。
「……ティファニア軍の大将がなぜこんなところに……いや、そんなことはどうだっていい」
口角が持ち上がり、兎男の目に狂気染みた殺意が浮かぶ。
「せめて、貴様らは道連れにしてやる! それでティファニア軍の戦力は大きく削げるはずだ!」
「アリアの言うように執事がメイドに劣るかは知らんが、貴様が執事失格というのはわかる。言葉遣いがなっていない。燕尾服が泣いているぞ?」
「この服装は……」
兎男が深く身を沈める。
「王に仕える者としての身だしなみだ!!」
叫び声に続いて、兎男の姿がレミリスとアリアの視界から消える。
周囲の空間に破砕音が響きわたり、空中で蹴り壊された氷が花火のように飛び散った。
「どうだこの速度! 人の目では到底捉えられまい! よしんば視認できたとて、構えも取らない貴様に対応する術はない!」
破砕音の合間に恐怖を煽るような言葉を投げ掛けて来る兎男を無視し、レミリスは懐からペンダントを取り出して鎖を外す。
デザインはシンプルな十字架で、中心部に透明な宝石が留められている。
レミリスは十字架の最も長い部分を握ると、まるで剣でも持っているように、ゆっくりと構えを取る。
「ふはは! なんだそれは!? 恐怖で気でも触れたか!? せめて剣を抜くのを待ってやっていたものを!」
「嘘をつけ。どうせ抜剣する隙を狙っていたのだろう。最も安全に殺すために。貴様のようなガワだけ上等に繕っている者の考えそうなことだ」
「この、ただの人間風情が――」
背後でひときわ大きく破砕音が鳴るのをレミリスは聞き逃さない。
「王の臣下たる私に――」
叫びつつ氷の刃を形成する兎男に振り向いたレミリスの手には、剣身を眩く光らせるひと振りの剣が握られていた。
剣を抜いていないはずの女が自分の知らぬ間に剣を握っていることに、兎男の頭は混乱する。
そして、思考能力を取り戻す暇もなく、光の剣が振り下ろされた。
レミリスの横をすり抜けた兎男は、地面に叩き付けられると、受け身も取れずに転がった。
その身は袈裟懸けに両断され、大量の血液が溢れ出している。
「な、なんだ……その剣は。魔法の、剣? い、いや、純然たる、魔素の剣、か」
レミリスは死にゆくものの疑念に答えるように、魔素を放出して形成された青白い光の剣を兎男に向け掲げてみせる。
「体内で循環させた魔素を柄に嵌めた王耀晶を触媒にし、圧縮して放出することで作られた剣だ。体内魔素が恐ろしい勢いで消耗されるのが難点だな。動脈を切って血を垂れ流しにするようなものだ。長く続ければ、魔素の欠乏で最悪死ぬだろう」
説明が終ると、十字架から伸びる剣は集束するようにして消えた。
「リスクばかり高くて……メリットは刃を瞬時に、形成できることだけ……理屈はわかるが、わざわざ好んで使うような、技ではない。意表を突かれる、はずだ」
「指摘はもっともだが、私にはどうしても習得する必要のあった技なのだ。十年人里を離れ、構想に三年、習得に七年を費やした。実戦で使うのは初めてだ。実験台になってくれて礼を言うぞ」
「くそっ……無念だ……こんな惨めな最後など……せめて、最後は王のもとで……王?」
涙さえ流しながら、末期の言葉を口にしていた兎男の顔に戸惑いが浮かぶ。
「王、王……私はなぜ、王に忠誠を誓って、命まで懸けたのだ?」
兎男が最後の瞬間に示したのは、己を斬った敵への憎悪でも、異世界で死に果てることの悲しみでもなく、己自身の感情に対する疑念だった。
「なぜだ……わからない……誰か、教えてくれ……どうして私は、あんな、あんな、もの、に……」
その問いの答えを得ることなく、兎男は息絶えた。
「くそっ。なんだったんだこいつは?」
レミリスが兎男の死に顔から顔を上げると、アリアに支えられたオメガがふらつきながら歩いてきた。
「ほう。あの攻撃を受けて未だ歩けるか。さすがに頑丈だな。」
「当たり前だ、見くびるんじゃねえ。つうかよ、止めを刺したのはテメエらだが、そりゃあオレがコイツを消耗させて、隙を作ったからだってのを忘れんじゃねえぞ」
オメガは悔しげに言った。
勝負自体を見れば、自分が兎男に負けたことを恥じているのだろう。
「ああ。わかっている」
「さすがですお犬様、いえ失礼いたいましたオメガ様」
「テメわざとだろ! 噛みつかれてえのか!」
憔悴しきったオメガにそんな力などない。
文句を言いつつも、アリアに寄り掛かって歩くオメガを見て、紙一重だったなとレミリスは思う。
自分が、戦列を離れオメガの援護に向かうという選択をしなければ、オメガを殺害して戦場に戻った兎男によって形勢を覆された可能性も十分あった。
しかし、間違えずに済んだと、レミリスは心の深いところで安堵する。
己は、もう二度と間違えてはならないのだ。
去り際、レミリスはもう一度兎男の死に顔に視線を向ける。
自分のことさえ何もわからず死んでいった異世界人の無念は、彼女にとって他人事とは思えなかった。
しかし、と思う。
知り過ぎたうえで多くを抱えながら生き続けるのも、同じぐらい不幸なのではないか。
もの問いたげな死体から顔を背けると、レミリスは自分を待つ仲間の方へと歩き出した。