第二十九節 『黒死』
王耀晶は魔素の結晶体だ。
赤肌の女が魔素を糧とするのなら、これほどの御馳走はあるまい。
そして、水晶宮ほどの規模ともなれば、かなりの期間この女の飢えを満たせるはずだと推測できた。
「つまるところ、力の維持と生理的欲求か。意外と面白みのない動機だな」
「小さきものにはわからぬ悩みよ。この世界は吾の生きる場所としては狭すぎるのだえ。なればこそ、この戦で力を蓄えた後は、世界そのものを消費して力を維持せねばならぬであろうの。この世を喰らい尽くす前に、元居た場所に戻る方法も探さねば」
「世界の消費? ……まさか、物質を魔素に還元するつもりか? 大地も海もすべて食らい尽くして生きると?」
「仕方あるまい? 不敬にも神に等しき存在を呼びつけた、惧れを知らぬ人の招きし業よ」
「亜神風情が……偉そうに」
赤肌の女は、再びサクヤへ手をかざすと、その掌に魔力を込め始める。
「汝れも大概不敬よな。ま、暇つぶしにはなったわ。とはいえ吾の空腹もそろそろ限界よ。他の連中が足止めを食っているうちに、ひと息に王都まで攻め上らせてもらうゆえ、汝れはここで去ね」
赤肌の女の掌の前に魔法陣が展開され、小型の太陽のような熱量を湛えた球体が形成される。
ディエック・リィ・ダヒデットを葬った魔法だ。
サクヤは小さく祝詞を唱えつつ影に手を置くが、悪あがきととらえた赤肌の女はかまわず光弾を撃ち放った。
光弾はサクヤに直撃する前に眩い輝きを放って弾け、強烈な熱と衝撃波が周囲を襲った。
赤肌女のはるか後方で、屍兵と戦闘中のブリュゴーリュ兵たちもすべて蒸発しただろう。
しかし、ここから先に己を遮る者はいないとわかっている赤肌女に、友軍を気遣う理由などなかった。
また、遠方の味方には念を送り続けているが、これまでのように敵軍を殲滅するための指示ではなく、あくまでティファニア軍を足止めさせるよう動かしている。
遠方の戦場の敵味方には、自分が巨大魔素結晶体を得るまでの間、せいぜい潰し合ってもらうつもりだった。
兵たちを積極的に攻めさせなかったこともあって、どこもティファニア軍に押され気味ではあるが、ブリュゴーリュ軍が敗北したとて、もはや彼女にはどうでもよかった。
「ちとやりすぎたかの」
爆煙の合間から覗く大地を見て、赤肌の女は呟いた。
地表は大きく抉れ、その底には溶融した大地が灼熱の沼となって渦巻いている。
これではしばらくの間、生き物が近付くこともできまい。
そう考えるも、一瞬で関心を失った女は、空中で身を翻すと、ティファニア王都へ向かって飛ぼうとその身に魔力を漲らせる。
もうすぐこの世界に来てから最上の馳走にありつけるのだ。
これまでは魔力の使用を極力控えていたが、もはやそんな気遣いは不要だろう。
食前の運動のつもりで、全速で加速しようと身構える。
飛び立とうとした女は、しかし、一瞬大きく身を震わせ、困惑の表情を浮かべて自分の抉った大地を再び見下ろした。
「……なにかや、この気配は?」
蒸気と粉塵に煙る視界の向こうに異様な魔力反応を察知し、赤肌の女は腕をひと薙ぎする。
突風が吹き視界が晴れると同時に、女は眼下の光景に大きく目を見開いた。
深く抉れた大地の中心に、僅かな範囲だけ地表が残っており、そこに先程殺したはずの白い小娘と、見知らぬ男が立っていた。
「あれを受けて、なぜ無事でおる。いや……それよりも、その男は何者かえ」
人に近い容貌の男は、しかし、この世界の人では到底持ちえない魔力をその身から溢れさせている。
流れるような黒い長髪に、深紅の瞳の美丈夫で、頬から首にかけて魔力紋が確認できる。
体には、〝影邏隊〟に着せるためサクヤがミツキから預かった、黒い軍服を着せられている。
途轍もない力の持ち主であるのに、その表情からはまるで精気が感じられない。
顔色も、まるで死人のように青白い。
そう考えて女は、すぐに自分の考えを否定する。
「そ奴、死んでおるな」
男の後ろのサクヤは微笑しつつ口を開く。
「おまえは先程〝この世界では何者にも勝る力を有している〟と言ったな。だが、それは間違いだ。この男は、我らとともに召喚されたものの、驕りによって命を落とした間抜けだが、その本質は〝終末をもたらす者〟だ。生きてこの世界の法則にさえ馴染んでいれば、確実に世を終わりに導いたことだろう。野良の亜神ごときとでは、存在の格が違う」
「吾を上回ると申すかや? その亜人の屍が?」
赤肌の女は、サクヤたちに向き直ると両腕を腰の上程の高さで左右に広げる。
「面白いの。なればこれを喰ろうてみよ!」
女の両手に、赤と青の魔力の光が生まれる。
先程放った魔法よりも、さらに数段上の威力なのは間違いない。
どうやらこの女はもう、魔素の節約はしないつもりだと、サクヤは察する。
女が両手を突き出すと同時に、赤と青の光の奔流が放たれ、渦を巻くようにして大地を呑み込んだ。
抉れた大地がさらに削り取られ、地平まで続く深く巨大な轍が生まれる。
赤肌の女は消耗による強烈な渇きを覚えながら、酷薄な表情を浮かべ、金色の瞳を眼下へと向けた。
「……心を乱し過ぎたの。奴らの身の内の魔素もろともに吹き飛ばしてしもうたわ」
ふたり分の魔素を食い損ねたことを後悔しながらも、赤肌の女は心の奥底で安堵していた。
やはり、この世界に己を脅かす存在などあるはずもなかったのだ。
そんな思考に気を取られていたため、背後から腹を貫く衝撃を受けても、赤肌の女は自分に何が起きたかわからず、少しの間目を瞬きながら呼吸を乱すばかりだった。
「ごっ……ごれは、なに、が……!!」
ようやく視線を下げた女は、自分の腹から黒い楔が突き出ているのを視認して、酷く狼狽する。
「やはり、効いたな」
あり得ない声を聞き、視線を地上に落して彷徨わせると、抉られた大地の畝のように盛り上がった場所に落ちた己の影が蠢き、中から白い女と黒い男が浮き上がってきた。
「先程の攻撃を……ぐっ……影に潜んで、やり過ごしたというのかや!? そのような芸当、できる、わけが……!」
「私ひとりなら吹き飛ばされていただろう。しかし、この男の屍を媒介に用いれば、外法の効果を飛躍的に向上させることが可能というわけだ。先程効果のなかった影の楔も、この通りおまえの腹を貫いている」
ブシュロネア軍の迎撃戦で、大地を覆う程に影を拡げ、敵兵のことごとくをその中へ呑み込めたのも、この長髪の男の死体を通して外法を使ったからだ。
そして、サクヤがたったひとりで一軍団に挑んだもうひとつの理由がこれだ。
味方であろうと、この切り札を晒すつもりはなかった。
「フハッ! それがどうしたというのかや!? 確かに腹を貫いてはいようが、この程度の傷で吾を討とうなどとは片腹痛いの! すぐに引き抜いて――」
「勘違いするな。こ奴を媒介したとて、それでも私の力では到底おまえを斃すことなどできまい。ただな、楔とは本来、ものを固定するために用いる。おまえの腹に食い込んだそれも、おまえをそこに釘付けるための手段に過ぎん」
サクヤの言葉に続いて前に出た長髪の男の手の中には、黒い球体が浮かんでいる。
それを見た赤肌女の顔に、はじめて恐怖の表情が浮かぶ。
「なにかやそれは……魔力も、それ以外の何の力も感じぬ! まさか、完全な虚無かえ!?」
楔を掴んで必死に引き抜こうともがく女を冷めた顔で見つめながら、サクヤは傍らの男に小さく指示を出す。
「それはやり過ぎだ。遺体は残るように処理しろ」
無表情で頷く男を見て、赤肌の女は悲痛な声を上げた。
「や、止めよ! それだけは――」
その言葉が言い切られる暇さえなく、球体から伸びた一筋の黒い線が、女の胸を貫いた。
目と口を大きく開けた女は、一瞬ブルリと震えたかと思うと、次の瞬間には全身を真っ白に変色させ、がくりと体の力が抜けた。
サクヤは女を貫いた影の楔を曲げると、勢いよく元の形状に戻し、遠心力で女の屍を放る。
空中で放物線を描いた女は、サクヤの足元の影へと急降下すると、水に落ちたかのようにドボンと音を立てて地面の闇へと沈んでいった。
「……いい素材が手に入った。これでまたしばらくは、退屈せずにすみそうだ」
呟いたサクヤは、傍らに佇む男をチラと見る。
「そういえば、こ奴の名前を決めていなかったな。〝おい〟や〝おまえ〟ではさすがに不便か。せっかく呼び出したのだし、ここで決めてしまうか」
しばらく頭を捻っていたサクヤだったが、自分にネーミングのセンスがないことに気付いて、不愉快そうに鼻を鳴らした。
「面倒だ。黒くて死んでいるから、〝黒死〟で良かろう」
投げやりにそう言って、「下がれ」と伝えると、黒死は無表情のままに影の中へと沈んで姿を消した。