第二十八節 『千軍妃』
ブリュゴーリュ軍の第七副王領北部方面軍に対して、ティファニア軍は軍団を差し向けていない。
向かったのは、たったひとり。
サクヤだけだ。
理由はふたつある。
まずひとつは、他の兵隊がいても、かえって足手纏いになるということが挙げられる。
前方から突如発生した霧に、ブリュゴーリュ軍の兵士は最初戸惑うだけだったが、やがてその霧に呑まれると、全身を爛れさせ、断末魔の悲鳴を上げながら頽れていった。
ただし霧の進む速度は、然程早くはない。
徒歩ならばともかく、軍のほとんどが騎兵である彼らは、その機動力を生かして霧から逃げることを選んだ。
しかし、引き返した進路脇の岩山の影から、何の前触れもなく、正体不明の兵隊たちが湧き出で、ブリュゴーリュ軍に襲い掛かった。
しかも、その兵隊たちは、多少切ったり突いたりしたところで、まるで堪えた様子もない。
それどころか、一度馬にしがみつかれれば、どんな攻撃を加えようとも離れず、やがてよじ登って来て騎上の兵士を引きずり下ろし喰らい付いた。
腐れかけた体で向かってくる謎の軍団の襲撃に、さしものブリュゴーリュ騎兵たちもパニックに陥った。
サクヤは偵察に放った虫たちの視覚を通し、前方に伏せておいた屍兵によって繰り広げられる殺戮を観察しながら、霧の中を悠々と歩いた。
ここにいる限り、ブリュゴーリュ兵が己に手出しすることはできない。
あとは、霧とともにゆっくりと移動しながら、敵が全滅するのを待つだけだ。
しかし、そううまく事が運ぶとも思っていない。
なぜなら、この軍団には、奴が随伴しているからだ。
そんなことを考えていたところ、前方から突風が吹き、周囲の霧が吹き飛ばされた。
早速か、と思い、サクヤは表情を引き締める。
「毒の霧に屍の兵とは、随分と厭らしい真似をしてくれるの。仮にも吾の手勢をこうまで損ねてただで済むとは思うなや」
完全に霧が晴れると、赤肌に浅葱色の髪、肌に青い文様の浮かんだ、芥子色の服を纏った女が、前方の宙に浮かんでサクヤを見下ろしていた。
目の中で無数に動き回る黄金の瞳を見て、サクヤの肌が粟立つ。
見た目では数個程度に見える瞳は、実のところ万を超える視覚情報を女の脳に伝えていると、サクヤは女の体内魔力の流れから分析していた。
百目鬼という妖魔の類は存在するが、万の眼を有するなど聞いたこともない。
やはり、化け物どころではないなとサクヤは確信する。
「ふん。私の目的は端からおまえを釣り出すことだ。軍への攻撃など餌に過ぎん」
「ほ? 吾の存在に気付いていたと言うのかえ?」
「この世界の〝魔視〟程度では視認できんだろうがな、私の魔眼は各地のブリュゴーリュ兵に向け微細な魔力の波が送られているのを捉えている。その元をたどれば、おまえがどの軍団に付いているかはおのずとわかるというわけだ。おまえ、その妙な目で遠方の戦場を視認し、兵どもに思念を送って動かしているだろう。つまり、おまえさえ叩けば、兵どもの統率は失われるわけだ」
「なるほどのう、それは大した眼力だえ」
女は素直に感心したような反応を示す。
どうやら強烈な皮肉を言ったことに、本人は気付いていないらしい。
「眼力以上に目の付け所も悪くない、と言いたいところではあるがの。相手との力量差を見通せなんだは命取りよな」
「……おまえが規格外だということは承知のうえだ」
サクヤは白無垢の打掛から右手を出し、掌を顔の前に構える。
すると、掌の上に青白い燐火が灯った。
「しかし、私もこちらに来て全力を出せたことがないのでな。少々腕試しに付き合ってもらおうか」
そう言って燐火に息を吹きかけると、前方に向け無数の鬼火が飛び散り、意思を持っているかのように赤肌の女に殺到する
マグネシウムに着火したように光が瞬くが、女は火傷はおろか服に焦げ目さえ作っていない。
「なかなか美しいの」
まるで効果がないのは想定済みだ。
サクヤは地面に落ちる己の影に手を付き、短く呟く。
「〝狗賓〟」
すると影が盛り上がり、魔獣が二頭地面から這い出て来る。
犬のような姿だが、皮膚がなく筋肉が剥き出しで、体のあちこちに赤黒い謎の器官が脈打っている。
「合成獣かえ?」
正解だ、とサクヤは内心で呟く。
ブシュロネアとの戦のどさくさで、闇地に生息する魔獣を何頭か捕らえ、切り継ぎして拵えた眷族だった。
「行け」
嗾けると同時に、大技を放つべく祝詞を唱えはじめる。
「イブヤサカノマレチニテクナドノチマタニマシマスヨモツノカミニカシコミマシマスレバクナドノカゲヅチトゴコウノウラカゲニミソグヤズノホドハウミタマノオオグシヲツキタテタマフ」
赤肌の女に喰らい付こうと跳躍した犬型の魔獣が弾けた直後、サクヤの影が地表を覆う程に広がり、そこから突き出された無数の楔が赤肌の女を貫いた。
「どうだ? 少しは――」
その言葉が言い切られる前に、ビシリと影の楔に亀裂が生じ、一瞬で砕け散ると、影は空間に溶けるように消えていった。
「多少、痒くはあったの。して、次はどうするのかや?」
サクヤはしばし言葉を失うと、小さく呟く。
「打ち止めだ」
「もう終わりかえ?」
「……ああ」
他に攻撃の手段がないわけではない。
が、先程の外法でまるで効果がないのであれば、なにを試したところでダメージは与えられまいとサクヤは判断した。
「もうわかった……私の力では、なにをやってもおまえを倒せない」
「結果は見えていたがの。しかしつまらぬ。汝れの言うとおり、吾には他の戦場の様子も見えておる。汝れの同胞と比べても、汝れの戦は手緩いの」
だろうな、とサクヤは思う。
技の多彩さなら誰にも引けを取りはしないが、単純な戦闘能力で言えば、己はトリヴィアやオメガに大きく劣る。
それどころか、成長した今のミツキにさえ見劣りするかもしれない。
無論、搦手を用いれば他の三人に負けるとは思わないが、結局目の前の女のような圧倒的な存在に対してはまったくの無力だと痛感させられた。
「とはいえ、汝れの魔力であれば、吾の渇きも大分満たされような」
そう言って己に向けて手をかざす女に、サクヤは口を開く。
「殺す前に教えてはくれまいか。なぜこれほどの力を持ちながら一国の手先になど甘んじている。やろうと思えば他の被召喚者もろともブリュゴーリュを滅ぼし自由になれたはずだ」
「ふむ」
女は少しの間考えると、突き出した手を下ろす。
「汝れはこちらでは珍しく話が通じそうな相手ゆえ、答えてやろう」
おそらく、気紛れだろう。
あるいは、女自身の言うとおり話相手に飢えていたのかもしれない。
赤肌の女は語り出した。
「兵士も他の来訪者も、怪しげな方法で王に魅了され戦わされておる。しかし、それも吾には通じておらぬ。ではなぜティファニアへの侵略に手を貸しているのかといえば、王の欲するものを吾も求めておるがゆえよ」
「求めているもの?」
「然り。吾はこの通りこの世界では何者にも勝る力を有しておるが、それゆえに酷く腹が減る。そして王の求めておるものであれば吾の腹も満たし得るというだけの話よ。汝れの言うように、ブリュゴーリュもティファニアも吾の敵にはならぬ。しかしの、戦えば戦うだけ力を使うのも事実であろ? ゆえにブリュゴーリュの兵どもを操り、己の力は極力使わぬようにしてティファニア王都へと進行することにしたというわけよ。無論、手に入れたものは、吾が独占するつもりよ」
腹が減るというのは、おそらく魔力の消耗のことを言っていると推察できる。
たしかに、これ程の力を有した者であれば、消費する魔素も膨大なものだろう。
そして、この女は自らの腹を満たすため、ブリュゴーリュ軍を利用してティファニアへ攻め入ろうとしているのだという。
では、いったい何をもってこの女の膨大な魔力消費量を補うというのか。
「……そうか、わかったぞ」
一国の王とこの女、その両方の目的となり得る存在に、サクヤにはひとつだけ心当たりがあった。
「王耀晶でできた王宮、水晶宮か」




