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第一節 『蘇生』

 暗闇の中にミツキは蹲っていた。

 酷く寒い。

 しかし、凍えそうなのに、体は震えていない。

 というより、一切の感覚を喪失してしまったようだ。

 ではなぜ寒いと感じているのか。

 矛盾しているが、意識が弛緩したようで何も考えることができない。

 ただ、何か大切なものが喪われつつあることだけは、ぼんやりと自覚していた。

 あるいは、次の瞬間にも、僅かに残った自我は霧散し、闇に溶け込んでしまうのかもしれなかったが、それを何かが繋ぎ留めていた。


『……命……る者よ……へ慈悲……まえ……死の王……ま一度……の苦しみ……』


 女の声が聞こえた。

 自分に語り掛けているのではない。

 そもそも、意味のある言葉ではないような気がした。


『……は器を……す者、其は流れ巡る……と命を運びし紅き潮…喪失せし己を……よ』


 そうか、とミツキは思った。

 これは詩だ。

 誰かが近くで詠っている。

 儚げだが美しい歌声だった。


『……血よ骨よ膏よ皮よ……自らを食らい自らの骸で自らを生かせ〝贄躰涌血(ラヴィル・ブロア)〟』


 その意味のわからない言葉が耳に届いた瞬間、身の内から熱が沸き出した。

 熱湯の中へ放り込まれたような感覚に驚き、ミツキは叫びながら意識を覚醒させた。



「だ熱ぁちゃちゃちゃあい!!」

「目を覚ました!」


 先程とは別の声が真上から聞こえ、見上げると鬼女が笑顔で見下ろしていた。


「うおっ!」


 顔の近さに驚いて身を捩ると、肘に柔らかなものが当たった。

 視線を向ければ、肘に触れている毛羽立ったローブの生地が大きく盛り上がっており、ミツキはようやく女に抱えられていることに気付いた。


「え? なに? どういう状況?」

「あわわ、す、すまない!」


 何やら慌てた女が急に腕を引っ込めたため、ミツキは石造りの床に尻から落下した。


「はわわわ、重ねてすまない!」

「いや、いいけど、一体何が……」


 打ち付けた尻を擦りながら立ち上がろうとしたミツキは、目の前に自分を見下ろす人物がいることに初めて気づき、驚いた拍子にバランスを崩して倒れかけたところ、背後の鬼女に支えられた。


「その様子を見るに、どうやら成功のようでございますね」


 そう言った目の前の人物に再び視線を走らせ、ミツキは目を見張った。

 エプロンドレスを纏い頭には白いカチューシャを付けた女が無表情にこちらを見つめている。


「……メイド、だと?」

「彼女の魔法のおかげでキミは命びろいしたんだ」


 鬼女に言われ、目の前の女を観察する。

 歳の頃はおそらく、二十代前半から半ばぐらいだろうか。

 褐色の肌に短く切り揃えた黒髪。

 薄灰色の瞳からは何の感情も読み取れない。

 整った顔立ちも相俟って、そのたたずまいは、どこかロボットのような無機質さを感じさせた。


「えっと、ありがとう?」


 ミツキが礼を述べると、メイド服の女は軽く首を振った。


「確かに〝増血〟の魔法を使ったのは私ですが、それは主人から指示を受けてのこと。礼には及びません。それよりも、感謝は後ろの彼女にするべきかと。ここに来るまでの間、血を失い過ぎたあなたを抱きかかえ温め続けていたのです。その姿はまるで、瀕死の子猿を必死で守ろうとする母猿の如き切実さでございました」

「母、猿? すまん、例えがよくわから……」


 突然の立ち眩みに、ミツキはよろめいた。

 鬼女に抱えられ、白く霞んだ視界に目を瞬かせていると、メイドが顔を覗き込み何かを差し出した。


「〝増血〟魔法で血液は増やしましたが、魔法は無から何かを生み出すことなどできません。即ち、体内の別の物質を血液に変換いたしました以上、あなたの体は今、脱水、及び栄養失調状態となっております。応急ではございますが、これをお飲みください」


 差し出されたのは皮革製の水筒だった。

 漂ってくる甘い香りに気付き、ひったくるように受け取ると、獣の角のようなもので拵えられた飲み口にむしゃぶり付き、中の液体を口の端からこぼれるのも構わず喉へ流し込んだ。

 牛乳に似た風味から、おそらく動物の乳だと思われる液体は、水と栄養を多く失ったうえ、この世界に来てからまともな食べ物を口にしていなかったミツキの体と舌を痺れるような快感を伴って潤した。

 目の端に熱いものを感じ、まさか牛乳(もしくはそれに類する飲み物)に感動して泣く日が来ようとは、とミツキは内心で己の体の反応に驚いた。


「……生き返ったよ。ほんとに助かった」


 最後の一滴まで吸い尽くした水筒をメイドに差し出しながら、ミツキは再び感謝の言葉を述べた。

 メイドはまるで意に介した様子もなく、水筒を受け取ると音もなく後ろに下がった。


「あんたも、ずっとついててくれたんだろ? 確か意識を失う前に、魔法で傷も治してくれたよな? おかげで死なずにすんだよ。感謝の言葉もない。オレにできることがあれば何でも言ってくれ」


 後ろを振り返りつつ、ミツキは鬼女に礼を述べた。


「へえ!? い、いや、ぜんぜっ、全然いいけど! お礼とかそんな、全然!! それより、断りも無くずっとくっ付いてて悪かったというか! いや、もちろん仕方なかったのだけれども!」


 女は慌てた様子でミツキから距離を取った。

 顔を窺えば、灰色の肌が仄かな青紫に色づいている。

 人でない女の挙動不審な反応をミツキは測りかねた。


「……何をキョドってるんだ? オレ何か変なこと言った?」

「べ、別に!? 別に何も! ただ、軽々しく〝何でも〟とか言うのは良くないというか、私だったから良かったものの、相手によっては何か破廉恥(ハレンチ)なこととか要求されてたかもしれないし、キミはちょっと無防備すぎるからもう少し自分の言葉に気を使うべきというか!」


 (まく)し立てる女に、ミツキは呆気にとられた。


「あ、ああ、そうか。いや、意味わからんけど。ってかそんなキャラだったか?」


 その時、ふたりのやりとりを遮るように、背後のメイドが手を打った。


「負傷者の処置も済んだところで、皆様の今後の処遇について我が主より通達がございます。直ちに呼んでまいりますので、その場にてしばしお待ちくださいませ」


 そう言うと、メイドは足音ひとつ立てずに立ち去った。

 メイドを見送ったことで、ミツキははじめて自分たちが今どこにいるのかが気になった。

 どうやら石造りの、大広間のような場所にいるらしい。

 周囲は壁に設置された灯火によって照らされてはいるが、窓は見当たらないため薄暗く、今が昼なのか夜なのかもわからない。

 あるいは、最初に入れられた独房のある建物か、もしくは闘技場なのか、それとも全く別の場所なのかも判断は付きかねた。

 広間の正面には巨大な扉があるものの、太めの閂が三本も掛かっており、開くのには相当な人手が要りそうだ。

 扉の横には人ひとりが通れそうな大きさのドアが設置されており、普段はそちらから出入りするのだろうと推測できた。

 扉の左右には通路らしき空間が開いているが、ミツキの位置からでは奥までは確認できない。

 今度は広間全体を見渡そうと振り向いたミツキは、鬼女の背後の空間に複数の人影があるのに気付いてビクリと身を震わせた。


 ローブを纏った人物が三人、おそらくは鬼女やメイドとやりとりしている間もずっと、薄暗い広場の壁際に無言でたたずんでいたのだろう。

 やはりフードを被って顔は窺えないが、それぞれ、短躯の女性程度、ミツキと同じぐらい、ミツキと鬼女の中間程と、背丈は見事にバラけている。

 なんだこいつ等はと思い、すぐに闘技場の生存者だと思い至る。

 あれだけの数がいたのにたったの五人かと思う一方で、あんな化け物相手に五人も生き残ったのかとも思われた。

 しかも、先程まで死にかけていたミツキとは異なり、三人のローブにはわずかな血痕も認められない。

 おそらく、鬼女と同様、この三人も傑出した戦闘能力を有しているのだろう。


 そこまで考えて、ミツキはハッとなった。

 そういえば、最初に勝ち残った顔の輪郭が犬に似た出場者はどうなったのだろうか。

 迷惑にも、ヤツの魔法の巻き添えで控室に待機していたほとんどの者が不戦敗となったのだ。

 鬼女に庇われなければ、ミツキもその中のひとりになっていたはずと考えれば、背筋に悪寒が走る。

 あの犬人間は、試合でローブも燃えてしまったはずだ。

 であれば、新しいものを支給されたということなのだろうか。

 気になったミツキが三人を観察していると、自分と同じぐらいの背丈の者に目が留まった。

 室内が暗くて初見では気付かなかったが、フードの中から犬のような鼻先が突き出ている。

 こいつか、と思い更に目を凝らしたところ、広間に犬の唸り声のような音が響き始め、ミツキの視線を受けていた人物が一歩前へ踏み出した。


「おい! テメエ、何さっきからガン飛ばしてんだ!? 燃やされてえのか、ああぁ!?」


 ローブの人物がチンピラのような口調で凄みつつフードを捲ると、案の定、犬の顔が現れた。

 毛足の長い狼といった風貌で、毛の色は緋色だ。

 金色の瞳はミツキを捉え、剥き出した牙の隙間から唸り声が漏れている。


「ああ、すまない。別に文句があるとかそういうことじゃないんだ。ただ、闘技場で戦ってるのを見たなと思って、つい見つめちゃったというか……」


 ミツキは素直に謝った。

 犬人間、おそらくは雄っぽいので犬男か、の戦いを知っているだけに、燃やすなどと言われれば怯まないわけがない。

 しかし、犬男は執拗に絡んでくる。


「そうかよ、オレもテメエの戦いを見たぜ? 玉コロみてえに転がされまくって傑作だったな、ありゃあよ。ぎりっぎりで生き残ったみてえだが、正直あん時死んどいた方が良かったんじゃねえのかぁ? テメエみてえなカスが居たって何にもなりゃしねえだろ? 何ならこの場でオレが食い殺してやろうか? そうすりゃあ、せめてオレの糧として役立てるぜ? なあ、オイよぉ!?」


 面倒なのに関わってしまったと思いつつ、せめて敵意がないことを示すため両手のひらを肩のあたりに挙げてみせた。

 そして、犬男を宥めようと口を開きかけたその時、横から巨大な影が割り込んできた。

 鬼女だ。


「おい貴様。何に腹を立てているのか知らんが今の侮辱は取り消してもらおう。確かに苦戦はしたが、彼は己の身ひとつで魔獣に挑み勝利したんだ。少なくとも、魔法頼みの貴様などより余程勇敢だったぞ」

「ちょ、おい、別にオレは気にしてな……」


 自分を擁護する女を宥めようと彼女の顔を覗き込んだミツキは、おもわず息を呑んだ。

 女は不快な虫けらでも見るような酷薄な表情を浮かべ、薄い瑠璃色の光を放つ瞳で犬男を見下していた。


 彼女から発せられる敵意が自分に向けられたものではないとわかっていてなお、ミツキは全身の毛穴から冷や汗が噴き出るのを感じた。

 魔獣などとは比べ物にならない、生物として圧倒的格上の存在が発する殺意に気圧され、数歩後退さる。

 どういうわけかミツキに対して好意らしき感情を示す女だが、敵対者を前にするとこうまで豹変するのかと、言葉を失った。


「なんだテメエは? 保護者気取りかぁ!? そういやさっきまでそいつを大事そうに抱えてたっけなぁ! ってことは、なるほど、()()()にしようと目ぇ付けてたオスを苛められて頭に来ちまったってわけか! こいつは笑えるぜ、こんなわけのわからねえ場所まで連れて来られても発情(サカ)ってるたぁなあ!」


 己に向けられた強烈な殺気にも怯むことなく、挑発の言葉を口にした犬男に対し、鬼女は声を低めて呟いた。


「……そうか、死にたいらしいな」


 その言葉を合図に身構えた両者から、凄まじい熱と風が迸った。


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