2 悪意は蠢く②
るりは我に返る。
公園管理事務所、だ。
すぐ近くで誰かがひどく咳き込んでいる。慌ててそちらを見た。
結木だった。
机に突っ伏したまま、彼は激しく咳き込んでいた。ひゅうひゅうぜいぜいと、喘息患者のようにあえいでいる。
「……ちくしょう」
苦しい息の中で、呪詛のように彼はうめく。
「もう……もう十年以上前のことやんか。なんで今更……」
つぶやきながらのろのろと身を起こし、彼は肘をついて頭を抱える。気持ちを落ち着けようとしているのか、大きな息を何度かつく。指がぶるぶる震えていた。
「……結木さん?」
おそるおそる声をかけると、結木は茫然と顔を上げた。泣いたように目が赤い。
しばらく彼は、充血した虚ろな目でるりの顔を見ていたが、
「ああ……神崎さん」
と、ぼんやりとした声で言った。
「あの。よう……わかりませんけど。ナンかいつの間にかうたた寝してしもてて。強烈な悪夢を見ました。すみません、ご心配とご迷惑をおかけしてしもたようですね……」
ぼそぼそと、そんなある意味真っ当なことを言っている彼を見ているうち、るりの目から涙があふれてきた。
(生きてる。彼は、生きてる……)
良かった、という安堵。
同時に身の置き所もない、申し訳のなさ。
そして、結局彼を救えないと知っている……絶望。
一度に様々な感情が込み上げてきて、あふれる涙を止められなかった。
アレが動いた。動いてしまった。
もはや誰にも止められない。
るりは決してアレに動いてほしくないのに。
かすかに、ほんのかすかに、るりは結木に好意を持った。
真面目で丁寧な仕事をする人だな、と。
姿勢が良くて立ち姿が綺麗だな、と。
樹木にすら礼儀をわきまえている、生き物として真っ当な感性を持った人だな、と。
そんな、恋とも言えないかすかな好意。共に仕事をする上で好ましいと思う、ただそれだけの気持ち。
それにすらアレは反応するのか?
(そう……そうだった。アレは、容赦を知らないんだった)
るりが好意を寄せる者、るりへ好意を寄せる者を、アレは徹底的に排除する。特に異性に対して容赦がない。それがアレの性だと知っているし、諦めてもいた。
だが、ここで仕事をするようになった辺りから、アレは鳴りを潜めた。
るりが中高生くらいの頃のアレの、すさまじい暴れっぷりから考えると不気味なくらい大人しくなった。
るりの能力が衰えるように、アレも衰えてきたのかもしれないと、最近期待を持ち始めていた。
このまま待てば、火が自然と燃え尽きるようにるりとアレは能力が枯れて、世間に埋没して静かに一生を終えられるかもしれない、というささやかな期待も持ち始めていた。
だから少し、油断をしてしまっていたようだ。
結木の近くにいると、理由はわからないがるりの能力は活性化される。
昨日からのことを考えると、そうとしか思えない。
もしかするとるりの能力が活性化したから、アレも活性化したのかもしれない。
ならば何という皮肉だろうか?
結木は当然、るりの能力を活性化させる為に来たのではない。
彼はただ、仕事でこの公園へ派遣されてきただけで、るり側の事情などまったく知らない。なのに彼の持つナニカがるりの能力を活性化し……結果として彼は、活性化したアレに目を付けられてしまった。
最悪は死、最低でも正気を奪われる、容赦を知らないアレの餌食に彼はなってしまう。
逃れるすべはない。少なくともるりは知らない。
「ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい……」
泣きながらるりは、ただひたすら謝った。
謝まることしか出来なかった。
泣きじゃくるるりに、結木は目を見開いたまま硬直していた。
それはそうだろう、一昨日知り合ったばかりの仕事仲間の女性が、いきなり目の前でわんわん泣き出したのだ。対処に困るし、本音を言えばさぞ鬱陶しいだろう。わかっているが、るりは涙を抑えることが出来なかった。
(私のせいだ)
今まで何度も何度もくり返した自責の言葉。
そもそも私が生きて、心を動かすからアレが動く。
生きていても心を一切動かさなければ、アレも動かないだろう。が、一切心を動かさずに生きるなど、現実として不可能だ。
死のうと思って行動を起こしかけたことはある。
だけどるりがそう思った段階で、アレがターゲットの人物を無慈悲に屠るのに気付き、自傷すら憚られるようになった。
「ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい……」
だからるりに出来るのは謝ることだけだった。
中学生の頃は『呪われ少女』と陰で言われてきた。
高校を卒業する頃には、誰も目すら合わせてくれなくなった。
故郷の町を離れ、専門学校では友人も作らず過ごし、この公園に就職した。
ここ数年、嘘のように穏やかな日々を過ごしてきた。でも。
アレは、変わらずるりのそばにいる。
いる、のだ。
泣きじゃくってごめんなさいをくり返するりを、結木はしばらく、困ったように眉を寄せて見ていた。
ふと思いついたように彼はポケットを探り、タオル地のハンカチを取り出した。丁寧にたたみ直し、そっとるりへ差し出した。
少しためらったが、好意に甘えることにした。軽く頭を下げてハンカチを受け取り、眼鏡をはずしてハンカチを両目に押し当てた。
「……神崎さん」
ややためらいながら、結木は声をかけてきた。
「そのう……ナンデ泣きながら謝りはるんですか?」
私が悪いからです。
言葉に出来ない言葉を、るりは胸の中でひとりごちる。