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2 悪意は蠢く①

 朝こそイレギュラーだったものの、その後の仕事は順調に進み、予想通り早めにすべての作業は済んだ。

 五時前には片付けも済み、管理事務所へ戻った。

 明日は県の方へ進捗を報告しに行く、サンプルは持ち帰って研究室の方で分析する……など、結木は今後の予定を、例ののんびりとした口調でるりに告げた。

「いったん帰りますが、しばらくこちらを担当させてもらうことになると思います。実は松枯れ以外にも、気になる所見がないでもないですし」

「あ……やっぱりそうなんですか?」

 作業の合間に結木が時々、険しい顔をすることがあった。るりの見る限り、その時彼が見ていた木に異常があるようには感じられなかったが、樹木医の目からは病の兆しが見て取れるのかもしれない。

「ええ。まあ、まず大丈夫でしょうが手ェ打てるんなら打った方がエエんやないか、ってのがチラホラ。後でまとめてお伝えしますんで、出来る範囲で気ィ付けてやっていただけますか?」

 わかりました、とるりは諾う。


 事務所で日誌を書いたりなんだりしているうちに終業時間になった。

 結木は所長と話した後、事務所の隅でノートパソコンのキーボードを叩いている。明日持ってゆく報告書でもまとめているのだろう。

 着替えを済ませた後、るりはもう一度事務所へ戻った。

 施錠はるりの役目だ。結木がもう少し残るのなら、るりももう少し残って彼の仕事に切りがつくまで待たなくてはならない。

 結木に声をかけようとし……ぎくっとした。

 結木は机の上へ、倒れ込むように突っ伏していた。

 ついさっきまで普通にキーボードを叩いて文書を作成していた筈。なのに今、彼は、居眠りやうたた寝などというレベルではなく突っ伏して眠り込んでいた。『正体なく』という形容に相応しい、病的なまでの深い眠り。

 ぞわ、と強い悪寒がした。

 病的なその深い眠り込み方。るりにとって馴染みの、アレの仕業以外考えられない。

「結木さん!」

 前後の見境もなくるりは、結木の肩をつかんで強くゆさぶった。そんなことをしても無駄だと知っていたが、そうせざるを得なかった。

「結木さん!結木さん起きて下さい!」

 途端に視界がくらりと揺れた。

(あ……)

 半ば以上忘れていた感覚。

(『夢の共鳴』だ)

 体感が急激にぼやけ、視界が暗転した。



 気付いたらるりは、森の中にいた。

 森の中……だと思う。

 それなり以上の太さの幹の木がそこここに生えている。湿った土と苔のにおいが、急に強く鼻へきた。

(そうだ、結木さん!)

 はっとし、るりは走り出す。

 アレに、囚われたのなら。

 結木はこの森……この夢のどこかにいる。出来るだけ早く見つけ出し、連れ戻さなくてはならない。さもなくば……。

「結木さん!」

 るりは叫んだ。出来るだけ大声で。

 『夢』の中で現実の道理は通用しない。一番力を持つのは思いの強さだ。

(やめて!もうこれ以上、人が死ぬのも苦しむのも、見たくない!)

 るりにとって一番強い思いはそれだ。

 その思いが導くまま、るりは走る。

(やめて。やめてやめて。もうやめて!おにいちゃん!)

 唐突に開けた場所へ、ほとんど転がり出るようにるりは飛び出し、たたらを踏んだ。


 少し先に少年がいた。

 どこかの学校の制服らしい黒っぽいブレザーにスラックスの、やや細身の、高校生らしい少年の後姿だ。引き寄せられるようにるりは、彼へ近付いた。

 少年のそばまで来たが、彼はるりに気付かない。

 彼はひたすら前を見つめ、前へ進もうとしていた。が、まったく進めない、そんな感じにもがいていた。さながら、ゼリーで満たされたプールを泳いで渡ろうとしているような、何とも言えない徒労感がただよっていた。

 少年の顔を間近で確かめ、るりは確信する。

 この少年は結木だ。おそらく十六、七歳の頃の結木だろう。面影がある。

 『夢』の中では人や物の形はどうしてもゆらぐが、存在の芯というのだろうか、その人らしさのようなものは変わらない。この少年の面影というか気配に、るりの知る樹木医の彼を感じる。

「…………!」

 もがきながら少年……結木、は叫んでいる。

 おそらく、やめろ、とか、駄目だ、とか、そんな内容なのだろうと察せられるが、声は全く聞こえてこない。ゼリー状の空気が肺を満たしているかのような、猛烈な息苦しさがるりにも伝わってくる。

 彼が見つめている方向へ、るりも焦点を合わせる。

 彼の見ているものと同じものを『見たい』と『思う』。


 古い木造の家の、おそらくは裏庭。

 丹精された庭木。石灯籠。そんなものが見える。

 その中に、髪の長いほっそりとした若い女性が立っている。

 彼女の立ち姿は不穏だった。

 どこを見ているのかわからない、虚ろな目を遠くへ据えている。

 だらりと下げられた右手には、大きなはさみが握られていた。鋭利な刃が不吉にギラリと光る。

 ふふ、と、唐突に彼女は笑う。どこかネジの外れたような、あやうい笑みだ。

「ごめんね。バイバイ……」

 つぶやくように彼女は言い、はさみを咽喉へ突き立てた。

 鮮血がほとばしる。

 刹那、彼女の身体の輪郭がゆらぎ……すさまじい音と共に、大量の枯れ葉が舞った。

「うわあああああ!」

 獣の咆哮にも似た絶叫が、辺りに響き渡る。

「いややあああ!いややあああ!」

 少年……結木の叫び声だった。

 不意に彼はその場へくずおれた。

 喉元を押さえ、あえいでいる。浅く短い呼吸音がいやに耳につく。きちんと呼吸が出来ていない、そんな感じだ。

「結木さん!」

 るりは、半ば意識を失いかけている少年の肩をつかみ、強くゆさぶった。

「結木さん!結木さん目を覚まして下さい!これは夢です、夢なんです!」

 そして虚空へ向かい、声の限りにるりは叫んだ。

「やめて!もうやめて!……おにいちゃん!」

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