9 水の音⑥
物問いたげな目をしている結木へ、疲れてしまったので戻って休みたいとるりは言い、半ば強引に離れを後にした。
客間へ戻るとるりは、もう一度寝具をのべ、横になった。
るりの血筋の霊力は、『夢』に特化している。
兄が目覚めなくなったのも、眠っている方が無駄なく霊力を使えるからだ。
もちろん当時はわからなかったが、ここまでくればさすがにるりも察することが出来る。
だから父があの日眠らず、家族を車に乗せて『生と死の狭間』へ行った理由が未だにわからない。
『どこかへ行く』ことを、るりに納得させる必要があったのかもしれないが。
(でも今はそれより)
自分のなすべきことに集中しなくてはならない。
るりは何度もゆっくり、息をした。
乱れた息が整うと、わななく胸も鎮まってくる。
るりは、ゆっくりと目を閉じた。
闇。
ひたすらの闇の中に、るりはいた。
いつかと同じだ。
「夜は暗黒の闇にあらず……」
知らず知らずのうちにるりは、あの時と同じ言葉を紡いでいた。
「内にやわらかな光を抱く、瑠璃色こそが夜の闇。安らぎを生む優しき闇が我が本性なり」
自分の力が周りに広がり、『場』を作ってゆくのがわかる。
「我が真名は神崎るり。瑠璃色の夜の闇なり!」
(ここは私。私の夢の中)
暗黒の闇がゆっくりと濃い瑠璃色になってゆく。
(『思う』。私は、『生と死の狭間』へ行きたい)
くらり、と視界がゆらいだ。
次に意識がはっきりした時には、るりは真白の大地に立っていた。
見上げると、怖ろしいほどの深い青の空が広がっていた。
ここが『生と死の狭間』なのだと、改めてるりは思い知る。
雑多なものなど何もない、白と青のみの世界。
見上げていると紺碧の中へ落ちてゆきそうな錯覚は、決して錯覚ではないと不意に知る。
この空は死の世界だ。
深い深い青は昇れば昇るほど更に深みを増し、濃紺から漆黒へ、最終的には絶対の静寂と闇になる。
そんなところにお兄ちゃんをやらないでと、小さかったるりは泣いた……。
ハッとする。
閉ざしていた記憶の一部だ。
(私は……)
かなりたくさんの記憶を、無理矢理封印しているらしい。
不安に駆られ、るりはうつむいたまま早足で歩く。
歩く。歩く。どこまでも。
だが真白の大地に果てはない。
どこまで歩いてもおなじ景色が延々と続く。
同じ場所をぐるぐる回っているのではないかという疑いが起こり、るりは立ち止まる。
「その認識は正しい。だが随分と回り道をしたものだな」
冷ややかな、まだ若そうな男の声。
るりは慌ててそちらを向いた。
少し離れたところに、真っ白な塊を見付けた。
そろそろと近付き、息を呑む。
袴を含めて真白の巫女装束。
背中に届く真白な髪。
病的なまでに白い顔色。
人形めいて整ったその顔の中で、小さめの唇だけが不吉に赤い。
るりより頭ひとつほど小さい、十二歳くらいの少女だ。
真白のまつげで覆われたまぶたが、静かに伏せられている。
「ツクヨミノ……ミコト」
思い出した。
八歳のあの日、るりはこの存在と出会った。
小波の人たちが『オモトノミコト』と呼んでいる存在と、ほぼ同じ存在。
神、と呼ぶしかない存在だ。
「病んだ剣を従えた神鏡よ。次に会う時まで目を閉ざしておいてやると約束したな。約束通り、目を閉ざしていてやったぞ」
さっきの男の声がして、るりは混乱しながら辺りを見回した。
巫女装束の少女から、あきれたような気配がした。
「何をきょろきょろしている。お前の目の前にいるのは我だけだろうが」
言葉と同時に、少女は目を開けた。不吉なまでに美しい、緋色の瞳がるりを見据えた。
「ここに来たということは……」
可憐な赤い唇が嗤う。
「また死にかけたのか?何百年に一度くらいしか現れない能力者にしては、間が抜けたことだな」
冷ややかな、男のものとしか思えない声。
(そうだ、月夜見命は男神だった)
るりが思った途端、目の前の少女は眉をひそめた。
「男だの女だの、我には関係のないことだ。お前にとっての我が……」
少女、否、ツクヨミノミコトはだしぬけにるりの方へ近付くと、無遠慮に瞳を覗き込んだ。
禍々しくも美しいミコトの瞳。呼吸も心臓も止まりそうだ。
「アルビノを思わせる、巫女装束の少女。それでいて声は若い男か。歪んでいるが美しい。お前にとっての我はそうだということか。まあいい。悪くない」
ツクヨミノミコトが静かに離れたので、るりはわななきながら呼吸を取り戻した。
「それで神鏡。再びここへ来たのだ、死にかけたのでなければ余程のことがあったということだな。話せ。場合によれば助けてやってもいい」
「……本当ですか?」
かすれた声で問うと、ツクヨミノミコトは白けた顔をした。
「場合によれば、と言ったぞ。我は万能でもなければ優しくもない。幼い頃に出会ったお前にそれなりの親しみはあるが、まあそれだけだ。心の底からの願いで、お前自身に出来るすべてを尽くすというのなら手助けしてやれる。逆に、我に何とかしてもらおうなどという甘えた気持ちで来たのなら、即刻ここから叩き出す。それだけのことだ」
この口調。
冷ややかな声。
懐かしい、とるりは思った。
ああそうだ。
この方に、確かに一度、願いをかなえてもらった。
記憶というよりも体感のような感じで、るりは思い出した。
大きく息をつき、るりは言った。
「私の願いはひとつです。オナミのクサのツカサ・結木草仁にかかっている月の御剣の呪いから、彼を解放して下さい」




