1 樹木医・結木④
驚いたように結木は振り返る。途端に幻視は消えた。
「結木さん、一体、誰と何の話をしているんですか?」
「は?」
彼はポカンとるりの顔を見つめる。
「この公園の皆さんの健康状態がどうとかこうとか……一体……」
みるみる結木の顔が赤く染まる。
「え?えっとその。声に……出してましたか?」
「出してましたかって……」
言いかけ、るりは口ごもる。
そういえば声は聞こえていたけれど、彼の唇は動いていなかった……気がする。
(幻視だけじゃなく……幻聴、も?)
子供の頃、稀にだが他人の心の声を、実際の声のように聞き取れることがあった。高校生になる頃には、完全にその能力は消滅したと思っていたのに。
(どういう……ことなの?)
理屈はよくわからないが、結木のそばにいるとるりの疎ましい能力は活性化するらしい。
このままこの訳のわからない能力は、年齢と共にフェードアウトしてゆくのだろうと、心底ほっとしていたというのに。
(この人、何?一体何者なの?)
るりが黙ってしまったので、結木は更にきまりが悪くなったらしい。赤い顔のまま、ぼそぼそと言い訳をしている。
「あー、その。声に出してましたか?ははは。あー、そのですね。笑われると思いますけど、まあその、ボクの癖みたいなもんでして。なんちゅーか、齢百年は軽く超えてる木ィにしてみたら、三十年ソコソコしか生きてない人間なんか、ハナタレのガキにしか見えへんのやないのかな、と。で、そんなガキにわかったような顔で、切ったりはつったりごちゃごちゃされたら、さぞ不愉快やろうな、と。どうしてもそんな気がしますんで、一言、断わり入れたくなるんです。要するに一種の儀式です。たとえば、アスリートが試合で、ここ一番の時にするキメポーズみたいなっていうのか。すみません、ただの厨二ですよね……」
「あ……いえ。そう、なんですか……」
曖昧に笑んで、るりはもぞもぞと、何とでも取れそうな返事をする。本当は彼に責任はないが(厨二だったとしても声に出してなければ他人にはわからないのだから)、るり側の事情なんてとても説明出来ない。
仕事にかかりましょう、と、彼は赤い顔のまま言い、台車の方へそそくさと向かった。
その後は特に何も起こらなかった。
結木は淡々と己れの仕事をしたし、るりは淡々とその補佐を務めた。
健康な松へ、予防としてカミキリムシを防ぐ薬剤を与え、念の為にそれぞれの木からサンプルを採取する。
立ち枯れている松の木を小型のチェーンソーで伐採し、細かくして焼却処分する。
切り倒す前に結木が、軽く頭を下げて合掌する姿が印象に残ったが、それ以外は特別感傷的な素振りをする訳でもなかった。
一から十まで木を人間のように扱っているのでもなさそうだった。
予定の作業が一通り済んだ頃には夕方になっていた。るりも疲れたが、結木もかなり疲れた顔をしていた。
広い園内を一日中、歩いたり作業したりするだけでも疲れるが、結木はかなり丁寧に仕事をする樹木医だった。
いや、他の樹木医を知っている訳ではないから言い切れはしないが、るりはそんな印象を持った。
例えば、サンプルのラベルを手書きで書いていたが、さらさらとかきなぐったその字でさえ隙なくきちんとしていて、彼の性格がよく現われている気がする。
神経質なほど丁寧な仕事は、肉体的だけでなく精神的にもかなり疲れるだろうな、とも。
「お疲れ様でした。また明日もよろしくお願いします」
心なしかげっそりした顔でちょっと頑張るような感じに笑みを作り、彼は市が用意した宿泊所へ車で帰っていった。
翌朝。
るりが出勤した時にはもう、結木の軽自動車が職員駐車場にとまっていた。
今日は、公園の残り半分の敷地の松の処置とサンプルの採取が予定されている。
しかし、松の本数からいって全体の半分以上は昨日のうちに終えている。スケジュール的には昨日より今日の方が緩やかだ。それは結木も承知している。
(ずいぶんと……早い出勤ねえ)
結木が真面目な性格なのは、昨日一日一緒に仕事をしていてわかっている。だがそれにしても出勤が早すぎる気がした。
なんとなく嫌な予感がした。
事務所にはまだ誰もいなかった。るりは鍵を開ける。
結木は何処に行ったのだろうか、事務所の近辺にはいない。もう仕事にかかっているかもしれないが、そこまで急いで仕事にかからなくてならない、意味がよくわからなかった。
仕事着に着替え、朝のルーティンにかかる。
出勤者の確認と作業の割り振りをチェックし、所長のお茶を準備する。
そのうちに皆ぽつぽつ出勤してくるが、結木は事務所に姿を見せない。
「ねえ、神崎さん。あの男前の関西弁の樹木医さん、どうしたの?」
今日も来るんでしょ、と、今回のシルバー人材の内であっという間にイニシアチブを取る立場になった中川が言う。六十代半ばの、まだまだ元気な老女だ。
結木は特別にイケメンという訳ではなかったが、並み以上のすっきりとした容姿だ。何と言っても彼は姿勢がよく、立ち姿が美しかった。お陰で二、三割は男前度が上がって見える。
年配者ばかりの環境では、青年といえる並み以上の容姿の男は目を引く。結木は来た日から、老女たちのアイドルになっているようだった。
「さあ。もうお仕事にかかっていらっしゃるのかもしれませんね、車は駐車場にありましたし」
その辺りで朝礼の時間になった。
やはり結木は姿を見せない。
別にかまわないようなものだったが、彼の性格から考えてちょっと違和感があった。