6 戦闘開始⑦
野崎邸に入る。
暗いのでよくわからないが、かなり時代の付いた木造の大きな家だ。
この無駄なまでに広い敷地から見ればこじんまりしている印象だが、普通に考えればかなり大きな屋敷だろう。
美しく調えられ、凛とした一輪挿しの桔梗が生けられている広い玄関で靴を脱ぐ。緊張しながら足をそろえてしゃがむとそっと靴をそろえ、端へ寄せる。
両親や祖父母から恥ずかしくない程度の躾は受けてきたつもりだが、こういう旧家の屋敷へ招かれるのは初めてだから、本当にこれで良いのか不安だ。
客間らしい和室へ導かれる。
床の間の前にあるどっしりとした座卓。立派な分厚い座布団が置かれている。
「どうぞ」
入り口で野崎氏に示されたのが、床の間側の席なのでるりは足を止めた。
一般的な常識として、床の間側が上座だという知識はある。が、いくら客でもるりのような若輩が上座へ座っていいのか、判断出来ない。
勧められても客は断る、断られても主はもう一度勧める、では失礼してと客は座布団を外して座る……等、手順めいたマナーがあるのかもしれない。そういうことを聞きかじったような気もするが、よくわからない。
「では失礼します」
結木は軽くそう断ると、当たり前のように床の間側の奥の席に着いた。
「神崎さんはどうぞそのお隣りへ」
当たり前のように言われ、結木も目顔で合図するので、落ち着かない気分でるりは座る。
程よい硬さの座布団は、物理的には座り心地が良かった。
ほどなく茶菓を乗せた盆を持った、白髪の髪をきちんと結い上げた老婦人が静かに部屋へ入ってきた。おそらく野崎氏の奥さんだろう。
「お初にお目にかかります、神鏡の巫女姫。野崎の家内で、和代と申します。以後どうぞお見知り置き下さいませ」
茶菓を供した後、和代夫人は畳の上で正座をし、そう言って流れるような所作で深く頭を下げた。
「和代さん。あんまり丁寧でも神崎さんが困りはります。松英さんにもお願いしましたが、神崎さんのことは親戚の娘さんみたいな感じで接していただけませんか?」
結木の言葉に頭を上げると、和代夫人は優しそうに笑んだ。
「それでは草仁さんに準ずる形で」
野崎氏と同じことを言う。
さすが夫婦と言うべきだろうか、いや、事前にるりへの対応を夫婦で決めていたと考える方が妥当だろう。
「それでもちょっと丁寧過ぎますけど……まあ、その辺で」
あきらめたように言い、結木はお茶を口に含んだ。
「お食事はどうなさいますか?軽いものならすぐにご用意できますが」
和代夫人の言葉に、
「夕方にサービスエリアで軽く食事してきました。ボクは別に腹減ってませんけど、神崎さんはどうなさいますか?せっかくですからなんか軽く食べはりますか?」
和代さんは料理上手な方ですしと付け加えながら、結木はるりを見た。
いえ私も特にと言おうとして、るりは息を呑む。
結木の左眉の上の傷が不意に、さながら決壊する堤防のように鮮血を滴らせた。
「わ!」
彼は慌てて手で傷を押さえた。
「くそ、ずきずきしてると思てたけど……限界か」
つぶやき、そのままずるずると彼は、座卓へ突っ伏した。
「草仁さん!」
野崎夫妻の声が響く。
るりがおろおろしているうちに、野崎氏は結木に肩を貸すようにして彼を離れへ連れて行く。
母屋と渡り廊下でつながれた、かつて隠居か何かに使われていたような部屋だった。
床が延べられ、スーツの上着だけを脱いだ状態で彼は横にされる。急激に熱が出てきたのか、頬が赤くて息が荒い。
急遽、野崎のかかりつけ医が呼ばれた。
止血剤や抗生物質などが処方されたようだが、彼の容体にほとんど変化はない。傷を押さえている白い包帯には、じわっと血がにじんできていた。
るりは所在なく結木の枕元に座っていた。
心配だが、他に出来ることもない。
「ねーさん」
野崎夫妻がどういう訳か二人ともいなくなった刹那、るりを呼ぶ声がした。
いつの間にかるりの向かい側、もう一方の枕元に、長い脚を持て余すようにして胡坐をかいている青年がいた。
焦げ茶のベストにカーゴパンツ。ナンフウだ。
明るいところで見ると彼は、浅黒い肌に大ぶりながら形の整った目鼻立ちで、無造作に伸ばした茶色がかった黒髪を後ろでひとまとめにしていた。アーティストとかミュージシャンとかに近い雰囲気の、なるほど『イケメン』だった。
「野崎さんらにはちょっと遠慮してもろた。あの人らにはわからんようにやけど」
彼はやや寂しそうにふっと笑うと、すぐに真顔になった。
「こいつの怪我は普通の怪我やないやろ?おっかないお方の子分がどーのこーの言うとったし。怨霊がらみの毒素を、ほんの微量やけど、感じる」
るりが無言でうなずくと、ふん、とナンフウは鼻を鳴らした。
「まあ、腐っても鯛っちゅか、コイツもクサのツカサと呼ばれてる男や。ほっといても自力で何とかしよるやろうけど、手伝った方がエエはエエ。その『おっかないお方』とのガチンコ勝負も控えてるしな。……ねーさん」
ナンフウはその大きな瞳をひたっとるりに据えた。
「俺を、コイツの夢の中へ導いてくれ」
言われた意味がまったくわからず、るりは、すさまじいまでに圧のあるナンフウの黒い瞳を見返した。
「ねーさんは夢を司る月の神の巫女姫や。ある意味ねーさん自身が月の神や」
「め、めちゃくちゃなことを言わないでよ」
るりはぎょっとする。
「私はただの人間よ。そりゃあ、普通の人が見えないものが見えたりするかもしれないけど」
「そういう言い方するんやったら、そーじんもただの人間や。普通の人が聞こえんモンが聞こえるし、場合によっては見えるけど」
ナンフウは静かに言う。
「でもコイツは、小波の水脈と、水脈に繋がりの深い草木を従えてる男や。ある意味小波そのもの、小波の産土神やねん」
ナンフウの言葉が、すっとるりの中へ沁みた。
彼と出会って以来、眠りかけていたるりの能力が目を覚ましたのも。
彼からただようおひさまのようなにおいに心が穏やかになり、眠りたくなったのも。
彼が、土地神の化身だと聞かされて、心から納得した。
「ねーさんもそーじんとおんなじや。本人がどう思おうと、あんたは剣を従えた神鏡の巫女姫なんや。神鏡とまで呼ばれる能力者は、そうそう出て来るモンやないんやで。……出来る。絶対。ねーさん、あんたは言葉を変えたら夢のツカサや。そーじんが草木のツカサみたいなモンや。この国であんた以外、出来るヤツなんかおらへん」
「で、でも……」
そう言われても、どうすればいいのかまったくわからない。
「難しいことないはずや。寝てる人間の夢と共鳴できるんやろ?」
るりは曖昧にうなずく。しかしあれは、やろうと思って出来るものではない。
「そーじんは今、正確には寝てるとは言えんかもしれんけど意識が朦朧としてる。つまり、うとうとしてるような状態や。あんたが共鳴してくれたら、まあ言うたら道が出来る。そしたら俺がその道を通って、チャチャっと怨霊の毒素、ひねってきたる。そしたらコイツ、一気に楽になるからな」
ナンフウは冗談めかした口調でそう言ったが、瞳の色は意外なくらい真剣で、焦りのような陰りもほの見えた。
言葉で言うほど、彼は楽観視していない。
るりは改めて、苦しそうに息をついている結木を見た。神崎さん、と呼ぶ彼の柔らかな声と、ふわりと口許にたたえられる笑みを思い出した。
(この人を、守りたい)
胸に浮かぶ強い思い。
半分以上無意識で、るりは右手を伸ばして彼の額に触れた。
くらり、と視界がゆらぐ。




