1 樹木医・結木②
「あの、どうかしはりましたか?」
怪訝そうな青年の声に、るりははっと我に返った。
慌てて眼鏡をかけ直し、青年を真っ直ぐ見る。
視界のすべてにかっきりとした輪郭が戻る。幻視はすでに消えていた。
目が合うと青年は、眩しそうに目をしばたたき、視線をそらした。いきなり真っ直ぐ見つめるなど、初対面の人に不躾だったとるりは内心慌てた。
「あ、いえ。ごめんなさい、汗が目に入ってちょっとぼうっとしてしまって。あの……何か?」
青年は思い出したように、メモを振って笑みを作る。
「いやその、公園管理事務所探してるんですけど、ようわからんようになってしまいまして。こっちやと思うんですけど……」
「あ、ひょっとして樹木医の方ですか?」
青年はうなずく。
「はい。樹木医の、結木と申します。恵杏大の橋本教授のご紹介でこちらへ。あ、こちらの職員さんですよね、よろしくお願いします」
近年よく言われている松枯れ……いわゆる松くい虫の被害は、るりが勤めているこの公園でもちらほら出ている。
むろんそれなりの対策は取っているが、はかばかしくないのが正直なところだ。
この公園のシンボルツリーは齢200年を超える大松なので、県も重い腰を上げたらしい。樹木医にきちんと診断してもらい、対策を打つことに決まったと、少し前に所長の大野から聞かされていた。
手を打つならもう少し早い時期の方がベターだったが、その辺はまあ、色々事情があるのだろう。
しかしその樹木医が、まさかこんなに若い人だとは思わなかった。二十代後半から三十歳くらいにしか見えない。るりとほぼ同世代だ、軽くうとましい気分になったのは否めない。
それはともかく、この結木という青年が公園管理事務所のお客さんなのは確かだ。るりは少し考える。
今いる場所から事務所までそれほど遠い訳ではないが、口で説明しにくい変な入り組み方をした場所にある。彼が迷ったのもおそらくそのせいだろう。口で説明するより、案内した方が簡単で確実だった。
「ご案内します」
すぐ戻りますから、と、近くで一緒に作業していた老人たちへ告げ、るりは青年へ軽く会釈した。
「すみません、お手間をかけます」
彼はふわりと笑んで頭を下げた。
連れだって歩いていると青年は言う。
「エエ公園ですねえ。きちんと世話されてる、そんな感じがします」
ここまできちんと手入れしてはったら毎日大変でしょう、と、彼はニコニコしながら言う。
るりは曖昧に笑んでごまかす。
別に彼が嫌だったり不快だったりするのではないが、耳に馴染みのない西の地方のイントネーションを聞いているのが、なんとなくこそばゆい。
元々るりは、テレビで我が物顔に振る舞う(それが与えられた役割なのは理解しているが)関西系のお笑いタレントに、あまりいい印象を持っていなかった。紺のスーツが似合うこの真っ当そうな青年の口調が、そういうタレントさんと同じなのに違和感があって仕方がない。
何というのか……耳と目がバラバラになったような、そんな気分に陥るのだ。
恵杏大は大阪にある大学だったし、橋本教授はこの道で有名という噂は聞いている。
おそらく彼は橋本教授の門下生で、年齢的に考えて、樹木医補から樹木医になったばかり、というところではないかと思う。修行を兼ねて派遣されてきたのだろう。
しかし、醸し出すムードはあくまで真っ当かつ真面目そうなのに、この口調ですべて台無し……は、言い過ぎかもしれないが、脱力を誘われてしまう。
ちゃんと普通にしゃべってほしいな、とチラっと思い、いやそれは傲慢だろう彼の『普通』はこの口調なのだから、と、るりは思い直す。
るりが内心ごちゃごちゃ思っているなど、当然まったく気付いていないであろう青年は、違和感と脱力感をばらまきながらのんびりと話し続けている。
「聞いた話では、松の立ち枯れが気になるっちゅうことですよね?ボクさっき、バクっと公園一周してみたんですけど、見た感じ全体的には深刻っちゅう程でもなさそうですね。安心しました。ただ、正面入ってすぐのところに一本、深刻な個体がありました。アレは……可哀相やけど、伐採するしかなさそうですねえ」
「ええ」
ふっと胸がふさぐ。
あの松の若木は、ほんの二週間くらい前まで青々としていたのだ。もっと早くに気付いて対策を打っていたら、と、るりは悔やんでいた。
結木青年は話し続ける。
「ここのシンボルツリーは、中央広場にある200歳くらいの松の木さんですよね。幸い今のところあの方はお元気そうや。樹勢も衰えてませんからそんなに心配はいらんでしょうけど、ご高齢やし、まずはあの方を守ることから対策を始めた方がエエかなと思います。どうでしょう?」
「あ……はあ。そう、ですねえ……」
るりは気の抜けたような返事をする。
別に彼は間違ったことは言っていない、内容的には。
ただ『松の木さん』くらいはまだしも、『あの方』だの『ご高齢』だの、木に対して使う言葉だろうか?
(使わない、よね?)
樹木医にとって樹木は、たとえばペットの犬猫を『うちの子』と呼ぶような、そんな感覚があるのだろうか?
それとも、聞きかじった話によると大阪の人は人と人との距離感が近いらしいが、ひょっとすると人だけでなく、動植物とも距離感が近い、のだろうか?
彼の職業からくる感覚なのか彼の出身地からくる感覚なのか、単に彼の個人的な感覚なのかはわからない。が、あまりにも他者との距離感が違う人とは付き合い辛い。たとえ短時間でもこの人と一緒に仕事をするのかと思うと、正直気がふさぐ。
(二、三日のことだし。悪い人じゃなさそうだし。まあ……いいか)
思い直したあたりで、公園管理事務所が見えてきた。