1 樹木医・結木①
五月。ゴールデンウィーク明け。
休日にしろ平日にしろ、公園を訪れる人の数が落ち着いてくる頃だ。
ゴールデンウィークで行楽シーズンが一段落つく感じがするし、ちょうど暑くなってくる時期だからかもしれない。
だけどるりは、梅雨になる直前のごく短い、清々しいこの季節が好きだ。
「神崎さん」
顔見知りの市の職員・佐々木が、公園管理事務所へ入ってきた。
朝のルーティンであるお茶を入れる手を止め、るりは顔を上げた。
「いつも通り、お願いしますね」
佐々木は人の良さそうな笑みを浮かべて言う。るりも笑みを作り、うなずく。
そういえば彼女もこの仕事が長い。市のシルバー人材派遣の職員になって、もう二十年近くになるのだそうだ。
連れ立って事務所の外に出る。そこにはいつも通り、やや緊張した面持ちの老人たちが所在なげにいた。
ゴールデンウィークが終わる頃、市のシルバー人材派遣から短期のアルバイトを入れて公園の整備をするのは、毎年のことだ。
るりは専門学校を出て以来、この公園に勤めている。早いもので、もう六年になる。年齢的にはまだ若いが、すっかりベテラン扱いされるようになってきた昨今だ。作業の指導と割りふりは、近年、所長ではなくるりの仕事だ。
老人たちはるりを一目見た途端、あからさまに意外な顔をした。
いつものことなので別に驚かない。
るりが、こういう仕事に携わる者としてはあまりに若く、しかも小柄で華奢な『娘さん』なのが、老人たちには予想外なのだ。
「はじめまして。公園管理の神崎と申します」
会釈をした後、るりは眼鏡のつるに指をそえ、位置を直す。
昔のギャグ漫画のヒロインを思わせる、黒ぶちの大きな眼鏡。
るり自身はその漫画も、アニメの方もほとんど知らない。が、周りの年配者からはよくそう言われる。……あまり似合っていない、という、遠慮含みの指摘と一緒に。
「今日から皆さんとお仕事をすることになりますので、どうかよろしくお願い致します。ゴールデンウィーク明けはどうしても園内が荒れがちになりますので、まずは清掃から始めてゆきたいと思います」
造園とか庭師のような仕事に就きたいと思い、るりは高校を卒業後、そちらの専門学校へ進んだ。
物言わぬ植物たちを相手に、黙々と手を動かしていればいい仕事をしたいと思ったからだ。
しかし、確かにこういう職業にはるりが思っていたような部分もあるが、仕事というのはやはり、数人のチームでするのが普通だった。あまり人と接したくないからとか、そんな理由で選ぶ仕事ではないとすぐ痛感した。
もっとも、仕事で接する人たちが主に年配者だったので、るりは気楽だった。同世代の人間と接するのが苦手だったのだと、るりは認識を新たにした。そういう意味ではこの仕事を選んでよかったと思っている。
仲がいいとか悪いとか、誰が好きとか嫌いとか、そういう煩わしい事柄は年配者たちの間でも確かにある。が、娘のような孫のようなるりを相手に、本気でバトルを仕掛けてくる年配者などいない。
真面目で礼儀正しいるりは、基本彼等に好かれた。むしろ、真面目過ぎるとか大人し過ぎるとか言われ、心配されるくらいだ。
「そうでもないですよ」
そういう指摘をされるとるりは、汗でずれる眼鏡の位置を直しながらほほ笑んだ。
「大人しい子はこんな仕事に就きませんから。私は単に、変人なんです」
確かに変人だろう、この仕事は若い娘が好むような仕事ではない。
無骨で素っ気ない、灰色の作業服に軍手と黒長靴、日除けのつば広帽といういでたち。
そのイケてない姿で延々と、屋外で紫外線をガンガン浴びながらの肉体労働に従事しなければならない。
そもそも、花壇の花は美しいが花壇の整備は地味できつい。すぐ泥だらけになる上に意外と力仕事で、足腰への負担も大きい。
そんな仕事だから、髪や肌は容赦なく荒れる。事実、どうしても帽子からはみ出す毛先は赤茶け、パサついている。
元々るりの髪は鳶色に近い茶系だったが、毛先の色はそんなレベルではない。
それに公園管理に従事している者は、中年以上が多いのが実情だ。
イケメンどころか若い男性がいない。これでは彼氏を見つける楽しみもない。
でもそこが、るりには逆に有り難かった。
『恋愛』を意識しないでいられる環境に、心の底からホッとする。
誰が好きとか嫌いとかは、恋愛が絡むと更に煩わしくなる。るりはその部分で今まで、嫌というほど辛酸を嘗めてきた……。
はっとし、彼女は、それかけた意識を目の前の作業へと戻した。
五月の公園は美しい。
風にゆれる新緑を見ていると、自分の内側まで新しくなってゆくような、そんな気分になる。
自分の作業に一段落がつき、るりは立ち上がって腰を伸ばした。
深呼吸。
吐き出す息に自分を乗せ、風に乗って舞い上がり……新緑の枝を思い切り、ゆさぶる。そんな夢想がふと浮かぶ。
その時、小径の向こうから人影が差した。
午後の手前であるこんな時間のこんな場所には珍しい、重そうな黒い鞄を手にしたスーツ姿の青年だった。ちょっと目を引くくらい姿勢のいい、すっきりとしたたたずまいの青年だった。
彼は手にメモらしいものを持ち、軽く首をひねっていた。
「あ……と。ちょっとすみません」
たまたま立ち上がっていたるりを認め、青年はふわりと笑んだ。言葉にあるもの柔らかな西の地方のイントネーションに似つかわしい、柔らかな笑みだった。
その刹那。
るりの目に、風の渡る草原にあるなだらかな丘、その上に立つ若い木の幻が鮮やかに浮かんだ。思わず眼鏡をはずし、目の周りの汗を袖口で押さえた後、裸眼で彼を見た。
るりは視力が弱い。
視力検査的にいうのなら、0.1も満足に見えない。……が。
すべてがソフトフォーカスの、輪郭のぼやけた視界。その中で青年の黒髪と紺色のスーツの色彩が、明るい初夏の陽光の下に見える。
そして、そのぼやけた色彩と二重写しに、天へ向かってすらりと伸びる、美しい若木がありありと見えた。
(え?)
幻視は初めてではない。
むしろ、幼い頃からの馴染みと言えなくもない。
が、ここまで際立って鮮やかな幻視は、ごく幼い頃以来かもしれない。それも……。
(夢の、木?)
決してそちらへ行ってはいけないと、切なく見つめるあの夢の木。
くり返し夢に見て、くり返しあきらめると決めて泣きたくなる、あの木の姿が……見える。
(どういう、ことなの?)
こんなことは初めてだ。