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3 るりの追憶②

 柴田が父の担当者になって、ゆっくりと一年が過ぎた。

 るりは八歳。小学二年生になっていた。


 父も柴田が自宅へ来ないよう、さり気なく気を付けるようになっていた。

 訪ねてきた柴田を近くのカフェへ誘って打ち合わせをしたり、必要な資料や下書きなどは『そちらへ行く用があるから』と言い繕って自分から出向くようにし、彼には出来るだけ神崎家の敷居をまたがせないよう計らった。

 おかげでここ半年ほど、るりは柴田に会わずに過ごせている。

 家族で過ごせた最後の穏やかな日々だったと、るりは後で思い返すことになる。

 特別なことなど何もない、優しく穏やかな日々の連続。

 珠玉の半年間だった、と。


 それはちょうど、最初に柴田に会って一年ほど経った頃だった。

 下校途中に

「るりちゃんじゃない?」

 と声をかけられた。振り向くと、上着を腕にかけた、カッターシャツにビジネススラックスの男が立っていた。外したネクタイは、丸めてカッターシャツのポケットへねじ込まれていた。

「やっぱりるりちゃんだ。久しぶりだね、元気だった?」

 るりは思わず息を止めた。

 柴田だ。いかにも人の良さそうな笑みを浮かべて立っている。

 実際、彼に他意はなかっただろう。

 おそらく父と仕事の話をして帰る途中、小学校の下校時間とかち合い、偶然るりと出会った。

 もしかすると、るりと会えるかもしれないという期待でわざとこの辺りに残ってうろうろした……くらいの『他意』は、彼にあったかもしれない。しかし、さすがにそれ以上の意図はおそらくなかっただろう。

 気に入りの少女に思いがけず出会えた、そういう単純な喜びしか伝わってこなかった。……彼の表情からは。

 しかしるりには、彼自身ですらはっきり意識していないであろう、昏い欲望が見えた。

 明るい笑顔と二重写しで、邪まな表情で笑う柴田が見えた。整えられた彼の髪が不意に蠢き、しゅうしゅうとかすかな音を立てて伸びてきた。

 まるで絵本で見たメデューサだ。伸びた彼の髪はいくつもの黒い蛇になり、瞬く間にるりの全身に絡みついてきた。

『見てるだけ。見てるだけ。僕は紳士だからね』

『なんて細い首なんだ……』

『どうしてタイツなんか。絶対領域が見たいのに』

『桜色の可愛い唇。……触れたい』

 声にならない声で蛇たちはささやく。

「……あ……は……」

 声にならない悲鳴が咽喉をふさぐ。柴田が怪訝な顔になる。

「どうしたの……」

 首を傾げて一歩、彼は近付く。るりは喉の奥から細い悲鳴をしぼり出し、きびすを返すと無茶苦茶に走って逃げた。


 どこをどう走ったのか、るりにちゃんとした記憶はない。

 気付くと家に帰っていて、自分の部屋の自分のベッドにもぐりこんで震えていた。

 腕や脚、首筋に這いのぼってくる蛇の感触が、くり返しくり返し思い出された。おぞましくて気が変になりそうだった。

 るりの様子が変なのを、家族はすぐに気付いた。

 代わる代わる様子を見に来て、何があったのかと優しく問う。

 だけどるりは言えなかった。言おうとする度に咽喉が引きつり、黒い蛇の感触が思い出されるのだ。目に涙をためてかぶりを振る以外、るりには何も出来なかった。

 その日から丸一日、るりは何も食べられなかった。水を飲んでも戻すので、かかりつけの内科医に来てもらって点滴をうった。

 脱水のせいもあるのか微熱が出て、ベッドでぐったり横になってもう三日になる。

 すりおろした林檎やゼリーのようなものなら少し食べられるが、食欲は相変わらずない。

 学校から帰ってすぐ、兄が様子を見に来る。

 るりはベッドに横になったまま、心配そうに近付いてくる兄の、整った顔をぼんやり見た。

「具合はどうだ?」

 優しい声で問う兄へ、るりは笑顔を作る。

「アイスクリームか何か、買ってこようか?」

 かぶりを振る。普段なら大好きなアイスクリームも、今は食べたいとは思わなかった。

 兄はため息をつき、一瞬目を伏せた。

「なあ、るり」

 そしてもう一度ため息をつくと、思い切ったようにこう言った。

「お前さ。あの日……ひょっとして、柴田と会ったのか?」

 ひゅっ、と、のどの奥が鳴った。こわばったるりの顔を見た途端、兄の顔は真っ赤になり、こめかみの静脈が怒張した。

「やっぱり。あの日、柴田が来たんじゃないかと思ったんだ。あのクソ変態、ウチのるりに……」

「柴田さんに会ったけど、会っただけだよ」

 兄が途轍もない誤解をしているんじゃないかと怖くなり、るりは慌てて言った。

「会っただけだけど……『幻視』と『幻聴』が……その……」

 それだけで兄に通じた。彼は大きく目を見張った。見る見るうちに血の気が引いてゆく。

「そう、か」

 ポツリとそうつぶやくと、兄は唇をかんだ。

 しばらく遠くを見るような目をして硬直していたが、突然彼はにやっとした。

「るり」

 奇妙にらんらんと目を光らせ、兄はるりの名を呼んだ。

「安心しろ。おにいちゃんがあの変態、やっつけてやるからな」

 今まで見たこともないくらい、邪悪な顔をして兄は笑った。

 

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