2 悪意は蠢く③
立ったまま、ごめんなさいしか言わずに泣いているるりに、結木は途方に暮れているようだった。
少し考えるような目をした後、彼は静かに椅子から立ち上がり、勝手のわからないキッチンスペースに戸惑いながらも、お茶を入れてくれた。
「取りあえずまあ、座ってお茶でも飲んで落ち着きましょう。えっと、神崎さんのゆのみはこれでよかったんでしたよね?」
言いながら彼は、今まで座っていた机の隣の机にゆのみを置いた。
一、二度くらいしか見ていないだろうに、結木はるりのゆのみを覚えていてくれたらしい。白地にうさぎの意匠の、るり愛用のゆのみにお茶が満たされていた。涙を呑んでうなずき、すみませんといってるりは座った。
彼も座ると来客用のゆのみからお茶を飲み、軽く眉を寄せて
「えーと」
と言った後、もう一度立ち上がった。コピー機に近付くと、A4のコピー用紙の反故紙を持ってきた。
「頭を整理してゆきましょう。今日起こった事実とボク自身の体験なんかを、現時点から時系列を遡って書き出してみましょう」
仕事のミーティングでもするように彼は言うと、胸ポケットからシャーペンを出し、コピー用紙の白い面を二分割するように、さっと線を引いた。
左側に『事実』と書き、右側に『個人的体験・感情など』と書いた。
『事実』のところに結木はさらさらと『神崎さんが泣いている』と書いた。改めて見ると、彼の字はかなり端正だった。
「あ、これでは不十分ですね」
つぶやき、『泣きながら結木に謝る』と書き足した。そして『個人的体験……』の部分に
『神崎さんに泣きながら謝る理由を問うが、神崎さんは理由を述べない。言わないのか言えないのかは不明。印象として、込み入った事情があるのではないかと推察』
と書いた。
「コレで概ね、正しいですよね?」
「……はあ」
ごく真面目に結木が問うのでるりはうなずいたが、妙な気分になってきた。なんだか、薬剤の散布手順の確認でもしているようだ。
毒気が抜けるとでもいうのか、絶望的に高ぶった感情がクールダウンしてゆく。
ふんふん、と結木はうなずき、この辺は記憶が曖昧なんですけど……とつぶやきつつ、『事実』のところに『文書作成中に結木居眠り』と書いた。
次に『個人的体験……』の部分に
『居眠り中にとんでもない悪夢を見てうなされ、息がつまる。死にそうに苦しかった。夢の中で神崎さんの声を聞いた気がするので、どうやら神崎さんに起こされたらしい』
と書いた。
「ま、その悪夢の内容については後回しにして……」
彼は言いつつ、『事実』『個人的体験・感情など』の欄を、時にぶつぶつつぶやきながら、さくさく埋めてゆく。
『事実』
※管理事務所で大野所長とミーティング。
※公園西側の松への処置終了。後片付け。
※昼食。食堂で日替わり定食。
※作業開始。
※松の処置をする為の準備。
※中央広場の松の下で、結木うたた寝のつもりが大爆睡。神崎さんに起こされる。
『個人的体験・感情など』
※昨日ほどではないが、やはり疲れた。
※こちら側の松は現在、健康状態は良好。樹液の分泌にも問題はなさそうで安心する。
※こちらの食堂はリーズナブルで美味しい。小鉢の白和えが絶品。驚く。
※若い松が多く、場所も限られているので作業がはかどる。
※昨日の続きなので準備に手間取ることはなかった。失態のリカバーが出来そうでホッとする。
※仕事を始める時間まで眠りこけていて、大変恥かしく、申し訳なく思った。
「こんなところかと思います。補足とか事実誤認とか、ナンかあったらどうぞ」
書き出したものをるりに渡し、結木は大真面目に言う。勢いに流されるままコピー用紙を受け取り、メモ書きとも思えない端正な文字の羅列を、るりはざっと確認した。
「別に……特に何か、間違えがあるとかは……」
もぞもぞとるりは答えた。
何故ここに日替わり定食の小鉢に対する言及まであるのかとは思ったが(確かに食堂の白和えは美味しいけど)、それこそ『時系列に沿って』真面目に書いたのだろう、とるりは解釈することにした。
涙はすっかり乾いていた。
では、と、結木はるりの目を覗き込んだ。
「お差支えなければ、神崎さんサイドの情報、教えていただけますか?」
るりは息を呑む。
言わない訳にはいかない、それはわかっているが何からどう話せばいいのか、やはりわからない。
困惑しているるりの様子を見て取り、結木が口を開いた。
「えっと、じゃあ。こっちからちょっと質問させていただきますけど、よろしいですか?」
どうしても嫌やったらお答えにならんでもかまいませんし、という結木へ、るりはうなずく。
「神崎さんはさっきまで泣いてらっしゃった。それだけやなく、どういう訳かしきりにボクへ、ごめんなさいと謝ってらっしゃった。そうしなくてはならん、あるいはそうせざるを得ん、何らかの事情とか理由が神崎さんにはある、と。そう解釈して、よろしいでしょうか?」
「ええ……はい」
るりがうなだれると結木は、うなずきつつ例のコピー用紙の一枚を取り上げた。
「ここに書き出した時系列でいうのなら。しょっぱなの『神崎さんは泣いている』云々の辺りがそうですが。この直前の出来事は、僕が居眠りして途轍もない悪夢にうなされたとか、その辺ですよね?普通に考えたら神崎さんの謝罪の言葉は、それに……どういう理屈かはわかりませんけど、神崎さんが関与している、と……あ、いえ、おかしなこと言うてるんは重々、承知してます。でも、流れ的にそういうことなんかなー、と……」
半笑いのような微妙な表情でそう言う結木へ、るりはため息をついて諾う。
「ええ。そう……です。結木さんのおっしゃっている内容で、ほぼ間違いありません」
自分で言ったものの、結木は一瞬、変な顔をした。そんな馬鹿げたことがあるのかと言いたそうな目をしたが、ふっ、と彼は真顔になった。
「なるほど」
つぶやき、彼は椅子の背もたれに軽く身を預けた。
背もたれのきしむ音が、静かな事務所内に不穏に響く。
「なるほど、ソッチ系ですか」
ぼそっとつぶやくと、結木は軽く目をすがめた。
青白い炎がめらりと、彼の全身から燃え立つ幻視が刹那、閃いた。
「まだまだわからんことばっかりですけど」
おそろしく静かな声で結木は言う。
「つまり。神崎さんと関りのある、この世ならざるお方が……現時点ではどういう類いのお方かは不明ですけど、関与してはる、と。で、神崎さんはそのお方に暗躍されて非常に迷惑してはる、と。そういう認識で、間違ってませんよね?」
結木の理解の早さに戸惑いつつも、るりは諾う。
「結論から言うのなら」
そこで彼は一瞬躊躇したが、小さなため息をひとつ落とし、続けた。
「ナンデそうなるんかはわかりませんが。その、この世ならざるお方はボクへ、殺意を持っている、と。神崎さんの悲壮感に満ちた雰囲気から考えて、おそらくそのこの世ならざるお方は今まで、何人もの人間を奈落へ叩き込んできた実績をお持ちである……と。そういうことでしょうか?」
るりは大きく息をついた。
理解してもらえる筈のない事情をここまできちんと他人に理解されるなど、想像したことすらなかった。
想定外すぎる事実に、あえて言うなら恐怖に似た思いに慄きつつ、るりはうなずいた。
「ええ。結木さんのおっしゃっている内容で、ほぼ間違いないです」