煙草が吸うもの
夕食の時間になって客の少なくなった喫茶店で、アキとアイカはテーブル越しにのんびり話をしていた。二人は同じ大学に通ううちに意気投合し、週末に二人で集まるのが習慣になっている。
最近の世間の話題や学校の話、恋愛の話、など。どうでもいいことを思いつくままぺちゃくちゃとおしゃべりを続けた。やがて話が終わると、アキはトートバックから文庫本を取り出して読み始め、アイカは携帯を弄り出す。店内はさらに静かになり、ページをめくる音と携帯のボタンを押す音と、ゆったりとしたテンポで演奏されるジャズのBGMだけが鳴り響いた。
しばらくして、おもむろにアイカが煙草をバッグから取り出した。
「タバコ、吸っていい?」
「え、うん。いいよ」
アイカはタバコを口に咥え、緑色の百円ライターで火をつけた。タバコの先端がぼうっと赤く燃え上がり、店内にアイカが吐き出した煙が舞い上がっていく。アキはそんな様子をただぼんやりと眺めながら、
「なんで、人って煙草を吸うのかな?」
「はあ? 唐突に何言ってんの」
「いや、でも、煙草って体にとって悪いわけで、一説によると大麻より毒だって聞いたことがあるし……」
「そんなのあたしにだってわかんないよ。ただ気がついたら吸っていた。それだけよ。それとも、なに? やっぱり迷惑だった!」
「ごめん、そんなこと言ってないよ。アッカが吸いたいならそれでいいから。それに煙草を吸おうが吸うまいが、人っていつか死ぬんだし……」
「……アンタも結構えげつない事をさらっと言うね。っていうかアッカっていう呼び方止めてくんない」
「どうして? いいじゃん」
アイカはおもむろにペンと紙を取り出し、二文字の漢字をさらさらと書いて見せた。
「アッカだと悪化みたいじゃない。だからよしてよ」
「えー、そんな風に考えるの? だってアッカだよ。外国の人の呼び方みたいでカッコいいじゃん!」
アキは自分がとっても良い事を人にして上げた、といわんばかりに鼻息を荒くした。
「……アンタは良い奴だけど、そのセンスはわかんない」
口に咥えたタバコの燃えカスがボロリと崩れてテーブルに落ちた。
「あ、そういえば。アッカは知ってる?」
「何を?」
もうどうにでもしてくれ。その代わり、他のやつが言ったらぶん殴る。アイカはそう心に決めた。
「人の命を奪うタバコの話」
「何それ?」
「んー、この前学校で聞いた話なんだけど、どうも吸った人は抜け殻のようになって死んじゃう煙草がこの付近に出回っているらしい、って話」
「物騒な話だねぇ。でも、ニュースでそんな話、出てたっけ?」
「出てない」
アキは即答した。
「……で、実際にアキはその、人をなんたらっていう……」
「人の命を奪う煙草」
「その命を奪うっていう煙草を実際に見たことがあるの?」
「ない」
アイカは頭に痛みを感じて抱えた。もしかしたらさっき吸ったタバコのせいかもしれない。
「アキ」
「何?」
「そろそろ店、出ようか?」
地下鉄でアキと別れた後、アイカは近所のスーパーに寄ってから帰路に着いた。ポストの中を覗き何もないことを確認する。階段を上って三階の自分の部屋まで辿り着く。バックから鍵を取り出しドアを開ける。締め切られた部屋の中から熱気がアイカの頬を通り抜ける。ああ、もうっ。熱い!
玄関の明かりをつけてサンダルを脱ぎ捨てる。どすどすと勢いよく中に入りエアコンのスイッチを入れる。窓を開けて電気代を節約したいが、網戸が破れているため我慢する。それからデジタル・オーディオの電源を入れて音楽を掛ける。部屋の中にロック・ミュージックが流れる。
さて、何をしようか?
時刻は8時……
少し考えた後、アイカは風呂に入ることに決めた。服を脱ぎ、シャワーを浴びる。体中に付いた汗を洗い落としバスルームを出る。鏡の前に立ち体のチェックをしてからパジャマに着替える。それからスーパーで買った惣菜を元に夕食の支度に取り掛かった。
夕食を取りながらアイカは、アキの言っていたことを思い出す。ええと……人の命を吸うタバコ、だっけ?
食器や、惣菜に使われていたプラスチックの容器を片付けた後、アイカはノートパソコンの電源を入れた。電子音が鳴り、画面にデフォルトの殺風景な模様が映し出される。マウスのカーソルをインターネットを開くためのアイコンに合わせクリックする。しばらくして情報検索サイトに繋がった。
さて。
アイカは検索欄にとりあえず「人の命を吸う煙草」と入力してみた。画面が変わり検索結果が表示される。たくさんのサイトが載っているが、煙草とか吸うとか単語のみでヒットされており「人の命を吸う煙草」という繋がった言葉で掲載されているサイトは無かった。
どういうことだろう?
いいかげん疲れてきた。時計の針は11時を回っている。
アイカは明日、大学でアキに聞くことに決めてパソコンの電源を切った。
二人の通う大学は市の中心から西側、最寄の駅から坂を少し上がったところにある。ヒノキやサクラが街路樹として植えられており、上空から見ると森に囲まれているような印象を与える。また春先にはサクラの花が綺麗に咲くことで市の名物にもなっている。
その校舎の一角にある食堂で、
「アキ、ちょっといい」
「どうしたの? アッカ」
「……昨日話してくれたことなんだけど……」
「昨日……って?」
「ほら、あれだよ。タバコの話」
「え? ああ、その話。なんで急にまた……」
こう切り返されてみると馬鹿な話をしているようで恥ずかしい気持ちになってくるが、アイカは気を取り直して話を続けた。
「いや、駅でアンタと別れた後から気になって……ね。一応調べてみたんだ」
「何で?」
アキは頼んだタマゴのサンドイッチを頬張る。
「そりゃネットに決まってんじゃん! そんな超ローカルな話が新聞にでも載っていると思ってるわけ?」
「あはは、ごめん。それで見つかったの?」
「それが、どこにも載ってなかったんだ。見ているうちにくだらないサイトばかり出てきてさ、これ以上調べるのも嫌になって止めた。で、こうしてアンタに聞こうと思ったわけ」
アイカは頼んだハンバーガーに齧り付く。みるみるうちにハンバーガーは形を無くし、彼女の胃の中に収められていった。
「アッカ……」
「ん?」
「もう少しゆっくり食べたほうが……いいんじゃない? それに……一応、女の子なんだし……」
おおきなお世話だ。
「それで、アッカはその話のどんなことを聞きたいの?」
アイカはその問いにすぐに返答せず、コーヒーをゆっくり飲んで調子を整え、それから紙ナプキンで口を丁寧に拭った。拭ってやった。
「その話を聞いたときの詳しい状況」
「ええと、先週の金曜日の講義が終わって同じ科の子達と話をしていたの。ちょうど私がこうしてアッカと話すようにね。あの時は講義や就職の話をしていたんだけど、辛気臭いから別の話をしようって一人の子があの話を切り出したの」
辛気臭いって大学を何だと思っているのだろう? 人のこと言えないけど……
「そうしたら他の子も、『それ知ってる』って同調して話が盛り上がっていったの。あとはアッカに言った通りのことだよ。人が死んじゃうとか死神が作ったんたよとか、そんな程度の話で終わったんだ」
「ふーん。でさ、その話が何時から出回り出したのかは知ってるの?」
「ごめん、知らない」
「謝らなくてもいいよ。こっちだって興味本位でやってることだから……」
でも、どうしてそんな話が出始めたんだろう? でも、まあいいか。そういう話が1つや2つあっても……少し物騒だけど。
アイカはこの話を頭の隅の、本当の隅っこの方へと追いやった。
アイカがタバコの話を記憶の彼方に放り投げた日から2日経った週末。ふたりは市が管理している植物園にいた。アイカは植物に興味なんて全く無く、どうして金を払ってまでそんなとこに行くのか理解出来ないと、行くのを渋っていた。が、アキに「どうしてもこの時期に見たい花があるから……」などと、珍しいものを前に目を輝かせて見つめる子供みたいにせがまれて渋々承諾するはめになった。
園内には見たことも無い形をした植物たちがスタッフの手により、より美しく見えるように飾られ配置されていた。
二人はルートを回り、というよりもアキがひたすらアイカを引っ張り回す格好で植物たちを眺めていった。
「きれいだったねえ。来て良かったでしょう?」
「え、ああ、うん。そうだね……」
すっかり疲れ果てて気の無い返事をするアイカを尻目に、
「特にあの庭園で見れたコダチダリアの淡い色合いが……」
げ……これはマズイ。
「あ、ごめん。タバコを切らしたから、ちょっと買ってくる」
「話、切らないでよ。もう」
「悪い。悪い」
アイカはそそくさとその場を離れて自販機を探した。けれどもそれらしきものは見当たらない。その代わりショーウィンドウに煙草の箱が並べられてある小さな雑貨店を見つけたのでそこに入った。
店内は狭くて人が一人通れるかどうかのスペースしかなく、雑貨店といっても煙草しか売っていなかった。おそらく個人が趣味でやっている店なのだろう。
アイカは店主を呼んだ。それから棚に並べられている煙草の箱を眺める。レジに並べられている銘柄は国内大手のものに対して、こちらにあるのはどれも外国製で見たことの無いものばかりだった。箱に書かれている文字は様々だったが何一つ理解できなかった。
こんなにあるんだ、と感心しながら目を移していくと奥の方に小さな張り紙があることに気付いた。なになに。
「人の命を吸う煙草あります」
は?
アイカは体をつんのめらせてもう一度張り紙を見た。
「人の命を吸う煙草あります」
やはりそう読めた。頭の隅に放り投げたものが戻ってくる。
アイカは落ち着かない気持ちを無理やり落ち着かせて店主を待った。
やがてざっざ、というサンダルを引きずる音とともにやって来たのは、根性が服を着て歩いているという表現が似合う人相のばーさんだった。
「はい、いらっしゃい。こんな辺鄙な店へようこそ」
なんだ、このばーさん?
アイカは訝しげながらもとりあえず言葉を正すことにした。
「あの、ここに貼ってある張り紙のことなんですが……」
「ええ? なんですか。よく聞こえなかったのですが……」
ばーさんは顔を近づける素振りを見せた。聞こえない振りをしているのがはっきりわかった。思いっきりからかわれている。
「こ こ に は っ て あ る は り が み の こ と !」
アイカはばーさんの耳元に口を持って行き大声で叫んでやった。
「すまないね。怒らせるつもりは無かったんだけれど、あんたを見たらちょっとからかいたくなったもんだからね。許しておくれよ」
あたしはそんな風に見えるのか。
アイカはうっちゃって店から出て行きたい衝動に駆られたが、我慢した。
「それで、このタバコはあるんですか?」
「それは買いたいってことかい?」
「そうです」
「それなら、あんたの好きな物を選ぶといいよ」
「?」アイカはまるで意味が分からず首を傾げた。「どういうことですか?」
「文字通りさ。あんたの好きな煙草が、命を吸うたばこなのさ」
「は?」
「要するに、人の命を奪う煙草なんて無いのさ」
「だったら、なんで?」
「煙草は人の命を吸うようなもんだろう? だから面白半分にそこに小さく書いてやったのさ。もしかしたら興味を持つ子が出てきて少しは売り上げが伸びるかもしれないと思ってさ。ちょうどあんたのように」
ばーさんはころころと笑った。太陽が雲に隠れて薄暗い店内が一層暗くなった。
「それで、あんたの欲しいのはどれだい?」
「その前に、いいですか?」
「なんだい、急に改まって」
「何故、あなたはタバコをそういう物だと思うようになったのですか?」
「おやおや、そんなことを聞いてくるとはね。考えなしかと思ってたけどそうでもなかったんだねえ」
ばーさんは目を閉じ、慎重に言葉を選びながら話を続ける。
「煙草はあれだけ体に悪いと知られているのに、すがりつくように吸う人を見てると人を楽に死に近づけさせてくれる物だと思ったのさ。これだけ生きにくくなった世の中で生きるために苦悩している人達を見かねて、そういうものを神様が与えてくれた気がしたのさ。時には生きなくてもいいよ、というメッセージのようなものを与えてくれる物を、ね」
言いたいことは言い切ったとばかりにばーさんは大きく息を吐いた。そしてゆっくりとレジに向かった。
「こんな話につき合わせて済まないね。それであんたは何が欲しいんだい?」
「え、ええと……」
アイカはばーさんの気迫に気圧されながら慌てて銘柄を告げた。財布からお金を取り出してばーさんに渡し、煙草を受け取る。それから礼を言って店を後にした。
「ちょっと! 遅いよ」
ベンチで腰掛けていたアキは不満の声を上げた。待たされたことよりも話を遮られたことに根を持っているのかも知れない。
「ああ、ごめん。色々あってさ……」
「で、煙草は買えたの?」
「ああ、おかげさまで」
アイカは満足気に煙草の箱を取り出し、振って見せた。
「吸うけど、いい?」
「やだ、って言っても吸うでしょ」
「まあね」
早速アイカは煙草を取り出して口に咥え、ライターで火をつける。煙を吸い込み、吐き出す。だが、当たり前のように行ってきたその一連の動作に、今までとは異なる奇妙で落ち着かない感覚が入り混じっていることに気付いた。
「アキ」
「何?」
「アキはさあ、タバコがもし人の命を吸うものだとしたらどう思う?」
「あれ、またその話? アッカはもういいって言ってなかったっけ……」
シャツの裾を撫でながら、アキは首を傾げる。
「……いや、人の命を吸うタバコの話はいいんだ。もし、もしもだよ。あたしの吸ってるタバコも含めて、煙草は人の命を吸うものだとしたらアキはどう思う」
「煙草は人の命を吸うものだったら……か。ややこしいけど、そうだねえ……」
アキは言葉を切り、アイカの吸っている煙草をぼんやりと眺める。
「ねえアッカ」
「ん?」
「アッカはどうしてそう思ったの?」
こういうやつだから憎めないんだ。アイカは買いに行った店で張り紙があったこと、ばーさんとのやり取りを話した。(そして煙草を吸う事を通して自分の生き方に不安を持っていることを)
「そういうことだったら、私がいえる事はないよ。ただアッカが好きなら吸えばいいんじゃない。煙草がそういうものだとしても。前も言ったと思うけど人ってどうであれいつか死ぬんだから、やっぱり自分のやりたいようにするべきだよ」
「……ああ、そうだね」
アキの言葉が生み出す余韻に浸りながらアイカは逡巡する。生きにくさ……か。やめよう、考え出したらきりが無い。わたしには到底手に負えなさそうな話だ。そういえば今日一日、死にたいと思うほど生きたのかな。アイカは空に向かって煙をゆっくりと吐き出した。