第3話
春風祭の翌日は求婚の手紙の嵐だった。お父様にディナール家から手紙があった場合だけ保留してくださるようにお願いし、他はすべて断ってもらった。結果から言えばディナール家からは求婚のお手紙はなかったのだけれど。
代わりにディナール夫人…マーシャ様からお茶会の手紙が届いた。勿論参加する。淡いピンクの少女らしい衣装を身に纏い、綺麗に化粧を施して、茶会に参加した。
マーシャ様は栗色の髪に蜂蜜色の瞳をした可愛らしいご夫人だった。
「ふふっ。アルベルトとアシュリーが素敵な令嬢だったと言っていたから、一度クリスティーナ様にお会いしたかったのよ。」
「勿体ないお言葉です。」
「アルベルトはともかく、アシュリーが興味を示したご令嬢はあなたが初めてだもの。」
「アルベルト様は気が多くていらっしゃる?」
「通常の範囲内だと思うわ。素敵な子のことはちゃんと素敵っていうけれど、すぐに付き合ったり、お手つきしたり、みたいなのはないわね。」
ハロルド様タイプか?と一瞬疑ったが普通の範囲内らしい。どこからともなくバイオリンの音色が聞こえてきた。これは…『虹』!私があの日、虹をイメージした曲と同じ旋律。
「こ、この曲はどなたが!?」
「ああ、アルベルトよ。」
マーシャ様が答える。やっぱりアルベルト様がサミュエル様なのかな…でもこの曲改めて聞くと、昔と随分印象が違う。昔聞いたときは「雨上がりの薔薇に妖精たちが踊っているような」って思ったけど、今聞くと「春風に揺れるタンポポ」って感じだ。綺麗ではあるけれど…
やがて曲が止み、アルベルト様が顔を見せた。
「やあ。綺麗どころが揃っていますね。」
気さくにみんなに話しかけている。ご夫人やご令嬢たちと冗談を交えながら話すアルベルト様はやはり、何となくサミュエル様と重ならない。サミュエル様はあんまり、ご婦人方が賑やかにしている場は好まれないのだ。私がいるときは、仕方なくその場に留まるけど、私の隣にぴったり張り付いて手持ち無沙汰に私の手などを弄っている方だ。私がいないときなど、実に堂々とボイコットして一人でバイオリンなどを奏でている方が好きな方なのだ。
「ねえ、クリスティーナ嬢。可愛い人。ティナって呼んでもいいかな?」
アルベルト様が甘やかに私に問いかけた。
「ティナって呼んでもいい?」…過去のサミュエル様のお言葉が、脳内にリフレインされる。
「今は、まだ、駄目です…」
「『今は』って?」
「私は運命の殿方にしかそう呼んでもらいたくないのです…アルベルト様が、その殿方かどうかわからないから…今は駄目です。」
運命の人でなかったら永遠にダメだけど。でも、さっき『虹』を弾いてらした。アルベルト様はサミュエル様なの?
「君の運命の殿方だったら嬉しいな。僕の運命の人は君だと思うから。目を閉じると君とつながる赤い糸が見えそうなんだ。」
アルベルト様が無邪気に微笑んだ。ロマンチックに私を求めてくれるのは嬉しいけど…本当にアルベルト様がサミュエル様なのだろうか。さっきの曲は『虹』には違いなかったけど、サミュエル様が弾いたにしては…イメージが違うのもだけど…なんていうかあんまりお上手でなかったように思うのだ。サミュエル様な音ってこんなだったっけ?私が思い出を美化しているだけなのだろうか?
「アルベルト様。先ほどの曲、何をイメージして演奏されてたのですか?」
「そうだなあ…春の暖かな日差しかな。春風の乙女みたいなね。」
軽く冗談を言って笑った。私の中でアルベルト様=サミュエル様の構図がなくなった瞬間だった。
もしサミュエル様が「今もティナを探している」なら。絶対「雨上がりの何となくウキウキした気分」か「雨上がりの薔薇に妖精が踊る」と表現してくださるはずだからである。
もしアルベルト様がサミュエル様で、同じ曲に全く別の感情をこめてるのだとしたら、「今はティナを探していないサミュエル様」であって「私の欲しているサミュエル様」とは別の存在だ。怖いくらい情熱的に私を欲してくれたサミュエル様を知った今となっては、「ティナに無関心なサミュエル様」を受け入れられそうにないのだ。
「……先ほどの曲は、どなたが作曲されたものですか?」
「勿論僕だよ。」
アルベルト様が微笑んだ。本当に「今はティナを探していないサミュエル様」だったのだろうか。悲しくて目眩がする。
「大丈夫?クリスティーナ様、お顔が真っ青でしてよ?」
他の令嬢に指摘されてしまった。
「ア、アハハ…ちょっと気分が優れなくて。お、お庭拝見させてもらってもいいですか?」
「ええ。どうぞ。」
マーシャ様が微妙なお顔をしつつ退席を許してくれた。ハンカチで涙を拭いながら庭の方にフラフラと歩いて行った。
「ラララ~」と歌声が響いてきた。歌詞などついていない旋律だけの歌声。多分歌唱など学ばれていないのだろう。声の出し方はあまり上手くない。でもその旋律は…私が前世で描いた、照れくさそうな微笑を浮かべた10歳の頃のサミュエル様のお姿を彷彿とさせるような、どことなく朴訥なイメージの曲で、素敵だと思った。お声自体は多分10歳どころか私と同い年か、もっと上の男性のものだと思うけど。私が自分を元気づけようと、いつも眺めていたお姿を思い出させる旋律に夢中になった。もっと近くで聞きたくてそっと近づくと、気付かれてしまった。
「誰?」
「す、すみません、お邪魔してしまって…」
歌声の主はアシュリー様だった。庭にあった白い木蓮の木の根元に座って歌っていたらしい。アシュリー様の左の頬から顎にかけて焼け爛れた跡がある。
「クリスティーナ嬢か…」
アシュリー様は皮肉気に笑った。
「醜くてびっくりした?」
「酷い火傷の跡だとは思いますけど…醜いだなんて…綺麗なお顔立ちをされてます。特に蜂蜜色の瞳が素敵で。」
「僕は兄さんみたいな灰色の瞳に生まれたかったよ。」
「好みはそれぞれだと思いますけれど…」
どうしよう、本当にお邪魔してしまって…立ち去った方が良いのだろうか。でもそれもまるで「アシュリー様を怖がって逃げた」みたいな印象が残ったら嫌だし…
「座る?」
アシュリー様が隣にハンカチを敷いてくれた。遠慮なくお邪魔した。
「さっきの曲、素敵でしたね。」
「うーん、どうだろ。僕、歌唱は学んだことがないから。聞き苦しい感じだったんじゃない?」
「お歌が上手ではないと思いますけれど、旋律が…すごく元気が出る気がして。」
「うん。僕も元気になりたいときはあの曲を歌ってる。」
「なんという曲なんですか?」
「別にタイトルはないけど、付けるとしたら…『肖像画』かな?」
どきっとした。
「どなたの…?」
「笑わない?」
こくりと頷く。
「僕の。」
凄くドキドキした。まるで「私が描いたサミュエル様を彷彿とさせる」と思っていた曲をご自分の『肖像画』だと仰られて…でも普通こういうときって『自画像』って言わないかな?
「『自画像』ではないのですか?」
「僕が描いたわけじゃないからね。」
じゃあ、誰が描いたんだ?って言うと、それはもしかしてシスティーナかもしれないと思ってしまってドキドキする。
「望んだ瞳の色も、長男というポジションも、怪我のない身体も、父の愛情も、創造したものすらも、僕は全て兄に取られた人間だと人は言うけど、決して盗まれないものがあるのさ。」
「なんですか?」
「記憶。愛しんだその全てを、決して兄は奪えない。『肖像画』もその一つ。もしこのメロディを盗むことができても、その曲が描き出す像までは盗めない。」
もしかして、もしかして、アシュリー様はサミュエル様なのですか…?そう聞いてみたい。でも「サミュエルって誰?」って言われたらつらい。踏ん切りがつかずにおろおろしてしまう。
「クリスティーナ嬢は泣いていたの?お化粧が随分落ちてるよ。」
「す、すいません…みっともない顔で。」
「みっともなくはないけど…顔、洗ってしまう?」
「そうですね…」
「こっちに井戸があるよ。」
井戸に案内してもらって化粧を全部落としてしまう。アシュリー様が侍女を呼んでクレンジング材と石鹸を融通してくださった。流石にお化粧品までは融通できなかったようだが。
つるんつるんのすっぴんになってしまった。素顔もクリスティーナは主人公だけあって見れなくはないからいいんだけどね。
アシュリー様はまじまじと私の顔を見ている。
「な、なんですか…?」
「随分昔のことだけど…綺麗にお化粧していた女の子をぼろぼろに泣かしてしまったことがあって…その時はすごくきれいにお化粧を直してきていたようなんだけど、あれはどうやったんだろうって思って。」
システィーナ時代の春風祭の事かも…と疑ってしまう。アシュリー様をサミュエル様だと疑ってしまうのは全てが私の妄想で、都合のいい思い込みなのかもしれないけれど。何の根拠も証拠もないのだから。
「やはり洗って一度落としてからお化粧を付け直したのではないでしょうか。」
「そうなのかな?」
「そのアシュリー様が泣かしてしまった女の子は、アシュリー様にとってどんな方でしたか?」
「愛しすぎてほんの少し憎かったよ。」
昔を思い起こすアシュリー様の瞳にほんのりとした狂気の影が映るのを見てたまらなくなった。
「アシュリー様は、サ…」
「クリスティーナ嬢!」
笑顔のアルベルト様に呼び掛けられた。今まさに「アシュリー様は、サミュエル様なのですか?」という私にとって非常に重大かつ運命的な質問をしようと思ってたところだったのに。恨みがましい目でアルベルト様を見つめてしまう。
「…………なんですか。アルベルト様。」
「もうお茶会が閉会になるから呼びに来たのだけど?どうしたの?何か嫌なことあった?アシュリーになんかされた?」
「アシュリー様に悪いところなど何一つございません。」
「そう?お化粧を落としたんだね。君は素顔も可愛いな。まるで暖かな春の日差しのようだよ。」
サミュエル様が私を春の日差しに例えられたことは一度もない。「柔らかな月の光のよう」と例えられたことがあった気がしたけど。今は銀髪ではないから関係ないのかな。
アルベルト様の一言一言にサミュエル様との違いを感じてしまう。この方はやはりサミュエル様ではないのだろうか。
「ねえ、今度一緒に出掛けない?アルヌール美術館なんて素敵だよ。今は有名な宝飾品の展示をしているよ。ナルーシャ王妃のティアラなんて、うっとりするほど素敵だそうだよ。」
「そうですね、機会があればそのうち…」
アルベルト様の言動を素敵に感じなかったため、あまり色よい返事はできなかった。アルベルト様はちょっと残念そうな顔をした。
「マーシャ夫人にご挨拶して参ります。アシュリー様、御機嫌よう。色々有難うございました。」
「うん。またね。今度観劇などに誘ってもいいかな?中々興味深い劇をやるらしいんだ。」
「はい。お誘いをお待ちしています。」
にっこり微笑んだ。
私とアシュリー様が妙に親密そうなので、アルベルト様は大変不満そうだ。アシュリー様がサミュエル様なのではないかと疑っているけど、アルベルト様が「ティナを求めていないサミュエル様」である、可能性もあるんだよね。なんたって『虹』を作曲されたって仰ってたし。でも…
もし、アルベルト様が「ティナを求めていないサミュエル様」なら、私もまた「サミュエル様を求めるティナ」である必要がなくなってしまうということだよね。たった一度の転生如きで記憶を持ちながら、すぐにティナを求めることを止めてしまうサミュエル様なら、こちらから願い下げである。私は愛することはするけど、自分も愛されたい、欲張りな乙女なのである。
「本日は折角お招きいただいたのに、すいません、勝手に退席してしまって。」
ホストであるマーシャ夫人に謝った。
「いえ、いいのよ。あの時、本当にクリスティーナ様はお顔が真っ青でしたから…今は幾分元気なお顔をされているので安心しました。」
マーシャ夫人は喜ばしそうに微笑んだ。
「有難うございます。庭でアシュリー様に少し元気づけていただけて…」
「まあ。アシュリーは気難しがり屋な子だけど嫌な思いはしなかった?」
「そんなに気難しい感じはしませんでしたけれど。」
寧ろ優しい感じがしたと思う。
「ちょっと恐ろしげな肌になってしまったから、今はもう婚約の話なんて舞いこまないけれど、昔はあの子も綺麗だし、それなりに婚約者候補がいたのよ。でもアシュリーはやれ歌を歌わせてみたり、絵画を描かせてみたりして気に入らないとすぐに興味を失って婚約を断ってしまうのよ。次男だから家を出なくてはならないとわかっているはずなのに。もしどこの家も継げなかったら作曲家にでもなるよ、なんて言って。もうあの子は楽器にも触れられないのに…」
「昔は楽器を演奏されていたのですか?」
そういえば左腕を痛めて絵筆が握れないだの楽器に触れられないだのと噂があったな。
「ええ。12になる頃まではバイオリンの神童とまで呼ばれて、10歳から12歳で腕を悪くするまでの3年間はハントリー音楽祭で毎回大賞をとっていたのよ。」
アシュリー様=サミュエル様の構図に少し強調線を引かれた気分だ。サミュエル様はまさに音楽の神に愛された方だったから。それに私がハントリー音楽祭に聴き行くようになったのは13になってからだから、タイミング的にもちょうどすれ違っている。もしアシュリー様が今もバイオリンを弾けるお身体だったら、1曲弾いてもらえれば確信が持てたと思うのに。
「アシュリー様は決して音楽から離れられない方だと思います。いえ音楽から離してはいけない方だと思います。」
片手で演奏できる楽器があればよかったのに。
「もし、アシュリー様が曲を作ってくださるなら私は歌ってみたいです。」
「有難う。」
マーシャ夫人は嬉しそうに微笑んだ。