勇者の継承者
……迂闊った! 後悔するまでさらに一拍空くほど、油断していた。
短剣から直接浄化の力が流れ込む。清浄なる光に内側から灼かれ、発狂するほどの苦痛が脳天まで駆け抜けた。
苦し紛れに腕を振るう。魔力を乗せた一撃。レティは短剣から手を放すと、身を沈めて攻撃を躱す。流れるようにスカートの下に隠したナイフを引き抜く。
明らかに素人の動きじゃなかった。そうか、姫さんお付きのメイドだから、護衛としての訓練も―――。
「言われたとおり、勇者を連れて参りました」
ネルフィリアの声がした。ドチクショウと返す余裕はなかった。首筋を狙うナイフを間一髪で避け、大きく後ろに跳ぶ。腹に刺さった短剣を引き抜きながら着地する。ドボ、と血が溢れた。魔族の身体は頑丈だ。刃が内臓に達していても、体内を黒焦げにされても、まだ動ける。
「じ、人族のために、王国のために、姫様のために!」
震える声で叫んだレティが、弾丸のように駆ける。ナイフを突き出す。切っ先が俺の心臓を狙う。
短剣で受け止める。踏ん張りが利かない。バランスを崩して勢いを殺せず、体当たりされる。
首を捕まれた。足を払われる。後頭部から床に叩き付けられる。レティが俺の上に馬乗りになり、大きくナイフを振りかぶる。
「覚悟!」
ちかちかと明滅する視界で、ナイフの切っ先が右眼球へと振り下ろされる瞬間を、確かに俺は見た。
「ああ、それはダメだ」
ずぐり、と。瞳が疼く。レティの動きが止まる。全身が硬直したように固まってしまう。
「あ……か……?」
彼女はは困惑しつつも力を込めるが、ナイフは眼球に触れる寸前で震えるだけで、わずか一ミリ未満の距離を進むことができなかった。
そりゃそうだ。あいつの魔眼に縛られたら、ひよっこ勇者なんて身じろぎもできまい。
「俺の目は以前、両方潰れてね。前魔王の邪眼を移植してある。まあ、俺じゃぁこの邪眼は満足に扱えなかったが……オログガンめ、やっぱ霊核をこっちに移してやがったか」
勝手に金色になった目が抗議するように痛む。眼球が潰されそうになって、防衛本能で発動したのだろう。いずれ核だけ摘出してやる。
レティの胸を軽く押す。華奢なメイドはそれだけで床へ倒れた。腹の痛みに顔をしかめながら立ち上がり、喉奥からせり上がってきた血液を吐き捨てる。
「惜しかったな。マジで死ぬかと思ったぜ。見事。御見事だ。俺もまさか、アンタみたいなビビリが勇者継承したとは思わなかった。いつも震えてたのにな」
不意打ちを受けたことへの怒りは、不思議と湧いてこなかった。敵同士なら当たり前だし、それ以上に心から賞賛したかった。
「人族のために、王国のために、姫様のために。ホントは恐いくせに、気勢を張って勇気振り絞ってよ。シビれたぜ。認めてやる。お前こそが勇者だ」
落としていた短剣を拾った。動けないままでいるレティに突きつける。彼女の顔から血の気が引き、瞳孔が恐怖に震えるのが分かった。
「To be or not to be; that is the question.生きるべきか死ぬべきか、それが問題だ、ってな。魔王たる者、勇者が現れた時どうするかは命題だ。あるいは、この世界のために死ぬべきなんじゃねぇか、って考えるときもある。お前なら殺されてもいいと、一瞬だけ思ったぜ。……だが、運が無かったな」
狙いは首。苦しませはすまい。顔を汚しもすまい。
魔王が勇者に情けをかけるわけにはいかないが、せめて安らかに殺してやる。
「……待ちなさい」
背後からネルフィリアの声がする。無視して短剣を振り上げる。腹の傷口が痛むが、努めて表情には出さなかった。
「待ちなさい!」
これは勇者と魔王の戦いだ。外野には関係ない。剣に魔力を乗せる。
「待って―――!」
振り降ろす。
「代わりにわたしを殺しなさい!」