日報2
翌日、出勤すると、すでに木根さんは机に座って書類を見ていた。
昨日、帰り際に見た木根さんの机の上には、結構な書類の山があったけど、今朝はもうほとんど残っていない。
彼の処理能力も半端ないんだなぁと思う。
「おはようございます。今日も宜しくお願いします。」
挨拶は大事、胡散臭くても、私の指導をしてくれてる上司に当たる人だ。
「おはよ。今日も美人さんだね。そんな目をしないで、笑ってほしいね~。」
訂正、朝からチャラすぎる。
「そうそう、今日午後からの巡回コースの前に1か所行くところがあるから、宜しく。」
「わかりました、何処に行くんですか?」
「ん~秘密かな。行ってみてからのお楽しみ。」
はい、こういう人なのは知ってます。
「特に用意するものはありますか?」
「特にはないかなぁ、あるとすれば、心の準備くらいかな?」
「あ、じゃぁ結構ですから。」
「頼もしいなぁ、さすが丹波ちゃん。仕事に対する姿勢が前のめりで、私の好感度が急上昇ですよ。」
そんな好感度いらねぇ。
午前の巡回はつつがなく終わった。いつもより駆け足で、しかし、いつも通り理不尽な順番で、ただ、
いつもより木根さんの軽口が少なく、代わりに怪談話のようなものを織り交ぜながら。
そして、私が大学で「遠野物語」の研究ゼミに居たことがわかると、
話は主にそれらの内容にかかわることに代わっていった。
そして、今私は、地下の黄色に輝く泉の前にいる。
泉の水源から、黄色いライトで照らし出しているかのように、
光り輝く湧き水は、天井のむき出しのコンクリートに光を乱反射させ、
あたりは黄色く照らし出されている。水の湧き出すところはちょっとだけ高い位置にあるのか
そして湧き出した水は池垣のように並べられた石によりこちらに流れ出すことはない。
ススキノのビルの地下にこんな場所があるなんて気が付く人はいないと思う。
部屋の広さはかなり広い、暗すぎて奥まで見通せないのだ。ただ、振り返ると、私たちが下りてきた階段の登り口がうっすら光っている。
階段から泉まで大体10M 位だろうか。
泉自体の広さは全体が見渡せないため不明だ。
そしてここには静謐さと神域特有の神々しさがあった。
「丹波さん、これから君を連れていくところは、神域といってもよい場所だ。」
そんな事をちょっと得意げに木根さんは言っていた。
確かに、神社みたいな改まった心地にさせられる。
「丹波さん、じゃぁ帰ろうか。ここも異常なしだね」
ボー然と立ちすくむ私に、木根さんが声をかけた。
「はい、わかりました、帰りましょう。」
ここは長時間居続ける場所じゃない、長居すると、汚してしまうかもしれない。
不意にそんな恐れにも似た気持ちが沸き上がってくる。
人がいると、汚れてしまう場所、人は汚れをまき散らすから、長居してはいけない。
この気持ちは私の気持ちなんだろうか?
私以外に考えられないが、私の中にこんな考え方があったことに面食らって呆然とする。
「丹波さん、急がないと、お昼食べそびれちゃいますよ。」
木根さんの声にやっと現実に引き戻された私は、慌てて階段を上った。
「ちょっと凄いところでしょう」
階段を上り、地下駐車場に戻ってきた私に木根さんが得意げに声をかける。
「びっくりしました、地下にあんな池があるなんて、オーナーさんの趣味なんですか?」
「まぁそんなところかな。うちで管理しているところだからねぇ。」
「生活環境二課って変なものばかり管理してますよね。」
「そうだね、そういう部署だからねぇ。丹波さんも慣れないとね。
それより、お昼ちょっと、食い込んじゃったけど、午後はいつも通りだから、よろしく。」
「お弁当だから大丈夫ですよ。」
「あ、じゃぁコンビニ寄ってくから先に帰っていてもいいよ。」
「わかりました。ありがとうございました。」
さっきの泉を出てから生活環境二課のある北海道庁までは徒歩30分もかからない。
お昼の時間も十分確保できる。そんな風に自分の気持ちをごまかしながら、私は歩き続けた。
あの泉で考えた、わけのわからない恐れの感情を。
自分の席に着きお弁当を食べ始めたところ、後ろから声をかけられた。
「丹波さん、顔色悪いけど、大丈夫?」
田代さんだ。洗ったお弁当箱を持っている。さすが主婦だ。きちんとしている。
「はぃ、大丈夫です。田代さんも子供さん、大丈夫でした?」
「あぁ、うちの子はこの時期風邪ひくのよ、もうケロッとして学校行ったわ。」
「そうですか、よかったですね。」
「それよりも、初めて行ったんでしょ、黄泉の泉に。」
「黄泉の泉、ぴったりの名前ですね。」
黄泉の泉、語呂は悪いが納得の名前だ。正確には三の泉と呼ばれている。
当然、一と二の泉もあるんだろうな、あまり行きたくはないが。
「悪い場所じゃないんだけど、人には敷居が高いのよね。私も苦手なのよあそこ。」
良かった、仲間がいた。
「田代さんも、行かれたことあるんですね。」
「もちろんよ、ここの人間はみんな行っているわよ。午後からの見回りは色々発見があるかもね。がんばってね」
田代さんはそういうと、私の肩に右手を置いてにっこり笑ってから、自分の席に戻っていった。
あぁいうのを安心できる笑顔っていうんだろうな。隣の空席を見て胡散臭くない笑顔の素敵さを再確認した。
そして、それまでとらわれていた、あの感情がいつの間にか薄らいでいるのに気が付いたのは、しばらくしてからだった。
始業のチャイムが鳴り、隣の席で、コーヒーを飲みながら何かの書類に目を通していた木根さんが、こちらを向いて
「ん、じゃぁ 午後の巡回はじめよっか。」と満身の笑顔で言った。
うん、胡散臭い、いたずらを仕掛けたことを隠し切れない子供のような顔だ。
「わかりました、宜しくお願いします。」
社会人ですから、仕掛けられたいたずらなぞ、笑顔で食い破ってやる!と思ってもおくびにも出さずに、木根さんの後ろをついていく。
まずは、いつもの駐車場の一角、異常なし。
次に向かったのは、4階建てのビルの屋上、ここには小さな赤い鳥居と狐の狛犬、ん~狛狐?がささやかな社を守り置かれている。
特に異常なし。いつも通り人っ子一人いない。
次は3本小路を抜けた先の雑居ビルの2階にある廊下の突き当り、いつも通り何もない。
そして、さらに小路を抜け、路地を道なりに進んだ右手のショーウインドウの前、この店はいつも開いていない。異常なし。
そんな、いつもの巡回コースを確認しながら歩いていく。
次は、バス停、その次は大通りに面したビルの3階の窓を外から確認。異常なし。
「何か異常は見つかりましたか?」木根さんが都度確認してくるのが、ちょっとめんどくさいが、ここまではいつも通り変わらず、
「いいえ、異常なしです」いつもと同じ返答をする。
そして午後の巡回は終わった。
自分の席に戻り、私は今日も日報を作っている。いつもと違うのは、
今日はあの泉に行ったこと。木根さんに聞いたところ、三の泉については、
「異常なしと追記してくれたらいいよ」といつもの口調で言われた。
明日も行くらしい。
定時になったので、そのまま帰宅した。