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9.御玄岳、常世の理、人の業という因

 紫庵の闘志に再び火がついた、ように見えたが、実際は怒りで自身を制御できなくなっただけだった。一気にウミトとの間合いを詰めて次々に蹴りを放ったが、あっさりとかわされた。

 感情に任せた雑な攻撃は大きな隙を生む。

 「生き死にを自分で決められる人間のほうが少ない」

 ウミトは最小限の動きで避けながら、あくまで冷静な口調だった。

 「鬼になるからなどという大層な理由もない。あっさりと殺される奴もいれば、生まれてすぐ死ぬ赤子もいる」

 攻撃を全て躱され、荒い息をつきながら紫庵は距離を取った。

 怒りと屈辱で顔色が変わっていた。吊り上った眼でウミトを睨みつける。

 だがウミトは、紫庵の強い視線を静かに見返した。

 「殺す方も大層な理由があるわけではない。奪うしか生きる術を持たぬ人間もいる……それでも、いい加減生き延びてしまえば、生きる理由が必要になる――いつか死ぬための理由がな」

 突然ウミトの身体が膨れ上がったように見えた。

 紫庵は、押し寄せる圧に思わず防御姿勢を取ったが、ウミトは立ったまま紫庵の隙をつく気もないようだった。

 ――紫庵は眼を見開いた。違和感。

 「……あんた……」

 「そうだ。八陣衆はみんな鬼人だ。理性を失わないぎりほどの禍をその身に練り込まれた、緋羽大社の駒だ」

 ウミトの眼が赤くなっていた。

 紫庵のそれとはわけが違う、邪眼と呼ぶべき凶々しい暗赤色で、それはウミトの顔面に空いた昏い穴のように見えた。

 「封印の儀を最期までつつがなく務める。それがあいつと俺の生きる理由だ。止めたいなら、推して通れ」

 ウミトが無造作に踏み出したと見るや、眼の前にその身体があった。

 先ほどまでの速さの比ではなかった。

 紫庵は、左からの蹴りをかろうじて右に跳びながら肩で受けたが、その質量も先ほどまでの比ではなかった。丸太をち当てられたほどの衝撃に、紫庵の身体は半ば回転しながら宙に浮かぶ。

 防ぐ間もなく、背中にウミトの左足が落ちてきた。

 「がはっ!」

 身を折られたような熱い痛みに視界が一瞬白くなり、地面に叩きつけられて視界が真っ暗になった。

 紫庵は必死に意識をつなぎとめて振り返ったが、眼に入ったのはウミトの足甲だった。首の根元に入った蹴りの鈍い音とは別に、身体の中から嫌な音が聞こえた。


 紫庵は弾き飛ばされた勢いのまま、背の高さほどもある熊笹の茂みに落ちて行った。

 意識を失った人の身体が、急勾配の斜面をざざっと音を立てながら滑る音がして、やがて聞こえなくなった。

 ウミトは蹴りを放ったままの体勢でため息と共に呟いた。

 「死ぬ理由も、か」



     ☆



 国部衆の頭目たちとその家族は、集落の中央に敷かれた幾つものむしろの上にゆったりと座を崩していた。人質とも思えぬほどくつろいでいる。

 彼らを遠巻きに、久世の兵達は槍を構えてはいなかったが、いつでも攻撃に移れるよう右足を引いた姿勢で警戒していた。

 先ほどからの焦燥感は義五郎の中にまだくすぶっていた。国部衆の落ち着きが義五郎を落ち着かなくさせているのだ。時折、老頭目の打つ煙管きせるの音が妙に神経にさわる。


 ふと、義五郎は視線を感じて顔を上げた。

 老頭目が、義五郎が気付いたのを認めて手招きをする。義五郎が久世に入ってからは、彼が義五郎と自ら話そうとするのは初めてだった。

 国部衆を文字通り束ねる苦労は察して余りあるもので、邪推をされないためにも義五郎とは距離を置く必要があったのだ。もともと義五郎は、彼に最も可愛がられていたからだ。

 義五郎は訝しげに眼を細めて近づいた。老頭目は昔のように相好を崩して声をかけた。

 「義五郎よ、そろそろ久世が攻める頃かね?」

 「……私は知りません。今朝の軍議ではそれほど急ではないようでしたが」

 義五郎は用心深くはぐらかした。

 老人はさもありなんと言いたそうににこやかに頷く。

 「よしよし。久世の中で生き抜くには必要なことであろ。だが、物見から緋羽が危地に陥るの報があれば、国部衆はつ。人質が我らに通じないのはお前も知っておるだろう。女子供も十分ないくさ人だ」

 こともなげに言って、老人はうまそうにを吸いつけ、上を向いて煙を吐いた。

 だが、一拍おいて義五郎に向き直った時には、ひどく冷徹な施政者の顔になっていた。

 「……時に、義五郎よ。大名と国部衆の違いは何だと思う?」

 「違い……ですか? 私のようなものには……」

 「まあ、聞け。人間というものは、ひとりでは生きていけん。だから群れる。集団の方が生き易いからだな」

 義五郎は面食らった。まさかこんな時に国を語ろうと?

 老人は義五郎の当惑を気にも止めず、静かだが強い声で続けた。

 「国とは、畢竟ひっきょう、心安く生きる場所を提供するだけのものだ。違うかね? 互いを大事にする仲間を保護することだけだ。であれば国部衆と大名の違いなどない」

 「……ご老人、一体……」

 「では、何が違うのか?」

 老頭目は真剣な眼差しで義五郎を見た。

 「先頭に立つか、殿しんがりを務めるかの違いよ。義五郎、一番前にいて皆を導くなど幻に過ぎん。統率せんとするものは、殿しんがりなのだ―――誰もが少しずつ持ち寄って国を良くしようとするのはいいことだ。久世のひめは正しい。それほどの領主、このご時世に何処を探してもおるまい。

 だがな、人が多くなれば割を食う奴は出てくるものだ。不思議なことに、そういう奴がいて初めて国は成立する。国を治めるということは、最も後ろにいて、割を食いすぎて麦畑から落ちそうな子供を助けることなのだ。城から見下ろしてもそれは決して手に入らないことよ」

 老頭目にしてはいつにない長広舌だったが、義五郎の奥深いところにその言葉は刺さった。義五郎にとっても、いつか琴葉の理想は美しく敗れるものだったことが、直感的に理解できた。


 ――例えば、自分の評判とか前歴とか、そんなものに指図されずに生きていけたら、どんなに素晴らしいだろう。

 誰も極楽をあてにせず地獄を恐れず、誰も他人を傷つけず他人に傷つけられることもない。

 誰もが浅ましく比較などせず、自分と同じくらい他人を大事にすれば、我らをおとなう世界はかつてないほど幸福なものになるだろう。

 けれどもしかし、誰もその世界を無上のものとは思わないのだろう。

 幸運も不運もない、あまりに平面的な幸福は、突き詰めれば生きながら死ぬのと同義だ――ましてや、暴虐の大神を得たおかげで成立するなど、刀を頭上にぶらさげて生きるに等しい。


 義五郎は老頭目を見つめながら、ゆっくりと頷いた。

 老人は今度こそはほっこりと笑った。

 「久世の姫御前に伝えてやってくれまいか。市井の者が安寧に暮らすとはそういうことだ。我らは、そのために合力する用意があるとな」



 集落の入口で頓狂とんきょうな声が挙がった。

 「おいおい、邪魔するなよ?」

 義五郎が振り返ると、国部衆の連絡係の一団が兵に止められていた。彼らは国部衆同士の連絡を受け持っている、いわば諜報ちょうほう係だ。

 義五郎は老人に向き直った。

 「こんな状況で彼らが?」

 諜報を任とする人間達がわざわざ捕まりに来ることはあり得ない。何かしら頭目からの命令が出ているはずだ。恐らくは隣国について調べるための。

 老人は眼を細めて頷いた。

 「国境のいさかいは延焼の一途をたどっているが、義五郎、それはあの環という女が来てからであろう。言った通り、伯耆も周防もかの国の国部衆さえ混乱している。どう考えても元凶はあの女なのに、城の者はなぜそれがわからない?」

 「え……? ご老人? しかし、それは?」

 言われてみて義五郎は初めて思い出した。この半年ずっと引っかかっていたこと。あの環という女が来てから久世はおかしくなっている。

 義五郎は痙攣のようなまばたきを繰り返しながら、もどかしく想念を追った。

 環が来てから……?

 待て。

 ………。

 そもそも、いつ、なぜ、環は久世の重臣になった?

 「……調べさせた。あの人外が何者かをな」



     ☆



 単なる勘でウミトは首を傾げた。風圧の音が聞こえると同時に、首元の飾り布を引きちぎって矢が通り過ぎた。

 声を上げながら獣道の坂を上りきった兵が五人ほど、荒い息を整える間もなく並んで矢をつがえる。

 「………」

 ウミトはこれ以上もなく冷たい暗赤色の眼で睥睨した。

 「退け、八陣衆」

 遅れて登ってきた琴葉が声を張る。久道はさりげなく琴葉の左斜めに立った。

 「貴様ら……」

 ウミトは睨んだまま低い怒りの声を上げた。指は飾り布を押さえている。

 久世の人間たちには、ウミトがそれをどんなに大事にしてきたか、知る由もない。

 「……こちらの言うべきも同じだ。退け」

 怒りの膨張を抑えつけてウミトが返した。

 獣道からは陸続りくぞくと兵が上がってきている。琴葉の凛とした声が再び響いた。

 「そこまでして、一体お前らは何を護る?」

 「この御山には大神が封ぜられている」

 ウミトはあくまで冷静に応える。

 「なぜそれを利用しない?」

 「私利のために、死と禍をまき散らす大神を解き放つか」

 「ふん。世の安寧のため、と言うか、八陣衆が」

 「この世がこの世であるために、理を護る必要がある」

 琴葉はことさらに笑ってみせた。

 「殊勝な心がけよな……神女とは人柱よ。犠牲を強いて封印のみを大事にするか。犠牲の上に成り立つものが安寧と言えるか?」

 「知ったような口をきく」

 「犠牲になる神女も私の領民だ。なぜわからん。慮外地とはいえ、緋羽でさえ私の領民だと思っている。なぜ良きようにすることを拒む?」

 「……度し難い。封印されていてもなお世の理を変えかねぬ神を、なぜお前ら久世が使えると思える」

 琴葉は眼に力を込めてウミトを睨みつけた。

 「では、緋羽大社は試したのか? 人の世に役立てるように、大神を制御する理を探したのか? たった一度でもやったのか? 供犠を備えずとも済む方法はなかったのか? お前らが斎宮をほうじるのは、供犠になってくれる大事ないけにえだからか!」

 一瞬の狂風に、ウミトの髪が逆立った。

 「黙れ……! 貴様らに……」

 初めてウミトの形相が変わっていた。暗赤色だった眼がらんらんと赤黒く輝いていた。

 「戯言ざれごとを叩くその口を、たった今、二度と開かなくしてくれる!」

 言葉と同時に、ウミトが残像を残して踏み込んだ。



     ☆



 潔斎堂石庭の上空では、胎蔵界曼荼羅が光を強くしていた。先ほどまで暗かった周囲は何もかも青白く輝いている。曼荼羅の全周はゆるゆると時計回りに円を描いていた。


 ――本来、胎蔵界曼荼羅とは、「中台ちゅうだい八葉はちよういん」と呼ばれる中心部と左右に「蓮華れんげいん」「金剛こんごういん」などからなる。中台八葉院の中心に大日如来を奉じ、その八方を四如来四菩薩が囲む、真理と知恵とを表すものである。

 樹乃には知るよしもなかったが、この曼荼羅は様子が違っていた。

 茅の輪と同じく、中心部は陰陽の重なったひとつの輪と、それを六方から囲む輪とで構成されている。そして、輪の中にあるのは仏ではなく、文字が描かれていた。見たことのない直線的な文字だ。

 在り様から正確には曼荼羅と言えないものだったが、確かに何か大きなものを表しているように感じられた――その大きさ故に、ひとりの人間では決して届かない、冷厳な真理そのもののように見えた。


 樹乃は真言を絶えず唱えながら、意識は別のところ、言ってみれば自分の身体の上から俯瞰ふかんで儀式を見下ろしていた。

 神女の身体を包む青い炎が、ひとりずつ大きくなっていく。

 彼女らが唱える祝詞や真言に応じて、ゆっくりと。

 楚良は一心に祝詞を唱えている。他を圧するほどに張った声だ。

 眞魚は片手で礼拝らいはいし、錫杖を打ち鳴らし続けながら、真言を低く唱えている。

 空からは曼荼羅が徐々に降りてくる。


 ――訳もなく、樹乃はひどく、本当にひどく寂しくなった。

 荒涼として、何もなかった。

 もう自分がどうなるかはわかっている。

 死ぬことは怖くなかった。

 その覚悟も道々に決めてきた。

 怖いのはたったひとつ、天命を持ちながら本当に生きないことだった。自分は大したことのない存在で、それでもこれだけはやった、と言える何かを手に入れられないことだった。

 強烈な痛みと共に、意識が身体に戻る。

 「くっ……」

 樹乃は儀式の前口上にあった通り、真言を絶やさずに唱え続ける。

 全身が何かに挟まれたようにしぼり上げられていた。同時に動悸が激しくなり、内側からも何かが飛び出しそうな圧力が生じていた。

 痛い。

 神女たちの青白い炎は各々の頭上にゆっくりと伸び、中空から曲線を描いて茅の輪を天蓋てんがいで覆うように半球を形作った。そのまま、中心部にいる樹乃と楚良に降りて、ふたりの炎と交わる。

 圧力が倍加する。痛みもそれまでと比べようもないほど強くなった。


 それでもなぜか、樹乃の寂しさは去らなかった。

 ――――紫庵。

 紫庵のところに帰りたい。

 痛みに耐えながら、樹乃はただひたすらに紫庵のところに帰ることを願った。



     ☆



 正門の本殿前では、久世の主力と緋羽大社の八陣衆とその配下が激突していた。

 本殿の扉を攻め破らんとする久世衆が、盾で射掛けられる矢を防ぎながら扉に取りつく。扉を砦代わりにする八陣衆配下が、彼らをこそげ落とす。

 本来であれば、戦に慣れた久世衆が多勢を以てひともみに押しつぶしてしかるべきだったが、あろうことか、八陣衆はそれぞれ身ひとつで久世の軍勢のそこここで戦闘を行っている。その鬼人たる力が、むしろ久世を分断し押し返しかねない勢いを持っていた。

 今も八陣衆筆頭のカタリが久世の兵を蹂躙していく。前に立つ兵たちが次々と吹き飛ばされていた。まるで暴風だ。乱戦の中に、カタリを囲む輪がぽかりとできた。

 一瞬のこう着に、頭に血をにじませた包帯を巻いた男が、人込みをするりと抜けて立ちふさがった。

 心玄だ。

 「なんだ貴様は」

 「これも功徳。ひとつお手合わせ願おうか」

 鞘から遅滞なく長刀を抜く。はなから斬り結ぶ気満々だ。

 カタリは油断ならぬ相手と認識したのか、半歩下がって構えた。眼が赤黒く変色する。


 時を同じくして、戦場のそこここに八陣衆と対峙する婆娑羅姿の男たちが現れた。

 天剋流の高弟たちだ。

 久世の兵より遥かに力量のある助太刀に八陣衆が手を取られると、戦は一気に久世に傾いた。

 「かかれえー、かかれえー」

 塩辛声でわめく什長じゅうちょうの声に応じて、八陣衆との相対を抜け出した兵たちが扉に殺到する。扉はあっけなく倒れた。

 兵たちがなだれ込み、本殿が落ちる。


 が、八陣衆配下の手練れたちは既に扉を放棄していて、本殿から楼門に至る道筋に人を配して陣を引いていた。

 その完全な準備を見ると、どうやら久世の襲撃に備えていたのではなく、いついかなる時でも対応ができるようになっていたようだった。

 久世の兵は初戦の高揚のままに突出し、そのまま全員が陣の手前に掘ってあった巨大な落とし穴に落ちた。叫び声が上がり、穴の上から矢を射かけられて倍する叫び声が上がった。


 そして、わずかの間だけ静かになる。



     ☆



 ウミトの剣は一直線に琴葉を狙い、予測していた久道でさえかろうじて受けられるほどの疾さだった。

 「……貴公が琴葉様を狙うのであれば、私がお相手しよう」

 ウミトの赤黒く光る眼を、剣気の満ちた眼で久道は見返した。

 「……ほう。お前が相手か」

 「いかにも」

 「久世の人間で、俺の剣を受けられる奴がいるとは思わなかった」

 ウミトが皮肉に笑った。

 「自分の手で刀を握る久世がいるとはな。大神の力を当てにしている者ばかりだと思っていたよ」

 強烈な挑発と言うべきだったが、“野火”は燃えるところを選ぶ。久道はこんな時だというのに爽やかに笑った。

 「緋羽大社の意のままであるはずの八陣衆に感情があるように、久世の家臣もまた同じ。違うのは、我らが多くの領民を抱えていることだ」

 ウミトは虚を突かれたように刀を引いた。

 五歩ほど下がってあらためて拝礼すると刀を構え直す。

 「これは俺の方が失礼したようだ。餓鬼でもないのに我を忘れるとはな――わが名はウミト。八陣衆の次席に連なる。『』の警護、鬼門を護る」

 「……私は山田久道。久世の家老格では最も軽輩だ。緋羽大社の大神を久世の使役にするべくまかり越した。仔細しさい承前しょうぜん、推して参る」

 久道は草履の紐を刀で切ると足で放り、全ての力をたわめてウミトに対峙する。

 ウミトは赤黒い眼で頷いた。

 「では」


 斬り合いを始めたウミトと久道を、琴葉は呆然と眺めていた。

 ウミトの剣筋ははん可通かつうの自分が見てさえ、恐るべき殺人剣だった。

 が、久道がそれを全て撥ね返し、時には攻撃に至る。久道がこれほどまでの使い手だったとは。

 「琴葉様、こちらです」

 琴葉の袖を小さく引く者があった。

 環だ。

 ふたりの決闘を兵たちに囲ませ、わずかの伴を連れて、琴葉は緋羽大社の鬼が通る門を入っていった。



     ☆



 ――暗い。

 遥か上方で巨大な網目のようなものが明滅していた。

 紫庵はぼうっとその明滅に見入っていた。

 空一面には整然とした六角形が彼方まで敷き詰められている。

 網目の各辺では、強く光る部分が奔り、他の光と融合し反発し、時には消散し、ぶうん、という低い音と共に、ふとした拍子に一瞬だけその網目を輝かせている。

 全体として巨大な網が明滅しているのだ。

 目を凝らすと、その網は数字の塊の連なりでできていた。文字のようなものもある。

 不思議なことに、単なる記号の羅列なのに紫庵に映像として見えてきた。

 子供の頃に前太と川遊びをしていたり、樹乃と笑いあっていたり、初めて忍びの任務に就いた時だったり、樹乃が神楽で踊っていたり、そして、オクヤマツミがほろんでいたり――。


 思わず身体を起こそうとしたが、紫庵の身体は「なかった」。

 自分の寝転んでいたはずの場所は黒々とした闇で満たされ、自分は闇の一部になっていたのだ。紫庵は恐慌を起こして手を振り回したが、その手が「なかった」。

 愕然と空を見上げていると、連なる低い音が次第に言葉になり始めた。それは紫庵に物理的な圧迫感となって迫ってきた。

 「……死は天地神明のことわりにして永劫えいごう螺旋らせんの彼方へ続く物理限界を唯一超越する不可知なる実存。生は一時の仮初かりそめにて熱的均衡の局地的偏りに過ぎぬ泡沫ほうまつの幻。生命の本質は死に在り、広大無限平方にして有限ゆうげん閉居へいきょな虚数宇宙全てに渡りてあまねく法なり」


 紫庵はあえいだ。

 意味は分からなかったが、なぜか理解だけはできた。

 それは正しかったのだ。

 峻厳しゅんげんな真理によって自分たちは生かされていて、そして死ぬ時もまた峻厳に要求されるのみだ、と。

 人の自由な意志など幻でしかなく、人はただやってきて、時が来ればただ奪われるのみだ、と。

 その声は何の感情もまじえず――そもそも感情など、「冷たい」と評するのさえ愚かしい、世界の基盤に組み込まれた無数の運命の歯車について、単なる事実を告げているだけだった。人は、空一面に広がる些少さしょうな六角形の一辺で、それ以上にもなれず、それ以下にもなれないのだった。


 ……だからといって。

 だからといって、と紫庵は思った。

 人の生き死にを、俺の生き死にを、樹乃の生き死にを、他の誰かが決めていいことなんかない。

 紫庵は押しつぶされたようなかすれ声で、「それ」を否定した。



     ☆



 数え切れないほどに打ちあってもなお、ウミトと久道の決着はつかなかった。

 ふたりの刀は刃こぼれして、もはや人を斬ることができるようには見えない。さすがに鬼人のウミトの攻撃を避けきれなかったようで、隙のない出で立ちのままのウミトに比べて、久道の帷子かたびらのあちこちが削られていた。

 ふたりは正対していた。明らかに久道の分が悪い。

 ウミトは構えたまま口を開いた。

 「俺が本気を出しても斬れないとはな、大したもんだ」

 「むしろそれは私が言いたいのだが」

 「その意気やよし」

 ウミトが眼を細めて新たな攻撃に移ろうとしたその時。

 尾を引く悲鳴のような叫び声と共に、熊笹の茂みから紫庵が飛び出してきた。その眼はあかあかと真紅に燃えていた。

 「小僧……?」

 「紫庵……?」

 ウミトと久道は同時にそちらを向きいぶかしげにつぶやいた。

 紫庵はもう一度遠吠えのように叫び、ふたりを睥睨へいげいした。

 ウミトが小さく舌打ちをして眉をひそめた。

 「まさか、“鬼麻呂”が成長しちまったかよ」

 「……鬼麻呂とは?」

 「混じりっ気のない純粋な鬼人だよ。けがれ里でしか出ることはない」

 めつける様にしていた紫庵は、眉を寄せて囁いたウミトを見定め、飛びかかった。



     ☆



 「環なのか、そうなのか」

 義五郎は自身に唸った。

 頭目達が集まって、諜報係のぶせという男の報告を聞いていたところだった。

 国境を侵略している伯耆の国では、半年前ぐらいから環らしき女が国境の出城の城主を籠絡していたようだった。久世と同様、「いつの間にか」城主の御側おそばしゅうとして権勢をふるっていて、誰もそれに疑問を持っていなかった。疑いをはさむ者はいないではなかったが、そうした者たちは、次々に不可思議な自死を遂げたそうだ。

 曰く、侍大将がある日突然、心当たりもないのに小刀で自分の眼を突き込んで果てた。しかも、苦悶の表情さえ見せずに。

 出城が久世を攻め始めたのを見て、久世の姻戚である伯耆の城主は、その行いをいさめるために使者を何度も送ったそうだが、それらの使者がことごとく帰らぬのを見て容易ならざると悟ったらしい。ついには自身で出城に向かったのだったが、辿りつけなかったという。

 久世にも陸路海路で何度も使者を送ったそうだが、やはり復命した者はいなかったそうだ。ただ、これは少々割り引く必要があるかもしれない。久世が弱れば伯耆が後見の名の下に併呑へいどんできる。


 周防側の国部衆についても同様だった。こちらの相手は国部衆だったが、勢力争いをしている三人の頭目のひとりを環らしき女が籠絡し、その男がひとりを殺し、もうひとりはやはり不思議な死を迎えたということだった。

 朝市の真ん中に、忽然こつぜんと痩せ細ったその男の死骸が転がっていて、まるで何日も山道で迷ったような死に方だったそうだ。

 以来、もともと粗暴ではないはずの周防の国部衆は、勢力を広げるべく何かに取りつかれたように国境を攻め続けている。不平をいう者はそく粛清しゅくせいされるという苛烈かれつな恐怖政治のために、周防衆は心ならずも戦を仕掛けていると。

 「しかし……環は常に久世の城にいたはずだが……」

 義五郎がひとりごちると、耳ざとく聞きつけた羽伏が応えた。

 「俺もそれは不思議に思った。似ている血縁でもいるのかと思ったが……三人とも見た俺からすると、あれは同じ人間にしか見えなかった。まあしかし、妖しの類なら分身くらい使えそうだが……」


 義五郎はいまひとつ納得できないままに頷いた。鼻を鳴らした羽伏に、老頭目が声をかけた。

 「それで、環という女についてわかったことは?」

 「それが……あの女がどこから来たのか全然分かりませんでした。手がかりもないです。伯耆と周防にそれぞれにひとり雇って潜り込ませましたが……帰ってきませんでした」

 「……なんと」

 羽伏は軽く首を振った。

 「いえ、消されたのではないんです……伯耆の女はかなめと名乗ってまして、城勤めの人間達はこぞって要様は良い人だと言うんですよ。周防の相良さがらって女の評判も同様です」

 「ん?」

 「送り込んだ間諜は、こちらに報告をもたらす前に向こう側の人間になってしまったんです。あの女たちの信奉しんぽう者になったんですよ」

 「なんだと?」

 「……久世も同じだ。いつの間にか久道殿を除いて全員が環の味方だ」

 考え込みながら呟いた義五郎に一瞥を与えて、羽伏は居住まいを正すと言葉を選ぶようにして付け足した。

 「……ご老人、今回はどうにも奇妙です。妖しが人間の味方を増やすやりようなど聞いたことがありませんよ、俺は」

 「……そうでもあろうよ」

 老頭目も考え込んだまま生返事をする。羽伏はちらりと見たがそのまま続けた。

 「妖しであれば奥津宮の結界には入れませんし、久世も国部衆の合力がなければ八陣衆にはかないますまい。我らが心配するほどのことではありません。しかし、出雲だけでなく、伯耆、周防にまたがっての企てには、さかしらな悪意がみえます」

 羽伏は老頭目の表情を窺うように言葉を切った。老人は何事か考え込んだままで、羽伏は少し苛立ったようだ。

 「ご老人、出雲の国部衆は領主に反乱を起こしたことはない、とされてますが、一度だけ」

 「……それを考えとる」

 老頭目の押し殺した声に、義五郎は顔を上げた。それは出雲の国部衆にとって、喉に刺さった小骨のような過去だった。


 緋羽大社は平穏続きだったわけではない。

 多くの者が神仏の力を畏れていても、中には力を手に入れようとする者たちもいる。今は緋羽大社は霊山の佇まいをみせているが、その武力によって連綿れんめんと続く戦いを退けてきたのだった。最も近い過去においても、そうした内乱があった。

 ――そう、それは内乱だったのだ。

 六十年ほども昔、当時の領主が不思議な術を駆使する客分にたぶらかされ、緋羽を攻めようとしたのを国部衆が攻め破ったことがある。正当な事由があるにせよ、領主に刃向ったことは、国部衆にとって正義ではあったが同時に治りにくい傷にもなったのだった。


 羽伏は一瞬気圧されたが、眼を上げて言い切った。

 「よく似ていると思いませんか。かの時は、つち御門みかど家の廃嫡はいちゃくに関わる勢力争いが緋羽大社を巻き込みました。そして、今回の調査の最中に何度か耳にしました。土御門の動きが慌ただしい、と。またぞろ奴らが手を出しているのはありませんか」

 それを聞いて、老頭目が傍目はためにもわかるほど息を飲んだ。

 「? ご老人?」

 義五郎が声をかけると、老頭目はぎゅうと目をつぶって何度も頷いた。

 「ご老人?」

 「なるほど。城主がたどり着けなかったのは奇門きもん遁甲とんこう、要も相良も環の式神しきがみだな。ようやくわかった」

 羽伏が勢い込んで言う。

 「ご老人、やはり陰陽おんみょうですか!」

 「………」

 黙ったままの老頭目に、義五郎はおずおずと声をかける。

 「ご老人……?」

 老頭目は眼を開けてゆっくりと口を開いた。青白い顔色だ。

 「……ぬかったわ。もっとたちが悪い。陰陽など星を見て吉凶を占うだけの奴らよ。人を操ることなどできん……できるのは、陰陽の中でもわずかに天眼てんげん天耳てんにをよくする暗部のみ……あの時に全て滅したはずだったのに」

 呟くように言っていた老頭目が、突然顔を上げて叫んだ。

 「まずい! 緋羽大社が……」

 「ご老人?」

 老頭目は立ち上がって、心底悔しそうに顔をゆがめた。

 「……いかがされたのですか?」

 義五郎は老頭目の焦りに巻き込まれながらも、よく理解できずに首を傾げた。

 老頭目はじれったそうに義五郎の腕をつかんだ。

 「妖しどもは緋羽大社には歯が立たん。だが、人なら別だ。自ら大神の封印を解ける。伯耆と周防をけしかけて、久世と緋羽大社とを噛み合わせ、それら全てを陽動とし、その隙を狙って――」

 「え……?」

 「まんまとたばかられたわ、義五郎……! 環は妖しなぞではない。奴は人よ……それも、悪意に満ちた人間なのだ……」











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