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7.戦場、いと浅ましきもの、忘却の彼方

 「昨晩、八陣衆のひとりが城内に現れました」

 環の言葉に、重臣たちはざわめいた。久世のはかりごとは、すでに緋羽大社の知るところになっているということだったからだ。

 だが、動揺する者はない。少勢とはいえども二百人からの食糧や武器を取りそろえれば、目と鼻の先で秘密が漏れないはずはないのだ。琴葉が微動だにしないのを見て、ざわめきはすぐに収まった。

 環が満足そうに見渡して言葉をつづけた。

 「警備の者が駆けつけたのですが、捕えることはできず、こう伝言するよう言ったそうです。『緋羽大社に手出し無用、一族いちぞく郎党ろうとうすぐに遠方へ逃げよ』と……」

 言い淀んだ環に、琴葉が尋ねる。

 「どうした、まだあるのか?」

 「『人間、おのれぶんを知ることが肝心だ』と……」

 琴葉は小さく鼻を鳴らし、口の中で毒づいた。

 「領民を治めるのに“己の分”など考えておられるか」

 環は琴葉の呟きが聞こえなかったらしく、家臣に向けて諭すように言う。

 「ここ何日か、久世の城が緋羽大社の監視下にあったというのは、確証はなくとも事実でありましょう。逆に、警告があったということから察するに、恐らく新月の今日が大神封印の儀式の日と思われます。大神を手に入れるならば、今この時をおいて他にありません」


 戦にのぞむ人間は、奇妙なことに茫洋ぼうようとした顔になる。次に来る高い緊張のために弛緩しているせいだ。攻める前から意気いき軒昂けんこうでは、実際の戦闘の際には緊張がほころびてしまう。

 家臣団の誰もがゆったりとしていることから、久世の戦闘力が高いことが伺えた。久道は環の向かい側に座って瞑目めいもくしている。

 家臣のひとりが間延びした声を上げた。

 「環殿、このままでは他家に蹂躙されるのは時間の問題。我ら、今更大神を手に入れる戦をじるわけもない」

 環が微笑んで頷いた。

 「皆さまのお覚悟を疑うものではありませぬ。しかしながら、生半なまなかな戦術では緋羽大社の手勢である八陣衆に返り討ちにあうのが必定。八陣衆とは、緋羽大社によって造られた、人でありながら鬼の力を持つ者、鬼人だと聞きます。いずれも一騎当千の力を持つ化け物です」

 言葉を発する者はない。軍議を張っている今更、もはや言うことはない。全員が力押しすることを下腹に収め、言ってみれば“びと”になっているのだ。

 「皆様にご報告した通り、全兵で対峙する他にすべはありませぬ。正面の指揮を朽木くちき殿、七割を以て攻めていただき、東側の搦め手には宝谷ほうや殿、息を合わせて八陣衆とその配下を揺さぶっていただきます。さすれば、埒外らちがいの八陣衆と言えども、対応に手を取られるはず。その間に北東側の獣道を抜いた我らが神女を押さえます」

 瞑目していた久道が眼を見開いて顔ごと環に振り向いた。

 「環殿……国部衆の助力がない今、本隊を囮にするならば失敗は許されません。勝算はいかほどに?」

 環は微笑みを崩さぬまま、正面から久道の視線を受け止めた。

 「久道殿はいかほどとお思いですか?」

 「……分の悪い賭けと」

 「おっしゃる通りです。さすが武門の誉れ高い久道殿ですね」

 「しかし、それでは」

 「考え違いされてはなりません。緋羽大社はただの神社ではありませぬ。朝廷からも神祇じんぎからも外れた、一個の独立した国家なのです。八陣衆という強大な武力と我ら久世の総力は恐らく互角、いえ武力だけなら緋羽が上かもしれません」

 久道は返事の代わりに短く息を吐いた。

 「そうした戦の常道は、久道殿は御存じでありましょう?」

 「……わかった」

 渋面で頷いた久道に環は満足そうに微笑むと、重臣たちに顔を向けた。

 「神女への別働隊は、琴葉様と私を含め総勢十名ほどで参ります。彼女らさえ押さえれば大神は我らが手中も同然、緋羽大社は自ずと落ちます。なれば」

 なおも続く環の柔らかな物言いを久道は固く遮った。

 「私も同道しよう。側仕えは大将近くにいるべきだ」

 「“野火”殿は正面で戦ってこそ役立つと思いますが……そうですか、それではどうぞお好きになされるとよい」

 環は一瞬だけ横目で久道を睨み、穏やかに言葉を継いだ。が、その抑揚にはかすかに嘲りがにじみ出ていた。環のたたずまいにはおよそ似つかわしくない感情に、重臣たちは一瞬顔を上げて環を見たが、その時には既に環は嫣然えんぜんと微笑んでいる。

 先ほどから瞑目していた琴葉が、軍議を結論づけるように立ち上がった。

 「緋羽大社を攻め落とす」

 しんとした声に呼応して、静かだが強力な闘志が部屋に満ちた。

 「くちしいことに、今の久世には安寧を保つ力はない。国を守るための力が必要だ。領民を治めるための力が。此度の戦、大きな戦になるだろう。だが、久世はここで勝たねばならん。民の未来を守るべきは我らをおいて他にない」

 重臣たちは鋭い眼で琴葉を見つめていた。緋羽大社を攻め落としたところで、各々の加増は望めない。それどころか、この戦での人的・財的な損耗を考えれば、戦に赴く者にとって益どころか失うもののほうが圧倒的に多い。何ら見返りはないのだ―――にもかかわらず、彼らは闘志を秘めた顔つきで、無言のまま深く頷いた。


 「やめておいたほうがよいぞ」

 不意に――部屋の隅から聞きなれない声がした。皆が弾かれたように振り向くと、墨衣すみごろもに僧形の大男が寝そべっていた。

 「貴様、何者だっ!」

 重臣たちは誰何すいかと同時に迎え撃つ用意をしている。乱れのない連携で、久世の家臣の団結と統率が並々ならぬものを示していた。

 が、男の様子は予測を外れるものだった。攻撃するでもなく、晩酌を邪魔されたかのように大儀たいぎそうに起き上がると、つるりと頭を撫でた。

 「古来、戦は準備で八割終わったようなものよ。大した用意もせで、拮抗する戦力に勝てると思うかね。そもそも相手方の戦力も調べがついてないのであろ? 勝ち目はあるまいて」

 重臣のひとりが隙と見込んで飛び込もうとした瞬間、男は大きな眼をさらに見開いて睨むと、その家臣は魂が抜け出るように喪心した。重臣たちに怖気おじけはしる。

 「出鱈目な戦に駆り出される者こそ迷惑この上ない。もそと領主というのは」

 男はなおも言いかけて、軍議の間の板戸を振り向いた。

 「……ほう。これは趣向しゅこう

 張りつめた緊張と部屋の板戸が大音響と共に破られると、そこには心玄と天剋流の面々、紫庵が立っていた。

 男は相好を崩す。奇妙なことに、笑うと人懐っこそうな顔だった。

 「ようわらわ。どうだ、まだ人かね?」


 紫庵の眼は燃え上がり、髪は逆立っていた。

 

 まさか、こんなところに仇がいるとは。

 ごくりと唾を飲みこんで小太刀に手を伸ばしたところで、心玄に制止された。

 見上げると、心玄はいつものような悠然とした様子ではなく、冷や汗をかき心なしか青ざめているようだった。

 眞魚は初めて気づいたように蓬髪の大男を見やり、感心したように頷いた。

 「驚いたな、人の身で人ならざる域にまで踏み込んだと見える」

 心玄は流れるように刀を抜くと、傍目はためでもわかるほど刀の柄を握りしめた。すっと口角が吊り上り、一転して歓喜の表情になった。

 「天剋流当主、心玄。一手、所望したい」

 言いざま、爆発的な踏み込みで部屋が揺れた。

 心玄が今まで見せていた技量も全て戯れに過ぎないと思えるほど強く早く、そしてその先端は恐るべき鋭利な三段突きとなった。

 眞魚はその突きを苦も無く錫杖でいなす。

 耳に残る鈍い音が響いた。

 かわされるのは心玄の予想の範囲内だったらしく、突きの体勢から腰を回すだけで刃を返して胴間を薙ぎ、さらに足元に打ち込んで反動で刀を跳ね上げる。首を取りに行くとほぼ同時に右肩で体当たりをしながら突きに転化する。

 一撃一撃が必殺と言える、眼で追うことさえ不可能な颶風ぐふうの舞いだ。

 しかし、その撃ち込みをことごとく眞魚は避けた。

 心玄が呼吸を読んで避けるのとはわけが違う、恐るべきは眞魚は心玄の動きを見てから避けているのだった。眞魚は加速と停止を繰り返し総体の輪郭がぼやけるような動きを見せ――心玄にとって、さながら羽毛を掴もうとするのに似ていた。

 おおのように回転する心玄の顎先を、眞魚が一度錫杖で軽く突いた。踏み込もうとする瞬間を捕えられて心玄は愕然と急停止したのだったが、自分が何をされたのかを悟った瞬間、憤怒ふんぬの形相になった。

 けえっ、と裂帛れっぱくの気合を重ねて突いた心玄を、眞魚は柔術でいうところのすみ落としのように、勢いをそのまま殺さずに身体を入れかえた。足を払いざま錫杖の柄で心玄の背中を押すと、心玄は左側の板戸を突き破って屋根に落ちて行った。

 わずかの間があって水音。

 軍議の間では誰も言葉を発する者がなかった。その静寂に似つかわしく、眞魚が仄かに呟く。

 「ふむ、大したものだ。心玄とやら……おっと、今はそれどころではないな」

 眞魚は錫杖を右手に抱えた姿勢から、どっかと胡坐をかいた。肝を奪われていないのは琴葉ただひとり、まっすぐに眞魚を見つめている。

 「貴様、何者だ……と問うのも愚かしいか」

 背筋を伸ばした領主を見て、眞魚は嬉しそうに笑った。

 「何、見ての通りのない坊主よ。お手前らが分不相応な企てをしておると聞いて、老婆ろうばしんながら忠告に来たものと思うがよいよ」

 ふと笑った琴葉を制するように、環がかろうじて癇性かんしょうを抑えている口ぶりで応えた。

 「お戯れですね。緋羽大社の最高術者、眞魚大僧正とお見受けします」

 「ほう。なかなか耳がいいのがいるな」

 眞魚は声を上げた婆娑羅姿の少女に顔を向けると、しげしげと眺めた。

 「……お手前がそそのかしてるわけかね。人ではない者が手を出すことではあるまいに」

 環は癇が起きたように一瞬眉根に皺を寄せたが、言葉だけは静かに続けた。

 「大神封印の儀の長と聞き及んでおります」

 「そんな大層なもんでもない。長生きしていたら儂しか知らんことになっただけよ」

 眞魚は片眉を上げておどけて見せた。

 表情は人のよさそうな好々こうこうやのまま、口調ものんびりしたまま、しかし確かに脅しをかけている空気をまといながら、眞魚は琴葉をめつけた。

 「ところで、何やら謀をして大神の力を得ようとしているとか。随分と面白いことを考えつくものだな、人というものは」

 「……久世が生き抜くためには必要な力だ」

 「……あれはな、望めば力を与えるような代物ではない。おぬしは地を歩く時、そこにいる地虫の命を思うかね?」

 琴葉は睨むでもなく、眞魚をまっすぐに見つめたまま無言だった。

 眞魚はその反応が意外だったらしく、軽く首を傾げて愉快そうに笑った。

 「あれの前ではな、儂とて羽虫と同じよ。制御できないほどの大きな力は、地の底で未来永劫封印しておくべきものと思わんかね?」

 「このままでは久世は滅びる。私はそれを坐して待つわけにはいかないのだ」

 「しょせん人など百年もすれば土に還る。国だ何だと言ったところで、いずれなくなるものに違いあるまい」

 「……貴様のように人を超えて生きる者にはわからぬことか。いずれ無くなるものだとしても、今日明日と日々を過ごし、戦に怯えることなく、死ぬその時まで笑って暮らせる国を造るのには力が必要なのだ」

 「ほうほう」

 眞魚は面白そうに笑いながら聞いていたが、眼だけは笑わずに琴葉を見つめていた。

 「ひとつ、聞くが……それをお手前の領民が望んでいるのかね?」

 「? 安寧を望まぬ民がいるか?」

 「……お手前は思い上がっているな。民は領主が思うほど愚かではない。学がないなりに、生きることを捕まえているものだよ。生きている間ずっと安寧に揺蕩たゆたっていることなどできるわけがない――生きるということはな、続くということよ。安寧が続けば生きる意味も失われる。命が軽ければ命のありがたみを忘れることもなかろうて」

 琴葉がいぶかしげな顔で意味をつかみ損ねていると、眞魚は大儀そうに立ち上がった。

 「まあ、やってみるがいい。身の程を知らない連中を止める義理立てもない」

 あまりに自然に立った眞魚に反応したのは久道だけで、悠々と眞魚は先ほど心玄が飛び出して行った欄干らんかんに足をかけた。


 初めてみせる背中、そして安定しない足場。

 この時をおいて他にない。

 錫杖と逆側から、全霊で刺突。

 一心に時機を図っていた紫庵が、身体を低くして死角から踊りかかった。それは紫庵にとって、初めて殺意を持って人を殺める瞬間だった。

 紫庵の戦闘の技量は、同世代はおろか男衆の頭と張れるほど抜きん出ていて、紫庵が身を捨てる気になれば、相手が誰であろうと最低でも相討ちに持ち込める、と師匠も言ってくれたものだ。

 実際、その刺突は一撃だけならば、心玄に勝るとも劣らない鋭さを持っていた。


 が、眞魚は背を向けたまま、錫杖の石突いしづきで紫庵の額を小突いた。

 紫庵は勢い余って額で床板をこする。同時に小太刀は跳ね上げられて、柱のひとつに突き刺さった。致命を与えるはずの一撃は、気がつけばあっさりとあしらわれてしまっていた。

 「手が空いていればと言ったろう、童」

 振り返った眞魚は顔をしかめていたが、変わらず面白そうに言った。

 紫庵は額に手を当てて起き上がる。

 「あんた……神女が長く生きられないってのは本当か……?」

 「おお……よく知っておる。いかにもその通り」

 紫庵は拳を握りしめた。

 眞魚はそんな紫庵に言い聞かせるように言葉を継いだ。

 「言ったであろう。人の生き死になど早いか遅いかの違いしかないと」

 いらえのない紫庵から眼を逸らして、眞魚は空中に一歩踏み出した。そのまま空中を二、三歩進み肩越しに振り返った。

 「この世には、生き死により尊きことがある……わからぬようなら、そこで大人しくしておるがよい」

 そう言い残すと、眞魚は空中に飲まれるように消えた。


 重臣たちの緊張の糸は途切れ、安堵のため息が漏れる。

 柱に刺さった小太刀を抜いて出て行こうとする紫庵を久道が呼び止めた。

 「待て、何処へ行くつもりだ?」

 「緋羽大社」

 応えは簡単だった。

 そこを目的として、そこしか行くところはなかった。

 「……今の男が貴公の仇か。人の枠を超えたあやつを貴公が討てると思えんが」

 「……知っているよ」

 言葉とは裏腹に、紫庵の全身から鬼気が立ち上っていた。

 八陣衆にしろ眞魚にしろ、今の紫庵が敵う相手ではなかった。敵うどころか相手にもされていない。それが何より口惜しかった。

 好きなように餓鬼扱いしていればいい。だが、この餓鬼は必ず喉元を食い破る。

 必ずだ。

 紫庵は内奥をかきむしる感情のままに久道を振り返り、押し殺した声でもう一度言った。

 「よく、知っているよ」



     ☆



 樹乃は潔斎堂の奥の岩洞いわほらにある泉で最後の沐浴もくよくをしていた。

 音もなく湧き続ける泉は、透明で静謐で、瑠璃を思わせる青色に囲まれていた。

 「まがつの宮」のように空に通じる縦穴が掘られているらしく、中央に陽の光が落ちていて――手の中の割れてしまった瑠璃と共に、その未明の空のような深い青は何とはなしに樹乃を落ち着かせた。


 オクヤマツミの西、垂直に切り立った崖を三十丈ほど登ると、一体だけ磨崖まがいぶつがある。誰がどうやってそこに作ったのか定かではなかった。里の男でさえ、ひとつ間違えれば命を落とすような崖の上に像を彫るなど、正気の沙汰ではない。

 崖に近づくことは厳に戒められていたけれど、その下に広がる草原で遊ぶことはオクヤマツミの子供たちにとって冒険だったから、たいていの少年少女の脳裏には、瑠璃の宝玉で飾られた磨崖仏がある。

 「ほら、あれ!」

 夕暮れ時、西陽が磨崖仏を照らして瑠璃が青色に反射している。

 「わあ、きれい……」

 芳乃が感動に呆けた声を出す。

 「でしょ! あれ、瑠璃って言うんだよ」

 「すげえけど、またとんでもないことにあるんだなあ……」

 紫庵が目を丸くして言う。

 「どうやって作ったんだよ、あんなの」

 「ね? ね? 綺麗でしょ? すごいねえ」

 樹乃が興奮のあまり紫庵の袖を引っ張るので、紫庵はよろけそうになるが踏ん張っている。そのしゃちほこばった顔が面白くて樹乃は笑う。


 ――きっとそのまま、いつも一緒のまま、ふたりは生きていくんだ、と樹乃は思っていた。紫庵もそう思ってくれていた、と思う。

 でも、ある日芳乃と共に父親に連れられて、禍火の宮で奇妙な儀式の末に、樹乃の胸にあおぐろい炎が吸い込まれると、全ては変わってしまった。忘れたいのによく憶えている。

 自分は選ばれてしまったのだった。

 父親は眼をつぶったまま、長いこと震えていた。

 そして、紫庵とは軽々しく口もきけなくなった。


 泉につかったまま、樹乃は知らず紫庵の名を呟いた。

 誰もいない壁に反響して我に返ったが、その名は自分で思ってるよりずっと勇気づけてくれるのがわかって、樹乃はもう一度、今度はひそやかに呟いた。

 「紫庵……」



     ☆



 久世の二の丸を過ぎて正門に至る道で紫庵は呼び止められて、眼を見張った。

 先ほど軍議の間にいた女だったのだ。確か環といった。

 自分の速度を考えれば、後から出たはずの女が自分に追いつけるわけもない。紫庵の内心の葛藤を環は微笑みで流し、紙片を差し出した。

 「これ、必要ではありませんか?」

 警戒しながら受け取ると、それは緋羽大社の裏側から抜け上がる道を指し示す地図だった。

 「どういうことだ?」

 「……私たちは緋羽大社の大神封印を止めたい。あなたは神女を救いたい。言葉は違っても目的は同じではありませんか?」

 環は慈母のように微笑む。

 紫庵が無表情でいなすと、環の態度ががらっと変わった。仮面を取る気楽さだった。

 嘲笑を含んだ声で紫庵に指図するように続ける。

 「ふん。馬鹿ではないみたいですね。ただで教えるわけではありません。その道にさえ緋羽大社の結界は張り巡らされているでしょうから、あなたみたいな鬼人が通りやすくしてくれると、お互いに都合がいいというわけです」

 「……あんた、なにもんだ?」

 初めて紫庵は眼の前の女を怖ろしく思った。同じ顔なのに、先ほどと今では別の人間だった。

 忍びには自己暗示で人格が変わる術を持つ者がいるが、そういう技術とはかけ離れた、何か根源的な冷酷さを感じたのだった。

 「一介の参謀に過ぎません。久世を憂える、ね」

 「あんた……」

 紫庵は紙片を丁寧に折りたたむと袂にしまった。

 例え罠だろうが、自分には突破するしか道はない。

 「感謝はしない。せいぜい俺の後をついてくればいい」

 「そうですか。できれば、お目当ての神女を攫ってくださるとなおいいですね」

 環の皮肉に一瞥を与えると、紫庵は走り出した。











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