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5.久世城外、深夜の邂逅、八陣衆は笑う

 深更しんこう

 月が中天にかかっている。下弦の月だ。

 ことものげな表情で夜空を見上げていた。

 燈明とうみょうは消した。丸窓から心細い月明かりが書院に差し込み、づくえの上に広げた国部衆への文に音のない薄墨色の光を投げかけている。しばらく前に書くのをやめた。


 もう、他に方法がないことはわかっていた。

 の国境は毎日のように侵食され、その余波で野伏せりが一気に増えた結果、城下に逃げ込む領民がゆっくりと増え続けている。このまま放っておけば誰もが窒息するのは眼に見えていた。

 自分が領主になってからわずか半年で、隣国の伯耆ほうきから攻め入られるようになった。姻戚いんせきであるはずなのに、話し合いどころか何の通告もなかった。伯耆の国部衆に制止を頼んだが一度も返事は返ってこない――「久世琴葉」は喰い切っていい存在だと思われている証左しょうざ、なのであろう。

 状況も悪かった。この時代には珍しく、琴葉が他家にとつぐことを拒むと父は笑ってゆるしたものだったが、さすがに戦場に出してはもらえなかった。

 そのせいで、世継ぎの腹違いの兄である頼次よりつぐ早逝そうせいすると、武威を示したことがない当主が誕生することになったのだ。くみやすしと思われても仕方がない――実際には、武術においても戦術眼においても琴葉が頼次より優れていると家中の者は認めていたのだけれど。

 ――力が欲しい。

 だが、通常ならいざ知らず、今の不穏な情勢の下に兵を駆り出すことはできない。未成熟な練兵では戦術を語るよすがもない。手元の駒だけで他家に対して久世の強さを見せつけなければならないのだ。

 もう、緋羽大社の力を手に入れるほかはない。

 たとえ国部衆の助力がなくとも、彼の地に踏み込み大神を手に入れることが、この窮状を救う唯一の手立てになってしまった。

 「まこと、弱さとは因果なものだ……」

 琴葉が声にならぬ声で呟いた。長い睫毛まつげ陰鬱いんうつな影を落とす。


 ふと、琴葉が首を傾げた。障子の向こうに気配を感じたのだ。

 一拍遅れてきぬれの音がしたが、途中まで忍び足で意図的に足音を立てたように聞こえた。

 「……たまきか」

 和服姿の環が障子を滑らせるように開け、畳のへりを見つめたまま夜のような声で報告する。

 「物見より連絡がありました。大神封印の要である神女たちが、緋羽大社に参集した、とのことです」

 「……そうか」

 「封印の儀は恐らく一両日に行われるでしょう。もはや猶予はありません」

 「……そうか」

 琴葉は月の気を吸い込むように静かに深呼吸すると、おもむろに環に向き直った。

 「夜明けと共に軍議を行う。皆にそう伝えよ」

 「承知いたしました」

 環は来た時と同様に、音もなく障子を閉めた。立ち上がって去る気配がする。

 琴葉は何ということもなくその音を見送って、ゆっくりと月を仰いだ。その眼には、先ほどの哀しみは既になく、凛とした意志がみなぎっていた。


 環はどういう仕掛けか、すそさばかずに早足で滑るように歩いている。その顔にはうっすらと微笑みをいたままだが、眼だけに酷薄な表情を浮かべている。重臣たちの前では決して見せない顔だった。

 中庭の渡り廊下で立ち止まると、環は誰の姿も見えないのに遠声で囁いた。

 「心玄しんげん殿。琴葉様は夜明けと共に軍議を行うとのこと」

 「……いくさか」

 いらえは簡単だった。

 「緋羽大社を攻め落とす気になられたようです。心玄殿、天剋てんこく流一門のご助勢かたじけなく」

 「よせよせ。お互い利用しているだけだ」

 遮るように心玄の声が聞こえた。肉声だ。環は鼻白んだように黙った。

 「戦こそ我らが行法。否とは言わん」

 「よろしくお頼み申します」

 環は再び遠声で囁き、機嫌を損ねたようについと立ち去った。

 心玄は松の木の上で座禅を組んでいた。眼をつぶっていると、たおやかさの中に内包されている悪意がひしひしと感じられる。そのいびつな気配が離れていくのを感じて心玄は眼を開けた。

 「さてもな、天剋流の約定の日来たれり、か。純粋な鬼人も来たしな」

 心玄は愉快そうに独りごちた。この男には珍しく、くつくつと忍び笑いをもらしたものだった。



     ☆



 五郎ごろうは出雲の国部衆の寄り合いで、何度目かの久世氏への助力を請うていた。並み居る国部衆の頭目達は渋面じゅうめんで応えて来たし、今もまたそうだ。

 結論は決まっているのだ。国部衆には久世氏に合力する意味などない。

 そもそも皆が皆、緋羽大社の氏子なのだ。

 正確には大社には氏子はいないので分社の氏子だが、彼らにとっては地縁が何より大事、何代経ても久世氏のような「よそ者」に本質的に従う者はいない。ましてや、共同体の核たる緋羽大社を攻めようなどという企てに乗るはずもなかった。

 「義五郎よ、お前だって説得できるなどと思っておらんだろ」

 頭目のひとりが呆れたように言った。膝を崩しているところを見ると、既に会合は長時間に及んでいるようだった。

 対照的に義五郎は折り目正しく正座したままだが、疲労の色は隠せなかった。

 「……いえ、久世本家は今までの大名と違います。領民を治めることさえ調ととのえば国部衆にも自治を認めると明言しています。願うのは領民の平和のみ」

 「言うだけなら何とでも言える」


 各地に存在する国部衆は一定の武器と農耕兵を持ち、大名の領地経営に多大な影響を及ぼしていた。

 場合によっては、「ワタリ」や「サンカ」などの技術集団と重なることもあり、多くの大名がその扱いに頭を痛めていたが、公に自治を認めるというのは思い切った手段だろう。


 「我ら出雲の国部衆は、朝廷から封土された大名に敵対することはなかったが、それもこれも緋羽大社に手を出さないことを暗黙の契約としてきたからだ。それ以外はほとんど見逃してきた」

 事実だった。

 出雲の国部衆は剽悍ひょうかんを以て称賛されるほどの戦上手だったが、代々反乱を起こしたことはなかった。むしろ進んで助力を申し出て、領地内の治安の維持に役立ってきたのだった。

 「継いで半年しか経たぬひめとはいえ、そのあたりはご承知おきだろう。それが緋羽大社に手を出すのならば、古からの約定を反故にするにほかなるまい。それを領民のため、というのは成り立たん」

 彼らが奉じるのは緋羽大社というひとつの神体ではなく、緋羽大社が体現するはん自然論の概念だった。人の手でことわりを強引に捻じ曲げることは、一時の利益を押し流すほどの災厄が寄せ返すのを彼らはよく知っていた。そういう意味で彼らは敬虔けいけんな信者であり、求道ぐどうしゃとも言えた。

 それまでほとんど発言しなかった、一座の中心である白髪の老人が、ぐいと義五郎を見据えて言った。

 「あそこには鬼がいる」

 誰も声を上げなかったが座の空気は一瞬にして重くなった。

 「よしや緋羽大社を攻め取ることが、出雲の弥栄いやさかを約束するとしても、殿と八陣衆をどうする。出雲衆は戦や不名誉に臆するものではないが、戦いは趨勢すうせいはるかして挑むもの。勝ちの見えない戦に我らを押し込むつもりか」

 義五郎はかろうじて耐えた。

 かつては義五郎もまた頭目のひとりだった。久世の領民に対する博愛に共感して国部衆を出たとはいえ、彼らの考え方もよく理解できる。

 彼らは求道者である一方で徹底した現実主義者だった。

 今回は普通の戦ではない。

 多勢で緋羽大社を圧殺して主導権を握る、言うなれば薄汚い戦だった。そしてその戦いにふさわしく、奇襲ですべてを制圧する必要がある。その準備と戦略とが担保できていると証明して初めて交渉が可能だ、と言っているのだ。

 「神女を押さえます」

 義五郎は下腹に力を込めて視線を受け止め、押し殺した声で応えた。老人は眼を細めて、続きを促すように顎をしゃくった。

 「本丸を奥津宮と見立てると、眞魚殿は奥津宮から離れた戦いを望むはず。本殿正面が二の曲輪くるわとして、そこで眞魚殿にはほぼ全軍を以て対峙します。からめ手として別働隊は東より。そしてもうひとつ、山の裏側から本隊を進ませる心づもり」

 「裏側? ……崖だろうに。本隊の何人が登り切れると思うてか」

 「久世の客分きゃくぶんが進める道を見つけております」

 「……ほう?」

 「防備の薄い裏側かられが押し込みます。国部衆には別働隊の主力をお願いしたいと考えております。神女さえ押さえれば緋羽大社はこちらに合力ごうりきせざるを得ません」

 「致命線であれば、防備は堅いはず。少人数で突破できるわけもない」

 老人が義五郎の言葉にかぶせるように問いただしていく。

 「いえ、奥津宮に入れるのは斎宮を除けば眞魚殿のみ、と調べがつきました」

 「であれば周辺に」

 「そのための三面攻めです」

 今度は義五郎がかぶせるように、力を込めたまま言い切った。

 「我らの力を以てして、正面口と搦め手で息を合わせて押し引きすれば、いかな眞魚殿とて、対応に手を取られるでしょう。八陣衆も同様」

 「ふん、そううまくいくかの。人の目論見もくろみが通じるような鬼とも思えん」

 老人は面白くなさそうに笑った。懐から煙管きせるを取り出し、うまくなさそうに吸い付ける。座の緊張がゆっくりと減じた。

 「わかった。いま一度考えてみよう。一両日に返事を返す。いいな?」

 義五郎は大きく息を吐いて頭を下げるのを見て、老人は虫を払うように軽く手を振った。

 「軽軽けいけいに期待するな。緋羽はただの社ではないのだ」


 老人が煙を吐きながら、ふと思い立ったように尋ねた。

 「……義五郎、客分といったな。また、あの女か」

 「あの女……環殿ですか」

 「そう、その環殿だ」

 老人がけがらわしいものを口にしたかのように、露骨に顔をしかめる。

 「国境で落とされた砦はもう六つを超えたと聞くが、決まったようにあの女が行った後に落ちてるのよな。久世はどう思っておるのだ?」

 「しかし、それは環殿のせいでは……」

 義五郎はなだめるように返した。老人は環を毛嫌いしているのだった。

 「……先立って落ちた丸山砦だが、偵候ていこうが言うには久世が優勢だったそうだ」

 「それは……?」

 「そもそもなぜ、敵の攻めてくる出丸がわかる? 今回もそうだ、奥津宮は神女だけしか入れない、誰も知らぬ道を見つけてくる……ずいぶんと都合のいい話だの」

 「……戦法は重臣が描いたものですが……」

 「そうでもあろうが、必要なものは必ずあれが見つけてくる」

 「確かにそうですが……」

 老人は煙管を煙草盆に軽く当てて、陶器の澄んだ音を響かせた。

 「……先日周防の国部衆から逃げてきた女がいてな、考えられないことだが、今の奴らはふたつに割れて、多勢がもう一方を襲ったらしい」

 「国部衆がですが?」

 あまり考えにくいことだった。それぞれの主張はあるにせよ、内紛が起こることはない。国部衆にとって集団の意思をすり合わせることは生きることと同義なのだ。

 「ふたつに割れた理由はな、半年前に現れた艶やかな婆娑羅姿の女に頭目のひとりがそそのかされたからだ、と」

 「……それは一体……」

 老人は義五郎を光る眼で見つめながら、ゆっくりとを二、三度吸い付けた。

 「さてな、環殿か……あれはそもそも人ではあるまいよ。もっと剣呑なものさ……」



     ☆



 闇の中、伏したまま紫庵は細目で辺りを窺った。

 眼は思いの外光るもので、偵察は視界に入らない高さを保つのが望ましい。そうした決まりに思い至らずとも身体が動くのは、忍びの心得がほとんど習い性とも言うべき域に達しているからだ。紫庵はゆっくりと視界を確認した。

 拘束を解くのは赤子の手をひねるようなものだった。

 忍び向けの指つなぎを以てしても、紫庵の縄抜けは抑えられないのだから、単に縄で縛り上げるだけでは捕縛の意味さえ怪しい。

 紫庵は緊張感のない二人組の夜回りをやり過ごし、音を立てぬように城の出口と見当をつけた馬場へ向かおうとすると、鋭い呼気こきが聞こえた。

 「何だきさっ」

 わずかの間をおいて、砂利をはねる音と何か重いものが倒れるような鈍い音が響く。

 紫庵は伏せたまま顔をそちらに向けた。

 夜回りを見下ろして、柿色の装束を着けた隻腕の男がひとり立っている――あろうことか、視線があった。

 見つかったと思う間もなく、男は想像を超えた速さで跳躍してきた。

 紫庵は後ろに跳び退りながら、かろうじて蹴り足を防ぐのが精いっぱいで、そのまま植込みひとつ分飛ばされる。すぐさま起き上がって構えると、男は蹴った姿勢のまま紫庵を見つめていた。

 「やるな」

 「……あんた、城の奴らじゃねえな?」

 「ふむ……緋羽大社八陣衆、ウミト」

 「緋羽大社、だと……?」

 紫庵の総身に震えが奔った。

 「あんた、眞魚って坊主の仲間か?」

 ウミトと名乗った男は、身の軽さを感じる動きで元の姿勢に戻った。

 「仲間というわけではないが、まあ、仲間みたいなものか」

 無表情のまま要領を得ないことを口にする。

 「を……神女を生贄にしようとしてるんだろ」

 「正確には生贄ではないが……なるほど、隠れ里の出か。道理で」

 紫庵は徒手のまま構えた。

 刀を抜かせない方法はある。相手の方が強くても勝つ方法はある。

 樹乃にたどり着くためにはここは退けない。

 「樹乃を、返せ」

 「………」

 ウミトは奇妙な沈黙を保ったまま、わずかの間だったがいきどおる紫庵を見つめていた。

 軽いため息と共にうなずく。

 「奪うのは力づくだ。来い」

 紫庵はウミトの間合いを外して斜めに走り出した。塀際を全力で駆ける。

 紫庵の狙いはウミトの向こう側、灌木や東屋あずまやらしき建物がある小さな庭園に飛び込むことだった。そこなら障害を盾にして攻撃する機会をうかがえる。

 ウミトは紫庵の狙いをあっさり看破し、その進路をふさぎながら蹴りを放つ。

 紫庵はかろうじて避けた。

 力は相手が数段上だ。

 攻撃に移る動きだけで彼我の差が如実に感じられた。

 紫庵は応戦を試みるふりをして注意を引き、脇を通り抜けようとして、強烈な回し蹴りを腹に喰らった。

 したたかに壁に打ちつけられる。

 一瞬気が遠くなるほどの衝撃に、唸り声を上げてかろうじて意識をつなぎとめ、紫庵は立ち上がった。眼の前には息も切らしていないウミトが立っていた。

 「帰れ。お前では取り戻すことはできない」

 「……ふざけんなっ」

 「取り戻すためにはそれまでの倍する力がいる。お前ではまだ、無理だ」

 紫庵は歯を食いしばった。

 息が苦しい。

 内臓を強く打たれたために呼吸が戻らないのだ。

 痛みを耐えながら歯の間から空気を吐いた。口の中を切ったらしく唇の端から血が滴っているのがわかる。ウミトを睨みつけた眼の奥で金属音が鳴っていた。

 「……どいつもこいつもっ……足らないとか無駄とかっ……」

 捕えられている城の中だということも忘れ、紫庵は荒い息をつきながら怒鳴った。

 どうしようもなく腹が立っていた。

 人を超える強さを持つ奴らも、樹乃が進んで生贄に行ったことも、自分の力が足らないことも、何もかも全て気に入らなかった。

 どいつもこいつも勝手しやがって。

 まるで危険を知らせるかのような高音がひときわ高く鳴った瞬間、世界は暗紅色に変わった。

 身体中に満ち溢れる万能感と同じだけの畏怖、極大な二律背反の感情は制御不能となり、好むと好まざるにかかわらず進む道にある全てをなぎ倒してしまう。それこそをかつて人は「鬼」と呼んだのではなかったか。

 「……珍しい。“おに”とはな」

 それまで無感動だったウミトの声が興味深そうな調子を帯びた。無駄のない身ごなしで紫庵に近づいて胸ぐらをつかむと、勢いよく両頬を張った。

 「戻ってこい。死ぬぞ」

 言いながらもう一度平手を打つ。

 紫庵の眼から急速に赤味が落ち、再び焦点を結んだ。ウミトの手を振り払う。

 「痛えな! やめろってんだよ!」

 「よく聞け。“鬼麻呂”は隠れ里にごく稀に生じる純粋な人鬼だ。いずれ確実に正気を失い、眼の前のもの全てを破壊する運命だ。誰かを助けるなどできるわけもない」

 「……な?」

 「衝動に身を任せればその日が早くなる。自分と相手の破滅の日がな」

 「あんた……?」

 ウミトが強引に紫庵を立たせ、軽く胸を突いた。

 が、先ほどまでの戦いの色はなく、年少の後輩に対する軽い労わりのようなものが感じられた。そのままウミトは紫庵を見つめる。

 そのまっすぐな視線に紫庵は気圧された。

 「……神女を救う、と言ったな?」

 「……ああ」

 「お前のやろうとしていることは無駄だ」

 「あぁっ?」

 「神女になった女は、二十歳までも生きられない」

 紫庵の眼が不審そうに細められる。

 「何を……馬鹿なことを」

 「……死ぬわけではないな。死ぬよりひどい。穢れを貯めこみ続け、妖物になる」

 「……ようぶつ?」

 「化け物だな。簡単に言うと」

 紫庵の当惑をよそに、ウミトは淡々と続けた。

 「貯め込んだ穢れを以てして、大神封印が可能になる。それが女たちの存在意義だ」

 「……何言ってるんだ? 一体……だって樹乃は……」

 「神女になって三年もすれば、鍛えずとも倍の速さで動けるようになる。同じかたちの女の五割ほども重くなる」

 紫庵は樹乃の舞いの鋭さを、樹乃を抱きかかえた時の違和感を思い出していた。

 何でもないことと意識の隅に押しやっていた不安が逆巻いた。別れが迫っているからだと思い込んで目をつぶっていたのだ。

 確かに樹乃は、異常に重かったのだ。鍛え抜いた自分がふらつくほどに。


 ウミトは名状しがたい感情を乗せた視線を紫庵に当てていたが、ふいと眼を逸らせて囁くように言った。

 「お前がどんなにあがいても、万が一助けられても無意味だ……むしろ、死なせてやれ」

 紫庵が弾かれたように眼を上げた。

 何か言いかけたが言葉が出てこなかった。喉元まで出かけた言葉以上の何か熱いものを呑みこんだ気がして、紫庵は身をよじった。


 突然、甲高い呼子よびこの笛が鳴った。侵入者を見つけた夜回りが応援を呼んだのだ。警護の兵が威嚇の声を上げながら三方から駆けつけてくる。

 ウミトは素早く壁を背にして見渡した。紫庵には眼もくれず、集まった兵を前にうっすら笑う。

 「本日は警告だ。緋羽大社に手を出すな。一族郎党、出来るだけ遠くへ逃げるがいい。姫御前にも己の分をゆめ忘れるなと伝えろ」

 「きさまっ!」

 勢い任せに兵のひとりがウミトに突っかかった。難なく刀を避けて、ウミトは兵の下腹に膝蹴りを入れた。悶絶して崩れ落ちる兵を足場に、後ろざまに宙返りして塗壁の向こうに消える。鮮やかな逃げっぷりだった。

 警護兵たちが目を奪われた隙に乗じて、紫庵も植え込みに飛び込んだ。

 警護の兵長らしき男がウミト追跡の指示を命じる塩辛声を聴きながら、紫庵は細い木の枝の間に縮こまったまま気息を絶った。潮が引くように警護兵たちのウミトを追う声が遠ざかっていく。



     ☆



 頃合いを見て植込みを這い出た後、紫庵は警護の兵たちと逆の出口から城を抜け出していた。

 城の西側には段々畑が広がり、斜面のふもとには集落があった。

 紫庵は人目につかぬよう、畔に建っていた農具小屋のひとつに潜り込んだ。そこそこの時間は経ったはずだが、まだウミトに蹴られた痛みが左わき腹に残っていた。骨はいってないが、強烈な打撲傷でしばらくは息をするたびに痛いだろう。

 「あの野郎……」

 紫庵は小さな声で毒づき、小太刀を膝の間に置き傷をかばうように右側に寄りかかる。身体はひどく疲れていたが、眠れそうになかった。

 ウミトの言葉には嘘がなかった。

 忍びは情報を得るために心理戦にも長けているものだが、それを超えてウミトの言葉には飾りがなかった。

 本当のことを言っていたのだ。

 しかも敵なのに、なぜか自分に同情していたように見えた。


 であれば、樹乃は。

 樹乃は、助からないのか。

 自分が助けることは、むしろ樹乃を苦しめることになるのか。

 緋羽大社の属人だからといってウミトが本当に正しいのかどうかわからなかったが、今までで最も信じられそうな話だった。信じたくはなかったけれども。

 そして、自分。

 自分は何になってしまったのか。

 力は手に入ったが、それは誰も救えない力だったのか。

 

 ――紫庵の混乱は、いっかな収まる気配がなかった。











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