4.久世本城、戦う相手、秘密は綻びる
後ろ手に縛られている紫庵の前で、苦虫を噛み潰したような家臣団が座っていた。
久世氏の重臣たちだ。
ひとりだけ、華やかな衣服を着けた少女が上座の脇に立ち、彼らとは対照的に微笑んでいた。
「おかえりなさいませ、琴葉様」
琴葉が軽く手を上げて応え、そのまま上座に座る。先ほどとは変わって袴を着け、肩先までの髪を軽くまとめていた。
久道は最前の家老席に、少女は琴葉の傍らに座る。それを見て、久道の口元が癇が起きたように引きつった。
久世の本城は、山城というほどではないが小高い丘の上にある。
西と南には斐伊川とその支流を堀がわりに、その内側に深い堀が二層に渡ってある。
攻めるには東側の狭隘な谷を抜けてくるしかない道理だが、途中の出丸が矢を射かけてくるとなれば、攻めるには中々の犠牲を強いられるだろう。築城に秀でた琴葉の祖父が造り上げた城だ。
その二の丸から、紫庵は開け放たれた戸から彼方の山を見ていた。誰に教えられたわけでもない、青黒い雲が山頂にかかっているそれが、緋羽大社だとなぜか確信していた。
あそこに樹乃がいる。
そして眞魚も。
「何か感じるか」
紫庵は唐突に意識を引き戻された。知らず食い入るように見つめていた紫庵を、琴葉を初めとした重臣たちが興味深そうに観察していた。
「……何?」
「あれは太古の昔、このオオヤシマを造った大神が封ぜられているという山だ」
「大神?」
紫庵が眉をひそめながら問い返すと、琴葉は独り言のように言った。
「その力は遍く天地に行き渡り、使いようによっては全て亡ぼすことも統べることもこともできる、と」
「……それで?」
「その大神を封じている者たちがいる。彼らの住まうところが、お前の探す緋羽大社だ」
紫庵は首を振った。
「俺には大神なんてのは関係ない」
「まあ、そういうな。市で領民を救ってくれたことには礼を言うが、鬼となれば、緋羽大社とどうしても関係があるものだ。ましてや、我らは大社と敵対せざるを得ない仕儀であるゆえな、話を聞かせてもらいたい」
「……敵対? どういうことだ?」
重臣のひとりが口をゆがめて促す。
「小僧、琴葉様の問いに答えよ」
紫庵は声のした方を一瞥し、面白くなさそうに鼻を鳴らした。
「俺は樹乃を取り戻して、眞魚ってのを殺すだけだ」
額に皺を寄せた重臣のひとりが呟いた。
「眞魚という名……禍事で聞く名ですな。人外の力を持ち、緋羽大社では特権的な参議であると。それが、仇か」
最後のひと言は紫庵に向けられたものだ。
「そうだ。理由もなく、里は皆殺しにされた……奴が言うには、早いも遅いも死ぬのは一緒だと」
重臣たちの重苦しいざわめき、並み居る顔には当惑が見て取れた。
緋羽大社には手を出さない約定は、久世氏が治める前からの古い盟約であり、それを犯す者には容赦なく鉄槌が下されてきた、と聞く。眞魚という名はそのたびに囁かれてきた、言ってみれば禍いの象徴のごとき符牒だったのだ。
だが、琴葉は紫庵を見つめながら何事かを考えている様子で、聞いていなかった。
「おまえ、鬼になった時、意識はあるのか?」
「? 鬼、てあれか? “呼ばれる”時か?」
「何が呼ぶ?」
「いや、そう言われてただけだ。忍びが道を間違えないよう、戒めで使われてた」
「その“呼ばれる”時、自分のしていることをわかっているのか?」
紫庵は少し首を傾げるふりをして眼を逸らした。この姫様の視線は何か強すぎる。
「見てはいるが、わかってはいない、感じかな」
「ふん。お前は不思議に思っていないようだが、そういう人間は多いのか?」
「……いや、いなかった。ただ、統領からくどく聞かされていた。“呼ばれる”と、命の瀬戸際で何倍の力を出すことができるようになるが、自分では制御できず、ついには命を差し出すことになる、と。最期まで忍びとして冷静を保て、という意味だと思っていた」
紫庵はゆっくりと、呟くように言った。
「でも、好都合だ」
自分の力では決して眞魚を倒すことはできない。彼我の差は見極められないほどに遥かだ。ならば、使えるものは何でも使う。力を手に入れることができるなら命くらい差し出す。この身を鬼に喰わせてでも眞魚を殺すと決めたから。
そういう意味のことを紫庵は淡々と話した。
座は寂として声もなかった。
年端もいかない少年であればなおさら、重い決意に触れると人は居住まいを正すものだ。琴葉の光る眼が伏せられた。
奇妙な空白のような沈黙を、まるで壊れものを支えるように柔らかい声がした。声を抑えたとも思えぬのに、皆のさざめきが着地した瞬間を見事に捉えていた。
「あなたの里、とは、神女の里ですか?」
微笑みを絶やさずに座っている、琴葉の傍らの少女が紫庵をひと筋に見つめていた。紫庵は年の割には多くの人間を見てきたし、忍びの性とも言える人測も得意と言えるほうだったが、彼女にはおよそ性格のにじみさえ見込めず――見たままの天女か、それとも余程の性悪か。どちらにしても近づきたくない存在だった。
琴葉は沈黙から覚め、少女に視線を投げかける。
「どういうことだ、環」
環と呼ばれた少女は微笑んだまま重臣たちを軽く見渡し、紫庵に視線を戻して口を開いた。自分の見せどころを心得ている女のやり方だった。
「緋羽大社を筆頭に、神女の社はこのオオヤシマに八ケ所あると聞きます。緋羽大社ことマサカヤマツミ、そしてオドヤマツミ、オクヤマツミ、クラヤマツミ、シギヤマツミ、ハヤマツミ、ハラヤマツミ、トヤマツミ。いずれも深山幽谷にあり、余人を近づけぬ土地。あなたは、オクヤマツミの出ですね」
「……俺よりあんたのほうが詳しいみたいだな。教えてくれ、どうして俺の里は皆殺しにされたんだ?」
「そこまでは。ですが、眞魚の仕物であれば、いずれにせよ大神封印の秘事に関わることなのでしょう」
「……そうそう都合よくはいかぬな」
聞こえないように呟いた琴葉は、おもむろに声を張った。
「時は戦国、各地で守護は簒奪され、豪族どもが大名と名乗り鎬を削る下剋上、力無くしては安寧を得られぬ世だ。我らの望みは他国に怯えることなく、日々を安んじて暮らしたい。それだけだ」
琴葉は眼下の領民の住む町割りに視線を向けた。
「国を保つなどと、難しいことではない。家族が、友が、顔を合わせる程度の知り合いが、食うに困らず、日々笑って過ごしていければいいのだ。だが、そんな願いすら力なくしては守れない。ともすれば容易く蹂躙されてしまう」
琴葉は紫庵に視線を向けた。その強い眼を真っ向から受けて、紫庵は思い至った。
「……それを守るために、大神を利用するってことか」
「察しがいいな。神力を以てこの国を豊かに、願わくばオオヤシマに安寧をもたらす」
紫庵は無表情だった。
とりなすように環が言葉を継いだ。
「緋羽大社の者共は、琴葉様の志も知らず、ただ徒に大神を封じるのみです。先だっては東の国境にある村が襲われ、奪われました。老若男女の別なく殺され、燃やされたのです」
……紫庵は眉をひそめた。
全員が殺されたというのはおかしい。戦の勝者には戦利品が必要だ。奴婢はその中で最も価値のある財産のはずなのに?
逆に、だからこそオクヤマツミの里での出来事はおかしいのだ。
環は紫庵の表情を、不審ではなく怒りと取ったらしい、少し勢いこんで続けた。
「これが戦国の世の常。そうです。力がわずかに劣っていただけで、それまでの日々を全て打ち消されてしまう。これでいいのでしょうか?」
環は言葉を切って、悔しそうな顔をしている重臣たちをもう一度丁寧に見渡した。
「いいわけがありません。今が、間違っているのです。領民が安寧に暮らせない今が。私たちは変えなければなりません。領民が心安らかに暮らせる国を作るのです。私たちにはその力がある。いえ、私たちにしかできぬことです。そのために我らは、大神の力を手に入れる必要があるのです」
本来軍議をする間であろう、広々と風通しのよい板の間に少女の声は響き渡り、重臣たちは久道を除いて聞き入って、というより身を委ねているように見えた。不思議なことに、そこに座らされているだけの紫庵にさえ強制的に浸み込む力があり、重臣たちの姿を見て紫庵は我に返った。
「……話は終わりか?」
紫庵の言葉に、環の口元がわずかな一瞬だけ引きつった。
「悪いが、俺が背負う話じゃない。あんたらだって俺にかまけている暇なんてないんだろう?」
再び何事かを考え込んでいた琴葉が、顔を上げて紫庵を見つめた。眼を伏せてため息をつく。
「……そうだな。だが、お前の中には鬼が棲んでいる。協力しないならば、今暫く滞留願おうか。全てが済むまでな」
琴葉が軽く首を傾げると、部屋の外に控えていた衛兵が進み出た。紫庵の両腕に手を添えて立たせる。思ったより丁寧な扱いだった。
「義五郎は来たか」
再び重い軍議の雰囲気に戻ったところで、琴葉は先ほどの壮年の兵を呼んだ。ふすまの敷居の手前に男が膝行して進み出た。
「は、ここに」
「国部衆はどうだ? 少しは変わったか」
「は……依然、緋羽大社側につくとのことです。彼らにしてみれば、自分たちの根でありますれば」
琴葉の眉根に苛立ちが寄った。義五郎の肩が動く。
怒りを抑えるために琴葉は軽く深呼吸して息をついた。
「……地縁はかくも深き、か」
義五郎がおずおずと顔を上げる。迷うような視線だった。
「琴葉様」
「……どうした」
「……実は、お伝えするべきかどうかわからぬ事柄ですが……」
琴葉は訝しげに義五郎に向き直る。
「言ってみろ」
「は。出雲の国部衆が、特にワタリの連中と縁が深いことはご存知かと思います。ワタリが言うには、伯耆、周防の国部衆は出雲の国境を侵すべからず、との厳命が生きているという話です」
ワタリとは、人別帳に記されない、鉄工や木工の技術を以て諸国を渡る往来の民をいう。彼らは朝廷に任命された大名ではなく、もともとその土地の勢力、すなわち国部衆たちと縁が深かった。
大名にしてみれば、誰の味方でもない彼らは目障りと言っていい存在だったが、戦に必要な刀や矢じりなどの技術の伴う消耗品は、彼らが作成を一手に引き受けている状態だったので無下にはできない――大名たちの勢力争いは、ワタリや国部衆をいかに味方にするか、という側面が無視できないほどには大きかった。
「? おかしいではないか。現に、両側から攻められているのだぞ!?」
冷静な琴葉が珍しく声を高め、その圧力に義五郎は平伏したが、無言で続きを促されて義五郎は再度顔を上げた。
「……ワタリの連中の情報がおよそ間違ったことはないのですが……この頃の侵攻は、襲われた村も守備隊も残さず殺されています。両側共に。それが何か奇妙な……」
琴葉はため息をついた。
この時代、戦をするのは何より住民を奪うためと言っていい。
自国の人的資源として、土地の開墾や商工業の発達、人口の増加に比例する税収の増加。様々に国を富ますために他国を攻めるはずなのに、最も大事な資源をみすみす潰していくのでは、戦いを仕掛ける意味がない。
だから、わからないのだ。彼らの意図が。
「……義五郎、もう少し詳しく調べてみてくれ。それと、引き続き国部衆の助力を交渉してもらいたい。彼らに話せるのは、国部衆出のお前だけだからな」
思慮深い眼に戻って指示を出す琴葉に、久道は大きくうなずいた。国部衆の助けがあらばこそ、緋羽大社との交渉も有利に進められる。
ふと、琴葉と義五郎を見やった久道の視界に環が入った。
環は薄く微笑んでいて、久道に気づくと花のように笑ってみせた。そして重臣たちや義五郎に笑顔を向ける――が、久道は見逃さなかった。環が義五郎を見る眼には、明らかに濃い蔑みの色が浮かんでいたのだった。
☆
陽が没して残光が山の端にわずかに残る頃、樹乃は緋羽大社の石段を登っていた。
ふたつのうち左側の鳥居の手前で一礼し、口の中で祝詞を唱えると鳥居をくぐる。それに合わせたように左側の本殿の門がゆっくりと開いた。
門前には斎宮の楚良が立っていた。
「よくぞ参られた。オクヤマツミの神女よ」
樹乃は表情を変えず一礼し、それから唇を引き結んだ。
☆
城の中庭で、久道は木に寄りかかって考え込んでいた。
初夏の夜はすんと気温を落として肌寒く、昼間の服では気持ち震えが来るほどだ。しかし久道は一点を見つめたまま微動だにせず、数刻前の義五郎の話を反芻していた。
確かに奇妙な話だった。
そもそもが、伯耆の平戸家と周防の国部衆とは久世の先々代から友誼が続いていた。彼らとの橋渡しをしたのが久道の祖父だった縁で、久道は若輩ながら家老の席に座っているのだ。それが何の予兆もなく侵攻された時から辻褄の合わないことが多い。
義五郎の話を聞いて、久道は何がきっかけか思い出しかけたのだったが、核心になると思考が堂々巡りをしてしまい、もどかしく必死に想念を追っていたのだった。
久道が放った忍びの報告によれば、攻め手は自分たちの被害も顧みず、憑りつかれたように守備隊を殲滅して、逃げるように去っていくとのことだった。その先に攻め込むことさえしない。戦の高揚もなく勝利の美酒もなく、ただひたすら後味の悪い殺し合いだけ。
長く考えて、久道はひとつの結論に達した。
恐怖、だ。
彼らは久世の本隊に出会うことを避けている。
出雲に侵攻したいわけでもない、極言すれば国境を攻めたいのではない、攻めざるを得ない理由があるのではないか……先ほどの義五郎の話を聞いていて解が閃いたと思ったのだったが、いつものように捉えることができぬまま闇に没してしまっていた。
「久道殿、少しいいかね?」
人の気配など微塵もしない右の茂みから声がして、反射的に久道は柄を握った。
気負わぬまま、ぼうっと立っている心玄の姿があった。
久道は驚いたことに恥じてゆっくりと手を下ろした。気づかぬうちにこれほど近付かれたのは稀なことだ。心玄が相当な使い手であることを久道はあらためて知った。
「あの紫庵という坊主は牢へ入れられたのかね?」
「……そうだ。いま鬼を解き放つわけにはいかぬ」
「そうか。坊主はどんな様子だったかね」
「どういう意味だ?」
「言葉通りの意味しかありゃせんが……眼は赤くなっていたか?」
「いや」
「そうか……まったく嘆かわしいな。まだ人を屠るのに躊躇があると見える」
心玄は大仰にため息をついてみせた。久道は鋭い眼で心玄を見つめている。
「貴公は血の匂いがするな……少しは自重してもらいたいものだ」
「自重ねえ……人を斬ることが我が流派の資格であるからなあ……まったく難しい」
心玄は心底困ったように笑った。
そして笑いを残したまま、その身体がゆらめいたように見えた瞬間、鋭い息と共に居合を抜き放った。
澄んだ音が夜闇に響いた。
心玄の刃先は、久道の五寸ほど抜いた刀の峰で受けられていた。
「ほう、良い反応だ。やはりなあ」
「貴様……」
心玄は明るく笑って、稽古が終わった時のように軽く一礼して刀を収めた。
「いや、失礼失礼。癖ってやつなんだよ。腕が立ちそうと見るとついやってしまう」
「……ふざけるな」
久道は心玄を睨んだまま応えた。
先ほどの一撃は予想していたから防げたが、再び同じ調子で斬りつけられたら防げないかもしれない。
心玄という男は、剣気も殺気も発しないままに、致命の斬撃を送り込んでくる。視線を外すのは剣呑だった。
久道の思考を読んだかのように、心玄は大仰に両手を挙げてみせた。
「誤解せんでくれ。これは『刃合わせ』と言って、我が流派では挨拶みたいなものだ」
「……」
「天剋流は武を以て悟りを得んとする一門だ。人殺しも突き詰めれば悟りに至るものさ」
「……正気の沙汰ではないな」
心玄は鼻で哂った。
「とぼけるなよ。お前さんの剣は見せてもらった。人を殺すことが目的だと本当はわかっていても、鍛えなくちゃいられない修羅だ。人殺しなんて結果に過ぎんよ」
「……貴様と一緒にするな」
「人間、心の支えは必要だ。あんたの姫さんが国にすがるのと同じく、あんたが姫さんにすがるのと同じく……」
心玄はわざとらしく言葉を切って久道を覗き込んだが、久道もその程度の挑発で怒るほど子供でもない。心玄は興味をなくしたように肩をすくめて歩き出した。
久道はその背中を見つめながら緊張を解いて、ゆっくりと刀を鯉口まで戻す。右手が先ほどの斬撃を受けたせいで、少し痺れていた。
心玄は肩越しに振り返りながら、自分の鞘を軽く叩いた。
「私は、この刀にすがることで生きている、のだよ」
久道は黙ったままだった。
☆
緋羽大社の奥津宮の下、本殿からは見えないところに山肌を削って潔斎堂がある。通常は「開かずの間」だが――「火之夜儀」はここで執り行われる。
潔斎堂の前には石畳が敷き詰められていて、その地面に樹乃が馴染み深いような、そうでないような――六芒星の中心に茅の輪が描かれている文様が刻まれていた。
いつも見てきた形と逆だ。
茅の輪の中に六芒星が収まっているのではなく、中心の正六角形の中に内円が描かれている。そして、その円の中には太極図のごとき陰陽が重なり合っていた。陽中の陰、陰中の陽が刻まれているところは通常と同じに見えるが、陰陽道で見かける姿ではない。
「火之夜儀」の解図に曰く「太極は二項を生じ、二項は四象を生じ、四象は八卦を生じ、なお二卦を滅す」と言う。
――自然界で言うところの「力」とは、強核力、弱核力、電磁力、重力の四つだが、この中で重力だけが性質が極端に違う。
前三者の力は、距離が離れれば作用が減る点で物理的に等差級的であるのに対し、重力だけは等比級的に減じる。生じた力がどこかに逃げているのだ。
自然界は対称性を重んじるはずなのに、重力だけが孤立している。
ここから、人が知らない「可変できない力」がふたつあるのではないか、という推測が成り立っている――実際、その図は世界の成り立ちに最も近い姿だった。
樹乃には知る由もないこと、と言うより知りたいことではなかったが、潔斎堂の入口、三段ほど階を上がったところから見下ろしていると、理由もなく落ち着かなくなった。
――いびつだ。
歪んでいるのではない。
正確すぎるのだ。
どのような方法かわからないが、わずかの齟齬もなく正六角形自体が正確に方位を刻み、その中に完全な接線の内円が収まっている。
およそ見ることの叶わない完璧な幾何。
樹乃の立つ場所は、陰中の陽にあたる図形の下側だった。上には斎宮の楚良が立つ。
「火之夜儀」の際には全てが逆転する、と聞いている。
樹乃は最後に斎宮が封印をするための踏み台だった。皮肉なものだ。斎宮の次に能力が高い、という証明だ。望まない能力だが。そして苦痛は恐らく最も長い。
他の神女たちは、潔斎堂の中で自分の道具をゆっくりと用意している。
ある者は幣束や榊、鉾鈴だったり、ある者は金剛杵だったり。樹乃は使い慣れた独鈷杵だけを腰から下げていて、用意する物は何もなかった。
床を擦る足音がして、楚良が現れた。神女達は手を止めてその動きを眼で追う。
楚良は壁際に並べられた八本の燭台に歩み寄り、ひとつだけ点いていない蝋燭を灯して、ひっそりと呟いた。
「これで、八つ」
静かな声が建屋の中に反響して、ゆるやかに空間を満たした。
その声に込められた哀しみに樹乃は胸を打たれ、同時に自分の行く先を実感して首を垂れた。
楚良は灯したままの姿勢でしばらく壁を向いていた。
が、ゆっくりと振り返り、少女たちを見渡して優しそうな微笑みを浮かべて言った。
「あらためて歓迎します。ようこそ、緋羽大社へ」