3.出雲国、鬼が棲まう者、約束の日
真っ暗な中、樹乃はほとんど裸体で正座したまま、体中に奇妙な紋章を描かれていた。
樹乃のところだけなぜか明るくて、周囲で雑色女たちが墨でゆっくりと紋章をなぞっている。見たことのない文字のようなそれは、彼女の体表を動いているように見え、紫庵は眼を瞬かせた。
雑色女に囲まれた樹乃が、ふと眼を上げた。
正面にいる紫庵を無表情に見つめ、そのまますいと視線を奥の暗闇に移して立ち上がる。そして、周囲の女たちと共に驚くほどの速さで遠ざかり、見る間に闇に呑みこまれた。
「樹乃?」
紫庵はひとり取り残された。
「樹乃……?」
もう一度彼女の名前を口にした途端、紫庵は押しつぶすような絶望感に襲われた。
――今が最後だった。
今呼び止められなかった自分は、決して樹乃を取り戻すことなどできない。取り戻すことはおろか再び会い見えることさえない。
それだけは確かだった。
根拠などないままに、確信の大きさだけは輪郭まではっきりと見えるようだった。
「……樹乃」
自分とこの世とをつなぐ錨――青黒く渦巻く憎悪の炎で身裡を満たしながら生きているのは、樹乃に会うためだったのに。
それがたった今、潰えた。
紫庵はきつく眼を閉じた。
舌の先まで痺れていた。力を込めてないと座り込んでしまいそうで、紫庵は両の拳を握った。
考えればでも、そのよすがはずいぶん前に切れていたのだ。
樹乃が神女に選ばれた時、自分は声を挙げなかった。
ふたりの間にあるものが失われると知りながら、見ないふりをしていただけ。独りだと知りたくなかっただけだ。
切れた鎖をつなぐことさえ手に余る、その遠さを紫庵はよくわかっていたのだった。今更呼び止めたところで、言うべき言葉などない。
闇を縫って、どこかから錫杖の鳴る清明な音が聞こえてくる。この上なく苛立たしいのになぜか懐かしいそれに唱和するように、紫庵は口の中でもう一度彼女の名前を呟いた。
☆
紫庵は人の往来の音で跳ね起きた。
物売りの声とざわめきがこだましている。
忍びはわずかの物音で起きるように訓練しているものだが、入念な穏形に安心していたのか、不覚にも相当深く寝入っていたらしい。
「夢か……」
ここ何日かほとんど寝ないで歩いてきたせいで、合戦場を離れる頃には疲労が極限まで達していて、小さな寺の茂みに潜り込んで寝ていたのだ。神社のほうが里から離れているので安心だったが、そんなことも考えられないほど困憊していたのだった。
紫庵がさりげなく門柱から首を覗かすと、夕刻の門前には市が立っていた。質素ではあるがそれなりに身ぎれいにした人々が、賑やかに作物を売り買いしている。時折値切る声と笑い声が聞こえてきた。出雲は想像していたよりずっと穏やかだった。
一瞬だけ、ほんの一瞬だけ、紫庵の身裡を憎しみに似た巨大な感情が閃き過ぎた――里はなくなったのに。
視界にゆるやかに暗赤色の帳が降りかけて、紫庵は眼をつぶり深呼吸する。
筋違いだ。
それをぶつけるのはたったひとり。
紫庵は我に返って自分の服を見返した。
汚い。少し匂う気もする。
忍びの習性ともいうべき、川で臭跡を消す時間も惜しんで急行したせいだ。
あからさまによそ者であれば当然警戒されるが、何か腹に入れなくてはこれ以上進めなさそうだ。紫庵は意を決して門柱から滑り出た。
門前市の入口には、長槍を捧げた男が両側に立っていた。通り過ぎようとする紫庵を眼で追い、唐突に槍を交差させて止めた。
「待て」
「……怪しい者じゃない。食糧が欲しい」
がっしりとした体格の中年男が首を傾げた。
「見ない顔だがどこの者だ?」
「……熊野」
どうやら誰何をひとくさり終えないと通してはもらえないらしい。
「ずいぶん遠くから来たもんだな。用向きは?」
「緋羽大社に行く」
男たちはあからさまに動揺を見せ、口調もいきなり強いものになった。若いほうの男は険しい視線を紫庵に浴びせている。
「貴様、大社に何用だ?」
「……何だ? 神社に出向くのにいちいち許可がいるのかよ?」
中年男はため息をつき、少し口調を和らげて訊き直した。
「ま、そう尖るな。ここらも合戦の影響を受けて、はぐれが野盗などしよる。ただでさえよそ者は警戒される上に、大社とは今あまりいい仲とは言えんからな」
紫庵は鼻を鳴らし、呟くように言った。
「仇討ちだ」
「あだ……」
紫庵の前方、市の端の辺りから大きな悲鳴が聞こえてきた。
「うわああぁぁっ」
瞬時に眼つきが変わった門番ふたりが振り返る。
露天商と住民が、叫び声を上げながら一斉にこちらに向かって逃げてきていた。
少し先の街道から、五頭の馬を駆った野盗と思しき集団が見えた。露店を打ち壊しながら距離を詰めてくる。
門番のふたりは眼を見交わし、中年男が人の流れに逆らって市の中央に躍り出た。長槍を構えて大音声で威嚇する。
「是非もなし! この桜井義五郎が、貴様らのそっ首打ち落とす!」
意外に圧のある声だった。最前線で吶喊したことのある人間しか出せない、芯に響く声だ。
紫庵は肩をすくめた。人は見かけにはよらないもんだ。
義五郎と名乗った中年男は、先頭の男の槍をかいくぐって隙だらけの脇をえぐった。
冷静だ。革鎧の継ぎ目を見極めている。
甲高い悲鳴を上げながら男は落馬し、少し後ろの仲間の馬に頭を踏まれて悲鳴を止めた。
踏んだ馬も片足を滑らせ前のめりになり、乗っていた男を前方に振り飛ばす。
義五郎は素早く後ろに振りかぶると、脇に挟んだ槍を大きく振り回した。
突然の障害物にたたらを踏んだ残りの二騎が、あえなく長槍に跳ね飛ばされる。
驚くべきことに、義五郎はあっさりと馬上の有利を覆してみせた。
野盗が並行に走る訓練をしていないからといっても、場所を見込んだ水際立った手並みだった。
脇を走っていて巻き込まれなかった残りの一騎が、紫庵に向かってきた。
もうひとりの若い男は寺に住民を誘導していたから、その場にいる紫庵を仲間と思いこんだのだろう。いい迷惑だ。
男が長巻を大きく振りかぶる。
紫庵は小太刀を抜いた。
こういう対峙では間合いの深さは圧倒的に有利だ――が、突く、薙ぐが有利を生かす方法なのに、わざわざ振りかぶる野盗にやられるほど間抜けではない。紫庵は呼吸をはかって横に跳んだ。
手ごたえのなさに男が振り返った時には、紫庵は逆に跳んで馬の左後ろ脚を切り落としていた。
愕然とした顔のまま男は馬と共に横倒しになる。
義五郎はと見ると、手負いも含むとはいえ、さすがに三人を相手にするのは骨が折れるようで苦戦している。成り行き上助けようかと踏み出した時、先ほど倒れた野盗の男が馬体から足を引き抜くのが視界の端に映った。
振り返ると、逃げるのかと思いきや、露店の片隅に震えている逃げ遅れた母娘に向かっている。奪い取るどころかあしらわれかねない状況で、逃げる手土産に八つ当たりの殺戮を決めたらしい。
――もちろん、世の中というのはそういうものだ。
力が弱ければ何をされても文句は言えない。
殺されれば文句を言える口さえない。つまらない道理だ。
今は力が強い彼らも、やがて野垂れ死ぬか、それとも、どこかで頭を割られて、薬として脳みそや生き胆を取り出されるのだ。
しようがない。
紫庵も忍びとして行った先で、唐人部落の医者と称する奴らが行っている陰惨な所業、野盗どもを生け捕りにして泣き叫んでいる彼らを意に介さず分解していく様を見たことがあった。
彼らの行先は万病に効くという六神丸だ。死んで薬に変えられて、初めて誰かの役に立つ、というのも皮肉なものだ。
だが――紫庵は桁違いの強さで里を皆殺しにした男を見た。
だから、その「道理」は、今の紫庵にはとうてい我慢ならないことだった。
紫庵は素早く母娘の前に廻り込み、振り下ろされた刀を小太刀で受け止めた。
そのまま押し上げると、反動で男がのけぞる。
高い金属音に幼い娘が悲鳴を上げ、泣きながら母親の手を抜けてまろび出た。
紫庵は間髪入れず胴を薙ごうとして、娘の顔の前でかろうじて小太刀を止めた。眼の前に突然刀が現れて、娘が衝撃のあまり凍りつく。
野盗が興奮のあまり、呂律がまわらないままに何かを叫び、少女をめがけてもう一度刀を振り下ろした。
紫庵は咄嗟に少女を抱きかかえ、前に踏み出した。
間合いに踏み込む方が損傷は少なくて済む。
衝撃と、鋭い痛みが肩口を走った。
刀の根元二寸のところが、紫庵の左鎖骨の脇に食い込んでいた。
血がぬるりと出て、思わず紫庵は顔をしかめた。
望んだとおり左側、幸い折れてもいないし、腱も切れてないようだ。いかなる時にも傷を精査する自分の習性はこんな時には役に立つ。
野盗は、紫庵が下から睨め上げた視線に狼狽して、再度刀を振り上げようとする。
……どくん
耳元で音がした。紫庵の身体の中の音だった。
視界に急速に暗赤色が降りる。
野盗が映っている視界が歪み狭窄し、光と影が逆転する。
しかし次の瞬間には、灰色の壁が出来たように色を失った平板な景色に入れ替わった。
現実感のない、書き割りのような景色。
全ての速度が遅くなり、ひとつの想念だけが沸騰した。
――里はなくなったのに。
誰もが死んだのに。
なのに、なぜお前らは生きている?
なぜお前らは、これほどみじめな“生”にしがみついているのだ?
黝黝と粘つく感情が溢れだし、一気に紫庵を覆った。
大事に抱いていた「復讐」と「正義」を弾け流し、ごうごうと音を立てて崩落していく。
紫庵は息を止めて見入っていた。
そして、その無明の闇の向こうからせり上がってきたものは――「嫉妬」だった。
生きていることへの羨望と、にもかかわらず浅ましく生をむさぼる傲慢な存在の全き否定。
滅殺する衝動が抑えきれないほど強烈な、我が身を滅ぼすほど強烈な「死者の正義」だった。
視界が濁った赤に変わり、細まった喉から笛のような高音が絞り出た。
頭の中で何かが弾けると、紫庵は何も考えられなくなった。
何も命令していないのに身体が動いていた。
少女を手放し、そのまま二歩進んで野盗の顎を右手で掴む。無造作にひねると形容しがたい鈍い音がして、野盗の下あごがだらりとぶら下がった。
だらしなく尾を引く悲鳴を尻目に、紫庵は義五郎にかかっている野盗のひとりに疾風のように取りついた。肩車のようにのしかかり、小太刀でその右腕を切り落とすのと頸椎を振り砕くのとがほぼ同時、なおもその身体を足場にして隣の野盗に飛び移る。
野盗は振り向いて驚いた顔のまま、開いた口に小太刀を突きこまれた。
そのまま紫庵は切り下げる。声もなく野盗は絶命した。
最後の野盗は、突然現れたもう一方の敵に狼狽えて逃げ出した。
紫庵はあかあかと光る眼で瞬きもせずに追い、ゆっくりしゃがみ込んだと見るや、獣のように四肢で跳んだ。音がするほどの爆発的な踏込で、ひと跳びで野盗の前に廻る。
絶命の危機を感じた野盗が長巻を振り回すが、紫庵は左手であっさり掴み取った。反動を利用して胴を撫で斬りにしようとした瞬間、金属音と共に小太刀が止められた。
「貴公、鬼か?」
大して力を入れてるとも見えぬ気色で、紫庵を止めているのは山田久道だった。
いつの間にか具足をつけた守備隊らしき集団が、野盗との戦闘を囲んでいる。紫庵はものも言わず飛び退り、警戒心も顕わに辺りを暗赤色の眼で睨み回した。
久道は構えを静かに正眼に戻しながら諭すように呟いたが、諭して聞く相手ではないと思っているのは明白だった。
「殺してもらっては困る。野盗どもを捕えて、残りを狩らねばならないのでな。せっかく張っていたのが無駄になる」
言い終わる前に紫庵が動いた。
四足のまま異様な速度で久道に迫る。
久道が正眼から八双に構えを落とすなり、斜め左上に斬り上げた。
紫庵は太刀筋を見定めることすらせず、易易と右に避ける。
が、久道のそれは眼くらましだった。
久道が瞬時に身体を開き、先ほどに倍する速さの返しが紫庵を襲う。
恐るべき必殺の剣だった。
涼やかな見かけを裏切る、それとも見かけどおりと言うべきか、戦場で先鋒を切り開ける一陣の颶風のような鋭い切っ先だった。そして力ずくでもある。
事実、久道は参戦した戦で数多くの先陣をくじいてきた。
ついた異名が“野火”だ。燃え始めたら誰も止められない。
その刃を、紫庵は身体を斜めによじって避けた。
地面近くで一回転して着地、そのままの形で五歩ほど後ずさりしたと思いきや、そこから一直線に久道に跳んだ。刃合わせする重い金属音がして、久道がよろける。
紫庵は小太刀で続けざまに突きながら、久道の軸足を蹴った。
かろうじて流していた久道が顔をしかめて膝をつくと、間髪を入れずに紫庵は逆の足で久道の胸板を蹴った。
久道の防御は間に合わず、後ろざまに吹き飛ぶ。
すぐに立ち上がった久道だったが、その表情は信じられぬものを見たような驚きに彩られていた。忍びにさえ後れを取ったことがない久道の、言ってみれば「初めての敗北」だった。
守備隊が久道の不利を見て取って、半弓をつがえる。幾本かの矢が紫庵の足元に突き立ち、追撃に踏み込もうとした紫庵の足を止めた。
その隙に体勢を整えた久道が再び対峙する。
敗北に拘泥するほど、久道はやわな精神の持ち主ではなかった。
野盗を討たねば領民の平穏はないのだ。
目的のために自分のことを忘れるほどには、久道は優れた家臣であり……だが、やはり若い。その唇にうっすらと微笑みが浮かんだ。
任務を果たすことが、自分の望むことと重なるのはそう多いことではない。
久道は今、自分の「武芸」を十全に発揮できる機会を得て、掛け値なしに嬉しかった。
戦場は密集戦でしかなく、平時では自分の相手になる者はいなかった。
一対一で存分に戦える機会がそもそもない日々に、唐突に戦う相手ができたことが久道をして思わず微笑ませたのだった。
「そうか、そうでないとな」
久道の整った顔が、先ほどの微笑みから一種凄みのある悪戯笑いに変わる。
「痛かったぞ?」
言うなり、久道は突進した。
突くと見せかけ直前で静止して、紫庵が斜め右に跳び退るのを反射神経だけで逆袈裟に追う。
のけぞった紫庵の顎先を刃がかすめた。
着地する地点の胴間を薙ぎ払い、そのまま突きに変化して、横に交わして伸びきった紫庵の身体の真ん中を一点で狙い定めた。
今度こそは必殺の突きだった。
それさえも紫庵は身体を沈ませて避けた――が、さすがに刃先の鋭さに全て逃げ切れず、右の二の腕を刺し通された。
紫庵の口から甲高い雄叫びが奔り出る。
熱に浮かされたような眼をした久道が刀を引き抜き、そのままとどめを刺そうとして、止まった。
「なるほど、縁があるな」
紫庵の後ろに、ぼろぼろの婆娑羅姿の大男が立っていた。
近づけば気づかぬはずがない大男が、いつの間にか紫庵の肩を抑えている。
心玄だ。
「大事ないかね、久道殿」
正気に戻ったように頭を振って、久道は不思議そうに見た。久世氏にとっては、国境の競り合いの助力をしてくれている天剋流の頭首だった。
「心玄殿……」
「未熟とは言え鬼に手傷を負わせるとは、久道殿の腕は久世の誉よの」
心玄は常ならず満面の笑みだった。この男にとっては、身分によらず、腕のある人間が最も価値があるのだ。
「いや、その男だが……」
「ふむ」
心玄は、紫庵の両腕を遠慮なく拘束しながら、紫庵の赤く光る眼を覗き込んだ。
「ほう。少し澄んだか。やはり強い相手と戦うと一皮むけるということかな」
「その鬼は心玄殿の知己か?」
「成り行きに過ぎないが、まあそのようなものだね」
心玄は首を傾げながら、無造作に紫庵のぼんのくぼを強く押さえた。一瞬紫庵の身体が跳ね上がり、脱力した。気絶したのだ。
「こいつは緋羽大社に恨みを含むと言った。であれば、使いようもあろうさ。大社には本物の鬼人がいるらしいのでな」
久道は自分が刀を抜いたままなのに今更気づき、手近にあった藁で血をぬぐった。
鞘に収める乾いた音。
先ほどまでの高揚は締まりのない終わり方で霧散し、何とはなしに噛みあわない空気に、久道は内心で渋面を作った。
☆
「捕えたか?」
刀を収める音を合図にしたように、生き残った野盗の捕縛に移った守備隊の後ろから、騎乗した琴葉が現れた。
彼女は後詰で、もし野盗が馬で逃げ出したら追う予定だったが、とりあえず今回はその必要はない。馬の腹を軽く蹴って久道に近づいてくる。
久世は小藩で人手不足だが、琴葉はそれを抜きにしても、先頭に立とうとする「困った当主」だった。それが久世をまとめる唯一の手段だと思い込んでいる。幼い頃からの明るさはなりをひそめ、周囲に温かさを感じさせるよりむしろ、時には緊張を強いることになっていた。
当主となって間もなくの頃に久道が諌めると、彼女は論語を引いて曰く「その身正しければ令せずして行わる」と、青白い顔で言ったものだ。
琴葉は確かに当主の器だった。
無私であり博愛であり、何より誠実だった。
領民のためだけではなく、自分と領民が目指すべきものに対して。
それ以降久道は何も言わない。何があっても自分が護ればいいだけだと思い定めたのだった。
「何とか、ふたり」
「? 三人いるが?」
ああ、と久道は気を失っている紫庵を刀のこじりで指した。
「こやつはむしろ野盗を退治たのです。少々力が強すぎたのでこの有様ですが」
「心玄殿が捕えたのか」
心玄は肯定するでもなく微笑で応えた。琴葉と久道の会話を聞かず、引っ立てられる野盗を面白そうに見ている。
生き残った野盗たちは項垂れて抵抗する気力を失っている風だったが、最後に斬られなかった男が無気力に見せておいて逃げる隙を窺っているのが、心玄だけに見えていた。
琴葉の前を通り守備隊が会釈するその瞬間、この男は見事な縄抜けを見せて、琴葉の馬を奪おうとした。
久道でさえ反応が遅れた隙間を、心玄は二歩ほど進み出て、背後から一刀のもとに野盗を斬り下げた。声を上げるいとまもない。
居合の要領で、心玄は既に刀を収めている。小さく合掌した。
琴葉は刀から手を離しながら、鋭い眼で問うた。
「……心玄、なぜ殺す。お前なら当て身でも済んだろう」
久道も険しい顔で睨んでいる。
「なぜ、と聞かれてもな。雇い主に危害が及ぶのを防いだだけだろう」
心玄は興味なさそうに返した。
この男は人を斬る時にも殺気がなく、斬った後も感情が声にも表情にも乗らない。邪魔な石を避けるのと同義、一体どれだけ人を斬ればこうなるのだろうか。
琴葉はため息をつき、義五郎に向き直った。
「義五郎、すまぬが骸を頼む」
野盗に襲われた母娘から話を聞いていた義五郎は、大げさにうなずいてから紫庵を気遣わしげに見た。
「琴葉様、この若いのですが、あちらの親子をかばって斬られたようです」
「……斬られた? 鬼がか?」
横合いから口を出したのは久道だ。
義五郎は久道にうなずいた。
「そのようです。古今、鬼が人を助けるなどというのも寡聞――戦いはまさに鬼そのものでございましたが、あいや、ご家老に刀を向けた責は当然あることながら、災厄をもたらす鬼とは少し違うのではないかとその……」
「助けろと?」
琴葉が微笑して応えた。
「聞けば、緋羽大社に仇討に向かっているとのこと、かの者の事情を斟酌していただけますと……差し出がましいことですが」
「ふん。ずいぶんと買ったな、義五郎。だが、そいつは忍びだぞ。どんな策略を弄しているか、山名かそれとも龍造寺の手かもしれん」
琴葉は紫庵の装備を指差した。
「ええ、そうです。忍びです。であればこそ、市井の者をかばうなどとはありえぬことで」
義五郎が思ったより食い下がるのを見て、琴葉は含み笑った。
「わかったわかった。まずは事情を聴かねば始まらん。そなたの言葉は、確かに聞いた」
琴葉は馬を返しながら、久道に幾つか指示をした。守備隊の何人かが紫庵を別の馬の背に載せる。その様子を見ながら、琴葉が独り言のように呟いた。
「……それにしても、善人よな。我が領民は疑うことを知らん」
久道は言葉の中に含まれるわずかな苦みを察知しながら、努めて明るく言った。
「領民は領主に似るものです」
「久道」
「はい」
琴葉は馬上から覗き込むようにして、久道に言った。
「お前はいつもひと言多いな」