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2.緋羽大社、奇妙な少女、力は相生し相克する

 奥津宮おきつみやから剣ヶ峰のような尾根を進み、は「承永じょうえいおおながれ」で生じた火口の裂け目から雷光がほとばしるのを眺めていた。


 かつての火口は綺麗な円形だったらしいが、二百年前の斎宮さいぐうが「」の際に正気を失って御山が暴走したため、今の姿になったと聞いている。全壊を食い止めたのがだとも聞いているが、楚良に確かめる気はない。

 付近は火口から漏れ出る青黒い瘴気しょうきを浴びて、植物は枯れまたは得体のしれない鉱物のようなものに変化している。長く居ていい場所ではない。わずかの間に身体に変調をきたす。

 そんな場所だったが、楚良は幼い頃から足繁く訪れていた。

 なぜなのかは自分でも判然としない。

 常世とこよを見たい好奇心が最も近かったが、理由を突き止めたところで意味があるわけでもなかった。単に自分を説得したいだけなのだ、と思うことにしている。

 連れ戻しに来るのは眞魚、十三を超えた頃からはウミトが来るようになったが、十五のあの日からは誰も迎えには来なくなった。

 今は楚良は独りで行き、独りで還ってくる。

 「……誰か?」

 楚良は背後の気配に気づき、問うのと同時に誰だかをわかっていた。

 「斎宮、封印の猶予はいかばかりでしょうか」

 「……もはやがれている。累卵るいらんの危うき、といったところさ」

 楚良が振り返ると、離れた尾根の尖った岩先に目をつぶったままのウミトが立っていた。

 斎宮守護の八陣衆だ。柿色の装束が荒涼とした山頂の風景では浮いて見える。

 隻腕のために左袖が風にはためき、防寒のために首元に巻いた琉球風の鮮やかな布が、却って寒さを際立たせていた。

 その飾り布はかつて楚良がウミトに贈ったものだ。

 「で、どうした?」

 「七人目のトヤマツミの神女が到着しました」

 「そう……あとはオクヤマツミを残すのみか」

 「損耗そんもうが三人ほど。妨害にあったようです」

 楚良は眉をひそめた。神女を狙う?

 「どういうことだ?」

 「合戦の余波と思われます。念の為トウガの班が付きました。あと四日もあれば」

 「そうか。ご苦労」

 楚良は軽く手を挙げて、火口に向き直る。背後の気配が消えた。


 ウミトがここに来るのには相応の逡巡しゅんじゅんがあったろうが、別れを告げに来てくれたことに楚良は静かに喜んでいた。まだ自分に喜びの感情があったとは予想外で、楚良は絶えて誰にも見せたことのない笑みを、その端正な顔に浮かべた。



     ☆



 霊山としてまつられている御玄みぐろだけの中腹にある緋羽ひばの大社おおやしろ――正確に言うと、山全体が緋羽大社となるのだが、天神てんじん地祇ちぎに属さない特異な神社であれば訪れる者もないわけで、厳密な区分など必要でもない。


 抜けるように青々とした空の下、ふもとから長い石段を上っていく一行があった。

 緋羽大社はりょがいだが、御玄岳を領地内に囲うことになっている氏、現当主のこととその臣下たちだった。

 琴葉は万が一にも争意を見せぬように平服だ。

 そのため線の細さが服の上からも伺え、かえって気品と生硬な色気を漂わせることになっている。

 長兄次兄の早逝から、可憐な少女が久世の家督を継いでわずか半年ほど、琴葉が女性の身でありながら落胤らくいん中で突出して文武にひいでていたために、久世の家は当主の下かつてないほどに団結を誇ることになっていた。


 途中でふたつに別れた石段を登り、それぞれが小さな鳥居をくぐると巨大な正門に出る。古式のやしろによく見られるが拝殿はいでんは存在しない。その奥、瑞垣ずいがきに囲われて屋根しか見えない高床の本殿が、左右対称に二棟立ち並んでいて、独特な千鳥ちどりが尖った印象を与える。

 「ずいぶんな石段だな」

 「神州に例なきと言われてますからね。山ごと社ですし」

 琴葉と怜悧れいりな容貌の青年が、後続を引き離して登り切った。琴葉は意志的だがどことなく幼さの残る眼差しで山頂を仰ぎ見た。

 「どう、あれか……?」

 久道と呼ばれた青年も仰ぎ見て、美しい眉をひそめた。

 「はい、あれが大神の気でありましょう」

 「……まこと凄まじい」

 山頂の青黒い気がこぼれ落ちるのが社から見える。わずかばかりの雲の白さを汚すほどに気味の悪い色合いだ。

 山頂の手前、斎宮が過ごすと言われる奥津宮も見える。


 奇妙なことに、緋羽大社は本殿の奥に幣殿へいでん楼門ろうもんがあり、長い石段の回廊が上に伸びていて、山頂近くに通常の社ではない証左と言える奥津宮がある。祀る神より高い位置に宮があるのは、神州広しと言えども緋羽大社以外にはないと聞く。

 琴葉は眉根を寄せた。その不思議な造りと同様、緋羽大社からの要請を思い出したのだ。世のことわりを無視したような通達と、そして恐らく会談が不備に終わるであろうことも。


 楚良は本殿の中央に端然と座っていた。傍らには八陣衆の筆頭であるカタリという男が控えている。楚良と同様に、正座した姿は折り目正しかった。

 「失礼する」

 衣擦れの音だけでほとんど足音を立てず、久世琴葉と山田久道が入ってきた。武道を修めている人間特有のすり足の歩き方だ。カタリがわずかに姿勢を変える。

 「早速だが、ご説明願おうか、楚良殿」

 着座するかしないかのうちに琴葉が口を開いた。

 「……何度もお話ししたと思うが」

 「何度言われても承服しかねる。領民全てに退去せよと言われて素直に聞く領主がいると思うか?」

 楚良は無表情でうなずいた。

 「が、それを推してお願いをしている」

 「願いと言うか――危険な大神を封じているから死にたくなければ出て行け、というのが脅しでなくて何だ?」

 琴葉は鼻でわらった。

 好意的な気配は双方共にない。

 「他に言いようもない」

 楚良は眼を伏せ軽くため息をついて、細く言葉を継ぐ。

 「緋羽大社は極めて危険な大神を封じている。神州のどこに、これほどの影響をもたらす国津神がいると思う? ひとたびぎょしきれなければ国のひとつやふたつは消し飛ぶ。消し飛んだことさえわからないうちにな」

 「ふん」

 受け流すのに慣れた琴葉の様子から察するに、会談は何度か繰り返されているようだったが、今日は少し違っていた。

 琴葉は挑発するように楚良を覗き込む。

 「……時に斎宮殿、オオヤシマを作った大神を封じる儀式というのは、確か『』と言ったか、各地から選ばれた神女が必要だそうだな」

 楚良はゆっくりと顔を上げた。内心の動揺を押し隠して無表情を装おうとしているのが頬に出た。

 「……神女たちには私の補助をしてもらう。分社から音韻の能力が高い者を呼ぶが……なるほど、外界ではそのように言われておるものか」

 楚良は力を抜いて面白そうに笑った。今度はうまく笑えたはずだ。

 嘘だった。

 厳密に能力別に配置された神女の力がなくては、斎宮といえども大神を封印することなどできるわけがない。

 緋羽大社の儀式は全て完全な秘儀ひぎだ。

 だから楚良は、言葉を発することを禁じられた奥津宮で、昼は顔を隠した神官ふたりと、夜はたったひとりで暮しているのだ。

 斎宮以外は触れられないしゅがかけられた書物だけが、幼かった頃の彼女の世界の全てで――それが外に漏れている、というだけで彼女にとっては動揺するべきことだった。

 琴葉は、楚良の顔色を見逃すまいと言うように強い眼を当てていたが、軽く息をついて眼を逸らした。

 「なに、人の口に戸は立てられぬ。それに、これは不思議なことだが、誰も口にしてないのに真実は広まるものだよ」

 琴葉は軽い口調でうそぶき、そして正面から楚良を見据えた。

 数瞬ほどだったが、鋭い緊張が走った。

 カタリが身じろぎし、久道が気付かぬほどわずかに身体を開いた。

 「……その大神の力、護国のために使えぬものだろうか?」

 「……たわむれを言う」

 「我が国は東西を強大な大名家に挟まれ、北は海、南は天然の要害に囲まれた土地。民の暮らしを守るのは容易なことではない。安寧を得るためには、自立できる力が必要なのだ」

 力強くとおすように言った琴葉に、楚良は仄かに笑った。

 「人の世は、人のことわりで動くもの」

 「……斎宮殿は違うのか」

 「誰の入れ知恵かは知らぬが、人の世を神の力で治めようとは、畏れ多いとは思わぬか、琴葉殿」

 すでに楚良は不動の神女に戻っていた。

 「大神の力とは、加減を知らねば暴虐の力よ。そして誰もその加減を手に入れたことはない。貴女は領民にそのような重荷を背負わせるおつもりか」

 「……ふん。斎宮殿は人の世に興味がないと見える」

 琴葉は鼻白んで肩をすくめた。



     ☆



 合戦場は昼過ぎから、敵味方入り乱れる乱戦になっていた。

 双方共に声を荒げて、手に届く範囲を斬り捨てている。

 こう着状況を突破するために騎馬隊が投入されて雑兵ぞうひょうを蹴散らすが、相手側は予測していたのか無傷の短槍兵を投入し、突き上げられた騎馬武者が次々に落馬している。

 大勢たいぜいを見ると、地の利がある守備側が優勢だった。加えて明らかに戦略にけていることが見て取れる。


 あんは高台から合戦を見下ろしていた。

 オクヤマツミから出てわずか三日のうちに、頬がこけて眼だけが炯炯けいけいと光っている、せりのような風貌になっていた。戦風にあおられて乱れがちな長髪が凄みを増している。

 仁王立ちのまま、紫庵は舌打ちをした。

 簡単に通り抜けられそうもない。一刻も早く緋羽大社に行かねばならないのに。


 突然、紫庵の五感が危機を告げた。飛び退すさる。

 先ほどまで立っていた場所にクナイが三本突き刺さった。

 紫庵は脇の茂みに飛び込み、四つん這いのまま回り込んで気息きそくを絶った。先ほど飛び込んだ茂みに追撃があったが、見失ったようだ。そのまま痛いような沈黙が立ち込める。

 忍び声が聞こえてきた。

 息を吐くような特殊な声だ。聞こえてくる方向が分からない。

 「久世の手か?」

 「忍びのわざを修めておるな。ここで何をしておる?」

 「ここから先に進むのであれば敵とみなす。いかが?」

 仕掛けてきたのはふたり。

 三人に見せかけているがひとつは遠声だ。

 紫庵は忍び声を返した。

 「俺はここを通り抜けたいだけだ。誰の味方でもない」

 「無理だな」

 紫庵の忍び声から場所を見つけたのだろう、殺気が一直線に向かってきた。

 クナイが刺さるより早く、紫庵は走り出した。

 斜面の左側の木立のひとつ、最も太い木に登るつもりだった。

 しかし、木にたどり着こうとした瞬間、紫庵はほぼ真横に跳び、忍び装束の男が加速して落ちてくるのを避けた。直刀で払われた刃先を小太刀で受け止める。

 男は着地するなり向きを変えて紫庵に跳び、半身のまま刀を返した。

 切っ先の鋭さに死を確信した紫庵の視界が赤黒く染まる。

 かろうじて身を屈めた頭上を刀身が吹き過ぎた。

 紫庵は横ざまに転がって逃げながら、足を狙って小太刀を大きくふるう。すぐに身を起こして構えた。

 赤い視界の正面に、忍び装束の男が低い姿勢で立つ。

 明らかに自分より上の使い手だった。

 紫庵の背中に汗が噴き出る。

 まるきり隙がない。

 腕の一本も犠牲にしないと逃げることさえできないだろう。

 不安定に崩れていきそうな地面を、足指に力を込めて踏みしめる。無傷で逃げられるとしたら刀を囮にして正面突破を図るしかない。

 紫庵は小太刀を左手に持ち替えた。

 視線が交錯して、誘いに応じた紫庵がまさに踏み込もうとした瞬間、無造作に姿の蓬髪ほうはつの男が歩き立った。

 紫庵も忍びも虚を突かれたように見やる。

 男には殺気どころか闘気もなく、昼飯の場所を探して迷い込んだとでも言うほど駘蕩たいとうとしていた。そしてそのまま軽くかがんだと思うと、草むらに忍んでいたもうひとりの忍びの顔を掴みだしていた。

 「きさっ!」

 言い終わるのを待たず、そのまま軽く放ると、一本差しの刀を抜き打ちで袈裟懸けに斬り下ろした。

 どすん、と嫌な音が辺りに響く。

 「ふん。乱破らっぱ風情が、手間をかけさせるな」

 男が言うより早く、紫庵の正面の忍びがクナイを放った。男はゆっくりと三歩ほど脇に寄って避け、ぼそっと呟きながら首を傾げた。

 「どうするね?」

 忍びが次の動作に移ろうとして凍った。

 が、その一瞬が致命だった。

 先ほどのゆったりとした様子が嘘のように、一気に男は間合いを詰め、忍びを斬り上げた。声もなく忍びは絶命する。

 男は片手で拝んだ。

 「これも功徳」

 男は再び茫漠とした眼に戻り、興味なさそうに紫庵に向き直った。

 「それで、と」


 異常だった。

 ふたりの手練れを苦も無く斬り捨てる力量と、飛び道具を「ゆっくり」避ける呼吸。

 最初から相手がやることを全てわかっているような、異能ともいうべき戦闘能力。

 紫庵の赤黒い視界に、男がと二重写しに見えた。先ほどまでの冷徹な計算が一瞬にして飛び、紫庵は甲高い叫び声を挙げた。地面すれすれの低い姿勢になると驚くべきはやさで男に襲いかかった。

 「ほう」

 男は最小限の身のこなしで紫庵の突進をいなし、鞘を襟首にひっかけるなり木の幹に紫庵を叩きつけた。そのまま首筋に峰を当てて、大して力を込めているように見えない動作で紫庵の頬を張った。

 顎がずれるほど強烈な一撃だった。

 男が手を離すと紫庵はそのまま木の根元に座り込んだ。

 「え……あれ、俺?」

 「お? 言葉はわかるのか」

 男は珍しそうに目を丸くして破顔した。

 「妖しのたぐいかと思ったがそうでもない。ふむ。鬼もどきといったところか?」

 「……? なに?」

 男は紫庵の問いを聞いてないようだった。

 「心玄しんげん様」

 茂みをかきわけて、やはり婆娑羅姿の男が声をかけた。男の手下のようである。

 「こちらは終わりました」

 「こっちもだ。北の森を突っ切って背後をとれと侍大将に伝えておけ」

 手下は無言でうなずいて消えた。

 「あんた……!」

 「ふむ。名は?」

 「……」

 「結果として助けられたのに、斬りかかって詫びもせず、最近の鬼はみんなこんな礼儀知らずかね?」

 紫庵は顎を撫でながら小さく舌打ちをした。

 「……紫庵だ。鬼じゃない」

 「結構。私は天剋てんこく流当主、心玄という。お前さんにちょっと興味がわいた」

 心玄と名乗った男は満足そうに笑った。

 紫庵はばつが悪そうに横を向く。

 「旅の途中のようだが、どこへ行く?」

 「……出雲」

 「ほう、出雲。何をしに?」

 「仇討ちだ」

 「仇? 誰かを殺されたのかね?」

 「里の連中が皆殺しにされた」

 紫庵は拳を握りしめた。

 本物の怒りは燃え上がることがなく、むしろうちにあって身を焼くのだと知った。

 「ふむ。なるほど、なるほど」

 紫庵の内心の想いを知らずに心玄は何事か納得している。

 「近場ならオクヤマツミあたりだな」

 「なに?」

 「ふむ、それがお前さんの闇か。悪くはない。悪くはないが、まだ足らんな」

 おもむろに心玄が紫庵の首をつかみ上げ、軽々と宙吊りにする。紫庵がもがいても万力のような腕はびくともしない。

 「せっかく闇を背負ったのだから、じっくり対峙してみるがよい」

 心玄はむしろ微笑さえ含んだ声で諭すように言いながら、ギリギリと紫庵の首を搾り上げていく。

 「がっ……ああっ」

 己の危機に反応して、紫庵の視界が再度赤黒く染まり始めた。

 心玄が紫庵の瞳の濁った赤を認め、不意に手を離した。

 紫庵は喉に手を当てて咳き込んだ。自分の喉が空気を吸い込む奇妙な音がする。

 こいつ、本気で絞める気だった――殺気もないままに。

 「まったく。この程度か。まだまだ精進が足りんぞ、紫庵。闇に潜って、もっと無念に触れてこい。でなければ、くだらん化け物になり下がるぞ」

 「ど……どういう、意味だ」

 心玄は呆れたように鼻を鳴らした。

 「鬼になるしかないのに、まだ鬼になれる器でさえない。仇は遠いな」

 紫庵は座り込んだまま心玄を見上げた。恐らく怒りより当惑が多かったのだろう、心玄はむしろ無邪気と言っていい笑顔を見せた。

 「……鬼?」

 「天剋流と言うのはな、天を剋するために刀をふる馬鹿どものことだ」

 心玄は応えるつもりはないようで、笑いを残したまま背を向けて歩き出す。

 変わらず殺気も闘気もない。

 「ではな。生きていればまた会うこともあろう。それまでに斬る気になるほどにはなっておけよ」

 紫庵は呆然と見送った。

 去り際に侮辱されたと気づいたのはずいぶん経ってからだった。


 心玄は荒れた獣道を苦も無く歩いていた。常人であれば歩くことさえままならないような足場を、気軽に飛びつないでいた。

 と、しかめ面になって予備動作もなく立ち止まる。

 少し高くなった獣道の脇、心玄の右後方から、山には似つかわしくない婆娑羅姿の少女、といっても心玄のように風雨に色落ちしたむさ苦しい衣服ではなく、こちらは文字通りの婆娑羅姿というか、金糸銀糸を贅沢に使った着物を身に着けた美貌の少女が顔をのぞかせた。足元は裾上げして紅い脚絆きゃはんをつけている。

 彼女はするりと樹木の前にまわりこみ、やはり山では似つかわしくない匂い立つような笑顔で、心玄に呼びかけた。

 「心玄殿。砦が落ちるのはもはや時間の問題です。守護を放棄して国境までお戻りください」

 「ほう? 今日も善戦して守ったと見えたが。奴らを放棄するとは、お前さんの主人はどうにも酷薄こくはくと見えるな」

 少女はニッコリと笑って首を振った。

 「いえ、酷薄なのは我が主人ではありませぬ。残念ながらオオヤシマがそうなのですよ。むしろ我が主人は慈愛で」

 心玄は少女を振り返らぬまま、軽く肩をすくめる。

 「お題目はもういい。おおかた、砦の始末はもう終わっているんだろう? お前さんがどういうつもりかは知らんが、天剋流は戦場さえあればよい。次は?」

 心玄の押しかぶせるような問いに、少女の先ほどまでの笑顔が、一瞬ずれた。

 笑顔のままなのに、見る者をして背筋を寒からしめるような悦びとぬめるような嘲りが浮かぶ。

 心玄は見ないままにそれをかんじていた。

 少女は自分の目論見通りに事態が進行するのが楽しくて仕方がないらしい。互いに腹の底にあるものを見せぬまま、会話は表面だけ友好的なものに戻った。

 「出雲でございます」

 「出雲?」

 「はい。出雲の慮外地、緋羽大社こそが久世の領民のうれえるところとなりました」

 「……ふむ。やはり緋羽大社か……面白い」

 「痛み入ります。さすがは音に聞く天剋流ですね。戦を行とし、殺生を功徳とし、死を超えて悟りを得る、と」

 「たまき殿は、からかいに来たのかね」

 環と呼ばれた少女は声を出して笑った。

 鈴を鳴らすような可愛げのある声だった。

 心玄がうんざりした顔で振り返る。

 いなすというには少し眼がとがっていた。この環という少女の一挙手一投足が、心玄のささくれを丁寧に撫でていく。先ほどまでの愉快な心持は、拭われたように消えていた。

 「いえ、そんなこと……環は不思議なのです。心玄殿はまるで人ではないみたいで」

 「人じゃないのはお前さんだろう」

 心玄は吐き捨てるように言い放ち、少女はその様子を見て嬉しそうに笑った。

 鮮やかな美しさだった。











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